の幸ちゃん

『三月、アンコー鍋で舌鼓』
 福島県へ引き上げてしまった同胞Tさんが、アンコー一匹を送って来た。宿の3人で早速、鍋大会。私も肉より、皮とか骨周囲の部位が大好きで、シーズン中、一回位は食べる様にしている。荒切りで大き目にカットされていた為、ヌルヌル滑って切りにくい。骨近くは出刃包丁が無いと無理。大きいまま、ドンドン鍋に入れたのでした。煮えてから、少しずつ小分けして食べたのです。
 そのTさんは宿に居る時も米だの野菜だの、一万円分位、実家から送って来て呉れて、弁当のオカズは事欠かないモノでした。スカッとした性格で、ババッと何でも即決の性格でした。時折り、電話はするけれど、生きている内に再会できるのかナア〜?
『宿の近くにゲームセンター』が有る。仕事仲間に誘われて、酔った勢いで逐々、行ってしまった。ドラム演奏機が有ると以前から知っていたので、挑戦。しかし、知っている曲は一曲しか無く、五回位楽しんだ。点数は86点位だった。酔ってスティックのリズムは刻みにくいし、疲れた。嬉しかったのは久留米市の相手と対抗して演奏したら勝ってしまった事。他にUFOキャッチで3千円位、使ってしまったが、20代からして久々のゲームセンターだったので、ハッスルしてしまった。
―年がいも無く。ハハハ(笑い)
『六月に入って生活パターン』が変わった。帰って来たら、酒のつまみもソコソコにおかずとゴハンを食べつつ、焼酎のそば茶割り。満腹になって午後7時から8時の間には寝てしまう。朝の5時迄、たっぷり。翌日、すこぶる快調。体も軽く感じる。年齢的には深酒は禁物なのかも知れぬ。以前はつまみだけでダラダラと飲み、九時30分から10時頃に寝ていたが、翌日は半二日酔いみたいな気分だった。今の新生活パターンで、酒を減らし、老後の為にも貯蓄に専念したい気分です。
『又々、宿の引越』
 少し仕事も減って来て、人員も他の現場へ。刈羽村の宿を一時、閉めると云う事で別の宿へ、又も引越。2回目。
 最終日の食事は調理人が(刺身定食)を出して呉れた。いつもなら、土曜日はカレーライスと決まっているのだが。どうやら皆の噂では、調理人がパチンコで大勝ちし、皆に刺身を出していたらしい。他の宿には内緒だが…。北九州出身のそのウヤジさんとは私も仲良くして貰っていた。
 お別れ二日前には(道の駅)から土産をプレゼント。再開できると良いのだが。
『宿近くの居酒屋で』
 2〜3回、通っている内にカウンターの客とも話せる様になった。周囲は小さな漁村集落なので、Uさんと云う漁師と話す様になり、金になる魚は関東、関西の市場へ出すそうで、残りの雑魚は新鮮なのだから、是非居酒屋に卸してと私の願い。
 Uさんも二ツ返事でOKして呉れて、近々、地元の旨い魚、獲れたてを食べられるかも知れない。
 少し、人生が明るくなって来た気がした。
『ミオンなかさと温泉の話』
 越後田沢駅から車で15分位。国道117号線から近い。職場の班長と2人で行きつけの焼鳥屋のマスターと3人で行った。そこの温泉水は茶褐色で、肌がツルツルした。―北海道、日高市(映画「幸福の黄色いハンカチ」ロケ地)で入った温泉湯とも似ていた。―サウナと湯舟しか無いが、そこそこの温泉ランキングに入りそう。
 だが、同行した二人は若い。男三人では、会話も乏しい。彼らは携帯のゲームだの、メールだのといじっていた。もしや、私はオマケの誘いでしょうか?職場では「バカ!」「やめろ!!」「北海道へ帰れッ!!」と罵声を浴びせる班長はキレキャラだが、プライバシーでは居酒屋、スナック、温泉と誘って来る彼も淋しがり屋?―寮の部屋にもパーティーだと称して、ちょくちょく飲みに来る。
 それでも、こんな年違いのジジイを温泉に一緒に誘って呉れる理由が判りません。
 温泉に行く前に魚沼市の近くに有るそば屋さんへ行った。うどんとそばの2種盛りで、コシが強くて、噛み切れない位。旨くて、喉越しが良かったので、又、行ってみたい店でした。
『GW前の大失態』
 寮から事務所までの通勤車輌や、現場内での車輌も全て、私が運転していたのだが、いよいよボケでも始まったのか、駐車場で、後ろのフェンスを押しつぶす位にバックしてしまい、後から乗る人が気付いて所長からのおこごと!!その車は背も高いが前後にも少し長いハコバンタイプで、いつも段差の手前でタイヤを止めていたし、ドアを開けて後方確認していたにも関わらず、何の音もしなかったので、自分でやってしまったと気付かず。
―結局、全ての車運転は(するな!)と班長からのお叱り。意気消沈してGWの予定も全て止めて、自粛しようと決めたが、4月29日〜5月9日迄の11連休。寮に閉じ籠っている訳にも行かず、やっちまった事は仕方ない!と開き直り(?)、次の処へ旅して来た。
『はじめての男鹿半島』
 一日目、秋田のビジネスホテル泊。2日目、男鹿半島周遊。「寒風台」へ行くと、ヨーロッパの岡を思わせる広い高台。阿蘇の山岳をもっと広くなだらかにした物と考えて下さい。
 道は直線コースも多く、牧場やサイロこそ無いが、少し北海道の道路にも似ていて。
 途中に棚田有りでカメラのシャッターチャンスも多い。
 不思議と道の近くに汚い物が置いてない事に気付いた。(くずれた廃屋とかスクラップ工場、ゴミの集積とか)国定公園だから、市の何か条例でも有るのだろうか?山の切り倒した木も、きれいに山積みされていた。
 旅行好きの人が、「一度は行って見なさい。いい処ですヨ」とお奨めの男鹿半島。やっと念願が、かなった。「○○を見て死ね」と云う諺も有ったが、私は「男鹿半島を見て死ね」と言いたい。日本中の美しさが、ここに凝縮されている気もした。癒されてホッとした旅でした。朝早かったので温泉にも入れなかったが、又行って見たい所だ。
『GWの旅A』
 新潟から長野県へ。道の駅「千曲」(ちくま)で、リクエストの有ったポップコーンの素(もと)を購入。
 普通にとうもろこしの粒だが、一つまみを熱したフライパンにバターを入れ、爆発させる。出来上がるとフライパンの中一杯にアツアツのポップコーン完成。軽く塩をふると絶品のおつまみ。これ食べたら市販の袋入りは食べられなくなる。次に甲府を抜け、富士山の周囲に有る河口湖へ。五年位前だったか、「浮来亭」にも書いた創作料理の店。そこで飲んだ白ワインが余りにも旨くて、思い出して行った。当時も客は私一人だったし、もしや、もう店を閉めているのでは?だが、今の御時世、パソコンのブログ等で集客して、まだやっているかもと車を走らせたが、「パン工房」に変わっていた。近くの旅館に素泊りしても良かったが、食べる処も無い。甲府の道の駅へと引き返した。五〜六年も経つと、当時無かった店やホテルが出来ており、河口湖周辺もかなり変化しているのには驚いた。
『道の駅/信州つた木宿の話』
 そこには温泉も有り、600円で入浴。サウナが無いだけで湯舟は広く、ジャグジー有り。室内の階段から、そのまま露天風呂へ。GWと有って家族連れが多く子供が騒いでいるが、常日頃はゆっくり、のんびり出来そう。以前、来た時は長距離トラックのドライバーが汗をふきふき、出て来るのを見た。
 その夜は車中泊。近くのスーパーで食品を購入。お茶のペットボトルに焼酎を入れて、飲み、寝込んでしまった。―深夜12時頃、プシュプシュと大型トラックの音。私の車の周囲をあっちへこっちへ移動しているらしい音で、目が覚めた。GWは道の駅へ泊まる人が多く、一般車輌で満杯だった。体を起こし、車の外を見たらびっくり!!大型トラックの運転席から長方形のひとつの、大きな箱みたいな車が狭い所へ、私の車の前へ入れようとしている。普通のキャンピングカーの1.2倍位の高さだ。隣の車にぶつかりそうになりながら、又、車を切り直して入って来る。プシュプシュ音をさせながら。
 私は車から出て、(自分の車をあっちへ移動します)と指で合図した。もう一度、その箱型キャンピングカーを見るとボディには「日本列島夢の旅わんわんパトロール」と意味不明の事が書いて有る。朝、起きて見るとナンバーは岐阜県と有る。運転手が出て来たら、旅の目的等を取材したい位でした。
『翌日は』軽井沢方面へ碓氷峠を越えて群馬県へ。道の駅「匠の里」を訪ねて2回目。相変わらず駐車場も満杯。GWって車や人を見に行く様なもの。高速道路は渋滞と情報看板が出ていたが、一般道は信号待ち程度。タイミングの良い旅だったのかも。
 事務所の新潟地元の人に聞いた道の駅「ちぢみの里」を訪ねて長岡市へ。着いた時、ハッとした。そこは私が新潟へ来て始めてトイレ利用した道の駅だった。国道17号線沿いに有るので、すぐ判る。当時、早朝だった為、まだ営業もしておらず。今回、その温泉がお奨めと聞いて訪ねたが、GWで人がごった返しで有る。温泉は次回と断念して、帰寮への道を急いだ。


木のきもち
          秋元 智雄

先日、電話で樹木診断の依頼を受けて依頼主の庭を訪問した。
3年前に植木屋さんに植えてもらったハナミズキが、全然花が咲かなくなったとのこと、実際その木を見てみると、
樹勢はあまり弱っていないものの、うどんこ病が全体に広がっていた。とりあえず トリフミンという殺菌剤を散布した。
しかし これは、根本的な治療でないことを依頼主に告げ経過を観察することにした。うどんこ病は、名前のように、
葉にうどんこ(小麦粉)をまぶしたように見える病気で樹勢を弱らせ、花つきを悪くする。
多くの菌による病気は、湿り気を好むがこの菌は、乾燥を好むので、5月の晴天が続くときに発生する。
治療薬を10日ごとに3回ほど撒けばその年は治まるが、また翌年同じように発生する。これを止めるには、大寒(芽が動き出す前)のころに、
石灰硫黄合剤を10倍液で撒くと治る。
 ハナミズキは、乾燥に弱く植栽する場所を考えて植えるべきである。また粘土質で排水性の悪いところでは、
生育が著しく悪くなる、このような場所に植える場合、土壌改良するか、排水性のよい土と入替えてから植栽すると、生育・花つき共によくなる。
 ハナミズキは、一般にアメリカハナミズキといわれるが、標準和名は、ハナミズキで、別称としてアメリカヤマボウシの名がある。
ハナミズキとアメリカヤマボウシがゴッチャになりアメリカハナミズキという言葉になったのであろう。
 ハナミズキは、大正時代初期に、日本からワシントン市にソメイヨシノが贈られた、その返礼にアメリカから送られてきたものである。
はじめにハナミズキの基本種である白花30本が贈られ、数年後 赤花系の品種が贈られた。
 私が、造園業を始めた昭和50年代に、盛んに公園や街路樹に使われ始めたことを鮮明に思い出す。
第一印象は、これは、素晴らしい花木でこれからの緑化樹の主役になる木であると思った。
しかし、色々な場所にたくさんのハナミズキが植栽されたが、生育が悪く枯れるものが多かった。(特に赤花系の品種)
理由として先ほど書いたが、植栽地の不適が上げられる。
現在 街路樹の植栽はハナミズキに変えて、ヤマボウシがよく植えられている。
ヤマボウシは、ハナミズキと異なり、葉から先に出て、純白の花が咲く、和風でしっとりとした雰囲気の木である。
在来種のヤマボウシは、花も小さく花つきも悪いが、現在 よく街路樹などに植栽されている中国産選抜種のミルキーウェイという品種は、
花つきが非常によく実も大きく、植栽地の土質をあまり選ばない。
川辺の本通りでは、この木が街路樹に植えられ、とてもきれいな花を咲かせている。
ハナミズキとヤマボウシは、近縁種で太古 北米のハナミズキがユーラシア大陸に渡り東アジアに残ったものが
ヤマボウシに進化したとされている。


   東京花便り その十四
                                 斉田 万吉

5月23日、関東地方は梅雨の走りを思わせる、終日雨の日曜日でした。
大相撲五月場所の千秋楽で、横綱白鵬がすでに優勝を決めていましたが、白鵬の2場所連続の全勝優勝なるか、そして大関魁皇の通算1000勝なるかが注目の的でした。
夕刻の4時半頃、私は家内と2人、イヤホンでラジオの大相撲中継を聴きながら、錦糸町の駅を降りて、四ツ目通りを墨田区業平(なりひら)に向かって歩いていました。
結び前の一番、魁皇と琴欧州の対戦となり、両力士が呼び出され土俵に上がります。
家内が慌てて携帯電話でワンセグ放送をセットし、歩を止めて2人して小さな画面を覗き込みました。行過ぎる人たちは、何事だろうと思ったに違いありません。
勝負の結果はご存知のとおり、右上手を取った魁皇が寄り切りで琴欧州を降し、見事史上2人目となる通算1000勝を達成しました。
「やった、やった。凄い!」私たちは大喜びでまた雨の中を歩き始めました。
そのとき私の目に飛び込んできたのは、街路樹ヤマボウシの真っ白な花(といっても本当は花のように見える総苞)でした。ちなみに苞はつぼみを包んでいた葉のことです
前号でお伝えしたハナミズキに似ていますが、ヤマボウシのほうが花の時期が1ヶ月程遅いことと、花びらのような苞片の先が手裏剣のように尖っていることで見分けられます。
ハナミズキは白以外に赤やピンクの花もありますが、ヤマボウシは白のみです。
そぼ降る雨の中、生き生きとした若葉に白い十字のような花がたくさん浮き立っていて、魁皇の偉業達成を祝福してくれているかのようでした。
およばぬことと諦めました・・・ふと、昔流行した「雨に咲く花」という歌の一節を思い出しました。満身創痍で何度も引退の危機にさらされながら、37歳10ヶ月で達成した大記録。ここまできたら九重親方(千代の富士)の持つ1045勝という記録をも塗り替えてほしいと思うのですが・・・。およばぬことではないでしょう。
魁皇は福岡県直方市の出身。同郷で中学校の後輩でもあり、昔からずっと応援しています。その後、業平にある友綱部屋の打ち上げに参加しましたが、いつにない盛り上がりはいうまでもなく、美酒に酔いしれて雨の四ツ目通りを歩きました。

     
登りきる男坂かな柿若葉  竹帚 



山口県の観光施設を預かって3年近くになる。
ここから見る指宿は可能性に満ちている。

鹿児島県5000万人(410万人)
指宿市375万人(90万人)

山口県2400万人(250万人)
山陽小野田市60万人(3万人)

これは観光動向資料に掲載された数値である。最初の数値が観光客数、カッコ内の数値が宿泊客数である。

山口県は県内に残る歴史や自然を題材に県内各所で紙芝居を披露する「山口どこでも紙芝居」というプロジェクトを展開している。活動は各地のボランティアで県内の市民活動を活性化する目的もある。これが意外なほどウケテいる。普段テレビゲームなどで遊んでいる子どもたちは、直接語りかけられることで私たちが思っている以上に刺激を受け反応している。しかも各地の方言で語られる「新しいデバイス」として紙芝居の可能性を再評価した。
山陽小野田市や宇部市は「大人の社会派ツアー 産業観光」と題して近代産業を支えた工場の見学を中心に「大人の社会科見学」を企画。昭和を振り返る世代が参加している。日本を支えたセメント工場や石炭産業は巨大な建造物を今も在りし日の面影を残している。
必死である。
幕末の歴史も長いこと振り返られることなく色褪せ、昭和を支えた産業が徹底的に衰退し、自信を無くした人たちは自分の子供たちを都会へ送り出した。その結果、山口県は新しい魅力を見出せないまま、残された世代がなんとかアイデアを絞り出し山口県の魅力を発信している。でも大きな成果が残せる雰囲気は今のところない。
鹿児島県は、指宿市はどうだろう。数値を見る限り大きな可能性を感じるのだけれど。
竜王山公園オートキャンプ場3万人(1万人)


      


『いらっしゃいませ!』
『ハイ。カウンターさんラーメン一枚!』
『ありがとうございました。又お願いします!』と、大変大きい声で…。
 そうです。私です。
 後2年くらいは市民会館でサラリーマンをする予定だったのが、急遽変更して、ラーメン屋のホール主任を任された。
 最初の二週間くらいは、朝の10時からの仕事なので夜の9時頃には疲れから声が小さくなっていた。でも一ケ月経ち、慣れてきたので本来の自分を取り戻せたようだ。
 知り合いのお客さんから『毎日祭りをしているようで、楽しそうですね』と言われた。一人だけではなかった。
 疲れるので、床に入れば直ぐ寝れるようになったが、少しは考えなくてはと考えた。
 ぶうめらんの幸ちゃんと同じで人生が変わったようだ。それも、良い方に変わったようで嬉しい。
 鹿児島のラーメン屋を閉めて、指宿に店を出した息子は親不孝者ではなく、親孝行者だったのかもしれない。息子に辞めさせられないように頑張るしかないなと思った。


ある回想 (2) その

このような国力の回復に伴って1951年にはサンフランシスコ講和条約調印、56年に国際連合(国連)加盟となりました。各国との通商条約も次々と調印されることとなり、貿易復活の兆しも見えてきました。
ところで、貿易の両輪は商社と海運ですが、商社の方は、進駐軍司令部による財閥解体令により分散を余儀なくされていましたが、三菱商事は54年に大合同、三井物産も翌年に3社合同と体制を整えつつありました。他方、船会社は政府指導による計画造船の付帯条件として、その数の整理統合を要求され、外航各社の合併がおこなわれました。2社ないし3社を纏め一つの新社を形成し、結果中核7社となりました(現在の大手は、日本郵船、商船三井、川崎汽船の3グループ)。このような貿易の両輪の基盤整備と平行するように、53年日米通商航海条約、55年日中貿易協定、日英支払い協定、台湾貿易協定、57年日ソ通商条約と順次締結され貿易の復活拡大路線が出来上がりました。

所で、我が国の海運をリードしてきた流れは、日本郵船と大阪商船の二つの流れです。郵船が(メイルラインの名のごとく)半ば”官”の色合い、他方商船はラフな”民”の感触でした。例えば、帽子の被り方ひとつ採っても片方がピチット針金の入ったような感じなら、他方はややよれよれを斜に被る、といった具合です。私のいた飯野はどちらかというと商船スタイルでした。このスタイルの差が前述の合併の際、船員の動きに微妙な影響を与えるのです。
当初、飯野は大阪商船との合併説が流れ”おう、いいじゃないか”との雰囲気でしたが、土壇場になって社を二つに分け、タンカー部門は川崎と貨物船ぶもんは専用船を中心に”飯野”の名前で残る事になりました。(現在もそのまま存続しています)。
参考までですが、船員の属する組合”全日本海員組合”はクローズドショップですので、気に食わないと言ってその会社を辞めると(自動的に組合からの脱会を意味し)、日本国籍の船には乗れないことになります。但し、事務職員(パーサー)の場合は、謂わばプロの甲板部(航海士)や機関部(機関士)の皆さんとやや気分が異なります。
因みに我々の場合も同期入社の23名中3名のみが希望して乗船しましたが、一人は父親が船乗りでしたが視力が弱く商船大に入れなかったこと、もう一人はひたすら海外を見たいとの希望(当時は外貨割り当て制度で、一般人の渡航は極めて稀でした)、私は潜水艦に乗りたくて防大に進みましたが結核で断念、何とか船に乗りたい、と各々船会社に入ったからには一度は船に、という気分ですので”生涯の職場”とするプロの船乗りからすると、いい加減な面もあったのでしょう、肌の合わない川崎に行ってまで乗る気は無いとばかりに若手を中心に退社したのです。
3年間の船員生活を経た1964年の4月のことでした。この頃は特に中国取引が急速に拡大した時期で、各社貿易要員を必要としていました。輸出入書類を扱っていた船舶事務員は即戦力として使えたので、そう苦労なく引き取り手が見つかったのでした。とは言え、船員はクローズドショップですから、表立っての求人求職活動は出来なかったのですが、飯野の総務部長と明和産業(後述)の業務部長が海軍主計時代に先輩後輩の関係であったことから、この線で4名が即転職受け入れとなったのです。ところでちょっと補足説明しますと、この時期日中は未だ正式国交はありませんでしたので、財閥系商社は対中取引に身代わり(ダミー)を立てていました。この明和は三菱のダミーで、三井は第一物産というダミーを立て取引をしていたのです(後日、直接取引が出来るようになると各々の親会社に吸収されました)。


石川県金沢市の巨木」 皓以兆

六月中旬、金沢に行ってきました。金沢は北陸を代表する大きな町です。加賀百万石の前田藩の金沢城や日本三名園のひとつ兼六園があります。

兼六園は六つのすぐれた景観、「六勝」を兼ね備えていることから、名づけられました。

廻遊式の庭園。土地の広さを最大に活かして、庭のなかに大きな池を穿ち、築山(つきやま)を築き、御亭(おちん)や茶屋を点在させ、それらに立ち寄りながら全体を遊覧できる庭園です。いくつもの池と、それを結ぶ曲水があり、掘りあげた土で山を築き、多彩な樹木を植栽しているので、「築山・林泉・廻遊式庭園」とも言われています。

何代もの加賀藩主により、長い年月をかけて形づくられてきた兼六園ですが、作庭における基本的な思想は一貫していたようです。その思想とは神仙思想。大きな池を穿って大海に見立て、そのなかに不老不死の神仙人が住むと言われる島を配します。藩主たちは、長寿と永劫の繁栄を庭園に投影したのです。最初の作庭者、5代藩主・綱紀(つなのり)は、瓢池に蓬莱(ほうらい)・方丈(ほうじょう)・瀛州(えいしゅう)の三神仙島を築きました。また、13代藩主・斉泰(なりやす)も、霞ヶ池に蓬莱島を浮かばせています。(兼六園のホームページから抜粋)

徽軫灯籠に次ぐ名物の一つ根上松(ねあがりまつ)

  

兼六園名物の一つに数えられる高さ約15mの黒松。大小40数本もの根が地上2mにまでせり上がった迫力の奇観を呈しています。この松は、13代藩主・前田斉泰(なりやす)が土を盛り上げて若松を植え、成長後に土を除いて根をあらわにしたものだと伝えられています。

近くを散歩していたら、石川近代美術館(旧四高 金沢大学の前身)(旧石川県庁のシンボルツリー)の一対のシイノキを見つけました。ここは金沢城を築城した頃に、京都の三十三間堂を模した堂形の的場があったことから、堂形と呼ばれています。  「堂形のシイノキ」と呼ばれ、国の天然記念物になっています。

樹木の生長に長けた人々が大切に見守ってきたせいもあり、きれいな樹形を保っています。

金沢の町は城下町ということもあり、又市民の努力で しっとりとした落ち着いた雰囲気があります。

金沢城から兼六園にかけて、うっそうとした森が続いています。都市と木々がうまく調和して、素晴らしいと思いました。ウォーキングにはとても気持ちのいい町です。春は桜、夏は菖蒲、秋は紅葉など四季を通じて楽しめると思います。わが指宿もこうあってほしいと思います。



縄文の森をつくろう会より

縄文の森をつくろう会の原稿平年よりだいぶ遅れて 梅雨入りしました。六月に入り、六日宮ヶ浜海岸の清掃に参加しました。

七日御領ヶ池の草払いを会員五名(新入会員一名)で行いました。

十九日にはてんちの杜で宮ヶ浜みどりの少年団と田植えをする予定です。(記事作りのため、日にちが前後しています。)




今月はブーメランさんをはじめ外のかたがたからも記事をいただきました。うれしい悲鳴の中、安間さんが作っていた通常の大きさB五にすると、字が小さいので、今月号はA四の大きさにしました。いままでの紙面と違うので、面食らう方も折られると思いますが、お許しください。引き続き 記事を待っています。記事の送り先はメールでお願いします。アドレスkbaba@blue.ocn.ne.jpよろしくお願いします。 

白水館近くの「浮来亭」毎週金曜日午後八時から飲む方千円飲まない方タダ。遊びに来てください。雨の日でも 議論が白熱しますので、楽しいですよ。 場所は「縄文の森をつくろう会」事務所に尋ねてください。電話は二二ー四二五五です。


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