東京花便り その八

     斉田 万吉


私にとって少年期から青年期にあたる昭和40年代から50年代、日本は高度成長を遂げました。
ブルドーザーが山野を切り拓いて宅地や工場を造成し、河川は汚染し、農薬まみれの田畑からトンボやサギが姿を消してしまいました。経済発展の代償として公害や交通戦争などの社会問題が次々とおこり、人々は大きな過ちに気付いて真剣に環境問題に取り組みはじめましたが、失ったものを取り戻すために費やす時間とお金は膨大です。
その時代、秋の夕暮れに川原へ行くと、セイタカアワダチソウに占領されてススキの勢力範囲が狭まり、河川敷一面が真黄色だった記憶があります。
セイタカアワダチソウは北アメリカ原産、キク科アキノキリンソウ属の多年草で帰化植物です。初めは明治末期に観賞用として園芸目的で持ち込まれたそうですが、第二次大戦後、米軍の輸入物資に種子がついていて、あっという間に全国に伝播したと考えられています。花穂から種子が飛ぶと同時に地下根茎からも広がり、刈っても抜いてもどんどん増えていく生命力に驚かされたもので、都会でも田舎でもその群落は日本中どこでも見かけることができました。
過日、横浜近郊の約12キロを歩く「東急エコウォーク」に参加しましたが、一面黄色に覆い尽くされたセイタカアワダチソウの大群落はありませんでした。公園や川原ではススキの方が勢力を拡大しているところが多かったように思います。かつてよく見かけた背丈よりも高いセイタカアワダチソウも見かけませんでした。
東京や埼玉の川原や線路沿いで見る限り、ススキの群落と拮抗しています。
気になって調べてみると、セイタカアワダチソウには根から植物の成長を抑制する物質を出す「アレロパシー」という性質があるそうで、他種の発芽を抑制して生育を妨げることで急激に分布を広げてきました。しかしこの物質が土にたまり過ぎると、自己免疫のようになって、自らも中毒を起こすということがわかりました。
 動物でも植物でも、生態系という地球規模での生命の営みがあることは凄いと思わずにはいられません。自然は人間よりもうんと賢いということがわかりました。

  公園に遊ぶ子はなく返り花  竹帚                              





 琉球・山川港交流400周年事業無事終わる
       
11月28-29日、沢山の人々に支えられて事業は無事に終わりました。28日のシンポジウムでは沖縄・鹿児島両県の副知事の他に5人の方々が意見交換しました。夕方からのくるま座交流会では、郷土料理を頂き、焼酎、泡盛を飲んで大いに盛り上がりました。中小路、大山、宮ノ前に残る唐人踊りや本場の琉球舞踊、奄美島唄を一同に観た人々から感嘆の声が上がっていました。29日朝には、山川愛宕山で琉球人望郷の碑の除幕式がありました。これには山川港で亡くなった琉球からの使臣の子孫が来られていました。大変感激されていました。沖縄の玉城節子さんは除幕式で琉球舞踊を奉納し、さらに福元墓地の鎮魂墓碑にも皆さんでお参りされました。その後、活(い)お海道で一踊り(写真)。それから山川文化ホールまで行列して歩かれました。その昔、山川に上陸した琉球の人々も同じ道を歩いたと思えば、感慨もひとしおだったことでしょう。
縄文の森をつくろう会からも10人ほどの仲間に手伝ってもらい有り難いことでした。その他、地元の方々や多くの皆様に支えられた交流会でした。心から厚く御礼を申し上げます。


  

 息子の引越しの手伝いで、鹿児島の息子の部屋に泊まりました。息子が用事で出かけ、一人になりました。驚いたことにテレビがないのです。ラジオもなく、パソコンも彼のだし、しまってしまいましたし、何もすることがなく、ボーっとするタイプではないので大変困りました。困ったというより恐怖の時間を味わいました。
 寝る時考えました。見なくてもテレビを付けておく習慣はやめるべきだと。あんな恐怖は二度とゴメンだと。









浮来亭の望年会は今年は22日(火)に行われます。いつもの年は最終金曜日でしたが、今年は少し早めました。お気付きだと思いますが忘年会ではなく望年会です。その所為か、いつもよい年を迎えているように思いますので、皆さんも望を使ってください。

 







一ヶ月遅れの発行となりました。
 原稿が集まらず苦戦しています。
 協力をよろしくお願いします。






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