の幸ちゃん

●歩く歩く埼玉県―現場の寮は茶畑のド真中に有り、コンビニや飲食店の有る通り迄、2区画位。信号2コ分位だが、鹿児島の区画を想像しないでネ。そちらの三コ以上がこちらの一区画だから、片道20分位歩くのだ。焼肉屋に行ったり、食材が不足すると往復一時間近く、歩いた。早朝四時に起きて周囲を一時間位、散歩していた事も有ったので、歩くのは苦にならないが、疲れている時、空腹の時はキツかった。…自分の車を持って行った静岡は良かったけど、埼玉は30人位でマイクロバスで北海道から行くとの事。自車持ち込みで行くならフェリー代は自前でと、社長の言葉。職人、皆ともコミュニケーション取りたかったし、バスで行く事に。…しかし、良く歩いた。自分でもびっくり。工事現場は蒸し暑くて気分悪くなり、倒れそうになったり、水が合わないのか、殆んど毎日、お腹をこわして大変。後頭部が凄くあつくなったり。鼻血こそ出なかったが、調子悪い現場だった。
●フェリーも色々―「さんふらわあ」は志布志から大阪へも出ていますね。北海道から茨城まで「さっぽろ」号と「ふらの」号には乗船した。茨城を深夜2時出発の「」くしろ号は、大型貨物のオンパレード。殆んど95%は大型トラック。と云っても後方の荷台だけ船に積み込む。前の運転席は切り離して船から出て来る。我々一般車は一時間位、待たされた。本州の物品を北海道に送る為、次々とこれでもか、これでもかと大型トラックがやって来る。船底に一般車は10台も居なかった。大型トラックの荷物箱だけが、まるで貨車のサマニずらずら、並んでいた。ちょっと圧巻です。昨年十月から福井の旅館バイトの頃から、色々な体験をした。本当に鹿児島に居たら、こんな体験無いでしょうね。毎日、充実しております。
●私の節約術――ビジネスホテルは素泊りで五千円位で有る。社長が知り合いの下宿を紹介して呉れた。朝・夕食付で三千八百円まもで2週間、住んだ。風呂・トイレは共同だが一ヵ月計算すると11万円にもなる。ヤバイ!!安いアパートを探そうと考えた。海に近いので、休みの日、バーベキューしている高校生や恋人達をのんびり眺めるのも、仕事を離れれば気持ち良かった。寮母さんも優しくて、食事もソコソコ旨かった。離れ難かったが、会社の給与が二ヶ月遅れなので4・5・6月は殆んど収入が無くピーピーしてた。すっごく切り詰めた。アパートは7.5畳で1.6万円。何も無いワンBOX型。近くにコンビニ、銭湯も有る。車で五分以内なら〒局、ダイエーみたいな大型スーパー、タイヨーみたいな庶民的、安いスーパーも有り、薬局、寿司、ピザ、焼肉、ラーメン店と何でも有りで、凄く便利な処に住んでいる事に気付いた。部屋に冷蔵庫が無いので氷を購入し、食品も一〜二日分しか置かない。溶けた氷の水は焼酎用として、湯沸しポットの中へ。袋はチャックが着いているので食品の保存や小物入れに流用。下宿で蒸し鍋一つを貰って来たので、炒め物をして皿に取り上げて、洗う。2回目は煮物を作る。又、取り上げて洗ってから、三回目はゴハンを炊く。これで翌日の弁当も作る。弁当箱もコンビニで買った残りのパックを洗って再利用。割りバシも洗って、何度か使用する。この件はまだまだ書き尽くせない。いづれ又、追加原稿を書きます。


 
  児ヶ水(ちょがみず)

 山川に浜児ヶ水、岡児ヶ水という地名があります。浜、岡については柳田國男がこれに触れており、他(静岡)にも使われていることが全集に出ています。    
ところでこの珍妙なる児ヶ水について、山川町史にはつぎのように説明しています。
―児ヶ水はチョガミッ、チュガミッと呼ばれている。柳田國男は「地名の研究」のなかで、「薩摩の海門嶽の南麓にも児水(ちごがみず)という清水に依って地名を得た村があって、之を岡児水及び濱児水の二区に分かっている」と述べている。(途中省略)昔、天智天皇がここを通りかかったとき、稚児が水を差しあげたので児ヶ水という地名が起こったという説がある。―
柳田國男全集は31巻にも及ぶ大作です。山川図書館で調べてみたのですが<清水に依って地名を得た>という文章は見つかりませんでした。でも、この文章を付け加えた人の言っていることは現地の状況から当たっているようです。
この児ヶ水については種子島で医院をし、市長を務めた最上宏氏の著書「鹿児島地名考」に、「チコ」はアイヌ語の共同井戸の意味と書かれたのを読んだことがありました。氏のアイヌ語考のなかにある地名は、なぜそうなのかの説明がないため苦労していますが、調べてみてそれが確かにアイヌ語であることが分かることがあります。このチコを、各種アイヌ語辞典で調べるのですが、見つかりません。しばらく、分からず終いで、そのままにしていました。
赤伏目、犬入伏目の周辺字地名を畑灌地図で調べ始め、不思議に思ったことがありました。片仮名でクルメ山、クルメ前、ゴラベ、コアチという字名があります。
コアチは長い間、意味不明でした。クルメがkuwal mem(泉の湧壺)ゴラベがkuwal pet(泉の川) だと気づきました。そして、これが児ヶ水の解明につながってくるのでした。アイヌ語のchi kuwal mem (われわれの飲む泉=共同井戸)皆で飲み水として使う泉ということらしいのです。この解明が手掛かりとなり、今度は逆に、コアチの解明がこの児ヶ水で分かったのでした。(コアチのアは強度を表すアイヌ語、また、アイヌ語の場合、名詞が入れ替わっても問題ない)つまり、コチでもチコでも変わりないということです。お断りしなければいけないことですが、児ヶ水は特定の場所を差す言葉ではなく、この近辺に湧く泉の総称だと思って良いと思います。
一本松にある山川町営(現在市営)の民宿(砂蒸し場へ降りていく、急な坂道)の管理人の阿野さんがこの辺の地名に明るく、地図を画いてくれました。 
後日、その辺を訪ねてみました。折口(砂蒸し場と同じ地名であるがそれとは別)で園芸を営む家族の人にクルメ山、クルメ前の所在を尋ねるのですが、聞いたことはあるが分からないという返事でした。後で畑灌地図を見たら隣でした。昔、ここに山があり泉が湧いていたなど、到底考えられない平な畑です。ところが、赤伏目の西側(西対和ヶ尾)からこの場所を見ると現在は小さな丘で、その下は川が流れていてもおかしくない地形なので驚きました。火山灰の堆積で地図などもない、ただ、地名だけが頼りの約20メートル下の当時の様子ですが、クルメらしき山があったらしいのです。


         

 第二次西南の役は始まっている

 遣韓論を潰された西郷は、明治6(1873)年10月23日、辞表を提出し、鹿児島へと帰郷した。翌明治7年6月、西郷は旧薩摩藩の居城・鶴丸城の厩跡(うまやあと)に「私学校」を設立した。私学校の掲示文にこうある。「道を同じゅうし、義に協(かな)うをもって暗に集合せり。故にこの理をますます研窮して、道義においては一身を顧みず踏み行うべき事。王を尊び民を憐れむは学問の本旨。しからばこの天理を極め、人民の義務に臨んでは一向難に当たり、一同の義を立つべき事」
 明治9(1876)年6月2日、西郷は、台湾の役徴集隊に入り戦死した鹿児島、熊本の諸子5人の3周年に祭文を寄せている。「それ正者の死あるは自然の理にして、豈(あ)にこれを逃ぐるを得んや。しかれども死は人の難ずるところなり。ひとり大義に臨んで、これを棄つるに鴻毛の軽きをもってす。もってそのなしがたきは軽くこれを棄つる。交誼の至りというべきなり。これ人の言によってこれをなすを強うるものにあらず。皆みずから感発して生を忘る。衆人期せずして一致に帰す。いわゆる神盟というものなり」
 私学校の掲示文と3周年の祭文には、西郷の生き様が如実に表現されている。
 明治10(1877)年1月29日の夜、新屋敷方限(ほうぎり)の汾陽(かわみなみ)五郎右衛門光輝の家で松永高美、堀新次郎らの青年たちが集まって焼酎を飲んでいた。その時、光輝の弟尚次郎が、西郷暗殺の噂があるばかりではなく、火薬庫の弾薬をこそどろのように持ち出しているのは何事か。政府が我々を討伐せんとしている証拠ではないかと発言。たちまち付近の青年50余名を集め、21時、新屋敷から草牟田の火薬庫に急行し、弾薬600箱(1箱500発)を奪い草牟田私学校に隠した。千余名の青年たちは、磯、坂元、上之原の火薬庫を2月2日夜半まで襲撃した。(ふるさとの歴史散歩 佐藤剛 葦書房 昭和63)これが西南の役の始まり。結果は、戦死者:薩軍6239人、官軍6843人、計13082人。日清戦争での日本軍戦死者1400余の10倍。官軍の死者の多くは刀剣によるもの、薩軍の死者は銃弾によるものが多く、7か月の戦闘にしては死者が多い。薩英戦争、西南の役、太平洋戦争と鹿児島市街地は大きな戦火を3度も経験している。
薩摩全域に及んだ社会や人々の精神的、身体的損害は計り知れない。当事者の子孫である我々には、その記憶がまだ厳然として残っている。
 明治維新から140年。文明開化を急ぎ、ふるさとは満身創痍となって、行き先が定まらない。「心の通う者たちが、できる時に、できる事をする」というのは、西郷の生き様に通じる。我々はまさに第二次西南の役の真っただ中にあると言える。 


気になる事
              今村俊一
(10)  地デジ


 2011年7月24日は、何が起こる日か?この気になる日を皆さんは、知っていますか?この日から日本中のテレビが、映らなくなる日です。(ビデオも録画できなくなる日です。)正確には、私達が今まで見ていた、地上アナログのテレビ放送が、終わる日です。(停波、つまり放送局が、電波を止める日です。)テレビが映らなくなるとはどういうことか、大変気になる日です。
 日本でテレビの試験放送が、始まったのは確か昭和27年と聞いています。私は、まだ3歳ぐらいの時でテレビを見た記憶はありません。私が初めてテレビを見たのは、7歳ぐらいの時だったと思います。家にはテレビは無くて、夕方になるとテレビのある家に行って見させてもらいました。「月光仮面」「赤胴鈴の助」「琴姫七変化」「名犬ラッシー」「ララミー牧場」「チロリン村とクルミの木」「鞍馬天狗」「スーパーマン」「七色仮面」などなど、楽しい番組が沢山ありました。子どもながらに、毎日同じ家に行きづらくて「今日はどこに行こうか」と悩んだのを思い出します。
 家にテレビが来たのは、12歳の時だったと思います。テレビは床の間に置かれて、昼間は布をかぶせて大事にされていました。夕方から夜はテレビを見るのがとても楽しみでした。「ひょっこりひょうたん島」は、特に好きでした。15歳の時に「東京オリンピック」が有り沢山テレビを見ました。私が中学校3年の春、父は25年働いていた九州電力を辞めて電気店を始めました。テレビが良く売れていました。その頃は、白黒テレビで真空管式の14インチでした。
 おかげで私は、テレビに興味を持ち始めました。指宿高校に入学したけど、どうしてもテレビの勉強がしたくて1年で中退して東京のテレビ専門学校に行きました。(東京に行ったもうひとつの大きな理由は、「ひょっこりひょうたん島」の「ドンガバチョ」に会いたかったからです。)2年後には帰って来て、おやじの電気店を手伝い始めました。それから40年私はテレビと共に生きてきました。白黒からカラーに又、真空管からトランジスターに、さらにICへ、そしてマイコンへ、今テレビは、薄型の液晶やプラズマに変わりました。そのテレビ放送が終わるのは、とても気になります。その日を迎えるのがドキドキします。
 皆さん安心してください。これからテレビが見られなくわけではありません。今までよりも奇麗に映る「地上デジタル放送」(つまり地デジ)に変わるのです。ただし2011年7月24日までに地デジ放送が、見れるように準備して置いてください。今までのアナログ放送は、見られなくなるので。指宿でも地デジ放送は、もう始まっています。
 じゃ、皆さんは、なぜ「地デジ」にしないと、いけないか気になりませんか?
それは、またの機会に



 
縄文の森をつくろう会より

3月16日に開催された共生・協働フェステイバルのブースにて、お会いしたNPO縄文の森をつくろう会の今村さん、大西さんに遠藤さんのお話をし、砂州を渡らせたいという私の思いに“渡らせましょう!”と快く引き受けてくれたみなさんのご協力の言葉に、その場で入院中の遠藤さんに伝えたくて電話しました。
治る希望の薄い病を自ら認知し、その症状を告知することで、同じ難病で闘う方々へのメッセージを発信する遠藤さんですが、やっぱり先の見えない入院生活は苦痛だったと思います。そんな遠藤さんが、こうしてまた指宿へこれたこと、そして3年ごしの想いを達成できたこと、本当にご協力いただいたみなさんに感謝いたします。
遠藤さんも感謝、感激の忘れられない指宿の旅になったと思います。
旅は、心も体も元気にする万能薬。そしてその遠藤さんのたびが指宿だと確信しています。
私ひとりではできない指宿、砂州、命の架け橋でした。
ありがとうございます。
人と人との出会い、きずな…
NPO縄文の森をつくろう会のみなさんとの出会いに
感謝いたします。
これからもよろしくお願いいたします。
また、浮来亭に立ち寄らせていただきますね。

              樋高悦子さんより

4月29日みどりの感謝蔡に参加しました。宮ヶ浜みどりの少年団も初デビューしました















・役員紹介
    理事長   永田 和人
    副理事長  今村 俊一
    副理事長  山下 謙
    監事    馬場 公一
顧問   伊地知 容敏

・毎月第一金曜日に午後8時より浮来亭にて縄文の森をつくろう会の例会をしますので参加下さい。
・会費未納の方は20年度会費(1200円)を以下の者にご入金又はご連絡下さい。
  ・尾辻(市役所観光課)22-2111   ・永田耳鼻科22-2327
  ・今村(マルイ)22-4255      ・安間(市民会館)22-4105
・振込み郵便口座 加入者名 縄文の森をつくろう会
         記号17850 番号983821


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