の幸ちゃん

*訂正とお詫び(第165号で末行に有った…)小林一茶の句をもじった私の句は、『すずめと遊んだ つまのない はげおやじ』に訂正して下さい。(どくのない はげおやじ)になっておりました。よろしく。

平成21年「新春シャンソンショウ」
・元旦に「年末ジャンボ」宝くじの当選番号を調べたくて新聞を購入。同じ広告チラシが折込間違いで二部も入っていた。嬉しかった。今年、何かついているのかナ?
・数年振りに購入した、「年末ジャンボ」が三千九百円、当選。更に幸運。
・洗濯物の中からポロリと落ちて来た、100円玉。嬉しくなって一憂一役
・年末から年始へ、宿を転居。浴室の脱衣所にはマッサージ機も有り、温泉モード。
・正月に大阪に帰省した仕事仲間から、雷おこしのプレゼント。大好きなだけに、超ハッピーモード。
〜こんな事の連続。今年は良い年になるかも。―さて、読者の皆さんのお正月は?

明けまして お目出とうございます
―と書き始めましたが、この原稿がいつ、「浮来亭」に掲載されるやも判らず、書き始めました。―とも角、今年(昨年)は悪い事ばかりの連続でした。会社の給料は上がらない。静岡に次いで2度目の現場では、同様にひどい状況が続きました。「コミュニケーション」として、ボカボカなぐられるし(相手は少し、手加減していて、大して痛くは無いのですが)、若者に限って、弱そうな年寄りをいじめるのですな。一体、日本の教育、親の子育ては、どうなっているのでしょうか?
 15年位前に予想して、私は「浮来亭」にも原稿、寄せましたね。(アメリカ的犯罪)が起ると。―今、私の職場では日常茶飯事です。「冗談でも」して良い事、と悪い事。言って良い事と、悪い事って有りましたよね。今の世の中、それは死語です。―どうして、こんなにも日本は狂ってしまったのでしょう。高血圧で、頭の血管が切れそうなのにパタパタ頭をたたいて来る。鼻血や耳血も出た事も有る。病人とか年寄りを「お前が悪いんだろうが」と言って、弄ばれています。現場が終わったら、“お礼参り”に行きましょうか。一体、何を考えているのか判らぬ人々です。一体、私はどうすれば良いのですか?
――読者の皆さん、“切れた”事、有りますか?頭の中で“プツン”と本当に音がします。切れたら、私は力が無いので周囲に有る物を凶器に利用します。・・・そう、してしまって良いのでしょうか?下手に出て、甘く考えていたのでしょうか。私より年下ばかりなので、可愛い息子位に思っていたけど、それじゃダメなのですか。――なるべく手を出さずに、言葉で押えようとしているが、大体、そう云う人々は忘れてしまっていて、又、同じ事をやりますね。・・・哀しい人生です。

☆12月中旬、新潟も雪・アラレも降って来た。
 いよいよ冬将軍、到来だ。福井や北海道で雪道は体験しているので、鹿児島ナンバーの車でもOKですヨ。―だが、しかし、今、住んでる、この宿は雪もれするんです。たぶん地震のブレで窓枠もおかしくなったのか?隙間から室内へ、水漏れが。
―今迄、こんな部屋に住んだ事ない。『じじい100当番の店』無いですか?ア、「子供110番」の店でしたね。現存するのは。

「新潟・恋人編」
 宿の近くにラーメン屋さんが有り、五〜六回、通った。ちょっと気になる女性を見つけた。深夜11時迄、働いているので子持ちのバツイチ位に思った。一回目、(ラブレターです。読んで下さい)と渡した。「後で読んでみます」と普通に受け取って呉れた。内容は「いつも元気で頑張ってますね。長く務めていて下さい」みたいな内容だった。
 2回目は「ラブレターです。読んで下さい」と私の携帯ナンバーも書いて渡した。
―だが、もしやラーメン屋社長の奥さんだったかも知れぬ。電話は来なかった。
 うまく行けば、2人で社員寮の世話人か、居酒屋でも経営しようかと考えていたが。この話は終わり。

「新潟・友達編」
 現場で同じ仕事をしている青年Aは23歳。札幌出身で有る。事務所に来て、誰ともアイサツ、話もせず一人ポツンと居る。私の20代を見ている様だった。色白で大人しくて、自分のカラにとじこもっている。退勤の時、同じ車に乗って来るが、アイサツが良い。若い割りには、どこか芯も有りそうだ。話しかけたら、私に敬語を使うし、ケッコー大人だ。彼はゲームセンターへ行きたい、買物にも行きたいが、アシが無く、歩いてスーパーへ行ったり、電車を乗り継いで大変そう。私はマイカーが有るので、ちょっと面倒見る事にした。
 話を聞けば、ちょっと事情が有って、親にもカンドーされているらしい。故郷をすてた私と、戻る故郷も無い(?)彼とウマが合ったのか、お互いの人生の悩みを話し合っている内、毎週末は温泉だの、ゲームセンターだの、近隣の遊べる処、食事しに行っている。まるで親子みたいな関係になっている。心理的に。
 彼も(冗談とは思うが)「お父さん」と私に甘えて来る。面映いけど、仕事上の嫌な事も忘れさせてくれる。いやしてくれる青年だ。会話のキャッチボールも出来るし、彼の知らない事は教えたり、悩みにも付き合っている。
―今後、どうなるか判らないけど、最初から「友達になろうよ」とも言ってない内に、二人はケッコー、旨く行ってます。妹や弟が欲しかった私の子供時代。結婚してたら、この位の子供が居てもおかしくない私の世代。色白の彼は、中三の時、私が初恋の女性の面影も有ったり、東京・渋谷のレストランでバイトしていた女性にも似ていて、私は私自身の思い出とダブる彼に友情を感じているのかも知れぬ。今、しばらく付き合ってみます。

「久々の鼻血」
 長い出張続きで色々と考え事していたら、一時間位、止まらぬ鼻血が出て来た。ストレスが貯まっているのだろうか。現場が終わらない内に、いったん北海道へ帰りたい気持ち。でも、今、新潟より寒いでしょうね。出張も来年、春迄と云う。前述の青年とも一緒に行動したいし、私の秋心は複雑で有ります。

★現場で毎朝、ラジオ体操と朝礼が有る。伝達事項の最後に「安全唱和」と云うのが有り、当番制で必ず一人一回はやらねばならぬ。四月下旬、私の当番になった。カラオケを歌っているかの様に腹の底から、空気を出す様に声を出した。マイクも使わず声は皆に届いたみたい。拍手こそ出なかったが一人の上司が「さすが、吉屋だ!」と耳に入ったのが判った。―現場でも監視員も務めた事が有るが、「どちらへ行かれますか?」「危険なので迂回して下さい」「作業を別の日にして下さい」等と話しかけていたら朝礼の時、大元請けの東芝鰍ウんが、「ナカナカ対応の良い監視員が居た」と、おほめの言葉をもらった。―私は又、一つ皆から元気を貰った。

★一日、一日が自分が生きて来た証(あかし)。そして、日々の全てが見納めと思う様になった今日、この頃、前述の青年も仕事にイキイキしているし、長生きして彼の今後を見届けたいのだが、はたして、いつまで、生きられる事やら。



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初舞の集い

         
 2月8日、玉城流 松竹梅乃会 竹内琉球舞踊研究所主催の初舞の集いがあった。(於鹿児島ジェイドガーデンパレス)「薩摩侵攻400年―沖縄・奄美・鹿児島・指宿(山川)から考えるー」というもので、縄文の森をつくろう会からも8名参加した。
2004年9月、大渡海岸の五人番のアコウが台風で倒れ、皆で指宿港の太平次公園に移植して以来、親しくして頂いている。樹齢300年ほどのアコウは首里城から運ばれたという話があり、琉球・薩摩の接点の中心が指宿・山川にあったことも徐々にわかってきた。今年はその歴史を振り返ってみようというのだ。
 初舞は来賓挨拶、祝儀舞踊、乾杯、会食、舞台発表、余興と約4時間に及び、さらに2次会へ。薩摩が琉球に侵攻して400年。その400年を経て、何が変わり、何が変わっていないのか。琉球・薩摩を舞台に繰り広げられた出来事が、近代日本の基礎体力を作ったことを忘れてはならない。今年の1月6-8日の琉球新報にカヴァン・マコーマックというオーストラリア人専門家(主に日本近現代史)の見解が載った。<「劇場」国家としての沖縄>というもの。その中で彼は、1609年圧倒的薩摩軍を前に、尚寧王が「命どぅ宝」という言葉を発し無抵抗だったことに注目している。尚寧王は服従はしたが最後まで屈服しなかった。薩摩は琉球の心や価値観まで力で勝ち取ることはできなかったと。さらに彼は沖縄の現在の問題点を鋭く分析し、最後に「命どぅ宝」を高く評価している。「戦争よりも生命、成長よりも持続可能性、自然と共生できる道の選択、そのことこそ世界の平和と人類の生存にとって大切だ」と。琉球侵攻400年を鹿児島県の方から見直そうという空気はまだ感じられない。歴史の彼方に埋もれてしまった史実を掘り起こし、現在の自分とどうつながっているかを知る。どんな時も命を刻々とつなぎながら、未来へ一人ひとりの思いを届けたい。
「命どぅ宝」という尚寧王の言葉。いつまでも噛みしめたい。



     

 浅田次郎の「中原の虹」(全四巻)を読んでいたら、文中に「死ぬのは怖い。だが、死ぬかもしれぬというのはもっと怖い。生き死にについて何も考えぬことがこつなのだろう。」とあった。成る程なと納得した。
 寝る時に色々考えて寝づらかった。浅田さんはあんなに言っているけど、浮来亭ではよく「死」についての話が良く出るし、どんな死に方がいいのかなと云うのも良く話題に上る。でも、話す程には死を恐れていないような気がする。と、云うことは浮来亭に集まっている人たちは「死」に対して淡白なのか怖く思っていないのだろうが結論になった。
 どちらにしても、心強い人たちなのではと思えたら、安心してぐっすり寝れた。


  縄文の森をつくろう会より

◆2月11〜13日に柳田にあったクロガネモチを「てんちの杜」に移植しました。

今回も大事業でしたので、写真を添えて説明します。
・最初にクレーン車が入れるようにクロガネモチの周りの草払いをしました。
・枝を落とし、根の周りを掘り、根に布を巻きました。








・次にクレーン車で吊り上げて大型トラックに載せましたました。



・揖宿神社の「てんちの杜」に運び、再びトラックからクレーン車で吊り上げ、


















・深さ2mに掘った穴に無事移植が終わったところです。








・その後も、木を固定したり、縄を巻いたりで作業が大変でした。
・作業をされた方、本当に御苦労様でした。






◆2月7日午前9時から宮ヶ浜みどりの少年団のみなさんと、お父さんお母さん、縄文の森をつくろう会員で、クロガネモチ移植作業事前作業として、下草刈り・トキワマンサク植樹をしました。作業の後、昼食は竹飯ごう(炊き込みご飯)を食べました。また、椎茸コマ打ち体験もしました。

◆3月6日の縄文の森をつくろう会の例会は、その日に中央公民館にて地域貢献事業がありますので中止します。縄文の森をつくろう会の例会は13日にします。



●最近「若い方の話も聞きたいね」と云う声が上がっています。若い方(もちろん気持の若い方も)を誘って来て下さい。




 
いつものことですが、原稿待ってます。






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