の幸ちゃん

『面接と方向音痴』北陸の旅館で知り合った苫小牧の知人の紹介により面接。気さくな女子事務員と社長さん。(吉屋さんと一緒に仕事して回りたい)と拐待入れて呉れたらしく、面接は世間話の合間に即決。その日の内に印鑑作り、写真撮影、健康診断と社長が車で随行。静内へ行く道と帰って来た道が違った為、2日目も道に迷う。翌日は親会社へ研修と技術講習会。隣に寮も有り、宿泊はそちらで。寮生とも、すぐ打ち解けて仕事や雑談で話が弾む。北陸の旅館に宿泊していた別会社の人々も、これから行く私の現場で合流するらしく、再会したらキッとびっくりするであろう。15年振り位にアーク溶接して、顔は焼けて皮がむけてくるわ、目も痛む。実際には現場では溶接は無いと聞くが、何でも吸収。再び又、色々な事に挑戦中で有る。又、若いと思っていた自分が社長よりも高年齢と知り、少々気恥ずかしくもなって来た。仕事では業界初心者で全てを教えて貰わねばならぬが、我が子や弟・妹が出来たと思って、面倒見る事にした。只、余り嫌味が出ない様にして。
 北陸の旅館での仕事内容が又、寮生活にも適応する様だ。自分の意志とは裏腹に何もかもが急展開して、人生のレールに乗れた様で有る。就職が決った会社の方も年令リミットは53歳だそうで、人生最後の仕事と、頑張るしかない。会って別れて、又会って別れて、人間、大きくなるのだろうか?北陸の知人達に北海道から土産を送付した為、電話が次々とかかって来る。皆、心配していて呉れる様だ。面接の時も、街を離れる時も、そんな事を考えていると、ハゲの目にも涙。
 寮で半年振りに自炊。北海道のキャベツは生でも甘い事が判った。途中、親元会社の社長の誕生日が来て。焼酎をプレゼント。銘柄も「桜島」だ。――こうして北陸の旅館では、仕事が遅かったり、食器洗いで汚れ残しが有り、怒られていた。「過(た)つ鳥、後を汚しっ放し」だったし、仕事を旨く見つけて、日本中をフェリーで渡る。これを「渡りにフェリー(船)」と言うのでしょうか。
『隣の犬』会社隣の家にコーギー犬がおり、チョコと云う名前。投げたボールをくわえて来る御利口な犬。すぐ友達(?)になり、飼い主が遊んでくれないので、私の処へ走り寄って来る。少し相手してやったが、こっちも研修中。「ハウス!」と大きく声をかけ、自宅へと帰らせた。――最終日は苫小牧の記念にと、歩いて三分位の居酒屋へ。北海道らしい物を食して居なかったので……。3月29日にオープンしたばかりの店。太ったママさんがおり、旅館バイトで10キロもやせた私にびっくり。話は弾んでラストまで。面接時、社長に亡年会・新年会の時は苫小牧へ来なさいとの事。再来の時、又、居酒屋へ行きましょうか。北陸旅館の仕事はつらかったけど、こちらは結構楽しくやっておるのです。
 近くのコンビニでは好きなタイプの女性発見。別の店員が居た為、声もかけられず、次の現場へ。次回の楽しみが沢山出来て、無い後ろ髪を引かれる思いでフェリーに乗ったので有った。
『北海道弁』アイヌ人が居た大地に本州から開拓人が来て北海道が成り立ったが、日本全国から集まった割には、イントネーションは東京弁に近い。後尾に「・・・さ」を付けたり、「なまら」は「大変、非常に」の意味。疲れた事を「こわい」と言う。「なまら、こわい」はさしずめ「大変、疲れた」か。又、びっくり意外な事はトイレ内に電気ヒーターが有る事。鹿児島では冬、寒くともヒーターまで入れませんね。逆に夏はクーラーが入ってくる様な設計にして欲しい物だ。
『フェリーで気付いた事』船名は(さんふらわあ)だった。次の現場へ行く為、一週間居た苫小牧とも、おさらば。茨城の大洗まで。港には大型陸送トラックの荷物台だけがズラリと並んでいる。そこへ運転席だけの大型車が到着。荷物だけの前にバックで連結し、何処かへ連れ去った。又、フェリーはバカでかく、いつも小さなフェリーにしか乗らないので、又、びっくり。船底(一階?)は一般車輌で、二階は大型トラック。スケールの大きさに圧巻。――前述の社長への誕生日祝いに描き文字のミニポスターを貼った為、それを見た18歳の新入社員が、「僕にも何か描いて送って下さい。吉屋さん、イラストが凄っく旨いんですョ」と事務所で大声、上げていた。只一つ、残念な事が。私の溶接の先生で有った人が社長とケンカして、退社した事。彼女はクレーンを希望しており、いつも(やめたい)と言っていた。――ともかく、人間は色々な事を背負って生きている事が、今回の出稼ぎで良く判った。悩んでいるのは自分だけじゃないと……。
『住所不定』と新聞に書いて有るとイメージ悪い。だが、今の私は確かに住所不定だ。増して、今回の仕事は日本中を保守・点検(メンテナンス)して行く仕事なので、一軒の旅館に一〜二カ月位しか居ない。住所不定。英語に直すと「ホームレス」か?――だが、しかし、私の性格に合っているかも。各地の地酒、旨い物、居酒屋。熱し易く、冷め易い(?)性格だから。でも、そんな事も言っておられぬ年齢になってしまった。一日、生きて一日死に近づくのは確実だ。でも人を愛する事だけは忘れずに生きようと思う。
『アニキ』旅館用語で知った言葉。冷蔵庫内に新しい物と古い物が有ると、古い方がアニキで有る。アニキ(古い方)から先に使用して行くと言う意味。


         
                  

 てんちの杜で田植えがあるというので出掛けた。広報担当ということで、デジカメで写真を撮った。昨夜からの雨で子ども達の参加は少なかったが、四家族と縄文の森のメンバー合わせて20名弱が集まった。幼稚園にもいってない小さな子もいたが、皆楽しそうにしていた。狭い田んぼだったので30分もかからず終った。その後は田んぼの周りの池と小川の中とかを見て楽しんだ。天然記念物にもなる草とかも教えてもらった。短い時間だったけど快い時が過せたようで気持が良かった。
 寝る時に思った。てんちの杜には色が少なかったようだ。緑色と茶色が殆んどだったようだ。木と草と水が主役の世界なのだろうか。花のないのもいいものだと思った。そういえば私の生活も6年間くらい花も色も少なかった。結構良かった。でも、だから花とか色の良さも判ったのかも。
 メリハリとか変化が大事だなと思いつつ寝た。



 いま住んでいる山陽小野田市は財政難に苦しんでいる。「第2の夕張」と(自称、他称)呼ばれている様な地方都市は多く、昔セメントで栄えた、この灰色の町も非常に厳しい状況だという。地方自治体が破綻寸前になるとどうなるか。これが如実に分かる。
一般廃棄物処理に関する提案書(素案)が3月に提出された。15年先を見越したゴミ行政の在り様が書かれている。中身は現在のゴミ処理の延長で住民の理解を得た上で廃棄物量の削減に取組むというもの。あまりの無策に失笑した。なんら具体案を示さず15年先を見据えろと言う。市民モラルに期待するとだけ書いておいてモラルを促す策さえ持っていない。一体何が提案なんだろうか。
焼却場の現状はどうかというと、これが非常に切迫している。耐火煉瓦はどろどろに溶け、設定温度はダイオキシンが出ないぎりぎりの800℃これであと何年持たせようとしているのか。一住民として非常に怖くなった。
財政難はこんな形で出てくるのかと。私は研究室の先生と連名でゴミ行政への提言とバイオマスへの取組を提案した。
指宿市のゴミ対策は万全だったことが懐かしい。あの安心感が最大の住民サービスだったのかと思う。


  
   
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縄文時代

 約1万年前の福井県三方町鳥浜遺跡や、約5500年前の青森市三内丸山遺跡の調査から、縄文時代の概念が大きく変わった。5500年前と言えば、指宿の池田火砕流の噴出によりカルデラが形成され、池田湖ができた。同時に、山川港、成川、鰻池、池底、松ヶ窪の火口が火を噴いて、それぞれの地形が造られた。
 約13000年間続いた縄文時代は、我々日本人の心のありようを決めた大切な時間だった。
鳥浜遺跡から出てくる魚骨には、フナ、コイ、ナマズ、ウグイ、マグロ、ブリ、カツオ、イワシ、サバ、タイ、コブダイ、フグなどがある。鳥浜からはやや大きめの丸木舟も出土している。海洋に出て、大型の魚も獲っていたと考えられる。三内丸山でもこれらの骨だけではなく、野生動物の骨も多数出土している。国分の上野ヶ原遺跡からは燻製を作ったと思われる穴も発見されている。縄文人はおいしいものを食べていた。
 DNAや花粉の調査から、三内丸山ではクリの栽培もしていたことが明らかになっている。クリの実を食べることはもちろん、それを保存する倉庫や、余ったクリや海産物などを丸木舟で遠方まで運び、商いをしていた。縄文時代すでに商人が存在していた。クリ材は生木のときは石斧で加工しやすく、乾くと堅いので、建材としても使いやすかった。シイやカシは堅すぎて加工しにくかった。このことは実験でも確かめられている。
 当時、青緑色のヒスイは貴重な交易品だった。国際日本文化研究センターの安田喜憲さんが面白いことを言っている。「中国もマヤ文明もなぜ青い緑色の玉を大切にしたか。それは森の緑。長江文明の玉の緑も森。縄文も森、マヤも森。森の文明がこの緑、森と水です。水の青、森の緑、これが玉の青と緑ではないか」 確かにそうかもしれない。
 現代でも、目の色を変えて晩酌用の刺身を探す御仁をよく見かける。とにかく肉よりも魚。焼酎には刺身がなくてはならない。これも1万年以上にわたって、うまい魚を食べてきた体が憶えているのかもしれない。
欝蒼と茂った鎮守の森。ここに入ると理屈抜きで心が休まる。これも森の民として生きてきた縄文人の感覚なのかもしれない。
縄文時代、丸木舟ですでに外洋に漕ぎ出していた。航法は「どこまで見えるか」という「山立て航法」。これでいくと、インドネシアまで行くことも可能だったらしい。ある考古学者は、船は8メートルほどの丸木舟を、二隻双胴に使って板を渡した船を想像している。縄文時代中期には、丸木舟での航法がかなり進み、広範囲に交易が行われていた可能性が高い。
南西諸島でしか捕れないゴホウラやイモガイ(腕輪や指輪になった)は、2000年以上前の弥生時代に、薩摩半島経由で吉野ヶ里などへ運ばれ、日本海を経て全国へ運ばれた。北海道伊達市の有珠モリシ遺跡からもこれらの貝が出土している。
弥生時代、南西諸島までの航海はすでにルートもでき、組織的に行われていたと考えられる。指宿市からは後期旧石器時代(15000年前)の定住集落、水迫遺跡が発見されている。ここでは石器製作所の跡や道路の遺構が見つかった。薩摩半島南端の指宿や山川は、「文化果つる所」ではなく、縄文時代から多くの文物が行き交う要衝だったと考えられている。南九州―琉球弧が果たした役割は大きく、縄文時代はわれわれの想像をはるかに超えた、豊穣の時代だったと言えそうだ。



  縄文の森をつくろう会より

活動報告

縄文の森をつくろう会で出した「ホスピスコンプレックス 遊閑楼」が県美展に入選。
5月27日まで黎明館に展示されました。



海側の幹に腐れが入り始めたので、6月3日。10人ほどで幹回りと洞にピートモスを入れました。雨が降らず助かりました



その後の元気になったアコウです。



 6月23日土曜日(曇り)宮地区の子供たちが、てんちの杜の田植えを手伝ってくれました。幸野さんが準備してくれた、古代米の苗です。10月の収穫が楽しみです。



連絡事項

縄文の森をつくろう会(浮来亭)の事務所が7月1日より下の場所に移ります。駐車スペースは有りますので、気楽にお立ち寄りください。
指宿市東方10050番地



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