の幸ちゃん

@「会うは別れの始まり」と申します・職場で2日位しか一緒に仕事してないのに。事務所で隣だっただけなのに。同じ宿で一緒に同じ釜の飯を喰っただけなのに、情が移ってしまって、仕事が終わった仲間が次々と現場を去って行く。朝礼で(お別れのあいさつ)を聞くと涙が出て来ます。<一期一会>でしょうか?もう二度と一生会えないかもと考えると、淋しいモノが有ります。
A「食堂が近くに有る」と書いた。その上にラーメン屋が有るが、夕方6時以降は酒のつまみも有る。焼酎キープも可能。麺だけでなく、ごはんーの小さな丼物も有る。ソコソコ旨いので数回、通ってしまった。
 夢もない――金もない――女もない――毛もない人生。金には困らない人生を送りたかったなと考えていたら、少しユーウツになって来た。
B「宿の近くに地酒屋さん」を見つけた。新潟の(八海山)とか旨い酒も有る。限定2千本。2万円位の酒等、10種類位、試飲させて貰った。その高級酒は今迄、飲んだ日本酒とはカナリ違う味で有った。他に淡い味、スッキリした濃い料理に合う酒。等、色々。
 本当に金に余裕が有れば全て買って飲みたかった。2本位、後程、購入に行った。
C「出張の功罪」ビジネスホテルと違って、出張先の宿。主人には悪いが色々な事に気付いた。30人近くも住居人が居るのに洗濯機が三台しか無い。脱水層に前の人の分が入っていても、出して自分の洗濯をしてしまう。風呂も三つしか無いが、追い炊きが出来ない為、次々と入る。シャワーも有るから衛生的では有るが狭いのは、致し方無い。三階にウォッシュレット・トイレを見つけたが、(お尻)のボタンを押したが音だけがして、ノズルが出て来ない。洗って呉れない。故障だ。交通の便の不便さは以前、書いた。近所に居酒屋も無い。食べたい物も金が無ければ食べられないけど、宿に居る限り(喰いっ逸れ)は無い。温泉もソコソコ充実している。金さえ有れば夜のアフター5(仕事が終わってから五時以降の行動)もアチコチ楽しめるのにネ。
 でも夏が近付いて来た。宿の前の海浜に「海の家」が出来るらしい。新しい砂を入れ、重機で整地している。ビキニスタイルの女性を見られるらしい。「目の保養」だ。少しは宿の生活も楽しくなりそうだ。こんなに書きながらも、職場の人と毎日楽しく酒を飲んでいるし、宿の親父さんがスナックへ連れて行って呉れた。北海道に居た時は会社の人間とも、仕事が終われば、それぞれ自分の家へ。今、出張先で話せなかった事をじっくり相談し合ってるし、良くも悪くも、皆の考え、性格が見えて来た。
 今後の人生の選択も読めて来た。
D今の現場近くに三軒のCDショップを見つけた。今、欲しいのは浜田省吾、カルキャークラブのベストCDを見つけた。他にビージーズやブライアン・アダムス等。中古や新品も有るけど、2枚組等は数千円もするので、ナカナカ手が出ない。鹿児島で火事によって失くした70〜80年代の物を、お金に余裕が有れば、少しずつ又、買い集めている。
 あの頃には戻れないのに、失った青春を音楽を聴く事により蘇えらせているのだ。
E近くの温泉に行きたくて、早朝、車を走らせた。道に迷いつつ長野県の手前迄、行ってしまった。小千谷(おぢや)や十日町付近は昔の商業街並が続いており、地方の下町風の造りに出会った。途中は田舎の風景が続いており、日本人の「心のふる里」原風景、その物で有った。映画のセットにも思えるし、どこか見覚えの有る風景なのだが、全て始めて見る風景で有った。
F色々な街で暮らし、色々な会社・仕事に勤めた、若い頃、苦労しても何か実れば良かったのに……。周囲の人間に恵まれないのか。(こんなモニかナと思っていた)あの頃。全て昔の事は無となり、今日、今の現実が有る。只々、生きて行くしかない。
 昨日迄は生きて来た証(あかし)では有るけれど、毎日の全てが見納め。いづれ一人で死んで行くのかと考えたら、少しブルーです。「五月病でしょうか?
G温泉に行く時、棚田の山合いを走った。残された白いフトンが散らばった様に残雪がアチコチに。一部の田には水も入りつつ有る。別の田には氷水がまだ貯まっている。あぜ道の桜はもう咲いている。新緑こそ無いが、こんな風景は見た事もなかった。冬と春が同居しているのだ。
H県外人に声をかけられた話
ア 北海道の「道の駅」で熊本県の人に話しかけられた。「遊びで来たの?(観光ですか)」と問われ、「出稼ぎで苫小牧に就職してアパートも借りてます」と私。その人も九州人の郷愁にでもかられたのか、声をかけて来た。「私はお先に失礼」と初老のその人は犬を連れ、ワゴン車の中に宿泊出来る様に色々と物を積み込んでいた。一瞬、その人の人生を垣間見た気がした。
I「男鹿半島」目指して、秋田迄、車を走らせた。隣の山形県では、「道の駅」に温泉まで隣接していた。スーパー迄、有る所も有って、そこで車中泊した。温泉に入り、酒とつまみを買物して、たまには観光気分でリラックス。他にも10組位、車中泊派が居て、日本も幸福な世の中になったのかナ?!と驚嘆。金が無い時は、ビジネスホテルより便利。宝くじでも当ったら、日本全国、隅々迄、回りたいナって感じ。
J「逃げる人生」
 小学低年時、遊び疲れて服はドロだらけに汚れて帰宅。庭先で父が、たらいで洗濯板で、手もみ洗いしていた。(怒られる)と思い、家には入れなかった。近くの繁みの中でじっとしていた。食事前になると、両親家族が懐中電灯、点けてアチコチの家を探し回っているのも遠巻きに見ていた。泣き泣き家に入り、空腹でゴハンを食べた記憶がある。
――両親は夫婦ゲンカばかりしていたし、姉兄は友達と遊び惚けて、私はいつも一人。放任主義の両親。通信簿が家に届いた日、成績が悪いと怒るだけ。自分で言った約束も忘れて、いつも嘘ばかり……。こんな家族と一緒に居たら、自分の足を引っ張られると考え、18歳、高校卒業と同時に東京へ出立。商業美術の勉強もしたかったので、世界の流行が集まる、日本の中心地へと夢を抱いて出発した。この時も「故郷は棄てた」と思っていた。会社務めも仕事内容が判り、人間の底が知れて来ると退社し、転々と職を変えた。自分は愛せる人を探し続けているんだと、ある日気付いた。自分の居所を、お互いに愛し合える人を探しているんだと。
――歌で言えば「希望」と云う歌。その物が私の人生スタイルなのだ。「逃げるが勝ち」と云うコトワザも有る。「隣の芝生は良く見える」とも云う。私は新天地を見つけて、さ迷う人生となった。
 帰鹿して母と同居していたが、父の死後だった為、何も語らない母にウンザリ。返事もしない母だった。逆に他人とは、ベラベラ良く話す。葬式の日だろうが一人で大声で話す。恥かしくて、同居も止めてアパートを探した。会社の同世代の子とドライブしたり、世間話をしたりするのが、好きになっていた。だが、まだ本当に愛する人は見つかっていなかった。
――三〜四年失業して、金も使い果たした。県外へ出て就職先を見つけ「帰らなくても良い旅」を考える様になっていた。畑に生えて来る竹を根こそぎ取ろうと、掘り返していた頃、私の留守中にその竹の根を穴に埋めたり、庭先で燃やしていたのを見つけた。母に問うと(全部庭で焼いた)と嘘をついた。穴の中に埋った竹の根が見え隠れしているのに……。この時、遂に私は切れた。幾度の嘘を付いた母、言う事を聞いてくれない。頼み事をしてもとんでも無い事をする。世間の一般常識を覚え様ともしない。二度と三度と帰らない心構えで。この頃、福井県の友人から旅館のバイトの件が出ていたので、渡りに船で、即!福井県へ車を走らせたのだった。



          
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  沖縄いいとこ何度も行きたい

 7月5-7日、縄文の森をつくろう会主催で沖縄を訪問した。総勢18名。5日13時過ぎ那覇空港到着。空港では琉球新報の安次嶺さんや大城勲・三太(新報記者)親子をはじめ多くの方々が、横断幕を掲げ、全員にお菓子のレイをかけて出迎えてくださった。早速、大型バスで移動。近くの店で、那覇そばをいただく。さっぱりしたコクのある味。うまい。
 去年3月、琉球新報社主催の「第16回 琉歌漫歩」の旅で、沖縄芸能連盟の方々も含め総勢31名が指宿に来られた。揖宿神社や五人番のアコウのあった大渡海岸を訪ねたり、太平次公園の移植後3年の五人番のアコウの前で、琉球舞踊を奉納して下さったりした。夜は宿泊先のホテルに我々をご招待下さり、琉球舞踊を見せていただきながら楽しい一時を過ごした。5月には前沖縄県副知事の嘉数昇明さんも奥様と一緒に指宿に来られ、五人番のアコウなどにご案内した。
 そばを食べて、大城勲さんの案内で南部戦跡を巡った。勲さんは終戦時5歳。戦没者の鎮魂と平和の尊さを伝えるために、教職を辞した後も来訪者に案内をかって出ている。沖縄平和祈念資料館で沖縄戦の壮絶な状況を垣間見る。夕方は北谷町美浜の「カラハーイ」で林賢バンドを堪能。
 翌6日は名護市の大きなカジュマルを見学し、美ら海(ちゅらうみ)水族館へ。昼食後、世界遺産の今帰仁(なきじん)城跡を経て、琉球村探訪。首里城にも行き、ガジュマルの他にアコウもあるのを確認。
夜は琉球新報社で安次嶺さんの司会で歓迎会を開いてくださった。沖縄芸能連盟師範の先生方や富田詢一編集局長、事業局長、文化部長、事業部部長や嘉数前副知事など多くの方々が来られた。仲井眞現沖縄県知事も来られ、舞踊に合わせ気さくに三味線を弾かれたのには一同驚いた。指宿砂蒸し温泉には入ったことがないので今度是非来たいとのこと。万端お待ち申し上げる旨お伝えする。芸能連盟会長の玉城節子さんとは、二次会でお会いすることができた。嬉しい限り。
 7日はガラス村やおきなわワールドへ。連日の灼熱の太陽に焼かれ、皆へなへな。と言いつつ、帰りの飛行機の時間まで国際通りへ繰り出す。空港では沖縄空港ビルディング社長室へ挨拶に。嘉数さんは現在ここの社長さん。昨夜の痛飲も何のその、近い再会を約してお別れする。鹿児島空港に20時前到着。皆元気。森さん運転のマイクロバスで指宿まで無事帰る。7月9日琉球新報夕刊に「樹齢300年アコウ指宿市と縁結び NPO来県、交流」という写真入り記事が掲載された。
今回の旅は沖縄の皆様の心根に触れて、本当に幸せな3日間だった。同行頂いた竹内琉球舞踊研究所の皆様にも心から感謝申し上げる。



 山川アイヌが生活していたころ(3000年〜2700年くらい前)、当時の指宿市街地にはどんな人種が住んで居たのだろうか。山川アイヌは温泉に当たる「湯」という地名を使っていない。屋久島、奄美大島などは「湯」が使われている。指宿市街でも「湯」のつく地名が多い。山川アイヌの生活圏で、中原(なかばい)という地名が多い。アイヌ語の直訳では、水辺の上手の広い所(川口)で、よく分からない。この「中」はアイヌ語では温いという意味らしいと勝手に、当たりをつけている。浜児ヶ水、岡児ヶ水近辺では、中尾(なかお)、「長」(長迫)、「温平」(ぬくひら)などが同様に使われているようだ。ただ、熱い湯なのか、ぬるま湯なのかの区別がないのが不思議。アイヌ語で、熱いはセセックである。指宿線の瀬々串駅をセセック=温泉のことでないかという説があるが、山川アイヌの生活圏にそれが見当たらない。なぜ中を温泉じゃないかと考えた理由は、浜児ヶ水(はまちょがみっ)に日本一安い風呂(100円)という所がある。昔は温泉が湧いていたが、今は下の海岸から汲み上げているという。そこから海岸に降りて行く。字名で西道(にいみっ)、というところである。その隣が東道(ひがいみっ)またその隣が長迫で、この海岸付近の砂地に湯気が出ているのが見られる。その他の理由では、犬入伏目の隣に無瀬中原(むせなかばい)というところがあるが、近年、灌漑用の井戸を掘ったところ温泉が出た、という話も聞かれ、ヤマ勘を働かせた。指宿線では生見(ぬくみ)や中名(なかみょう)などがある。いずれも冬など温かい水が湧くところのようである。

小川亥三郎氏の著書には、九州ではただ一例、アイヌ語地名として野次ヶ湯を挙げているが、他に河原湯(こらんゆ)とか摺ヶ浜、山王、大渡、迫、尾掛、小牧、知林など指宿市街にもそれらしき地名が残っている。畑灌地図上ではさらに多くのものが見られる。

これまで、アイヌは北から暖かい南の方へ移動してきたという説が常識的であった。しかし、逆ではないかという話が、最近、浮上してきている。指宿山川アイヌの生活圏の地名を調べているうちに、どうもこの説は正しいような気がしてきている。例えば、犬、善、銭などアイヌ語辞典などにない地名が残っており、これらはそれ相応の意味を持っている言葉である。つまり、現在のアイヌ語研究者や辞典を作った人たちは、北海道アイヌ中心のアイヌ語で、南方の方の言葉の研究を無視、または見落としてきたようである。奄美大島の人たちの習慣(刺青)や着物、顔立ちなどが北海道アイヌに似ている話は前にもあったが、近年、ようやく、DNA鑑定などでその裏付けが行われるようになってきた。最近では昔の島の言葉を知っている人たちが少なくなってきている。また、地名も町の合併などで、どんどんと消えつつある。これらを研究する有能な言語学者の早い出現が俟たれる。




 研修旅行に出かけた。知らない人が数人いた。食べて飲んでしゃべった。次の日は大変仲良くなった。家に帰って来て思った。女房ともたまには旅行に行くべきだと。




●浮来亭の仲間である伊東さん(フラワーパークにお勤め)から、大きな話が舞い込んだ。日本で二例目のコンニャクの花だそうです。詳しく知りたい方は浮来亭にいらして下さい。













 暑い日が続きます。お身体には充分気をつけてください。元気が出たら原稿を。




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