の幸ちゃん

『又しても船旅へ』
 急遽、本州の出張の話が出て来て、福島県か石川県かと、国内に仕事を持つ会社の手伝いで内地へ。――結果、決ったのは新潟県の原子力発電所。糸魚川の近くです。
 北海道から20時間、フェリーで日本海へ。
 昨年4月の静岡行きを思い出すけど、今回のメンバーは皆、違うし、昨日まで室蘭の法面(のりめん)工事に行ってた人々。ソコソコ気心が知れているので、何とか旨く行きそう。居酒屋で作って貰った弁当をフェリー内で、ウィスキーの湯割りを楽しむ。若い人達はゲームセンターへ。このカベは縮められそうにも無いけど。
 北海道も寒いけど、新潟は何とかガマン出来る寒さ。毛糸帽、手袋、マフラーが要らない位。北海道ではマイナス14度まで体験したが、こちらは7度位。残雪が少し有るものの、日当り良好で春が待ち遠しい。
 ――今回、残念ながらマイカーは持参出来ず。宿の駐車場、満杯でダメ出し。処が宿の駐車場の上にはJR駅が。ここから汽車・バスを乗り換えれば、長野方面、妙高高原・黒部ダム、友人が居る金沢にも行けそう。幸いにして土/日は休みなので、周囲の温泉巡りに旅しましょうか。結果は又、以後次号にて。明日、時刻表・料金、確認に行って来ます。

『法面(のりめん)工事の仕事』
 初めての仕事。法面=崖っぷちにロープ一本に命綱を付けて作業する仕事。上方部の仕事は終わっていて、中腰で芝植えだの足場撤去の仕事。それでも高さはビルの6階建て位の高さ。冷たい海風がピューピュー吹いて、寒いけど、弁当のおかずを沢山、食べられない人が居て「吉屋、隣に来い」と言って、オカズを一杯、呉れた。「タラコの塩焼き」を作って来て呉れと言われれば、リクエストに応じた。元請けの監督さんにも好かれて「ヨシ!ヨシ!」と責任有る仕事をまかされ、ケッコー楽しく仕事出来た現場だった。正直言って、北海道へ来て一番楽しい現場だった。
 事務所の隣にでかいハンバーグを出す店が有って(持ち帰り)を皆で少しずつ食べた。
 最終日は「御世話になりました」と皆に挨拶。監督も「ヨシ!又な!!」と別れを惜しんでいる様だった。

『解体現場U』
 昨年、ホテルの解体現場の話を書いた。
 今度は市営住宅だ。表現は悪いけどアメリカ映画の捕虜収容所のデザイン的な建物だった。退室した部屋のガラス、木部、金属等をリサイクル用に分別解体して行くのだが、保温材(グラスウール)の細かい粉が浮遊して、喉を痛める。鼻水は出て来る。超災難的な仕事も段々、慣れて来て、マスクやゴーグルも邪魔くさい。天井のボードも大バールでガンガン解体・仕分けして行く。凄くハードで汚れがひどすぎるので、アパートに帰れば、まず洗濯機の前に立ち、全てを洗っていた。

『ボーリング場の仕事』
 北海道の冬が急に来た現場。紅葉写真等を撮りに行って、急に寒くなり…。
 三階建てのビルと云うのに、やたら天井が二倍位、高い。我々の仕事は防水。屋上まで上らねばならぬ。仮設会談とは云え352段、有った。昼食、休憩の度に昇り降りする。さすがに疲れた。ドンドン年を喰っていく感じがする。室蘭の法面工事でも、現場の横に仮足場が作って有ったが、80度位の急傾斜で、途中で何度も休憩した。もう死ぬ迄、働くしかないのですね。

『新潟県の想い出』
 20代に東京に棲んでいた時、新潟出身の女性と交際していた。少し大根足では有ったが、顔はモチ肌だった。お互いに少し近付いた気もしたけど、音沙汰なしで終わった。――
 昨年、福井から北海道に行く途中でビジネスホテルに宿泊した。10階建てビルの外側にシースルーエレベーターが有り、恐くて私は壁側を見ていた。良かったのは、最上階にプール並みの湯船が有り、缶ビール・つまみの自販機が有った事。ひととき、夜の世界、ネオンを見つつ、いやされた。今回の新潟はどうなるのでしょうか…?
『若返った私の体』を以前、書いたが、年明けてから、ガタガタです。疲れると云うより、体のアチコチが只、痛いだけなのです。
 頑張って新潟に来たけど、明日の我が身は判りません。
 
『新潟出張日誌』より抜粋
@新潟現場へ着いたら、昨年の埼玉現場の数人と合流。昔話に花が咲いて温交を温め合い、爆笑の連続。――宿は日本海の荒波吹きすさぶ海岸線に有り、夏は水泳客満杯のビーチらしい。冬に来たのは興冷めか?仕事だからイタ仕方なしか?アラレも降っていたが、三月になって雨と変わり、春も一歩ずつ、近付いているのか……?
A最初の日曜日に宿周辺を散策。床屋・酒屋・食堂・ラーメン屋・ホテルしか無い。信号三つ位の範囲にパラリパラリと。
(ア) ホテル内の温泉――サウナも無いが、お湯はツルツル肌になる。朝11時から¥700で船旅の疲れを取った。2回目、次の日曜日に行った時は20代のタトゥー(入れ墨)青年が居た。自慢気に浴室内で体を動かしたり、大の字で寝てみたり、脱衣所でも全裸のまま、ウロウロしていた。その内、湯冷めしたのか。くしゃみ一発。その声はタトゥーの迫力にも届かない子供的声だった。
(イ)食堂。日曜日には宿の食事が無い。朝10時頃に食堂へ行った。朝8時過ぎには開いてますと女将。100円の冷や奴から1300円の刺身定食まで。単品、丼物、定食、麺類とメニューのオンパレード。定食のおかずだけの注文もOKと融通が効く。(温かい作り立ての物を食べられる)幸福を感じた日。ビンビールも520円で大ビン、出て来るし、ヘタな居酒屋より安くて旨くて、日曜日の私の日課になるのかナ?!タラ汁等、五年振り位に旨い物に出会えた。「地震で修理費もかかったのに灯油・油が高騰して」と嘆いていたが、「6月頃迄の出張ですので、こちらに居る以上は来店しますから頑張って下さい」と私。山口百恵の歌「いい日、旅立ち」かTV番組「田舎に泊ろう」の世界に居るみたいな錯角に陥った。
B社長さんの息子さんが私の事を「じぃじぃ」と呼ぶので、現場周辺の人、埼玉現場の人も同じ様に呼ぶ様になり「吉屋さん」と呼ぶ人が少なくなって来た。
C北海道で一ヵ月位の出張と聞いていたのに、フェリーターミナルで五月(GW頃)迄と聞かされ、頭をガーンとなぐられた気分。会社の車バンで四人乗って行く為、荷物はバッグ二つまでと決められ、生活周辺物も少なく・・・。あとは現地で買うしか無い。こうも暖かくなり出すとドライヴに行きたくなる。マイカーも置いて来てしまったので北海道のマツダに依頼してフェリーに乗せて貰う予定。又、温泉巡りに行けるかも。車が到着したら行動パターンを又、報告します。(筆者・注 車はスズキのワゴンRだが、マツダからAZワゴンとエンブレムを変えて販売している。)
D金沢の友人より「かぶら寿司」を送って貰った。ブリと大根で挟み、カス漬けした物。宿の皆にも食べて頂いた。「初めて」とか「旨かった」と好評。
E―と有る土曜日。急に大人の気分になった。カラオケ唄いたいし、女性と一緒に居たい。(コンビニ)<セブン銀行>で2万円をおろし、宿裏に有る駅から繁華街の有る隣駅まで、居酒屋・スナックを探して、夜の街へ。居酒屋では「」ウド等、地の物、酒を飲み、スナックでいつもの唄を堪能した。2軒目のスナックで好みの女性と遭遇した。ダンスしながら聞いた。「彼氏、居るの?」「居ないわ」「水商売の人、皆、そう言うんだよね」と私。「本当に居ないのヨ」と彼女。そこで車が新潟に着いたら、新潟を案内してヨ、ドライブ行こうと私。彼女、OK。その後の事、又、次号に書けたら良いですね。ダンスしながらキスを迫ったけど拒否された。新潟の女性は初対面男性に警戒するのか……。?
(以下次号にて)


          

 
どんな未来にしたいか

 指宿の中心地で区画整理が進んでいる。新しい道路が通る所に幹回り2mほどのアラカシがある。このアラカシを伐採し、道路が通ることになっていた。道路を真っすぐ通すことが先決だった。私たちはこの地に残すべき樹だと思っていたので、市の許可を得て、この樹を公園敷地予定地に7mばかり動かすことになった。工事施工責任者は、樹令5-60年の樹木が周辺地区にとってかけがえのないものであることなど念頭にない風である。樹木の移植費用は、当初から考えられていない。氾濫した川の流れのように、後戻りできない計画が進行しているようだ。ここには郷土愛や仲間意識、歴史や風土を想う心や、引き継ぎ残していくべきものが一体何かという自問も知恵もない。そして曖昧模糊とした、だれも責任をとらなくてよい空気が漂うばかりである。
 なぜこんな空気が漂い始めたのだろう。
今年は明治140年。政府は欧米諸国に見習って興国興産、富国強兵を目指した。その結果、1894年(明治27)日清戦争、1904年(明治37)年日露戦争に勝利。引き続き1931年には柳条湖事件(満州事変)、1937年には盧溝橋事件(支那事変)を引き起こし、1941年真珠湾攻撃と太平洋戦争へなだれこんだ。そして1945年敗戦。明治維新から78年。欧米諸国に対抗し、大東亜圏の覇者を目指した日本は、見事にその生き方を誤った。さらにそれから62年が経過し、経済大国へ変貌した日本。しかし、現実はたがが外れた桶のようになってしまった。
日本が欧米列国に肩を並べてきたと自負した後、どんな行動に出たか。
1910-1945年の35年間、日本は朝鮮を支配した。1931年から15年間、中国と戦った。大戦中に日本は約72万人の朝鮮人、約4万人の中国人を強制的に日本国内に連行し働かせた。朝鮮人の中にはサハリンや満州(中国東北部)、南方に行かされた人々もいる。大戦中約660万人(軍人も含め)の日本人が国外にいた。その内約77万人が朝鮮に、約55万人が満州にいた。シベリアに抑留された日本人捕虜は約65万人。中国残留孤児は3千人以上にのぼる。
戦後、サハリンには日本人約30万人、朝鮮人約4万3千人が残された。引上げの対象になったのは日本人だけで、朝鮮人は置き去りにされた。また敗戦時、日本には200万人以上の朝鮮人がいた。当時の朝鮮人口の1割弱。4分の3の人々は自力で帰国したが、約65万人は日本に残った。指宿海軍航空基地造成にも、これら連行された人々が動員された。
 明治維新から今日までの140年間の教訓は生かされていくのか。
区画整理で邪魔になったアラカシ。切り倒してもたかがアラカシ1本。しかし、戦後復興期に植えられて、土地の人々と共に生きてきたアラカシ。生かすも殺すも私たちの生き方にかかっている。(参考:未来をひらく歴史 東アジア3国の近現代史 日本・中国・韓国=共同編集 2005年 高文研)


巣目         赤伏目

 巣目はアイヌ語の赤伏目に由来する言葉です。意味は水の神と火の神の創り出す湧き壺です。
 赤=ワッカ(水)、伏=フチ(火の神)、目=メム(湧きつぼ)で、フチとメムが変化してメムの前に言葉がくれば「伏目」となり、メム単独、またはメムの後に言葉がつづけば「巣目」(例:巣目権現)となっています。現在、指宿、山川に6ヶ所あります。今年、1月赤伏目の近くにある犬入伏目(獲物・剥ぐ・巣目)「巣目を使って獲物の皮剥ぎをやるところ。」という地名とともに解明出来ました。
 以後、ハンドルネームに「赤伏目」を使おうと思います。なお、ブログは赤伏目で検索してみて下さい。浜・岡児ヶ水も何とか解けたみたいです。


 気になる事          
           今村俊一

(8)前から座る
 いろんな会議や、懇親会などに出席する機会がある。殆どの会場で、前列には誰も、座らずに空いている。私は、会の進行の方にまず尋ねる。「どこでも座っていいですか?」進行の方が、「いいですよ。」と言われたら、ちょっと恥ずかしいけど、勇気を出して誰も座っていない一番前に座る事にしている。そうしたら、だんだん私の周りにも人が座るようになる。それでも会が始まる直前になっても、前列の方は空いているのに、後ろでは立っている人もいる。そして司会者が、気になる事を言う。「皆さん立ってください。そのまま二列前の方に進んでください。」子どもじゃ有るまいし、大変馬鹿げていると思う。後ろに立っていなくて、空いている前の方に座ったら良いのにと思うのだが。
 これが私達日本人の、謙虚さなのだろうか?私達は、どうでも良い事にこだわったり、もっとこだわらないと、いけない事をいいかげんに過ごしているのでは、ないかと気になる。
 皆さんこれからは、会議や懇親会などでは、前から座るようにしては、どうですか?これから総会や、歓送迎会などが多くなるので、皆さんが前から座ってくれるかが気になる。


                     

『二番目のキス』(間違っていたらごめんなさい)という映画を見た。主人公は物凄いレッドソックスのファンである。人生が野球という感じで見ていて大変納得した。ある時、素敵な女性と会い、恋をする。恋を大事にしているようだったが彼女には通じなかった。見ていて辛かった。結果はもちろんラブストーリーだからハッピーエンドで終わった……。
 明日から巨人が始まる、とウキウキしたが、少し引っかかる。『あんた!私と巨人とどっちが大事なの?』の声が聞こえてきそうな気がした。同じ失敗をしてはいけないなと思いながら寝た。


 縄文の森をつくろう会 より
◆3月16日に鹿児島の県民交流センターで「遊閑楼」の模型を展示しました。
◆3月20日に揖宿神社の「てんちの杜」の完成披露が行われました。28日付の南日本新聞に記事が載っていますのでご参照されてください。又、ホームページも御覧下さい。
◆4月4日に「宮ヶ浜みどりの少年団」と宮ヶ浜海岸にアサリの放流をします。
◆「縄文の森をつくろう会」が朝日新聞の全国紙で紹介されるそうです。掲載されましたら、連絡します。
◆20年度の総会
日時 4月27日(日)午前10時
場所 「てんちの杜」
会員の方はご出席ください。



 もう直ぐ4月になります。時間の経つのは本当に早いものですね。人生もそんなものかもしれません。ちょっとした事でも書いて残してみませんか?原稿をお待ちしています。



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