の幸ちゃん

『部屋に有る物』
 一番大きくて目立つのは、静岡へ行く時、フェリー内で購入したバスタオル。壁にド〜ンと貼って有る。タオルには「ボン・ボヤッシ!(良い船旅を)」と染めて有る。他、プラスチック製の衣装ケース4個位。鹿児島から車に積んで来たクーラーBOX、母に送って貰った炊飯ジャー。冷蔵庫だけ、まだ入手していない。金も無い事だが、手頃の物が見つからない。埼玉で購入し残っているのは洗濯物を吊るハリガネ。金の無い時で殆んど何も買い残っていない。古びた物は次々と棄てて行くので鹿児島品もドンドン減って行く。今は室内を北海道一色にしたいので、「道の駅」等に有る無料パンフレットを貰って来て、なるべく大きい北海道の観光地印刷物を壁に貼って有る。――私の人生の船出は良かったのか、悪かったのか、まだ判らぬ。人生は現在進行形なのだ。

リンゴ
 鹿児島で見たのは赤と緑と黄と全体に色付いていた。こちらで売ってるリンゴはもぎ立てで、真白くしており、ほのかに一部分、ピンク色です。これが、いづれ真赤になるのかナ?
ホッキ貝
 熱を通した為、今迄見たのは紫色でしたが、北海道では白く透明に近い刺身が一個は二個、ドンと出て来ます。鹿児島では薄い切り身だったのに。
飲むチーズ
「道の駅」で見つけた物。チーズを溶かした状態でジュース風。リンゴ味とゆず味が有った。北海道らしい味か。
ワサビ醤油のドレッシング
 これは私が思いついたアイデア。竹の子を茹でたが、醤油とワサビ以外に調味料を購入して居なかった。混ぜ合わせて、かけて食べた。新発見。普通にすっごく旨い。じゃが芋にも合います。
 電子レンジが無いので冷凍食品も、たったひとつしか無い鍋で蒸して温めます。コンビニ味に飽きて来たので、少しずつ安い店から材料、買って来て、煮物・野菜炒めも作ったりしております。

★北海道言葉編
 こちらの人は知らない名前も判らない年上の人には“おじさん”と呼びかける。最初はムカッと来たが、ちょっぴり親しみを込めている事が判り、気にならなくなった。職場では最高年齢と周知され、信頼関係も産まれたのか、最近は「吉屋さん」じゃなく、「お父さん」と呼ばれる事も有る。
 社長の事を「オヤジ」と呼んでいる。鹿児島では自分の父の事をそう呼称するが、厚い信頼を得ている自分の父親みたいに好きな人間と云う意味が込められているのだろう。
★人間関係編
 こんな事も有った。仕事の技術を元請けの職長が本人の工具を使わせて呉れ、手取り足取り伝授して呉れた。すっごく嬉しかった。気に入って貰えなければ「あいつは使えねエ」と陰で言われ、絶対二度とその職長の下では働けない世界。増して自分の工具を人に貸すと云う事を一番嫌う職人の世界なのだ。もう一人、元請けの会社の若い人。一回目の現場で会った時、少し恐いイメージも有った。上半身に入れ墨をしていて(こちらではTシャツと俗称する)目が鋭い。聞けばパンクバンドでドラムを叩いているとの事。一番のキレキャラと思っていたが、あえて私はその人に仕事の事をドンドン聞いてゆき、世間話もする様になった。先日、現場で穴の開いた軍手を使っていたら、「今時、そんなの使ってんの?ホラ、コレあげる」と新品の軍手を呉れた。すっごく嬉しかった。
 最初の頃は「アレやれ。それ持って来い」と私をこき使っていたが、最近は「いいよ。いいよ」と少しは彼本人が、自分でも動く様になり、細かい仕事のテクニックを多忙の中でも、私が出来る迄、何度も教えて貰える。辞めたい仕事で有った。材料はやたら重いし、腰は痛いし。しかし最近は職場の人々に愛着を感じ、缶コーヒーをおごったり、おごられたりしている。もう、たぶん私は辞めないだろう。時々、求人雑誌で別仕事を探してみるが、50代の私に取って、良い条件の仕事は無い。このまま北海道に骨を埋めるのか……?
 今まで過去の会社は「辞めます」とか言ったり、辞表を出せば、すぐ辞められた。「もう辞めた方がいいんじゃない?」とか「お前は他の会社に務まるもんか」とか言われた事も有ったが、今の会社で初めて「引き留め」られた。少しずつ仲良くなって行く気がする。
★寒い寒い北海道
 福井県の旅館バイト先で雪も降ったし、室内にヒーターも有ったが、角隅に寝ていて暖房の熱は機械の近くだけ温かく、ふとんの所まで届かず、大抵の寒さは体験していたので、北海道もまアまア、しのげると思っていた。――北風がビュービュー吹くと寒すぎる。まだ「ちょっと涼しすぎるかナ」では済まなくなって来た。寒いを通り越して足やヒザが痛くなるのだ。5度位で風が吹くと寒いがマイナス5度でも、風が吹かないと、少し暖かいかナと感じる時も有る。前日が特に寒すぎた日の翌日は特にそう感じる。
 焼酎で頭がボケているのか、寒さで脳も凍っているのか、極端に寒いと考えないでいる。10月頃、ストーブを買う積りでいたが、まとまった金もないし、室内ではカセットコンロを燃やしつつ、背中カイロを付けて生活している。それ以上寒い時は靴下2枚の中にカイロ、腰と背中にカイロを2つ着けている。
 この原稿を書いている朝、住んでいる街にも積雪が有った。車で雪道ドライブの練習でもしましょうか。北海道の生活にも慣れなくては!!福井県からスノータイヤにはき換えているの大丈夫?!――住民票も鹿児島からコチラに移し換えたし、少しずつ私は道産子になりつつ有ります。???



 指宿・山川の地熱発電所のある場所が「赤伏目」です。このアイヌ語解明は先月号で紹介させて頂きましたが、実は、「巣目」の意味が分ったばかりでなく、次の2つの問題の決着につながったのでした。
@  柳田國男 と金田一京助の西日本以西にアイヌは住んで居なかったという説。
A 金田一京助の論じた富士山はアイヌ語に由来するのではない。
この2つの説はつい、最近まで日本人の常識となっていました。@については、西日本以西でもアイヌ語地名が見え隠れしていたので、それを論ずる人たちも居ましたが、多くは一蹴されてきたようです。近年、片山龍峰氏や昭和22年に鹿児島県地名考を出版した最上宏氏など鹿児島や沖縄南端のアイヌ語地名が紹介されていますが、今日でも半信半疑でそれを聞いている人が多いようです。この問題に関わる人たちは、やはり、柳田國男、金田一京助先生を意識して口をつぐんでいたようです。
Aの富士山の問題。ジョン・バチラー(明治時代の北海道のイギリス人宣教師)の説く、富士はアイヌ語の「huchi=火の神」という説に、若き金田一京助が、やまと言葉の発音上の理論的分析で、この説を真っ向から否定して、一躍、時の人となりました。つまり、富士はアイヌ語では有り得ないと言い切ったのです。
 もう、お分かりになったと思いますが、ここ、指宿・山川の「赤伏目」という字名の中に、アイヌ語のフチ=「火の神」は使われていたのでした。



               
         
 「五人番のアコウ」は琉球から来たということ

「五人番のアコウ顛末記」にも手記を寄せてくださった大渡五人番衆の子孫、山下末雄さん(73の歳)とそのお兄さん、三郎さん(75歳)がこの4月大阪から指宿に一時帰郷された。
 1660年、島津光久の命により山川港の大渡海岸に船舶臨検の番衆として赴任した5人、黒木三左衛門・清水杢左衛門・山下長楽・坂本早右衛門・竹之下彦兵衛の長楽の直系に当たる。
 すでにご存知のように、2004年8月の台風16号の強風に倒れた「五人番のアコウ」は、同じ9月4日に指宿港の太平次公園に移植された。2005年になってアコウは琉球から運ばれてきたらしいと指宿の古老から聞いた。半信半疑で薩琉関係を調べてみると、1609年の薩摩の琉球侵攻以来、五人番と琉球は深い関係にあったことがわかった。その話を裏付ける話を今回山下三郎さんから直にお聞きした。
 ここのアコウは琉球から持ってきて植えたということ。それとお母さんは皿を鳴らしながら琉球舞踊を踊ることができたということ。お母さんの話では持参したアコウは目印のために高台に植えたとのこと。薩摩の殿様に持参したアコウだったが、何らかの理由で船から容易に揚げられる五人番に植えたとも考えられる。1613年から1879年まで、山川港には1000回近く琉球の使節船が来航している。五人番には大型船が接岸できる深瀬があったため、1660年以降、行きも帰りもここで臨検が行われた。五人番の人々は琉球の人々に何かと世話をやき、臨検時の荷卸しを手伝ったりした。琉球の使臣たちは海岸に湧く温泉に浸かって身を清めたという。琉球船が五人番に来なくなって100年以上が経過しても、山下さんのお母さんはまだ琉球舞踊を踊ることができた。10世代ほどの間に培われた絆が五人番の人々と使臣団の間にあって、その記憶が綿々と伝えられてきたのだろう。厳しい統制下に琉球弧の島々から搾取し続けた薩摩。宮古、八重山列島などの先島諸島ではさらに厳しい搾取がおこなわれた。しかし、実際のやり取りのあった五人番では、むしろ家族のような深い信頼関係が出来上がっていったのだった。
 山下三郎さんは4月9日に、末雄さんは4月18日に記者にわざわざ会いに来られた。
 お二人からそれぞれに何かに役立てて下さいとご寄付を戴いた。はじめてお会いするのに、不思議な懐かしさが胸に湧き上がってきた。
 昨年3月、沖縄芸能連盟の方々が指宿に来てくださったので、今度はこちらから7月に訪問することになった。歴史の波頭を越えて、生きながらえた「五人番のアコウ」の縁で、新しい絆が生まれようとしている。 


       

 天気が良く、暖かくなったので、出掛けたくなった。
 60才になったので、年金の手続きをしに鹿児島へ50CCで出掛けた。スピードを書くと捕まってしまうかもしれないから、あえて書かない。でも、1時間ちょっとで鴨池の南社会保険事務所に着いた。気分良く颯爽と入って行き順番待ちの番号札を貰った。沢山の方が待っていたので、待ち時間を尋ねたら、およそ1時間とのこと…。
 予習をして置いたので大変スムーズに済んだ。5分くらいだった。
 最後に、一番楽しみにしていた受取見込み額をさりげなく伺った。
 書類が二通渡された。答案用紙のようにそっと見たら、一枚目は64才までは年額15万ちょっと。二枚目は64才からで年額111万ちょっと。
 寝るときに思った。まだ10年位は働けるんだと。


 気になる事
             今村俊一
(9) 中国


 もう15年以上前になると思うが、テレビで「これからは中国の時代になる。」と言っていたのを思い出す。その頃の私は、テレビで言っている事が信じられなく、何の事かわからないまま聞いていた。「フーン」と言う感じだった。しかし今、毎日のように中国の事が色々報じられている。残念ながら中国のいいニュースはあまり無い。気になる事ばかりだ。「毒入りギョーザ」「環境汚染」「衣類による子どものかぶれ」「聖火リレーの妨害」「野菜の農薬」それと日本の企業が、「電化製品などの中国工場での生産」「いろんなものの偽ブランド」、衣食住のすべてが中国から来ている事に、とっても気になる。これからも続くのだろうと思う。8月の北京オリンピックは、選手の安全など大丈夫なのだろうか?気になる。
 これから、私達は、どのように対応したらいいのだろうか?気になる。確かに中国の物は安い。安いだけで物を選ぶのでは、いけないのだと思う。でもこんなに中国の物であふれている日本で生きていくのに、中国を怖がってばかりいても、生きていけそうに無い。しっかり勉強をして、よく考えて中国と付き合っていかないと、いけないんだろうと思う。本当に気になる中国である。



 縄文の森をつくろう会 より

『どんぐり長老殿からの御礼と切なる願い』

「三月に、わしの延命に御助力下さった“縄文の森をつくろう会”の皆さん、世話になりました。移植は老体にはつらく、こたえておるが、なんとか元気を回復できるようわしも気張ってみよう。本当にありがとう! 」 どんぐりの樹(アラカシ)より

 このどんぐり大樹は、鳥の糞から発芽― “天空からの贈り物”として、指宿駅近くの繁華街の中で、戦時中から60年以上生きてきた。
米軍機が多良の航空隊攻撃のついでか、悪心半分か、ここらの人家めがけての機銃掃射も見た。
「二度と戦争は起こすまい」ーの貴重な目撃者である。
 また、指宿・湊区画整理地域の住民が、『今在る里道は私有地を出し合って造った道だから、狭いのならまた土地を出し合うから』、『アスファルトだらけの街中に残された貴重な散歩道として、整備しては?』と、市役所に提案したのに門前払いだったのも、
 『広い平和通りと渡瀬通りに挟まれた狭い範囲に、広い道が、なぜまた要るのか?』、『セントラルパークがすぐ近くに在るのに、緑豊かな庭木の多い区域を破壊してまでなぜここに、また公園を?』の問い合わせに納得できる回答無しに、工事が進んでゆく地域の歴史も、この大樹は見聞きしてきた。
 そして、昔の人々は「大樹の在る所、神が宿る― モイドン(森殿)」と感じていた。
自然の神秘を大切に思うご先祖様たちの願いや祈りを、未来に伝えていく為にも、天から生かされてきたこの贈り物は、貴重なのです。
 だから、区画整理事業のせいで大樹は移植されたのですから、費用20万円に対して市役所は知ランプリせず、なんとか配慮していただきたいのです。
「お役所のお偉いさんよ!わしにかかった費用で“縄文の森をつくろう会”の皆さんを悩ませるなら、わしは身の縮む思いじゃ。わしが長生きできるよう、知ランプリせずに、せめて少しでも努力工夫してみて下さらんか?」 どんぐりの樹より




 見たことを見たままに、感じたことを感じたままに、思ったことを思ったままにが浮来亭の基本です。原稿をお持ちしています。



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