の幸ちゃん

『北海道温泉事情』
 こちらの銭湯は午後2時からオープン。夏に寝汗をかいた時は朝風呂に入りたいのに。健康ランド的温泉は早くても午前10時から。情報でやっと7時30分からの温泉を見つけた。車で一時間位かかる登別(のぼりべつ)まで行かないと……。現場に行く途中、温泉の看板を見かけたら、休みの日に行く様にしている。先日行った温泉は明治35年オープンしたとの事。浴室は何度かリニューアルされた様だが、建物の古い事、古い事。タイムスリップしてしまった。湯は濁った色。最初は熱過ぎると思ったが、かけながらゆっくり入っていくと丁度、良い湯加減。――又、別の温泉を探そうと、休日が来るのが楽しみの私である。
 看板と云えば、こちらには手で描きなぐった様な看板は殆んど見かけない。道(どう)の条例でも有るのか、コンピューター文字でキレイに描いた物ばかりだ。社名やマークもかっこいいのが多く、デザインセンスが良い。
 寒いのは辛いが、水・空気・牛乳・米・野菜・魚が旨くて、鹿児島に帰る気は無くなりつつ有る。道も広いし、20代から憧れていた北海道。あとは金と彼女が欲しい……。
――又、何か変わった事、感動的な物、発見したら、ペンを取ります。
 皆さんは暖かい指宿で菜の花に囲まれて、頑張って下さい。

『私の節約・生活アイデア編』
@コンビニやスーパーで購入して来たおかずの外パックは洗って弁当箱にしている。アルミホイルを敷いて衛生的に使用。極端に汚くなって来たら棄てる。 A汚れすぎたタオル、服は切って雑巾として使用。 B現場での軍手も回収して洗濯して再利用。穴が開いたら処分。 Cお茶のティーパックを購入していたが、茶葉を買って来て湯のみ椀に直接、葉を入れてお湯を注ぐ。一回分ずつで経済的。口に入ってしまった葉も食べる。野菜と思って。茶の葉の料理も有りましたネ。 Dコーヒー、洗剤等は全て詰替用を購入して来る。 Eラーメンやうどんで鍋ごと煮る冷凍物。アルミで出来ているので鍋として再利用。――本当にこれらは全てリサイクルですヨネ。少しでもお金のムダ使い、止めようと。使ってしまった金は二度と還って来ないのだから。

『若返った?私の体』
 昔は中腰でスコップを使用したりすると、腰が痛むモノだったが、最近は長時間でも大丈夫だ。重い物も落としてたまるかと考えて、腹に力を入れて運べる。一回、力みすぎて鼻血が出ていた事もあったが。ローソクは燃え尽きる前に激しく炎が強くなるとか。私も死ぬ前のゲンキなのでしょうか?
☆北海道の道路には「ユーターン禁止」のマークは書いてない。こっちの人は知らないのかナ。マークの意味を。今度、社員に聞いてみます。
☆白菜は輪切りで、頭と下から少しずつ切って使うと、硬い芯だけが片寄り使用しなくて済みます。
☆久々に映画館に関連グッズを買いに行き、貰って来たチラシの紙質がすごく良いのにびっくりした。
☆久々に購入したCD。――私はCDを買う程、好きな曲でないと購入しないのだ。「タートルズ4」の主題歌「エブリバディ」という曲をラジオで聴いて、ドキッとした。演奏の迫力、歌のノリがすごく気に入り、購入。色々な曲に感動してレコード・テープ・CDを買ったが、音楽感が変ってしまう位。外国人が日本語で歌っているのだ。実に面白い企画だ。日本人歌手はやたらと英語を挿入したがる。その逆かナ?――もう一枚、日本のチェリッシュ(「てんとう虫のサンバ」等)のCDを購入。昔、レコードで持っていたが火事で消失。中古CD店へ行ったら懐かしくて購入。安いのが良い。他に沢田研二のソロボーカル物や外国人歌手物の欲しいCDが目白押し。「タワーレコード」店のキャッチフレーズ「NO MUSIC.NO LIFE」(音楽の無い人生って有り得ない)が、私の心情になりつつ有る。少し元気が出て来た。
☆「節約」ティッシュもなるべく使用しない様に手元に濡れタオルを置いてます。濡れティッシュも購入する必要なく、経済的。
★やさいが安い北海道―焼酎が安い店の隣で野菜も販売している。聞けば兄弟でやってる店らしい。日曜日は殆んど、ここに買いに行くが野菜がやたら安い。100円代でスーパーの三倍位、袋に入っている。箱買いでも500円位だ。――仕事から帰って来たら焼酎飲みながら、TV見て作ったつまみのおかずを明日の弁当用に仕分けする。広い北海道だからこそ、こんなに野菜が安いのだろう。
★竹山が無い北海道―熊笹位は有るが大名竹等の竹山はまったく無し。たぶん育ちにくい土壌なのでしょうネ。以前、北海道の道路がデコボコだと書いた。新築住宅の周囲をスコップで、掘ったら土の下は小石が大中小有り、水っぽく濡れていた。夏だったので触ったらヒンヤリ冷たかった。やはり雪融け水が貯まっているみたい。竹の根も冷たくて張れないし、舗装しても道はアチコチ陥没して、波打っている(?)みたい。
★簡単味噌汁―乾燥した昆布、海草を買って来て、だし入り味噌を購入。汁椀に乾燥品と、みそ大さじ一枚位入れて、お湯投入。これで充分、味噌汁が出来ます。有れば豆腐、ネギもきざんで入れましょう。朝のバタバタの時、手軽においしい?味噌汁、完成。
★買って来た玉ネギから芽が出始めた。グラジオラスみたいにグラスに水を入れて浮かべた。芽はスクスク伸び始めたが、室内が寒くて育ちにくいのか、枯れ始めた。だが、別に横から又、新芽が出て来る。子孫を残そうと云う生存力か?因みにこの芽も野菜炒め等に使えます。

『ダンボール箱一杯の作業着』を社長から貰った。防寒ズボンは肌着の上から一枚着ただけで、すっごく暖かい。頭からスッポリ被る帽子風の物、靴下の上からはく暖かいポリエステルの地下足袋風の靴下。オレンジ色の派手な作業着。黒く渋いブルゾン、手袋等、色々、入っていた。一気に北海道の寒さに耐えられる物が揃った。鹿児島に居た時以上に、部屋はドンドン明るくなって行き、まるで自分の息子か青年の部屋っぽくなって行く。物を増やしたくない私だが、ドンドン増えて行く。スーパーで段ボール箱を貰って来て棚を造り始めた。室内に拡げていた物品もドンドン棚の中へ。もう上へ上へ行くしかない。鹿児島から持って来た物品、静岡・埼玉で購入した物もヘタってしまい、ドンドン棄てて消えて行く。北の街で時は移ろい、私の人生は一日一日消えて行くけど、長生きしたいと考えている今日、この頃です。


気になる事      今村俊一

(6) 国旗

 今年も、正月が来た。皆さん、今年も楽しく過ごせたら、いいですね。
私達の生活は、とても便利になり、いろんな物が、一年中贅沢になったせいか、正月だといって特別な事をしなくなった。その分、正月が来たと言う楽しみが無くなった様な気がする。その中で特に、気になる事がある。国旗(日の丸)を出す家が殆ど無くなった事だ。そういう私も出さなかったのだけど。
 私が小さな頃は、祝日は学校が休みになるので楽しみだった。しかし日曜日と重なったら今のように月曜日が休みではなく、とても残念な思いをしたことを思い出す。その頃は、祝日の事を「旗日(はたび)」と言っていた。そして祝日には必ずどこの家でも、国旗(はた)を出していたように思う。今年のカレンダーを改めて見た。以前は無かった祝日が増えている。4月29日の「昭和の日」、5月4日の「みどりの日」、7月21日の「海の日」、などがあり全部で祝日は15日ある。
 今年は、8月に「北京オリンピック」がある。私達は、日本の選手が活躍して、メダルを沢山取ってほしいと期待する。そして表彰台で、国旗(日の丸)が、揚がるのを誇らしげに思う。でも、祝日に国旗を揚げなくなったのは、なぜだろう。気になる。
 今年は、これからの、祝日に国旗を揚げるようにしようと思った。皆さんは、どう思いますか?


 
   

  2008年の初めに


 年が改まり、村田新八のことを思った。1877年(明治10)9月24日、城山で西郷さんの最期を見極めてから己の最期を迎えた薩摩藩士。享年42。130年前の事ながら、そう時間が経っているとも思えない。
 新八は1836年(天保7)12月10日、上加治屋町高見馬場の高橋八郎の第3子として生まれ、22歳の頃村田十蔵の娘勢以(せい)と結婚し、村田家の婿養子となった。
 3男1女あり。9歳年上の二才頭(にせがしら)西郷さんに小さい時から鍛えられ、かわいがられた一人。西南の役時、軍議で諸将が会するときはいつも「新八在らざるか」と西郷さんは新八を探した。勝海舟も「彼は大久保利通につぐの傑物なり。惜哉、雄志をもたらして非命にたおれたることを」と言った。
時は1862年、島津久光に先立って上京した西郷、村田、森山新蔵は諸藩の情勢を探っていたが、真木和泉や有馬新七らの京都挙兵(寺田屋騒動)を扇動したと久光から疑われ、西郷は徳之島へ、村田は喜界島へ遠島となった。薩英戦争へと発展した生麦事件の年。
 1864年2月、西郷は沖永良部島から赦免召喚され、喜界島で一生を終える覚悟でいた新八も勝手に鹿児島に連れ帰った。1868年(明治元年)、戊辰戦争開始時は遊撃二番小隊の監軍となり、鳥羽伏見の戦いのときは御台所御門の警備をしていた。また西郷と勝海舟が江戸開城交渉のための会談をした時は、新八は小隊を率いて西郷に随従するとともに、会談を護衛した。上野戦争の後は二番小隊を率いて東山道軍の応援に赴き、会津若松城攻囲戦にも参加した。
 1871年(明治4)、新八は西郷の推挙で宮内大丞に任命された。この年、条約改正のために全権大使岩倉具視が派遣されることになったとき、その使節団の一員に加わり、欧米視察に出発した。1874年(明治7)に欧米視察から帰国し、西郷が下野して帰郷したのを聞くと、辞職して鹿児島へ帰った。村田さえいればと考えていた大久保利通は、村田の帰郷を聞いて茫然としたらしい。薩摩に帰った村田は桐野利秋・篠原国幹らと私学校を創立して、砲隊学校・章典学校の監督となった。
 新八は滞在していたパリで、時間があるとオペラ座に通っていた。聴いて気に入った曲を憶えて帰り、アコーデオンで楽しんだ。このアコーデオンはアメリカで入手し、アメリカからヨーロッパへ行く船中で、弾き方と楽譜の読み方を船員から教えてもらっていた。城山陥落の前夜、西郷や村田たちは最後の宴をした。戦役の間片時も離さなかったアコーデオンを村田は弾き、その後焼き捨てたという。
 西南の役で新八は二人の息子を亡くしている。米国に留学したことのある長男岩熊は、すでに植木の戦いで戦死。19歳。二男二蔵も大口方面で負傷していた。新八は可愛岳(えのだけ)突破の際、二蔵を病院から呼び手帳と金時計を与え、命を全うして遺志を継ぐように述べ別れたという。130年前の話とはとても思えない。


 
   蓮太郎
 

 毎朝、一つ年下の横浜在住のサッカーおじさんと静岡の長兄の娘のブログを見ている。
今日は妹の娘、つまり姪から手紙が来た。
アメリカに長く住んでいて、とうとうアメリカの人と結婚したとの事。どんな人かと思ってジェイソン(姪のだんな)のホームページを見てみたら、顔は日本人だった。日系三世ということで納得。アメリカ国籍だと思うからアメリカ人に違いないが何か不思議な気がした。そういえば、今村さんの従妹はフランスの方と結婚してフランスに住んでいると聞いている。やっぱりフランス人になっているのかもしれない。
さらに、スリランカに行っている高校の時の友からメールが来た。これもまた何か不思議な気がする。遠くにいても日常的になってきているような気がするし、アメリカがどうのこうの、外国がどうのこうのと言いたくない気がした。
寝る時に、何年かすれば、国が無くなるかもしれないし、無くなれば人は仲良くやっていけるかもなとも思った。



 浮来亭を平成7年(1995年)の1月に発刊しましたから、14年目に入った事になります。浮来亭の事を良く聞かれますので話します。
 平成4年の夏頃からMrジェームス(銀蝶ビル)で毎週金曜日に飲み方をしていました。会費は無く、自分の飲んだ分だけ各人が払っていました。思ったこと・感じたこと・やりたいことを自由にしゃべっていました。毎週飲んでいる内に、せっかくだから話している事とかを残したら…、と言う事になり、浮来亭が発行されることになりました。金曜日だからフライデー。当て字を考えて「ふらいてい」です。
 毎週の飲み方は場所は変わりましたが、今でも続いていますから、800回以上になるかもしれません。飲み方で大事にしていることは「遊ぶ」ということです。何かをしたいと言った方を応援すること。
 最初に遊んだのが「あそびいち」だったと思います。銀蝶ビル(浮来亭のコラムの「銀蝶ビルからの眺め」の由来)の前で毎月の第2日曜日の朝、「どんな楽しいことがありますか?」「こんな楽しいことがありますよ!」としていました。幸いなことに渡瀬通り会(ナイトバザール・あそんど市)の方達が後を継いで盛り上げてくれました。温泉祭りでも楽しもうと色々参加させてもらいましたし、今でも楽しませていただいています。菜の花マラソンの菜の花咲かせ隊。ホタルコンサート・かがり火コンサートとかの催し物も楽しんでいます。正月の太平次公園の鍋物も美味しく作りました。五人番のアコウを移植したことから縄文の森をつくろう会(いまでは会員が200名を越すNPO法人)ができました。
 どの事も、思いの強い方を中心に遊ばせてもらっていると思っています。
浮来亭そのものは今でも会ではありませんので遊びたい方は金曜日(飲まれる方は千円持って)の午後8時に来てください。


 縄文の森をつくろう会より

●「てんちの杜」の作業のお知らせ
2月9日午前中に「宮ヶ浜みどりの少年団」と、どんぐりの植樹をしますので手伝ってください。てんちの杜は揖宿神社内に有ります。
●山川・開聞地区の大きな木を探しています。来年度の活動計画の中に巨樹調査を加えたいと思っていますので、知っている方はご連絡ください。

 

以心伝心でも書きましたが、14年目に入りました。頑張りますので、原稿のご協力をよろしくお願いします。




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