181号

 ナシ


182号

『いらっしゃいませ!』
『ハイ。カウンターさんラーメン一枚!』
『ありがとうございました。又お願いします!』と、大変大きい声で…。
 そうです。私です。
 後2年くらいは市民会館でサラリーマンをする予定だったのが、急遽変更して、ラーメン屋のホール主任を任された。
 最初の二週間くらいは、朝の10時からの仕事なので夜の9時頃には疲れから声が小さくなっていた。でも一ケ月経ち、慣れてきたので本来の自分を取り戻せたようだ。
 知り合いのお客さんから『毎日祭りをしているようで、楽しそうですね』と言われた。一人だけではなかった。
 疲れるので、床に入れば直ぐ寝れるようになったが、少しは考えなくてはと考えた。
 ぶうめらんの幸ちゃんと同じで人生が変わったようだ。それも、良い方に変わったようで嬉しい。
 鹿児島のラーメン屋を閉めて、指宿に店を出した息子は親不孝者ではなく、親孝行者だったのかもしれない。息子に辞めさせられないように頑張るしかないなと思った。


183号

 朝10時から夜10時まで働いています。人生で一番働いているようです。でも考える時間がなく、幸せかもしれません。


184号

 店を手伝いながら野球が見れるので最高の職場である。
 8月は高校野球があるので昼間もずっと見れた。どこの試合か忘れたが、9回表にこれでゲームセットだというセンターフライを落球し逆転されてしまった。でもその裏ランナー二人をおいて左中間へのライナーが飛んだ。誰もが再逆転のサヨナラと思った打球をレフトの選手が横っ飛びに補給しゲームセット。
 寝るときに思った。本当に高校野球は悲劇のドラマだなと。4000以上の学校で泣かないチームはたった1校だけであるから。日本人って悲劇が好きな国民であることが良く分かった。
 私はハーフなのかもしれない。


185号

 孫が入院しているので、鹿児島の病院へ見舞いに行った。
 煙草が吸いたくなったので病室を出て看護婦さんに尋ねたら、病院の敷地内はすべて禁煙との事。どこかで吸えるだろうとしつこく聞いたがダメだった。
 お昼に病院の食堂で食事をした後に煙草を吸いたかったが我慢した。結局2時間くらい吸わなかった。
 夜、寝る時良いことに気が付いた。部屋を禁煙場所にすればいいかもと。吸いたくなったらベランダで吸えばいいのだと。
 次の日の夜、又考えた。やりたい事をする人生であるべきだから、吸ったほうが良いのではと部屋でも吸うことにした。
 結局、こんな感じで禁煙との戦いを楽しんでいるみたいだ。


186号

 10月24日に今年が終わった。
 昨夜巨人が負け、今日温泉祭りが終わった。両方とも不完全燃焼だったから悔やまれる。今晩すんなり寝れるかなと心配だった。
 テレビを少し見てから、伊集院静の『滋賀越みち』を読んだ。好きな作家なので一気に読んだ。
 明日からの新しい年は良い年になるような気がした。


187号

 店で
 『今年はみこし担がなかったんですね』
 『はんや踊り踊らなかったんですね』
と、何人もの人から声を掛けられた。知っている人は勿論だが、知らない人からもあったので驚いた。
 息子の店を手伝い始めたので、夜のはんやは無理だと覚悟していたが、昼のみこしは大丈夫と思っていた。でも仕込みが入り、昼も仕事になった。
 寝るときに考えた。
 私の62年の人生は祭りだけだったのではないかと。少し情けなく思った。
 でも、もう一つあった。巨人だ。
 二つあったから良しとするかと納得してぐっすり寝た。


188号

 引越の準備で忙しい。
 溜まった書類等を整理していたら、平成4年に商工会議所の青年部の全国大会で山形に行った時の「旅行記」が出て来た。
 懐かしく想い、作業を一時中断して読んでみた。
 11月5日に夜行で指宿を立ち、山形・宮城・岩手・秋田・青森と回り、11月10日の朝に指宿に着いた。5県を歩いたが泊まったのは3泊であった。9日の朝に青森を出て、その日は丸一日電車の中だった。
 分と写真が残っているので割りと思い出しやすかった。
 指宿に着く20分前に書いた文を紹介します。

…宮沢賢治の詩集P.129より「わたくしはどこまでも孤独を愛し 熱く湿った感情を嫌いますので」…
…あと20分弱となる。いよいよ今回の旅の終わりに来た。山形・天童・山寺・仙台・花巻・盛岡・田沢湖・角館・秋田・青森と回って来たわけだ。
 いろいろな処に逢い、いろいろな人に逢い、いろいろな味と出逢ったわけである。皆それぞれ味わいのある出遭いであった。
 人の親切―皆、淋しいから親切になるみたい。孤独であることを自覚できるから、人を求めるし、人に優しくできるのではないだろうか。
 さらりとした人間のからみを築けるのなら、孤独を愛さなくてもいいんじゃないですか?賢治さん。
 たとえ親子・夫婦・兄弟であっても、さらりとしたからみを持ちたいものだ。…
…旅をするなら一人がいい。それが無理なら四人がいい。…

 寝る時に思った。
 旅はするべきだ。と。


189号

 年も押し迫り、後一週間もない日に引越しが始まった。まるで夜逃げをするような感じで終わった。
 引越しが終わったと思ったら、直ぐにビルの解体が始まった。建物の見た目は今までのままだが、中は殆ど無くなった。まるで我々の生き方を否定されているようなあっけなさだった。
 33年間住んだ(途中6年抜けたが)のだから、愛着があって当たり前だ。新しい家に慣れないのも重なって、やや元気なく年が終わった。
 新年になり、仕事も始まり、家にも慣れたのか、知らない間に元気になっていた。
 二週間も経ったら、何も無かったようになった。
 寝る時に思った。私が薄情なのか?それとも人間って、そんなものなのかも、と。
 明日からは人生も深く考える必要ないなと思い、直ぐに寝れた。


190号

「どうしたの?その顔」
「なにがあったの?」
と、何人ものお客さんから声を掛けられた。
 海老蔵さんの様になっていた。
 実は数日前に飲み過ぎたようで、午前1時過ぎの自転車での帰宅の際に転んだようだ。
 転んだようだと言ったのは、本人は覚えていないからだ。帰った時に女房に「なにその顔!おでこにこぶ!」と言われ、触って驚いた。すごいこぶが出来ていて血も出ていた。シップして寝て、朝起きたらこぶはかなり凹んでいたがあざが出てきていた。お酒臭さも加わっていたので店を休ませてもらった。次の日、又次の日とだんだんとあざが広がり目の周りはパンダのようになってしまった。体は元気なので休むわけにも行かず店に出たからお客さんに言われたわけである。
 寝る時に、数年前にも自転車で転んで鎖骨を骨折したことを思い出した。
 これは『バカさ』なのか『若さ』なのかとしばらく考えた。
 できれば『若さ』であってほしいのだが・・・、と願いつつ寝た。


191号

『小原庄助さん、なんで身上つぶした。
 朝寝、朝酒、朝湯が大好きで、
 それで身上つぶした。』
という歌(?)がある。
 私は朝寝と朝湯は大好きである。でも朝酒はしてないので、身上はつぶしてない。
 息子のラーメン店を手伝っていると、日曜日の昼間に時々、生ビールを飲まれる方がいる。それが大変美味しそうに飲まれるから、大変羨ましい。
 いよいよ、プロ野球が始まるし、ナイターが暫くは無さそうだから、身上をつぶしてもいいから、お店の休みの日には、昼間にビールを飲みながら巨人を応援したいと思った。
 でも、「東北の人に悪いじゃないか!」と怒られそうなので、こっそり飲むことにしよう。


192号

 新しい家に住んで三ヶ月がたった。
 部屋の整理もかなり進み落ち着いてきたら、庭が気になり始めた。
 もちろん主役は女房であるからあまりい口出しは出来ないが、それでも徐々に口を出し庭つくりを始めた。水曜日しか休みが無いし、水曜日でも毎週というわけには行かず、庭が庭らしくとはなかなかならなかった。
 旧まつやの所で植木市があったので女房と出かけた。行く前は長男が一平だからイペーの木が良いのではと決めていたのだがイペーの木はないし、なかなか決まらない。前述の如く口出ししないように煙草を吸いながら待った。でもなかなか決まらない。女性というのは慎重なのかもしれない。紫もくれんになった。
 家まで運んでもらって庭の真ん中に植えた。もちろん私が穴を掘った。しまりが無いので周りを囲うことに決まりナフコに走った。ナフコの若い男性に「この扇形の石は何枚で円になるの?」と聞いたが、解からないと言う。中学までは数学が得意だったので「分度器を持って来なさい」と言い、見事に解決した。人生で始めて数学を使ったような気がした。
 次に周りを芝生でやっつけることになった。庭の縦横を測り、芝の枚数が確定。又数学だった。嬉しくなった。でも作業は大変で適当に手を抜いて芝生をひいた。後である人から「デコボコですね」と言われたが気にしなかった。
 寝る時に思った。
 物を作るのは大変だけど、大変なほど愛着も湧くし、喜びも大きいと。
 もっと子供を沢山作って置けばよかったとも思った。




193号

「よっしゃぁ!」と元気良く午前8時に起きる。
 以前は6時頃に目が覚めることが再三あったが最近はあまり無くなった。どうも若くなったようである。それも心身ともにである。ラーメン屋を手伝うようになってか
ら腰もあまり痛くないし、悩み事もあまり無い。日に日に若くなっていくようで恐い感じがする。63歳なんて気はさらさらない。女房が困って(半分は冗談で半分は本当
)いる。
 10時頃、天気が良いと自転車で周りの庭を見ながらの通勤。これが又なかなか良いもんだ。興味があると目に入ってくるのが判った。
 店に入り掃除をして買物に出る。行き交う人と挨拶を交わす。『頑張っていますね!』と言われると嬉しくて又頑張れる。
 11時30分に開店して午後の3時までホール主任をする。
 少し休憩してから夜の部の掃除と準備。
 6時に夜の部のスタート。やはりホール主任。夜は忙しい時と暇な時の差がある。暇な時は巨人戦をゆっくり見れて、これはこれで又楽しい。でも逆転で負けたりする
と二重のショックで疲れが…。
 片付けを済ませ10時〜10時半頃帰る。帳面の整理をして風呂に入り、少し飲んでビデオを見て2時頃、明日の買物と準備のことを考えて寝る。
 これが殆ど毎日の生活。平凡だが若くなれる一日である。大事な事を言い忘れていた。日によって年齢を変える。まだ10代はしたことは無いが大体30代を多くしている。そんな日は若い女性が気になる。
 東北の方には申し訳ないが本当に幸せな毎日を送っている。


194号

 静岡から中学校の同窓会の案内が届いた。
 還暦になる頃から始められた同窓会である。今年はぜひ出席しようと決めて、参加の返事を出した。
 その日からは日程を決めるのに数日楽しんだ。最終的には鹿児島から大阪までの夜行バスにし、浜松である同窓会の始まる12時の1時間前に新幹線で着くことにした。
 その次は、48年ぶりに会う友でも名前を忘れていては失礼だろうと卒業アルバムを見て楽しんだ。女性は半分以上覚えていたのに、男性は半分以下だったのにはびっくりした。
 寝る時に悟った。
 学生時代はスポーツ(軟式テニス)マンで女性には目も呉れずに生きてきてたはずだったが、あれは単なるポーズだったのだと。


195号

 夜行バスで静岡に帰る時、勝手がわからないので早目に出発場所に行き、運転手さんに色々と尋ねた。親切に教えてくれて大変助かったし、勉強になった。本当に良い人だと思った。
 出発して12時を過ぎ車内の照明が暗くなった。お腹が空いたのでバッグからパンを取り出していたら、一番前の席だったこともあったのか、「静かにして下さい」と運
転手さんに注意された。それも冷たい感じでの注意だったのでショックだった。同じ人かと疑ったが間違いない。確かに寝る時間になっていたから私が悪いのは間違いない。でも、気分は沈んだ。
 前に、人は4種類あると教えられたことを思い出した。
 良い人に見えて良い人
 良い人に見えて悪い人
 悪い人に見えて良い人
 悪い人に見えて悪い人、と。
 この運転手さんは良い人に見えて悪い人なんだと結論を付け、バスを降りた。でも、なんとなく一日中モヤモヤしていた。
 次の日の寝る時に自分の事を考えた。
 世間の多くの人は私のことを良い人だと言ってくれるが・・・。悪い所を沢山持っていることは自分が良く知っている。欲望の塊であることは間違いない。
 そう言えば、世間で悪く言われている人で良い人だった事は多々あった。
 つまるところ、良い人も悪い人も居ないようだ。明日からは良い子ぶるのは止めたほうが良いと思った。
 そう思ったら、気分が楽になりぐっすり寝られた。


196号

 一週間の休みを貰えたので、又静岡に行った。今度の一番は祭りであったが、それ以外も色々あった。
17日・午後5時の高速バスで鹿児島を出発。途中渋滞があったので福岡の乗り換えには時間が殆ど無く、お腹が空いた。
18日・朝の8時に京都に着く。今日の予定は名古屋ドームでの巨人戦だったので時間は余りあるほどある。仕方ないので近鉄で奈良経由を考えた。都会のはずだがなんとなく風景がのんびりしていて私に合わせてくれているようだった。名古屋に1時過ぎに入り、今夜泊まるカプセルホテルにチェックイン。一風呂浴びて、地下鉄で名古屋ドームへ。やっぱり生が良いとやや興奮。巨人は負けたが納得。カプセルに戻り。サウナに入り。やっぱり生が良いとビールを。
19日・いよいよ静岡入りの興奮で7時前に起き朝食を。10時前に出発して高校のテニスの仲間に会うために磐田へ。迎えの車に満足してから、4年前に60歳にならないで亡くなった友の墓参りへ。自分らしくなかったが気持ちは落ち着いた。そして今日のメインのテニス仲間とマージャンと飲み方が夕方4時に始まった。15人以上は集まっってかなり煩かった。ビールを飲みながらだったので勝敗は定かではなかったがお金は払った。飲み足らなかったのとまだ10時頃で早かったので4人で二次会へ。指宿では下手な私が一番上手かったので磐田のレベルがわかった。
20日・11時のバスで事故のあった天竜へ。テレビに映っていた鉄橋は中学時代の通学路であった。でも威張れなかった。2時に小学時代に引っ越して行った大阪の友と落ち会う。二人とも懐かしいので、歩いて祭り一色とは行かない街の中を歩いたが知った人はそんなに居なかった。でも街はあまり変わっていなくて懐かしかった。夕方、幼馴染と昔を語り満足。日が暮れてお囃子が聞こえてきたら血が騒ぎ出した。これは止められない血だと思ったら兄嫁が法被を持って来てくれ助かった。気持ちを抑えて屋台を引張ったが、終わった時は心臓が止まるかもと思い、これで死んでも良いかとも思った。でも隣の同級生が漢方薬を持って来てくれたので助かった。今日は二度助けられたが、声は潰れていた。
21日・今日も祭りなので興奮しているのか早く目が覚め、大阪の友と二人で自転車で小学校の時の恩師を訪ねた。もう80歳は超えていたが元気で何よりだった。午後は実家の店の前で小同窓会になった。何人か亡くなっているのを知った。中の一人に健康を聞いたら「病院に行かないから病気にならない」と聞かされ、私も真似しようと思った。友が写してくれた昨夜の私の法被姿の写真を見て、人間はそんなに変わるものではないと確信した。夜、小雨が降っていたが祭りには関係なかった。声は出し辛かったが出して、騒いだ。昨夜の失敗はいけないと思い90%の力で屋台を引いた。周りの若者の心配も理解できたが、祭りの為に帰ってきたのだからと無視して騒いだ。終わった。声は殆ど出なくなったが満足。隣の同級生はまた漢方薬を持って来てくれた。お陰で考えもせずぐっすり寝られた。
22日・再び高校のテニスの仲間に会うために磐田に向かう。大阪の友とは磐田で別れた。夕方から7人で食事会。一つ下が3人。昔話に花が咲いた。知らない花もあってびっくり。酒の好きな3人で二次会へ。あまり歌わないで石川さゆりの「風の盆・恋歌」をしんみり聞いた。
23日・奈良に帰る友の車で、再び奈良経由で大阪へ。行きも帰りも奈良に縁があったので私には奈良のルーツがあるのかもしれないと思った。高速バスの時間までインターネットカフェで考えた。日常の生活から離れられる旅は良いものだし、するべきだと。
24日・午後1時過ぎに指宿に着いた。長いような短いような一週間だった。


197号

 我が家のテレビは勝手に映画を録画してくれる。
 休みの日に、自分では予約しないだろうと思える『マザーテレサ』を見た。歳を取ったのか、60を過ぎて赤ちゃんになったのか何回も涙を流した。こんな生き方をした人もいるんだと、大いに反省し、これからはこんな生き方をしなくてはと思った。
 夜、飲み方があった。野球と下の話で大いに楽しんだ。
 寝る時に映画のことを思い出し落ち込んだ。自分には出来ないなと結論を出した。でも一つ位は真似をしなくてはと思い、「笑顔で人と接しなさい」を思い出した。


198号

 我が家のテレビは勝手に映画を録画してくれる。
 休みの日に、自分では予約しないだろうと思える『マザーテレサ』を見た。歳を取ったのか、60を過ぎて赤ちゃんになったのか何回も涙を流した。こんな生き方をした人もいるんだと、大いに反省し、これからはこんな生き方をしなくてはと思った。
 夜、飲み方があった。野球と下の話で大いに楽しんだ。
 寝る時に映画のことを思い出し落ち込んだ。自分には出来ないなと結論を出した。でも一つ位は真似をしなくてはと思い、「笑顔で人と接しなさい」を思い出した。


199号

 夜中に目が覚めた。寝不足だから寝なくてはと思っても寝られない。
 昨夜もだった。年を取ったのだからと・・・。
 昼寝は30分位でもすっきりするのだから、「夜寝」とすれば、3時間も寝たのだから寝過ぎかもと思ったら、いつの間にか寝てしまった。


200号

 今年は早めにと年賀状を考えた。数年前の姪の「たくさん貰いたかったら、たくさん出さないとね」を思い出した。今年は二度も静岡に行ったので年賀状だけの交流も少し減った。色々考えることがあり、年賀状はいいものだと感じた。
 寝る時に、さらに考えた。
 又、会えると思っていてもなかなか会えるものではないかもしれないから、好きな旅行と絡ませて、会いに行くことをこれからの楽しみにしようかな。と。


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