の幸ちゃん

――一体、どこまで書いたのか、記憶が定かでは有りません。静岡で色々、有って、体調くずして再び、本社事務所の有る苫小牧へ。
 一週間程、会社寮で静養し、途中、埼玉県現場が決定。又してもフェリーで、茨城県の大洗市へ。10日前、一ヵ月前ウロウロした所へ、又、再々上陸。余りにも変化有り過ぎます。俺の人生。(ピンボール人生)とでも、例えましょうか?!アッチへチンコンカンコン、こっちへポーンと、……いづれ、どこかの穴へ落ちるんでしょうけど。
『埼玉現場編』静岡で一ヵ月済ませた後、今、埼玉のセメント工場に来ています。現場会社の寮で生活している。8畳位の部屋に四人。冷蔵庫、クーラー有りで、少々VIP待遇です。それもこれもIさんが、「同室で…」と、言って呉れた事が発端。タマタマ、本日、彼の誕生日で、遠慮する彼にアイスで祝いました。――現場で工具を紛失してしまい、休みの日に隣町に兄貴的な人とタクシーで、「職人店」で買物。タクシー代金を割勘しようとしたのに、取らずに…。感謝。少しずつ、何か御礼返ししようかと考えている、今日、この頃の私です。
『静岡のヘン店』五軒ハシゴして、ママさんに白い目で見られた店の事を書いた。気になった、もう一回行ってみた。キープもして有ったし。ママの主張で「一見客」はお断りの店だった。地元の常連客だけで成り立っている店で、客の紹介でなければ、次の新人は入店させない理由だった。一人で来た私をいぶかし気に見る筈だ。私もコンビニで「この近くに人生相談に乗って呉れるママの店は有りませんか?」と尋ねて、行った店。ママに言わせれば、(こっちは知らない)との事。その割には、会計の端数金は取らないし、イチゴのプレゼントまで。(気に入って貰えたのかナ?)と思いつつ、帰寮。
『Iさんの事』北海道から埼玉へ出張決定。フェリーで出張の為30名程、集合。会社の下請けさん達が殆んどだ。その中に魔裟斗似の青年、発見。今も彼と同室だが、表情によっては梅宮アンナに似てたり、中村獅童にも見える。22歳の彼は現場責任者でも有り、頼もしく見える。背も高いので高所作業もOK。汚れ様が何しようが頑張っている。酒を飲みたいとも思わないと云う下戸だが、自分の子供か弟みたいにも思える。(彼はメイワクなのかナ)――こう書きつつも御本人がすぐ横にいるのだ。親近感有るし、いやされるので、いつか居酒屋でも誘おうかナと考えている。彼の人生目標は?――残り人生短い私だけど、きっと彼は幸福の道を歩きつつ有るのだろうか?
 或る日に、「俺だって悩みが有るんだ」と深夜出て行ったのが、気にかかる。・・・・

『次々と環境変わりの人生』
静岡〜埼玉の現場を終わって、会社事務所の有る北海道へ来ています。職場環境・寮等が一ヵ月単位で次々と変化する。(二ヶ月振り位のゆっくりの日曜休みに浮来亭原稿を書いている)――今、食事付きで一日、3800円の下宿に棲んでいる。海も近いし、食事も旨い。部屋もリメイクされて、住み心地良い。所が30日計算すると、3千800円の家賃では、月額11万円になってしまうのだ。そこで三〜四万円台のアパートを探す事にした。居酒屋、コンビニ、温泉が近い所が良いナ!!決ったら、又、その辺の事も書きましょうか?
『涙のセメント工場』セメント工場の現場へ行った。材料をかき混ぜてベルトコンベアで流して袋詰めする簡単な工場かと思いきや、やたら工場はだたっ広い。色々なセクションが有り、道に迷う程。サイロみたいな物、大きなパイプも有るし…。でっかい軸をはずして、メンテナンスする。チェーンブロックで重量物を外す。それが簡単に抜けない。電気止めて油が固まってしまったのか、取れず2〜3日、班長も四苦八苦していた。重量物を肩に背負って機械を運ぶ。鹿児島のガマン出来る熱さでは無い。湿気が有って、ジト〜ッと油汗をかく。ユニホームも汗びっしょり。柱や壁に物をぶつければ、セメントの粉がどさっと落ちて来て、顔まで真っ白になり、誰が誰だか判らなくなる。そんな事を二〜三週間やって、又、復旧する。掃除したパーツを組み込んで、試運転。でっかいドラム型の機械が回り出した。工場主任からOKが出た。嬉しく涙が出た。(こう書きながらも又、思い出して涙が出て来る)まるでキカイだって、自分で育てた子供みたいな物だ。鹿児島に居たって、こんな感動は味わえないだろう。最終日には、10M位有る、横長のクレーンの点検。でっかいバケットで、色々な材料を掴んでベルトコンベアに流すクレーンの施設。その走行テストや、線路のチェック。最高スピードで走らせてみますと、工場長、20〜30キロ位は有るだろうか、列車かジェットローラーコースターに乗ってる感じ。一般の人は入れない、セメント工場。下向きのコの字型のクレーンの足下には色々な砂状の材料が。ビル三階位の高さだ。まるで、衛星が月面のクレーターの上を走る感じ。ちょっと恐い気もしたが、こんな体験、めったに出来るモノではない。食堂の食事が口に合わず、コンビニ物で済ませ、人々に気遣いし、体調悪くなり、連日、ハラをこわし、色々なトラブルも発生し、大変な現場だったが、最終日に良い体験。他の人が出来ない事を得たので、今までの苦労(?)はスッキリ消えた。――そして、今、北海道の旨い空気や、おいしい水道水を飲めて、幸福で有る。きっと、私は死ぬ迄、鹿児島には帰らないだろう。色々な人々と出会い、楽しく仕事しているから。
 元気です。頑張ります。指宿の人々と再会は出来ないかも……。

『ふぐのさばき方と調理方法』イケスから揚げて来たフグを明日の客人数分だけ、さばく。調理免許を持った人がさばいて、私はぬめり取りだ。人間が食べにくいぬめりを手で全部、取って行く。半日位かかる。まず、くち。口部分を切り取り、湯引きし、ねめりを取り、唐揚げか焼物に使用する。五枚有るヒレは、塩もみして乾燥し、ヒレ酒に使用。ヒレ酒は私の担当で、まずヒレをコンロであぶりキツネ色になるまで半カリカリにする。あらかじめ、器をお湯で熱めておく。日本酒をヤカン等で熱めるが、まず底の方からボコボコ、泡が出て来る。次に清酒の水面がチリチリ沸き始める。更に線香花火の様に酒の中が踊り出す。この時、火を止める。これ以上、熱すると清酒のアルコールに火が付き、使い物にならなくなる。暖めていた器の湯を棄て、中にヒレと塩を一つかみ入れ、清酒を入れ、すぐフタをする。――飲む時にフタを外してライター等で火をつける楽しみも有る。何杯、飲んでも余り酔わないのは少々、アルコールが飛んでいるからだ。次に皮。皮は三枚に分けられる。内皮と外皮を出刃包丁で調理し、外皮は専用の機会で更に二枚に分ける。海面に接するトゲが有る部分は、処分する。次に身。生食分は軽く火であぶり、タタキにしたり、薄く切る。フグの刺身だ。残った身肉の付いた骨=アラは鍋物用のダシとして使う。(今、この原稿をフェリー内のラウンジで書いている。若者数人が通り過ぎ「わっ!!リアルな事してる」と言いつつ、去って行った)片手に焼酎グラス。おつまみを一品。テーブル下でアグラをかいて、原稿を書いている。パソコンの有る時代に。私はやっぱり古いのかナ?若者からはチンプに見えるのでしょうか?
『風邪も治ってしまった』北陸で一月にかかった風邪が三月まで、治らず。四月に北海道へ向う内に治っていた。雪も降ったが、寒さは北陸で鍛えられ、動揺しない。どんな天気だろうが、人間、生きて行く。仕事をするのだ。永田先生の「死ぬ時は死になさい」の真逆では有るけれど、質は同じ様な気がする。
『野良犬』旅館前の本通りを良く野良犬の大小2匹が歩いていた。たぶん夫婦か親子であろう。外にはゴミ袋、出していたら犬だカラスだ、いたちだとあさりに来る。追い払おうと考えていたが、自分も「どこかに良い仕事は無いか?旨い居酒屋は?宝くじ当選は?」とか、考えている。俺も余り、野良犬と変らないかナと考えたら、追い払う気になれなかった。強くたくましく生きている2匹に長寿を祈る私だった。
『6年振りのタバコ』突然、のどが痛くなって止めたタバコ。今度は急に吸いたくなり、コンビニのレジ前で衝動買い。灰皿の有る所でしか吸わない。幼児・子供の前では吸わない等、最低限度のマナーを守りつつ、吸えない時はガマンする。昔みたいにすっごく、吸う訳でも無く、持っていれば安心する。吸いたい時は吸うが、根元まで吸わないし、二〜三本吸うと少しはのどにタンもからむので、次吸う迄に、かなりの時間があいたりもする。



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 宮ヶ浜 夏祭り 六月灯
 
       歯笛


 21日午後、ひとしきり雨が降った。早めに宮ヶ浜入りして準備に怠りなかった竹内琉球舞踊8人の皆さんも、恨めしそうに空を見上げた。雨は通り雨。幸い夕方には雨雲も去った。金魚すくいや焼きそば、串焼き、ビールにラムネサイダーなどの店に子供たちが群がっている。7時、宮ヶ浜駅前の特設舞台に名物司会の岡本さんが立った。舞台前に敷かれた50畳ばかりのブルーシーツには、浴衣姿の子供や、じいちゃん、ばあちゃんなどすでに大勢の家族が座り込んでいる。
 舞台上では小さな子供たちから小中学生の子供たちまで、創作舞踊や日舞を踊ってくれた。昔、どこかで見たような懐かしい空気が流れている。次から次に出し物は20にもなった。地区のお父さんやお母さんが踊る姿も様になっている。どの人も真剣そのものというのがいい。
 途中、メモリアル花火75発が宮ヶ浜の空に上がった。喝采がわき起こった。
勇壮な指宿湯豊太鼓も素晴らしかった。公民館長上野さんも仲間たちと、粋なはっぴ姿で見事な創作舞踊をみせてくれた。
 藩政時代、宮ヶ浜は指宿の中心地であった。1600年代から島津の殿様に年頭挨拶に来ていた琉球使節団には、琉球舞踊の人々も随伴していた。そのころの名残として、宮ヶ浜の宮之前地区には唐人踊(琉球人踊)が伝承されている。今回縁あって、竹内さんたちが来てくださり、気迫のこもった琉球舞踊を披露してくださった。何か熱いものがこみ上げてきた。
 絆がだんだん希薄なものになりつつある。家族、学校、会社、それぞれの職場で。便利さや効率を追いかけた後に出てきた様々なほころび。一番大切な絆がどこかへ行ってしまった。
 忘れちゃいないか、隣のおっちゃん。上野さんを中心に、宮ヶ浜はまだまだ変わっていくだろう。宮ヶ浜の六月灯に共生(シンバイオシス)という理念を見る思いがした。



       

 お祭りの会合があって参加した。青年振興連絡協議会という。
 いつものように、若い人たちと楽しく飲んで、祭りのことをワイワイガヤガヤやるわけである。今年は18才の青年と会った。彼は同じ湊上地区であり、私の息子よりはるか下である。息子より10才も年下だし、私より41才も下である。それでも祭りでの付き合いは長いから話が合う。私のガッツをほめてくれて、焼酎が旨い。したたか飲んで千鳥足で帰った。
 寝る時に思った。59才でも、何の違和感も感じないで青年達と同じ仲間として飲んでいて幸せだなあと。そこで、はたと気が付いたことがあった。私が違和感なく参加できるのは、私より年上のNさんが参加していてくれるからであった。そう言えば、私より1つ下のIさん・2つ下のSさんも楽しく参加していた。
 Nさんに後10年くらい頑張ってもらえれば、私もその後を引き継いで10年くらい頑張りたい。
 Nさんに感謝して、祭りの夢でも見たいなと思って寝た。


気になる事 
            今村俊一


(1) 温泉祭りのゴミ
もう温泉祭りにかかわって、20年ぐらいなる。お祭り広場のゴミ片付けは、毎年大変な仕事だ。 ずーっと長い間、目立たない場所に大きなゴミ箱を、2〜3ヶ所設けて次の朝、青振連のメンバーが、片付けていた。3年ぐらい前から、目立つ所の会場の真ん中にゴミステーションを設けて、缶やペットボトルなどは、自分で洗ってもらって、分別収集をした。皆協力してもらってうまくいったと思う。そして会場に落ちてるのゴミも、大変少なくなった。しかし今年は、ゴミ箱もゴミステーションも設けない事にした。
ゴミは持ち帰ってもらう事にした。皆さんゴミ袋を準備して、祭りを見に来て下さい。本部の方でも少しは、ゴミ袋を準備して、配ろうと思っています。初めてのことなので、どうなるか気になります。当然会場にゴミは、落ちていると思うので、次の朝7時から、青振連のメンバーでゴミ拾いをします。指宿市民のモラルに期待したいと思います。今年の温泉祭りは、8月4日(土)と5日(日)です。




・浮来亭を引越しました。
 指宿市東方10050番地(潟山)
 23‐4521



 縄文の森をつくろう会

・毎月第一金曜日午後8時に例会を事務所で(右の地図です)開いていますので、ご参加ください。




 本格的に暑くなりました。元気でいてください。できたら、原稿をお願いします。







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