の幸ちゃん

『四月から五月頃まで』現場内でトラブルが発生し、連帯責任(?)と云う事で全ての作業がストップになってしまい、皆で、なぜ、こんな事故が起こったのかと討論会が有った。色々な人々と机上で話し合えた。現場が一緒になった事はなかったけど、話したかった人間や事務所一番のアイドル系、イケメンとも話せる様になり、交際範囲は急激に拡がってしまった。―北海道、旭川の24歳の青年。福島・いわき市の21歳の青年はバンドを組んでいて、ドラムをたたいているとの事。私も高校時代、ドラムをたたいていたので、話は一気に友達感覚に。―その他、いろいろな性格、血液型の人と知り合い、私の生活は拡がって来た。・・・まるで収容所みたいなトコロに閉じ込められている生活環境。仕事もプライベートも一緒になれば、諦めるしか無いのか?ひとつのコミュニケも出来上がって来て、宿命的に和が出来上り、グループも出来上って来る。仕事の和、隣の和、宿の和、気が合う仲間同士。それらがスクランブルしていて、結構事務所の人々が仲良くやっているのだ。――ただ、一人、カラにとじこもって、誰とも話さない人も居る。それはそれで放っとくしかないのか?
 弱い性格の人間や、バカな人間はイジメの対象になり、ボカボカなぐられる事になる。この現場、先行き、不安だ。一体、どうなる事やら。――私の父が胃ガンで死去してしまった。七月で私も父の死去の56歳になる。
『忌野清四郎が』亡くなった。18歳の時、東京・荒川区町屋で、(大学ノートの裏表紙に…)と云う唄を聴いた。フォークポップ調だった。だが、「いけないルージュマジック」では、時代がガラッと変わって、あの曲の影像にはびっくりした。
「マイケル・ジャクソン」が死去した。ディスコブームの頃、「スリラー」は発表された。東京のディスコで聴き、鹿児島では車の中でテープを聴きながら、大分辺りを走り回っていた。中学の頃「ジャクソン5」として、デビューして「ABC」等、ヒット曲が有った。詳しい事はTVニュースでも御存知でしょう。私の青春の中でも、M・ジャクソンと生きていた気がする。お二方に冥福、祈ります。―最近、次々と大物音楽界の人々が死去しています。いづれ、自分にも来るのだナと思うと、少しブルーになったりしております。その日が来る迄、頑張って生きましょう。
『新潟温泉回遊物語』
 国R・18沿い、妙高高原の近くにつばめ温泉は有る。皆が良い処だとすすめるので行ってみた。スキー場の隣り添いに道は有り、45度位の道路を登りつめる。まるで、車で登山だ。
 滝だの山の残雪だの、菜の花が咲いていたりして、春と冬が乱舞。――温泉に着いた。指宿の如く、湯殿が真ん中にド〜ンと有る。イオウ臭い、白い湯。少し熱い気もするが、じっくりと入っていれば慣れて来て、風邪も治りそう。ぜひ、一度行ってみて下さい。
『雪だるま温泉・part2』
・雪が融けてスキー場こそ、やっていないが又、行きたくて同温泉へ。新しい友人とゆっくり、寝入って休憩。小雨の天気だったので、宿に早く帰っても仕方なし。旨いツマミを堪能して帰って来た。
・新潟の隣、福島へ遠征。「大内宿」を目指して走った。ワラぶき屋根が並んでいる土産と民宿の、江戸の名残りが有る観光地。
 全てが観光物産売りの店で、土曜日だけに物凄い人通り。少々嫌気が差し、写真も撮らずに帰って来た。ソバをネギ一本で食べる有名な処なのだが、…。温泉も入らず、前回、「冬期通行止め」の道も通れて、奥只見湖(ダム)の周囲を走り、新潟の宿へ、山越え、
 シェッド(雪すべらし用トンネル)の上に残雪のかたまりが有り、5月の太陽で溶けつつ有る。その融水が滝の如く、トンネルの下へ流れ出している。この水が新潟の酒を旨くしているのかと思うと感動物で有った。
『スキー場のリフト』の下を車で走った事が有りますか?―温泉に行く為に走った道はリフトの下。もちろん、その時は雪は無かったけど、リフトの下にジグザグの道路が有り、温泉に辿り着いたのです。冬はここが2M位の雪が積もれば、スキーヤーが滑走してるんだろうナと想像したら、不思議な気分になって来た。…。(平成21年4月)
『最近の若者アレコレ』
・人に話を合わせるだけで、口約束だけで実行しない人間→ムカつく!一体、今までどんな人生=親や学校の教育、しつけを受けて来たのか?腹立って来ます。しまいには!!・・・
・タバコ一本、ジュースをおごって貰ってもお返しをしない、「ありがとう」「頂きます」も言わない人間。→何、考えとるんじゃ!!
『昨年、宿での飲み方風景
 食堂がタタミ座敷だった為、飲む人は、片隅にかたまっていた。お互いの酒や、つまみの交換もし、「これが旨い」の、「まずい」のと、食の品評会。―いわき市から来た青年二人は、我々飲み友達2人の隣に座った。我々二人はスキンヘッドだ。嫌がりもせず隣に座り、世間話をして、なついて来た。社交性も有り、性格が可愛いので、私は食べられない油っこい物を全て、分けて上げ、酒のつまみもちょくちょく、プレゼントした。それ以来、いつも隣に来る。―一〜二ヵ月位して、田舎の仕事が多忙になり、引き上げて行ったが、「お世話になりました」と、ちゃんと挨拶して去って行った。今時、珍しい位、律儀な青年だった。又、会いたい気持ちでいる。こんな時代にも、まだ、こんな青年達が居る事に、感動してしまった。


ある回想 (5)アイ・アイ

 乗船中の思い出を2・3お話します。ほとんどの皆さんは年末の番組”行く年来る年”をご覧になったことがお有りだと思いますが、紅白が終わって一転静寂が流れ、各地の由緒ある寺院から除夜の鐘が響き、3〜4箇所の中継の後、新年となりますが大体どうゆうわけか港に停泊中の船の汽笛が一斉に響き渡るシーンが多いようです。
昭和36年(1961)は偶々本船が大阪港で大晦日を迎えることになりました。NHK大阪からの放映で”新年を迎える船内”という内容で、隣に停泊中のソ連船の船員が本船を訪ねてきたとの想定で乾杯のシーンが全国に流れました、インタビューアーは初々しい(当時)三人娘の一人”伊東ゆかり”さんでした。私も船内を説明するチョイ役で出ました。次なる思い出は、今上天皇が皇太子殿下時代に英語をお習いになった、バイニング夫人の名前を憶えておられる方も多いと思いますが、夫人は晩年を5大湖の一つミシガン湖に臨む大都会シカゴで過ごされました。昭和37年の夏、皇太子は夫人のお慰めとして日本から鯉を2尾お送りなさいました。その搬送の大役が本船に下りました、このような託送はバーサーズケアといい事務長の職務でして、引いては私(事務員)に役目が廻ってきました。
たかが鯉とはいえ、ひとつは”日の丸”といい全身真っ白に頭のてっぺんに梅干大の赤い斑点があり、いまひとつは”黄金”といい全身金ぴかでした。横浜受け取り時に江ノ島水族館の係員から、給餌、水温管理等の講義をうけ、その水槽を船尾楼(プープデッキ)の隔離室に据えて約ひと月の航海の後に、シカゴで降ろした時は悪夢から開放された気分でした。これに纏わる思い出はいろいろとあります、この鯉の献上には時の駐米大使があたられ、この為に大使が途中のモントリオール(セントローレンス河)からシカゴの間、本船に乗船されました。一国を代表する大使が乗船しますとメインマストに国旗の日の丸を掲げます、すると行き会う船は自船尾の自国の旗を半旗(ポールの半分まで引き下げ)にして敬意を表します。―気分のいいものですよー。 叉、シカゴでは通常の商船用桟橋ではなく特別に”ネービーピア(海軍桟橋)”に接岸する事になりました。鹿児島出身の一等航海士でしたが”事務員さん、なにか面白いアイデアはないかね”とのことで、”ネービーピアだから、こちらは軍艦マーチで入りましょう”と言う事になりました。大音響の軍艦マーチで接岸しましたが、アメリカ人もさるもので、翌日のシカゴトリビューンには大きく”ジャパニーズネービー、アタックアゲイン”とでました。更に本船の全員が半舷ずつの上陸で、シカゴカプスの試合に招待されました。これには当方は完全脱帽でした。
このシカゴでは、胸にこみあげる思いもしました。ある早朝、ピアの外側に多くの人影が並んでいるのが見えたのです、周辺から出掛けて来られた日系人の人々でした。新聞その他で日本船が入ったことを知り駆けつけたのでしたが、ネービーピアですのでフェンスの内側に入れず、遠巻きにして本船を眺めていたのでした。ゲートに掛け合って許可を得、皆さんを船内にご案内しました。賄い方はただひたすら大鍋で味噌汁を作りました。日の丸を見たまま動かない人、タラップを昇るのに”もったいなくて”と靴を脱ぐおばあさん、一杯の味噌汁を押し頂いて飲んで下さる姿を、まともに見ることは出来ませんでした。



               
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襟を正し、気を張れ

 7月31日那覇へ。琉球舞踊が国の重要無形文化財に指定され、その保持者として39人の方々が認定された。その中のお一人、玉城節子さんは2年前指宿に来られた方。行くまいか。祝賀会に参じた。
4―500名の方々がホール一杯。粛々と進められる祝宴。静かな中に深い喜びが感じられた。司会をされた琉球新報社の安次嶺律子さんとは旧知の仲。その上、11月に山川で予定している琉球・山川港交流400周年事業の沖縄側重鎮のお一人。全幅の信頼を置いている方でもある。「縄文の森をつくろう会の永田さんが来られていますので、ご挨拶を」と宴の最後に壇上へ。五人番のアコウからのご縁を語り、400周年事業の宣伝をさせて頂いた。場違いの人間に大切な祝賀会で挨拶させるなど、その桁違いの度量の大きさにただ驚くばかり。
 翌日、安次嶺さんのご好意で、第44回琉球古典芸能コンクールを審査席から見ることができた。コンクールは約1ケ月に亘り行われ、15歳から参加できるとのこと。舞踊新人部門の「かせかけ」を1時間近く見た。恋人のことを思いながら芭蕉布の糸を紡ぐ乙女心を表現した踊り。1人10分とかからない。ただ一つの舞踊を、何人もの人がそれぞれに表現しているのを目の当たりにして、ひどく感じ入ってしまった。
舞台登場の足の動き。所作の始め、その流れ、気の緩急、表情。五感を揺さぶるバランス。糸を繰る所作の中に、日々の生活の喜びや悲しみが表出される。それぞれの人生体験の中からにじみ出てくるもの。琉球舞踊300年の重みが、それぞれに問いかけている。渾身の力で踊りきっても、会場からは拍手すらなく、水を打ったように静まり返っている。8人の審査員が紙に何かを書き込んでいる。
一人ひとり一体何を考えながら踊っているのか。何百回も練習を重ね、ただ無意識の中で体が動いているのだろう。糸を繰る動作、回転運動の動作にその人の全宇宙が出てくる。心の奥底まで見せながら、何をもって良しとするのか。すぐれているとするのか。恐らく、審査員の方々も伝統の重みを背負いながら、その質を厳しく問われているのだろう。日々これでいいのか、常に己に問いかけながら生きていく覚悟。地球の重力に逆らわず、すべてを受け入れる姿勢。曲を正しく聞き、体の線を保ち、ちゃんと正面を向いているか。五臓六腑は滞りなく機能しているか。母親の胎内を出てから今日までの生き方を問われる厳しさ。にじみ出るなんとも言えない色気。人間に対する信頼感の表出。
あの4月に始まった沖縄攻防戦で完膚なきまで荒廃した故郷。20万人の犠牲を払いながら、現在もその痛手は癒えていないが、それでも立ち上がってきた人々の底力。踊り手はそんなことは微塵も感じさせない美しさに終始溢れている。
沖縄そば、豚足、オリオンビール、さんぴん茶、沖縄菓子、ゴーヤチャンプルなどなどの深い味。秘めた熱情からあふれ出てくる人間的滋味。またも行きたい沖縄御免候へ。


  
 
 夏の風物詩の高校野球が始まった。
 野球が大好きな私だから、勿論見る。かなり見る。特に静岡・鹿児島を応援する。次に東京・九州勢である。
 普段は野球を見ない女房も見るのは何故だろうと寝る時に考えた。
 日本人の優しさなのではと結論を出した。
 高校野球は最後まで勝てるのは一校だけだから、当然殆どの人間は悲しんでいるはずである。悲劇のドラマを見ているのに違いない。負けた者に拍手する日本人の心が表れているような気がした。
明日から弱い人になろうと思った。


 東京花便り その五
                      斉田 万吉
 
 平成5年の夏は、太平洋高気圧の勢力が弱くて梅雨前線が居座り、かの8・6水害が鹿児島を襲った記録的な冷夏でした。翌年、鹿児島に異動して、各地に残るその爪痕に驚愕とし、国産米を求めて東奔西走したことを思い出します。
今年も西日本の梅雨明けが極めて遅く、関東地方も早くに梅雨明けしたのですが、炎暑の日々が訪れません。8月になって夏野菜の価格が急騰しており、米は大丈夫かと心配しています。朝顔や芙蓉、ひまわり、百日紅(さるすべり)、槿(むくげ)など、夏に咲く花々の元気がないように感じます。
とはいうものの、夏にはなくてはならない花にまつわる風物詩を紹介します。
朝顔市は各地で開催されますが、最も有名なのは入谷の鬼子母神。毎年7月6日から3日間、言問通や鬼子母神境内に100軒を越える朝顔業者が並びます。 7月8日の夕刻、鶯谷駅で家族と待ち合わせ、言問通に出ますと露店が並び人で溢れていました。
端からずっと見て回りました。縁起物ですから、どこも値引き交渉などはありません。法被に鉢巻姿で威勢のいい人たちが、声を嗄らして客を呼び込んでいます。
とりわけ元気なおじさんがいるお店で、3000円の琉球朝顔と、2500円のルコーという可愛い花をつける変種を1鉢ずつ買い求めました。
朝顔の種は牽牛子(ケンゴシ)といい、漢方薬に配合される生薬です。奈良時代に薬として伝わり、観賞用として栽培されるようになったのは江戸時代になってからだそうです。
朝顔の別名を「牽牛花」といいますが、七夕伝説の牽牛・織女にちなんで、入谷鬼子母神の朝顔市は、七夕の前後の3日間に開催されるようになったそうです。
 朝顔市と同様にほおずき市も夏情緒たっぷりです。これも各地で催されますが、俗に「四万六千日」と呼ばれる浅草が有名です。
7月9日は友人と本駒込の駒込大観音(光源寺)に、7月10日には一人で浅草へ出かけ、今年はほおずき市のはしごをしてしまいました。
江戸情緒と夏の花、ずっと残してほしいものです。

  我一人大の字に寝て蝉時雨  竹帚  



 土佐源氏という物語をご存知でしょうか。
民俗学者宮本常一が高知県梼原、橋の下で暮らす元馬喰の生涯にわたる色懺悔の聞き書きといわれる物語。
40年間、この物語を一途に演じ続けてきた役者がいます。坂本長利79歳。
昨年ご縁あって1004回目の公演をキャンプ場で行っていただきました。この10月坂本さんの80歳を祝う記念公演を再びキャンプ場で行う事になりました。
40年で1000回以上の独演。
全世界で絶賛されながら、その内容が発禁扱いを受けざる得なかったためメジャーになることも無く、とうとう演じる乞食の年齢になってしまった記念公演です。
現在、坂本さんを長年サポートして来られた方々で当日は80歳のお祝いしようと打ち合わせています。本当に特別な公演になりそうです。
野外公演、しかも坂本さんには地声でお願いしようと思っています。そのため収容人数も絞られ大々的にPRは行いません。
指宿の皆さん。この機会にぜひ山口県へお越しになりませんか。
3年前揖宿神社で行ったかがり火コンサートが僕にとって初めてのプロデュース経験ならば、この10月は僕にとって精一杯のプロデュース作品になります。
指宿を離れてまだわずかですが、僕なりの恩返しと成長を見ていただく機会と思いご案内いたします。
●竜王山土佐源氏ツアー(10月17日)
18:30 上演
20:00 終了 近くの温泉へ
21:30 坂本さんを交えた酒宴
宿泊はログハウスの2階がフローリングのきれいな研修室になっているのでそこで(布団もあります)6人以下ならトレーラーハウスを用意します。(ほぼ完備)
竜王山は九州に落ちていく夕陽が一望できる日本の夕陽100選に選ばれ、頂上からの眺望は日本の高度経済成長を支えた工業群が日本の夜景100選にも選ばれています。
日曜日の朝は下関唐戸市場で魚河岸がそのままお寿司屋さんになって、超安くてうまい握りが食べられます。
赤間神宮は竜宮城伝説が残っていて開聞神社の玉手箱と由縁があります。
少し山の中へ行って俵山温泉は浴衣姿の湯治客が道を行き交う情緒残る温泉街でこの周辺はアルカリ度日本一を誇るお湯質。指宿と違って面白いです。
料金は4・5000円を目途に考えております。詳細はまた追ってご案内いたします。
現地添乗員はわたくしが務めさせていただきます。大型バスだって用意しますよ。                          


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