の幸ちゃん

『ダムの仕事』
 七月に苫小牧へ来て、ダム現場の仕事に入った。ダムの水を全部抜き、底盤の改修工事で三年がかりと云う。一日目はゲートからダム事務所迄の道を草刈だった。暑いし、草の切りクズが飛散し、汗びっしょり。草刈り機で19歳の青年(社長の息子さん)と一緒に。
 三日目頃はダムの斜壁(45゜位)に足場を組んだり、貯まった残土や小石を一輪車で回収。斜壁にはゴム状のマットが貼って有る為、重機等のユンボ等が入れず、五〜六人での手作業。これもハードだった。何十回と一輪車で斜壁を登ったり、下がったり。ダムの一番上、歩ける処に生コン打ち。斜壁の一番上で足場を組む時はびびった。安全帯をしている物の、水の無い120m下はダム底。滑って落下した人が死去した事も有ったとか。又、鹿も死んでいた事も有ったと、現場監督の弁。三年も工事している割りにはジュースの自販機も無く、のどが乾けば岩盤から出ている湧水を飲んだ。これが又、冷えててクリアな味で旨い。周辺は水の旨い街で、販売もされているらしい。数日後、斜壁のゴムマットを貼り替える作業が有り、分解した汽車みたいな作業車を組み立てていた。45゜の斜壁に合わせた45゜の重機がマットを貼りながら、車輪の着いた小さな機械が斜壁面をマットを引きながら降下していた。こんな作業も生まれて初めて見た。―ダム底で使った重機を吊り上げるクレーン車が来た。500トン位まで吊れると云うが、運転席本体も大型トラック並みで、別のトラックが重りを運んで来た。500トン分の重しになるからパーツ型式で数台のトラックで持って来た物を運転席後方に取り付ける。クレーンの先端も2〜3個に別れていて、数日かけて組み立てた。大型重機を次々と吊ってダム上の事務所近くまで上げる。まるでプラモデルみたいに吊った重機が小さく見える。吊る側のクレーンはビル3階分位の大きさになっていた。北海道の仕事もスケールが大きい事が判った。分解したクレーンはトラック5〜6台で持ち去って行った。休憩中に、キタキツネがまるで猫の様に30センチ近くまでエサもらいに来た。―そんなホッとするひとときも有った現場でした。
『防水の仕事』
 ビルの屋上に防水の為、接着剤でシートを貼る仕事が入った。建物は三階建て位。クレーンで全ての材料を屋上へ吊った。しかし、今回の仕事は新型式の作業で、鉄板屋根の上にまずボードを貼る。このボード一枚が重く、運搬するのは体はガタガタになり、体中のアチコチが筋肉痛で一日休んでしまった程だ。ボードは電動ドリルでボルト付け。更にその上に発泡剤のボードを貼る。ボンドと接着テープで貼り、その上に硬化剤を塗り、シートを貼って行く。その広さ3千平米。20人位の人間で貼って行った。暑さもだったが、風の強い現場で接着剤が風に飛ばされ服に着く。硬化剤も一斗缶から出して、ハケで広げて行く。水道屋に居る頃、現場で見た事は有ったが実際に作業するのは初めて。見よう見まねで2日目に何とか私も出来る様になった。若い人達にクレーム付けられながらもがんばった。教えて呉れていると思いつつ。正直、辛い現場だった。ダムも防水も現場迄、一時間半位の通勤。朝八時に朝礼が有るので、四時半起きだった。ヘルメット被って暑いので後頭部や体が暑くなり、夕方は動悸が激しくなり倒れそうになりフラフラだった。高血圧症の私に取って、この仕事は向いているのか疑問を持ち始めた頃でも有る。仕事も運動の内だと思ってやってた私だが、寄る年波には勝てない。別の部分の腰痛も始り出した。
―もうひとつ仕事の話『解体現場』
 ホテル内の五階を改装するので解体現場へ。客も他の階に宿泊して営業しているので、大きな音の出る作業は9時から4時までと決っており、窓も10センチ位しか、開けられない。壁をぶち壊したり、電動工具で金属音は出るので、何度か客から苦情。蒸し暑くて、毎日サウナの中に居る様だ。更に2キロやせた。解体した産廃を大袋に詰めて、エレベーターで一階へ降ろす。七部屋分(宴会場)のゴミは半端な量じゃなかった。大型トラック五台分位を運んだ。段々とハードな仕事になり、私の人生夢路は違う方向へ進んでいるのかナ?
『方言』 鹿児島弁が通じにくい。(何を言ってるか判らず、早口だ)と言われ、イントネーションを前に持って来て、東京弁風に話している。だが、独り言はつい鹿児島弁。北陸の方言も時々、判りにくく、丹後だけで話しかけて来るので、要求・指示も何をして欲しいのか判らない時が有る。思案していると、今度は「仕事が遅い!」と言われる。関西に近いので、当地の言葉は関西弁なまりで、単語の後尾を良く伸ばして話している。最近では、三つの言葉は入り混じり、舌をかみそうになる事も…。――日本地図の琵琶湖付近に旅館が有るので、車のナンバーも大阪・京都・三重・岐阜・尾張小牧(名古屋)と近畿・東海・北陸方面の車が多い。鹿児島は末端だから、せいぜい熊本・宮崎ナンバー位でしょう。日本の中心?中央に居るなアと実感しつつ、仕事しております。
 逆にここの住民は私の鹿児島ナンバーを見て、びっくりしてる事でしょう。20代日本一周の時も「へェ〜、鹿児島から来たのか…」と言ってたし、下道(したみち)を三日かけて、やって来たので、旅館主も「良く来たもんだ」と驚嘆していた。
『御当地温泉物語』@初めての休みを貰った日、隣の市にダムが有り、紅葉が奇麗との事で、大きな山を2〜3つ越えて写真撮影に。途中にこじんまりした温泉を発見。少々、熱めの湯で腰痛も治りそう。朝風呂客多し。イベント湯は何も無いが、露天風呂も有り、堪能した。後でそれなりに知名度の有る温泉と知り、びっくり。A次に行ったのが巨大温泉施設。プール(水着付けて、歩行浴等)も有り、平日も関係なく、客の多い温泉。広々としているので気分的にゆったり。二階のレストランから、市街地の町並、高速道、海も見えて、一日ゆっくり出来る場所で有った。B市街地のど真中に有るスーパー銭湯も有る。電気風呂等イベント湯だらけ。風呂上りに生ビール飲んで、足・腰のマッサージ機に座ったら「極楽〃〃」すっかりそのまま寝入っていた。冬雷も轟き、雪が降り始めた。それでも又、更に車中でヒーターかけて冬眠(?)よっぽど疲れていた旅館業務。隣に回転寿司店も有るし、又、行こうかと考えている。
『埼玉・居酒屋物語』@ダンスも出来る居酒屋の看板、発見。行って見ると、フロアも広く、音響も良い。客は居なかったが、マスターに特別に見せて貰った。流行すたれたのか、客が来ないとの事。居酒屋も隣接しているが、淋しい限り。付き出しが刺身三点盛りで、「頼んでません」と言ってしまった。別のカラオケ店を紹介して貰い、店の車で送って頂けた。<一時間、三千円の店>だったが、太くて若い女の子が付いて、カラオケの音響悪いし、いたたまれ無くなって10分で、退出。ママはしっかり全額代金、取るし、二度とリピートしたくない。A寮から一番近い、居酒屋発見。寮生を誘い、カラオケパブへ。私よりイケメンなので大もて。こっちは歌うだけ。B又してもAの居酒屋へ。ママとは別のお手伝い女性を気に入り、告ってクドキ中。どうなる事やら。又、結果は報告します。Cダイエット、ヘルシー食中の私が突然、肉を食べたくなって、炭火焼店へ。今、書いてる、これらの店は早朝、散歩で見つけた所。久々の肉系。マスター、ママと談笑。思わず焼酎キープしてしまった。Aの居酒屋へ又、通う。好きな女性が居るので。残り20日位の現場。結果、どうなります事やら。



五人番のアコウ移植3周年記念

             
 

 9月4日、五人番のアコウを移植して3年が経った。夕方6時過ぎからアコウの下に20人ばかりの仲間が集まった。皆で缶ビールを開け今日を祝った。移植後も台風に見舞われ、葉は何回か枯れた。アコウはその度に葉を茂らせてきた。今年5月、移植時にロープをかけた海側の幹に腐れが入っているのを発見。6月、幹の周りにコケの一種を入れ込み、これ以上腐れが進行しないようにした。以後、水分の補給もうまくいき緑みどりした葉が茂っている。
 集まった仲間たちもアコウを眺め感慨深い様子。鹿児島から琉球舞踊の竹内さんたち3人も来て下さり、本当に有り難かった。
 この日に合わせて、冊子「五人番のアコウ顛末記 改訂版」を出した。移植後3年間に新しくわかったことを追加した。アコウは琉球から運ばれてきた可能性がある。竹内さんのお陰で沖縄の方々との交流も始まり、さらに交流が深まっていくことを願っている。
 暗くなり始めたころ、2次会へ流れた。今年80歳になられる吉永さんも(この方ガいなければアコウは移植できなかった)夫婦でおいでくださった。移植時クレーン台船を出してくださった西園組の小牟礼さんは残念ながら都合で欠席。
いつもの仲間たちと一杯飲んで、アコウや未来のことを語り、幸せを噛みしめた一日だった。




「悠紀」という男の子が産まれました。
8月21日。まだまだ暑い夏の午後でした。
名前は奥さんが付けました。彼女らしくダイナミックな名前です。
子育ては、いたって順調です。
どちらに似たのかとても大人しく、これは大人になってから手が掛かるパターンだと私の母は言っております。
お祝いもたくさんいただきました。お礼状の終わりにこう書きました。
「頂きましたお祝いは、悠紀がしかるべき時期に旅に出るための資金として彼の名義で貯金しておきます。
いつか私たちがそうしてきたように、私たちに似た男の子が皆さんの家の玄関に一人訪れる日を楽しみにしていてください。」


 
          

 孫の太一の幼稚園で敬老の日の行事があるという事で、鹿児島まで50CCで出掛けた。自分では年なんてと思っていたのに幼稚園に行ったら、本当におじいさんでした。自分の孫が全てで一番と思っていたが…。
 お遊戯とか色々見せてもらい楽しかった。
 色々な子が居るんだから、色々な大人がいて当然だなと寝る時に思った。




悪石島の「ボゼ祭り」
           今村俊一


 気になる台風が来なくて、念願の悪石島に、2日間滞在できました。祭りは、2日とも夕方から夜に行われました。午前中と夕方までは、のんびりと悪石島の散策でした。
島の全人口は80人、世帯数は40世帯(一日目の夕方から夜11時ぐらいまで、浴衣姿の男だけの15人ぐらいが、すべての家を廻って庭で輪になって踊っていくのです。踊り終わったらビール、焼酎、煮付けなどのツマミ、スイカ、ぶどう、などが振舞われるのです。私達も踊りの人達の後をついて行って、焼酎などを頂くのです。すべての家を廻り終わった時には、踊り手も私達も、かなり酔っ払っていました。)
 島には、殆ど何もありません。ないものは、電気店・さかな屋・八百屋・コンビ二・豆腐屋(祭りのための豆腐を島の人達と作りました。私も手伝って喜ばれました。にがりは、船で沖のほうまで行って、きれいな海水を使うのです。)・交番(警察)・銀行・郵便局・農協・信号機・ガソリンスタンド(車は各家庭には殆どあるので、どの家でも庭に200リットルの大きなドラム缶が置いてあります。車が無いと坂道で大変です。)・産婦人科(妊婦さんは、鹿児島市に行って赤ちゃんを産むそうです。)・火葬場(病気になったら鹿児島市内の病院に行き、亡くなったら鹿児島市内で火葬をして島に帰るそうです。)生まれる時も、死ぬ時も悪石島では、できないそうです。
 あった物は、学校(小中学校一緒で、生徒は10人足らずだそうです。学校の校庭で行われる朝のラジオ体操にも参加しました。)・診療所(医者はいなくて看護士さんが1人いました。)・発電所(指宿には無い、発電所があります。電化製品は、殆んど私達の家にあるものがあります。)・共同風呂(温泉があります。)・ヘリポート・民宿(10人程度泊まれそうな民宿が5軒ありました。)・村営住宅(家族用と、単身用が全部で10棟ありました。家賃は4000円からと聞きました。悪石島に住む時は、村営住宅かな。)・公民館(2日目の夕方、仮面をかぶったボゼの神様は、皆が集まっている公民館に現れて、特に女性に対し怪しげな長い棒を持って、大暴れするのです。公民館では、其の後延々11時過ぎまで、学校の先生の司会でカラオケ大会がありました。歌の苦手な私は、ひたすら焼酎を飲ませてもらいました。)・牛の放牧場(一年中外で、野生のように育てているそうです。野生のヤギも牛と一緒にいました。)・奇麗な海(かなり深いところまで、青々と透き通っていました。)・星空(街灯などの照明が殆ど無いので、星がとても奇麗でした。2日目の夜は、皆既月食を、学校の運動場で、皆と芝に寝っころがって、公民館のカラオケが聞こえるなか、見ました。其の後公民館で焼酎のみ)・私の好きな美味しい魚の刺身が、ありました。
いろんな事がわかった、楽しい悪石島でした。島の方とも友達になれました。又いつか行きたいです。いつか住みたいです。




◆浮来亭が潟山に移って2ヵ月半たちました。徐々に慣れてきた感じです。大牟礼の時より少し狭いのですが、それがかえって良く、話に集中できてます。看板も出ていますので、是非覗きに来て下さい。
・毎週金曜日 午後8時
・お酒を飲む方は千円です。







 
縄文の森をつくろう会より
◆五人番のアコウ顛末記 改訂版が出来上がりました。ご希望の方は永田・今村・尾辻・安間にご連絡ください。
◆10月21日(日)午後6時に揖宿神社にて「第3回かがり火コンサート」をします。
・準備で竹とうろうを9月22日と29日の午後2時から作りますので、お手伝いの出来る方は揖宿神社にお集まりください。
◆宮ヶ浜の海岸にアサリの放流を計画しています。
◆てんちの杜の草が成長が早く、大変困っております。時間の取れる方は見に行ったついでに少しでも草を取ってください。

  暑さ寒さも彼岸までと言います。気持ちの良い季節になりますから、原稿を是非。


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