の幸ちゃん

「遂に新潟で居酒屋『ぶうめらん』オープン!!」?―仕事が終わって宿に帰れば、すぐ飲み始めるので、(本日も居酒屋、オープンですか?)と冗談で言われる様になった。ドアの外に看板は出さないが、室内に『ぶうめらん』の看板を描いた。※持ち込み制※(状況により入替制)ラスト夜10時迄と書き込んで。四畳半の部屋に詰め込んで六人迄、入って来て飲み騒いだ。おつまみの買い置きが無い日は「臨時休業」だ。若者が集まる様になった。
『蜂の巣を壊す人を』見た。
 蜂だって生き物、刺すからって恐い?蜂に何もしなければ刺さない。―人間に例えたら、自分の家を壊され、子供を殺される様なモノ。蜂は野菜や花の花粉を交配してくれるので益虫です。ツバメと一緒です。今まで好きだった人間が、蜂の巣を壊していたので、ガックリ。すっごくブルーになって、ちょっぴり嫌いになってしまった。こんな人だったのかと思ったら…。
『過去の自分が役立っている現場』 現場で火事だの事故だのと、立て続けに発生して、遂に大元本社が「作業停止命令」を出して、なぜ、こんな事になったのかと2ヵ月位、討論会をさせられた。議長も居るのだが、書記に決められた人が漢字を書けない。私はメモ用紙に会話の内容の難しい漢字を書きまくっていた。現代の若者は判らない漢字はKタイ電話で調べる。―だが、私は即座に漢字を書き出していた。Kタイより早いので、皆が、「もう、吉屋さんが、変換しているヨ」とか、「吉屋さんは生きてる国語辞典だ」と言われてしまった。英語の綴りや意味も即、判断して言っていたので、周囲の目が若干、私に対する気持ちが変わった様だ。今迄、話さなかった人々も近付いて来て…。私を嫌いな人は近付かない。敬遠している様だ。新人も増えて、事務所に100人位、居るが、好き・嫌いのカラーがハッキリしつつ有る。―でも、私を嫌っている人の中にも、興味有る人はいる。話しかけて来なくても、話しかけたい。ちょっと、難しい部分も有るのだけどネ。
『生きていても面白くない』日々を送っている様な気もする、―本日56歳の誕生日なのだが、挨拶しても返して来ない人間にムカつく。同じ宿の飯を喰って、同じ事務所に居るのに、仲間と思っていないのか?私は小バカにされているのか、近寄りがたいのか。―ともかく、まともな人間じゃない人を見るとムカつく。切れそうだ。宿では洗面所、トイレを汚しっ放しで片付け様ともしない。廊下にはゴミや缶ビール等の空缶が放置して有る。自分で飲食した物位、片付けろって言いたい。
 何年か前、「地図を読めない女、片付けられない男」とか云う本も売れましたネ。奥様が居る男性は日頃、奥様に何もかもしてもらって、何もしない、出来ないのかも知れませんが、出張先で生活の基本的な事が出来ないのは、だらし無く見えます。―それを恥かしい事と感じていないのでしょうね。ちょっと哀しい、今日、この頃です。
 のっけから悩みを書いてしまって、ゴメンなさい。
 今期の年末・年始のDVDを借りて来て、「砂の器」を鑑賞した。処が、映像が入り切れなかったのか、最初の東京・蒲田駅の殺人現場シーンと、列車の中から証拠品をバラまく女性のシーンがカットされていた。意味な〜い。「砂の器」は三時間位の映画だ。松竹DVDに文句、言いたい。全編、写っていなけりゃ、映画DVDをレンタルする意味がないのだ。
『DVDレンタルのすすめ』
 昔のレンタルビデオは本編しか写っていなかったが、DVDには、予告編、メイキング(撮影現場裏撮り)や、主人公の紹介、色々な場面が入っています。「グーニーズ」の本編では「大きなタコも居たよ」と言うシーンが有るのだが、本編には写っていない。メイキング、カットシーンがDVDに入っていたが、大タコが出て来るシーンは本編ではカットされた様だ。30年も経って、やっとカットシーンを見れて謎が解けたのだ。(十二月〜一月)
『マイケル・ジャクソン』のCDを購入した。哀悼の意味を込めて。中古CDショップに行ったら一枚だけ有った。欲しいのは昔のディスコブームの頃の物。(「スリラー」等)だったが大分や熊本の温泉地を走破する時、車内のテープで聞いてた物が欲しかったのだが。
『故郷は遠きに有りて思うもの、帰る処にあるまじき』と申します。TV番組「ケンミンショー」「ナニコレ珍百景」で鹿児島の最新情報も見られます。山形屋会員のティッシュとか、「AZ」のスーパーが日本一広大な所だとか…。因みに、「ケンミンショー」と「ナニコレ珍百景」のTV番組アイデアは20年位前から、私、考えていましたが、「日本民放連盟」の住所を調べあぐねて、そのままでしたが、本当は直接、TV局本社へ手紙を出した方が良かったのかも、知れませんね。
『窓際のスズメ・新潟編』
 仔スズメが宿近くの電線に3〜4羽、とまっている。手をパンパンとたたき、「チュン、チュン」と口マネして米を、窓際のクーラーの室外機の上に乗せた。朝・夕、来る様になり、チュンチュン鳴いて、米を催促して来る様になり、餌付けしております。
 部屋に飲みに来た人が五〜六人居た時、窓際に居た人に米を置いてくれる様、頼んだ。
 四畳半位の狭い部屋で、私は動き様も無かったので…。米を置いてと頼んだら、皆が「じいは、優しいネ」って言った。
 お寺の坊さんがご飯の一部を庭のスズメに数つぶ、上げるらしい。「おじひ」?


 東京花便り その六
           斉田 万吉


 秋きぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる・・・古今和歌集にあり、三十六歌仙の一人、藤原敏行の歌として、あまりにも有名です。
肌で感じた秋を、視覚でさらに確かなものに・・・秋の花といえば、まず七草。萩、桔梗、葛、藤袴、女郎花、尾花、撫子ですが、今の東京では簡単に見つけることはできません。線路の脇とか空き地など、たまに葛やススキを見かけたりしますが、コンクリートの塊に囲まれた中では、さほど風情を感じることはありません。
9月7日は二十四節気の白露。そろそろ朝夕の冷気が感じられるという頃ですが、日中は東京も厳しい残暑でした。
所用で赤坂に行き、時間に余裕があったので水道橋のオフィスまで1時間ほど歩いて戻ることにしました。
溜池山王を出発して、汗を拭き拭き赤坂見附から弁慶橋を渡って、ホテル・ニューオータニと赤坂プリンスホテルの間を行くと、右手に都会とは思えぬ鬱蒼と樹木の茂る「清水谷公園」があります。
日頃はまっすぐ通り過ぎるのですが、南中の日差しが強く、暑さ凌ぎとばかりに、ミンミン蝉の鳴き声に引き込まれるようにして木陰へと入っていきました。
すると、通りからは見えませんでしたが、あちこちに萩の花が咲いているではありませんか。その薄赤い可憐な花を見ると、まさに「小さい秋」を見つけたようで、嬉しくなりました。
かつてこの一帯は、紀伊徳川家と井伊家の江戸屋敷の境にあたり、谷であったことと、紀伊様のお家屋敷に清水が湧き出ていたということから、清水谷と呼ばれていたそうです。
ここは明治11年(1878)5月14日、大久保利通が暗殺された(紀尾井坂の変)という場所で、園内正面に「贈右大臣大久保公哀悼碑」という石碑があります。
千代田区が管理しているという公園ですが、正直なところ手入れが行き届かず、その石碑も目立たずに建っていて、上野の西郷さんや九段坂の大山巌元帥の像が、誰の目にも留まる場所にあることと比べると、大久保公が可哀想な気がしました。

 俎板に茄子紺刃型残りけり   竹帚  


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  「琉球・山川港交流400周年 
     2009.11.28―29」へのご協力のお願い

      琉球・山川港交流400周年実行委員会 
              会長 永田 和人


 すべての始まりは「五人番のアコウ」からでした。指宿、山川の境の大渡海岸に、藩政時代五人番と呼ばれた出入船の臨検所がありました。その波打ち際に樹齢300年と言われるアコウの大樹が生きながらえていました。1997年、台風で根の半分を引きちぎられ半死の状態だった「五人番のアコウ」は、仲間の協力で見事に生きながらえ、これを機会に縄文の森をつくろう会が結成されました。2004年8月の台風で根こそぎ倒れましたが、縄文の森をつくろう会の仲間を中心に、多くの人々の善意でアコウは海上から指宿港の太平次公園に移植され、現在立派に葉を茂らせています。

倒れてから一年後、このアコウは「首里城から運ばれてきた」と地元で言われていることがわかりました。薩摩の琉球出兵が1609年。これ以降琉球王国は使臣船を毎年薩摩に派遣し、1879年、琉球藩が沖縄県になるまで続きました。使臣船は行きも帰りも必ず五人番で臨検を受け、五人番のアコウにもとも綱を巻いたと言われています。この間破船や病気などで多くの使臣や民間人が亡くなりました。今回、山川には多くの取り壊された琉球人墓があったことも明らかになり、地元の皆様の思いをこめた望郷の碑を眺望のきく愛宕山に、墓碑を福元墓地の一角に造ることになりました。

倒れ生き返った「五人番のアコウ」を通じて沖縄・鹿児島の心ある方々と知り合うことができ、またふるさとの奥深い歴史や先人たちの苦労を知ることができました。  今回の催しが未来に続く交流元年になりますように。またそのことがふるさと再生の一環でもあることをご理解いただき、物心両面でのご協力を心からお願い申し上げます。


  
       

 テレビは面白い。
 何が面白いかは見る人によって違うと思うが、私はもちろん野球と映画です。特にスカパー(CS)は専門チャンネルなので野球もセ・パ両リーグの試合は全て見られます。映画も一日中やっているから録画しておいて休みの日など一日に5本も見たことがあるほどです。地上波は余り見ませんが好きな番組は日曜日の昼1時半からの「たかじんのそこまで言って委員会」、同じく日曜日の朝の「サンデープロジェクト」後は「ニュース」番組、「行列の出来る…」「テレビタックル」「1分間の深い〜い話」などです。月末の深夜の「朝まで生テレビ」も録画で見ます。
 テレビは恐い。
 ニュースの延長で「ワイドショー」も見ているが、主役が良い人か悪い人かのどちらかに決めてがんがん行く。良い所もあるし、悪い所もあるのが人間だと思っているので、小泉さんから始まり麻生さんまで大変だった。私はそれまで名前を知っている位だったのりピーもしかり。今、鳩山さんは良い人で行っているから良いが、もしミスをして一転したらどうなるかと思うと…。
 でも、寂しいけど、人間って他人のあらを知るほうが楽しいのでしょうね。
寝る時に興味を持って見ている自分に気付き、少しい落ち込むと思ったけど、缶ビールを1本飲んだら直ぐ寝てしまった。


ある回想(6)アイ・アイ

 シカゴはまたジャズの中心でもあります。南部の黒人のリズムをもとに生まれたジャズは、南北戦争後の南部から北部(シカゴ)への黒人の移動に伴い、ジャズもシカゴに入って来ましたーウォータータワー周辺地ー。それと白人のリズムが合体し、しゃれたシカゴジャズ(ホテルジャズとも言われる)が発生しました。
 この航海にお供しました事務長さんは、第2次大戦時の海軍雷撃機パイロットの生き残り(体に弾の破片がいくつか残っていましたが)で、なにしろ中学時代に全国中等学校グライダー大会で優勝した、小倉出身の方でしたが、戦後船乗りとなり戦後のアメリカ航路再開の当時、米国の港に入るやそこの税関職員に柔道試合を申し込み、米人を投げ飛ばしては溜飲を下げたという侍でした(試合の為、本船にわざわざ畳を積み込んでいたそうです)。
 そんな人でしたので、私がジャズが好き、アメリカのジャズレコードを買っていることを知り”なんだおまえは、なんだそれは”との剣幕でしたが、ウォータータワー地区の鄙びたバーに案内し、ブルースを聴いてもらいました。それ以来彼はジャズフアンになってくださいました。(今や故人です、冥福を祈ります)。
 一転して、話は船乗り独特の言葉(言い回し)を紹介いたします。どの世界にもその世界の言い回しがありますが、その1は”暖機があがらん”です。蒸気船時代は、出航の相当前からタービンに送るための蒸気を発生させるため、ボイラーを焚き蒸気圧を高めます。
 不景気な顔をしていたり、景気のあがらん酒の集会をやっていると、”なんや、暖機があがらんのー”とやられる訳です。
 その2は”肩振り”です。船乗りは一旦乗船しますと同じ船に同じ仲間と、6ヶ月、一年を共に過ごす事になります。男だけの封鎖社会で顔をつき合わせていますと、つままぬ事でぎすぎすした関係になりがちです、生活の智恵というべきか、船乗りはよく雑談をします。当直明けのちょっとした時間や食後に、4−5人集まって馬鹿話を交わします。
この雑談をどういう訳か”肩振り”と称します。−ムードでなんとなく解るような気もしますがー。”ちょっと肩振っていかんかねー”となる訳ですが、若い事務員の部屋は格好の溜り場でした。15,6歳から船に乗っている連中から見ると、事務員は”娑婆の人”ということでしょうか”今度横浜で下船だが、どないして帰るのがええやろか?”とか”あかん坊が生まれるが、一緒に名前を考えてくれ”とか他愛のない事で時間が過ぎますが、おそらくこれが適当なガス抜きになっていたのでしょう  。  
 若い時期の三年間でしたが、貴重な経験を得た三年でもありました。この間に(前にも述べましたが、急速な代理店網整備と、ファックス始めとする事務機器の開発展開で、我々事務員は陸上勤務に配置換えとなりました)。その後、貿易の発展に伴って、私も商社マンに転進することのなりますが、今回は船乗り時代に絞り書かせていただきました。もしも別の機会が与えられましたら、商社マン時代の回想を書かせていただきま。有難う御座いました。




★てんちの杜(かがり火)コンサート
日時10月11日(日)18時開場18時半開演
場所  てんちの杜(揖宿神社境内)
出演予定  和太鼓、地元音楽家グループ、木下賢也(民族楽器奏者)
特別出演   竹内琉球舞踊研究所
(琉球・山川港400周年のプレゼンテーション)
入場無料ですので是非聴きに来て下さい。
★琉球・山川港交流400周年記念の協賛金をお願いできればと思っています。(内容は3面を参照ください)
連絡先 永田耳鼻科 22-2327 







 朝晩は少し涼しくなりましたが、日中はまだまだ暑い日が続いていますので、お身体には気を使ってください。原稿待ってます。
                                




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