の幸ちゃん

『北陸から北海道へ』 旅館でのバイトも三月で終了し、北海道へバイト探し。農場か牧場か、それとも……。旅館で会った客人から単車ツーリングの人々が集まる民宿が有るとかの情報有り。雇用して貰おうかと訪ねましょうか……と書き出したが、旅館で会った青年とバイトの話していたら、意気投合してしまい「ウチへ来ませんか?」との話。いい年(?)してウロウロした生き方も切ないし、面接だけでも受けようかと苫小牧へ。――その前に大阪の銀行口座を解約したく、一路関西へ。「先立つ物」が無ければ旅も心細い。大阪の街は一方通行だらけで、銀行支店の近くまで居ながら、ナカナカたどり着けない。携帯で中継しながら道を尋ねて行った。難波駅付近でビジネスホテルを探したが、「新入生研修」で何処も満杯との話。断念して、奈良方面へ車を走らせる。まるで“逃避行”だ。
 大阪と奈良の県境付近で旅館発見。トイレがドボン式で大きく口を開けている。ポケットの中味が落ちそうで、思わずズボンを脱いで用足し。予約なしの宿泊だったので、駅前の居酒屋へ。北陸の旅館では殆んど肉食の賄だったので、久々に野菜だらけのおつまみを注文。店の人も「この人はベジタリアンか?」と思っていたろう。――書き漏らしたが、大阪の銀行では閉店三時に間に合わず、行員に迎えに来て貰った上、裏口入店。こんな体験、初めて。まるでVIP待遇だ。?「お前んさア、出身はどこナ?」と久々に聴く鹿児島弁。解約にもかかわらず、素晴らしい応対だった。――奈良の街を走っていたら三年前に宿泊した「奈良ロイヤルホテル」の前を通過。びっくりの感動。これから先の地理は判るとホッとする。私にカーナビは必要なし。一度通った道は忘れていない。(が、苫小牧では流石に方向音痴になってしまった。後術す。)――再び北陸の旅館の有る街へ回遊着。
 フグ料理を手伝っていた25歳の青年が「アニキ、アニキ」と慕って呉れ、そこに重い工具類を預かって貰う事に。重過ぎて車の走りが悪いのだ。もう一人の20歳のフグ調理人と三人で夜、寿司屋さんへ。旨く会食したが、スナックで喧嘩してしまった。旅館に居る頃から、私に「死ね」「ハゲ」と軽口をたたいていた。最初は軽い冗談だと私も気にせずに居た。余り連発するので、「親にもそんな口をきいてるのか?人の肉体的悩みを言うと、人が嫌って離れて行くぞ」とさとしたのだが、通じなかったらしい。カラオケを歌っている途中で「ハゲ、ハゲ」と言いつつ、私の頭を叩いた。半年ガマンしていた物がプツンと切れた私。《本当に頭の中でプツンと音がしますね》言うよりも早く、手が出てしまい、彼の顔を殴っていた。泣きながらも「俺の気持ちが判るか」と言う彼。彼も自分の親の旅館を継ぐ予定。船の事もまかされ、親父と早朝四時起きで頑張っているらしい。彼女とも旨く行ってなくて?プレッシャーばかりで、逆ギレして来た。私は「お前がどうでも良い人間なら何も言わん。早く大人になって欲しいからだ」と説得。好意を抱いていた青年だっただけに私の目にも涙。楽しく飲んでいた私の送別会(?)が愛のムチで大変な事に。金払って店を出た彼。20分程して、携帯が入り、「一発なぐらせて呉れ」との事。「それで何もかもが解決するのか?」と私。「店の外へ出て来い!!」と興奮気味の彼。「楽しく飲み直そうよ」と私。それでも彼は治まらず、取っ組み合いの喧嘩に。押し倒された私は鼻血が出て、メガネは曲がり…。「止めろ!!M(彼の名前)」と私。ママも「二人共、止めなさいよ!!」と。漁師育ちの若者に勝てる筈もない。子供の頃から、動くのが嫌で、スポーツもしてないし、体を鍛えた覚えもない。最後に左足に彼のケリが入り、四〜五日痛かった。イヤ、痛いのは私の心であった。
 人生初めて人を殴ってしまった。二〜三日、車中でも考えていたが、30歳になっても成長していない彼だったら残念だ。
『北陸から北海道へ』A 金沢の友人と再会すべく再び三年前と同じビジネスホテル、焼肉屋さんへ。皆、覚えていてくれ談笑。友人とも人生の話で持ちきり。金沢から新潟へ。
 走行は全て、下道(したみち)。高速道路は事故多し、油喰う。タイヤ減る。金取られる……。下道ならコンビニ、ガソリンスタンドでトイレも借りられる。良い風景では写真撮りと好奇心強い私には、好都合。――本当にこの半年で私の人生は変わった。つらい事も有ったり、喧嘩もしたけど又、更に人間が大きくなった気がする。旅館で重い物を持ち、少し力も付いてきたかナ。「ヤル時はやらないと、示しが付かない」事って、有る物だと考える。一日中、調理補助で、立ちっ放しか、館内を歩き回っていたので、体重も10キロ落とせた。「ダイエットだ」と冗談を言いつつ働いていたが、本当にやせてしまった。今後この体重を維持して行きたい。!!ダイエットするなら旅館で住み込んで働け!!
 新潟からいわき市へ日本縦断。仙台へ。
 青森の小旅館泊。料理は室内へ運ばれ、満足のメニュー。だが、しかし運転で疲れていたすきっ腹で酒を飲んだせいか、10分間位鼻血がボタボタ出た。もう日本酒は止めよう。旨いと遂々、飲み過ぎる私。今では又、ウィスキーの薄い物を飲んでいる。永田先生、曰く「薄かろうが、アルコールは駄目」と言われたのを思い出しつつも。――青森から青函フェリーで四時間。北海道へ。(パート@で銀行解約と書いたが、振替関連は郵便局へと移行した)長万部(おしゃまんべ)の民宿泊。隣に銭湯発見。久々、広い温泉へ。ビジネス・旅館・民宿の風呂は狭いので、開放感タップリのやや熱めの湯。満足!!一路、室蘭へ。途中、残雪をかぶった駒ケ岳に目を奪われた。北陸でスノータイヤに履き替えていたので多少の雪もOK。乾いた路面なら溝の深いタイヤだけに、路面に吸い付く感じで、走りが良い。瞬発力の有る車だけにパワーアップして、発進、追越がスムーズに。軽快なノリのドライブで気分上々。各地ではTV番組が地元放送のが面白い。各県のカラーが出ている様で。旅館のバイトではゆっくり、TVも見れなかったので、余り興味無くなってしまった。ニュースと天気予報は良く見るが、旅・グルメ番組を見れるタイミングも悪く…。ドラマ見ない。バラエティはウルサイ。結局、TV消して、物思いや、思い付いた事をメモしたり、チビチビ、ウィスキーをなめている。苫小牧の手前で温泉発見。朝風呂に入りたく入湯。朝九時オープンのせいか誰もいない。客は私一人。今まで入った温泉で一番広いスペース。ホテルに隣接し、便利な所で有った。――会社事務所を面接前に確認しておこうとアポを取り、探すが判りにくい。新興住宅地で目印が無い。大阪と同様、携帯使用しつつ、道を尋ねた。その後、静内町へ。 旅館の青年に聞いていた噂の旨いラーメン店へ。
旅行ではないが、仕事としての用事の合い間は手持ち無沙汰。時間つぶしで足を伸ばした。
 原稿用紙が無くなって来たので、面接の話は又、次の機会へ続きます。
『春風の夜の五段ハシゴ』そよ風に誘われて夜の店へ行く事にした。この街の居酒屋のサマが判らない。一軒ずつ入ってみる事にした。@串焼店。地元の人々が集まって、TVでは野球が放映されてるし、客はマスターとゴルフの話している。何か自分は取り残された感じ。次の店へと。A近隣市の鮮魚類を取り扱う、寿司店。色々と新しい仕事環境からの重圧も有り、疲れた日々。人を愛しても実らなかった過去の事を考えたら、とめども無く涙が溢れる。――どうしようも無い孤独感。付き出しだけで次の店へ。B女店主はフィリピン出身風。三千円で止めて呉れと約束したのに、次々とツマミは出すわ、カラオケを歌わせて超過した。カチンと来た私。「約束だったョ」と英語を取り混ぜても聴く耳なし。「二度と来ないからね」と去って行った私。色々な店が有るモノだ。C飲み足りなくて、コンビニで旨い店を教えて貰い、入店したが、スキンヘッドだし、警戒されたのか、殆んど無視。人生相談をして貰える店と聴き入ったが。でもメニューが良いので、焼酎をキープしてしまった。又、改めて自分が素直で居られる状態で行こうかと思う。
 初日は酔い気味だったし、顔は悪態風だったと思う。ママさんの白い目が忘れられない。D帰り道の途中にまだ行ってない店、発見。入店してみたら、やたら広い店。カウンター有り、ボックス有り。カラオケも有り、沖縄にでも有りそうな内装の店。ママさんはブラジル出身風。こちらが英語で話しかければ、向こうは日本語で返してくる。これが又、楽しいヤリトリ。自分の英語が通じている!!
 こんな風に新しい街でも居酒屋と温泉を探して回る私です。エアコン着けっ放しだったので、風邪ひいてしまい。又、温泉に行けたら、書きます。お休みなさい。今夜は、この辺でペンを置きます。




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 調所笑左衛門と刻された手洗水鉢

 揖宿神社境内の手水舎に、弘化4年(1847)、調所笑左衛門と刻まれた手洗水鉢がある。代々島津家から庇護を受けてきた由緒ある神社なので、そういうものがあっても不思議ではない。この年斉興の命で揖宿神社は建て直された。また同じ1847年、斉彬は山川港周辺に砲台を設置した。調所はその総責任者として、山川の現場で指揮を執った。手洗水鉢は新しくなった揖宿神社へ寄進されたものである。翌嘉永元年(1848)、斉興の命で揖宿神社の鳥居は木から花崗岩の大鳥居に換えられた。石材は大隅国小根占から運ばれ、海岸から神社まで多くの人々が運んだという。笑左衛門は同じ嘉永元年暮れ、江戸で服毒死している。調所は薩摩藩の密貿易の責任を取らされたとある。
藩の主流派たちは1848年暮れに調所が死に追い込まれたのは斉彬派の陰謀と見ていた。そこで高崎らの謀議を発見し、藩主斉興に請うて、嘉永2年(1849)暮れまず首謀者6人の斬罪にでた(お由羅騒動、高崎くずれ)。断罪された者は50人に及んだ。
調所は重豪の茶坊主だった。「てんがらもん(利口者)」で気に入られ、斉興が藩主になってから側用人という家老につぐポストにまで出世した。天保初年のころ、借金は500万両をこえた。調所の手腕により、天保の改革から幕末にかけて、逆に薩摩が500万両の軍資金を貯蓄するまでになったのは、奄美の黒糖による、二重収奪が主因と言われている。天保の改革のあらまし=1、少額ずつでも借金は返していく 2、大島の砂糖を強化する 3、琉球を中心にシナ貿易を広げる 4、藩の制度を改正 5、物産を開発し、米の質を高める 6、開墾を奨励し鉱山を開発するなど。<鹿児島百年(上)幕末編 南日本新聞編>
その後紆余曲折があり、最後は老中阿部正弘が斉興の隠居を説いた。嘉永4年(1851)2月、斉彬は43歳で島津28代を継いだ。
藩の散財この上ないと斉彬を嫌っていた調所は、何の言い訳もせず密貿易の責任を取る形で死を選んだ。島津3代に仕え、身も心も疲れ切っていたのかもしれない。
その後安政5年(1858)7月、50歳になった斉彬は自分の釣ったサバにあたって亡くなっている。同じ年の春、公は二月田温泉に湯治に来て、指宿の農民が渇水に苦しんでいることを知った。そこで97か所に灌漑用の井戸を掘削させた。掘削責任者の中には、のち山川砲台の指揮官となった郡奉行見習東郷吉左衛門(東郷平八郎の父)がいた。やがて生麦事件が起こり、薩英戦争(1863年)へ。その後薩摩藩を中心に、明治維新へ向けて怒涛の変遷が続くことになる。



            

 前の夜遅く寝たのに、いつもより1時間も早く目が覚めてしまった。年を取ってきたのかなと思いつつタバコを。もう一眠りと思ったが寝れなかったので、そのまま起きる事にした。いつものように朝ご飯・トイレ・風呂を済ませ、パソコンでメールの確認、天気予報とスポーツ情報を見ても、仕事に出かけるにはまだ時間はタップリある。部屋でボーとしててもタバコの本数が増えるだけだと家を出た。雨が降っていなければ自転車だから今日も自転車。時間があるからと、いつもは通らない道を選んだ。へー、こんな道・家があるんだと楽しみながらだった。仕事についてからも、周りを見る目が違い、いろいろ発見というか気が付いた。
 寝る時に思った。余裕を持っていればいろいろ発見できるのかもしれないと。何かえらくなったようで嬉しくなって来て自分をほめた。そう言えば、「急がば回れ」というのがあったなと気が付いた。更に「先んずれば制す」というのもあったとことわざを考えた。益々えらくなったようで更にほめた。ほめ過ぎ興奮して寝つきが悪かった。
 次の日の朝はいつもの朝だった。時間はギリギリで、自転車で車道を斜めに渡った時、少しヒヤリとした。仕事も忙しく、少しヘマもした。常にソワソワしていた。
 寝る時に思った。「急いては事を仕損じる」だなと。でも今日のほうが自分にはあっているのではとも思った。なぜなら時間の経つのが早かったし、何となく楽しかったような気がしたからである。


縄文の森をつくろう会より


 ●4月22日(日)に「てんちの杜」で総会がありました。
    
●ビオトープ「てんちの杜」の田植えが始まります。協力できる方又は気になる方は見に来てください。
●昨年の5月にあった生活環境会議に出展した「游閑楼」の模型が県の美術展覧会で入選しました。5月17日〜27日まで、鹿児島の黎明館に展示してあるそうです。鹿児島に出かけるときには足を運んでください。
●宮ヶ浜公民館で(ともに午前中から)
 6月2日(土)豚汁の準備
 6月3日(日)おにぎり作り、海岸清掃、豚汁振る舞い


◆5月4日に須田さん夫婦の送別会がありました。いよいよお別れと思うと少し淋しい感じですが、山口の新しい家は敷地面積が300坪もあるそうで、皆さんで遊びに来てくださいとの事でした。行けたら楽しいでしょうね。
◆「浮来亭」(ふらいてい)って、どんな意味が有るのですかと良く聴かれます。
 十数年前に、毎週金曜日に数名でMR・ジェームスで飲んでいて、言ってる事とか、思っている事を残したいねということで毎月発行することにしました。金曜日だからフライデイ。漢字を当ててみて浮来亭にしました。創刊は平成7年1月でした。歯笛さんの「銀蝶ビルからの眺め」はジェームスのビル名から付いた訳です。集まる人数が増えて来て、今借りている所に移りました。指宿子ども劇場の方達と同居し、縄文の森をつくろう会の事務所兼倉庫としても利用しています。毎週金曜日の夜8時から飲んでいますので、千円持って遊びに来てください。

 



今、すごく気持ちの良い季節ですね。気分の良い時に良いことを沢山考えて下さい。
その中の一部を聞かせてください。投稿を待ってます。 




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