の幸ちゃん

『人生まだ旅の途中』
 本当にまだ見た事も無い物って全国に有るのです。鹿児島にずっと居たって、世界は見えない。私は今、この生き方に満足してます。――橋を作る、スライド式の機械を見ました。平行棒みたいなレールに手前の方から橋ゲタみたいな大きなブロックを一個ずつ機械(ロポット?)が継ぎ足して行く様です。全部、渡してから、継ぎ目をモルタルでもつめるのでしょうか。ロボットがやってるので人間の姿は見えず。リモコン操作している人が数人だけ?ケガ人なし、工業費も安くで…?感心してしまった私でした。
『ハナ血大作戦』
 旅館に暴言軍団が宿泊に来た翌日、ハナ血。遅くまで客は騒いでたし、眠れないし、早く起きないと準備が有るし、そんな翌朝、トイレが寒くて力んだら、ハナ血。翌日、市内の病院へ。血検・尿検も同時に。処が次回、病院で結果を知るつもりが団体客の予約が入る。私がマイクロバスで送迎もやっているので、病院に行けずじまい。
 今の仕事は三月一杯なので、キャンセルした病院へ、血検・尿検の結果だけは聴きに行きたい。健康保険も無いので10割、現金払いで有る。大病でも手術も出来ない。「死」をまつだけだ。永田先生も言われた。「死ぬ時が来たら、死になさい」的を得た言葉で有る。
 社長(旅館主)の他に別に二人の男性、宴会の時はお手伝いの女性。私と社長の奥さん母子で旅館の仕事をしている。二人の男性は海へふぐのエサやりにも行く。その一人が、ちょっとカン違いして、私をどついてしまった。夜、すっごく考え込んだ。私が来た事により、この仲間達にシワ寄せになっていないかと……。翌日、又、鼻血が出た。病院の初診から2ヵ月後、少し客も減り、ヒマになって来たので再度、病院へ。腎臓等の劣化のせいか、尿に少し血が混入との事。要するに飲みすぎだ。永田先生にも言われた。朝、タンがのどにからみ安いので、肝臓を悪くしているかもと……。今の私に取って、酒と食しか楽しみが無い。18歳から、殆んど毎日、飲んでいる。いくつまで生きられるか判らぬが、好きな物を飲んで、死んで行くなら極楽だアーツ!!
――と書きつつ、今も飲んでいる。余り、老後の事とか考えなくなった。人生三分の二は終わったが、休みの日は温泉へ。それで、いいんじゃないの……。アハハ……。
『オリンピックは東京か福岡か』
 とTVで騒いでいるので近々の話かと思いきや、'16年の話。次はペキンだし。'09に決定とか。そんな話より、私が10年後に東京オリンピックを見られる迄、生きているかと云う事の方が、現実的なのだ。あの論議していた人々も、生きているのか、はて…?
『原稿を送っても良いのですか?』
 と永田先生にお尋ねしたのは(浮来亭)が12号、一年目の時だった。気楽に思い着くまま、書いて今日迄来たが、余りにも沢山、私の文が載っているので、少し気にした時も有る。安間さんも原稿が足りないと青色吐息だったし…。しかし、私も段々「私物化」している様で、時々休筆したり、○○さんにも書いて貰ってと、断わったり、読者の方々にも質問したり、教えて下さい。クイズですと色々な形で、寄稿をそれとなく、発案したが……。100部近い(?)発刊で○○先生だの○○義士(?)だの著名な方々も拝読されてると聞き、余りバカな事は書けなくなった。でも余り意識せず自然に書いた方が、私らしさが出るのでは?御感想を安間さんまで!!!!
『20代の日本一周』
 と50代の日本半周を比較した原稿を書く為に、20代のを先に書き留めます。――東京から帰鹿した私は自営業風に【鹿児島デザイン研究所】の社名(?)で独立・自営していた。印刷物・看板・描き文字・写真撮影と何でも手拡く出来る事をアピールしていた。少し、仕事もヒマになり旧友に再会すべく、日本一周を企画した。只々、周遊したい気持ちで、車内泊を決め込み、旅費をかけない様に。目的地迄、ギリギリ迄、走破した。九州から四国へと渡り、神戸で「ポートピア」を見学した。大阪を経由して福井・金沢の旧友と再会。北海道の花畑の写真撮影が目的だったので、暑い中での旅。日本海側を青森迄。青函連絡船で北海道へ。「オンネトー湖」「昭和新山」「知床岬」等、周遊した。北陸へ。岩手から宮城・千葉へと南下。「狭い日本、急いでドコへ行く」なんて、誰が考えた標語なの。日本もケッコー広い。新潟迄、来た時、本当にもう帰ろうナとも考えた。若いから、出来たんだろう。一人でも。ここまで来たんだ。半分近く、北海道も目の前だと頑張った。東京、神奈川の旧友とも、再会。大阪迄、来た時、運転免許証が数日で切れると判って、眠らずに2日位で帰鹿。超ハードスケジュールの旅で有った。撮った写真も10枚にも満ちていなかったので、姉が「日本一周して、写真はたった、こっひこね」とあきれていた。
『50代の日本半周』
 をして、自分がすっかり年老いた事を感じた。夕方になると旅館・民宿等、本日泊まる事しか考えていない。焼酎が飲みたくなる。帰宅者で渋滞してくればトイレも近い。人口増加で、バイパスは増え、街は賑やかだけど、どの街も同じ会社の看板。コンビニが林立。「村おこし、町おこし」で頑張って来たけど、皆、同じ街に見えて来る。あの、のんびりした、ひなびた日本はドコへ行ってしまったのか。腰痛でスピードを出せない。振動がつらい。後ろから仕事車がビターッと付いて来る。広い処で譲る。私は死ぬ時迄、時間は有るのだ。次回の旅行は車イスマークと落ち葉(じゃなかった)紅葉マークを付けて走ろうかと考えている。――鹿児島で○○温泉と聞くと、一軒か数軒しか無いが、県外では温泉街の事を言い、旅館やホテルが数十軒、並んでいる。一体、どこに入湯すれば良いのか迷う。各県の観光案内所へ行く事をすすめる。


 
     山川港にペリー艦隊が寄港?

 「英国人が見た幕末薩摩」(宮澤 眞一著 高城書房出版 1988年)の中に、1837年、山川港に来航したモリソン号についての珍しい資料が載っている。故澤田 延音氏がまとめた「指宿市郷土史―資料(1)昭和31年」から引用したもの。「昭和22年4月28日晴。町内大渡、岩本ケサ(86歳)の直話。調査・澤田延音」で始まる話。「黒船が或る日、灯台の所在地より東方に面した海上に来て停泊しましたとかで、あの際アメリカの海軍の人達が若干、ボートより此方に漕いで来ると同時に上陸したのであります。その折、海水の中にその軍人は靴を履いたまま入ったかと思うと、忽ち上陸するや否や、その靴は奇妙なことに水気は乾いてしまった。それを見た当時の人達は不思議に思って眺めていましたと聞いて居ます。あの当時の靴の早く乾いたのは、後にてゴム靴であったと言ふことが判って、早く乾いたのは道理であんなになった筈だと笑いの種になりました。初め双方の間に於いて言語の不通の為、暫くは困りましたが、漸くのことで、飲料水に困っているから水を呉れないかと言ふ事情が判りました。それで当方より水を提供しました所が、彼等一行は喜んで本船に帰り、出発の時は謝礼の意味からでしたろう、大砲を鳴らしたそうでございます。初めて見ました毛唐人のことではあったし、当地では一時大騒ぎを演じた云々と、父や母が私の子供の頃に彼の当時の追憶談を折々きかして居りました」
 この記事に3つの疑問を感じていた。1.黒船の船員がアメリカ軍人となぜわかったのか。2.ゴム靴は1837年代にすでにあったのか。3.モリソン号は紛争を避けるために、装備していたすべての砲を取り外して来航したのではなかったか。大砲は鳴らせなかったはずだ。
 確かに、五人番にはモリソン号に水を分け与えたという言い伝えはある。しかし、岩本さんの話は本当にモリソン号の話か?
 琉球に英仏の軍艦が押し寄せ通商を求めていた弘化3年(1846)、島津 斉彬は幕府の命令を受け薩摩に帰って来た。斉彬は山川郷の各地を巡検した。「山川は先年、モリソン号来航の地なるをもって警備厳重を申しつけ、台場となるべき場所を検分した」(鹿児島県史・第2巻)ある日、斉彬は岡児ヶ水の龍山寺で休息し、夜は山川港の豪商、河野覚兵衛宅に一泊した。(斉彬公資料 第1巻)実際に砲台が築かれたのは弘化4年(1847)で、家老調所笑左衛門が出張し、総指揮を執った。砲台設置場所は、山川福元の蛭子、仮屋、充石、成川の八窪(山川駅近くのトンネル辺り)であった。
 その予想が当った。斉彬が藩主になって3年目のこと。「安政元年(1854)、アメリカの軍艦が山川沖に来航した」(山川町史 p425)「鹿児島に急報す。本船が近海諸所を測量す。郷吏之を留むれども聞かず」(山川郷土歴史 第1編)と。「鹿児島では出兵の用意がなされ、役人も大挙山川港に参集し、応接に当った。しかし、言葉が通じず、わずかに薪、水、食料を供給しただけであった。それでも軍艦はさらに小船を下ろし、上陸して調査を始めた。指宿の大砲隊も出動。山川港は極めて緊張したが、ぎりぎりのところで紛争にはいたらなかった」。この時、古老が語ったエピソードがある。「海の中に靴を履いたまま入ったと思ったのに、上陸するとその靴は乾いていて、山川の人々はいつまでも不思議に眺めていた」(以上山川町史 p425)
さてゴム靴に関する話。Holland Thompson氏のCharles Goodyear & The History of Rubberにゴム靴の話が出てくる。1820年頃、ブラジルとニューウイングランドを往復していたアメリカ商人が、船のバランスをとるバラストとして南米の生ゴムを使った。その生ゴムを靴の底に貼り付けて売り出した者がいた。しかし、夏になるとそのゴムは溶け出して使い物にならなかった。1839年、C.Goodyearは偶然加硫という方法でゴムを硬く保存することに成功。1844年に特許を取った。その後、ゴム靴ができたというわけ。
1837年、山川に来航したモリソン号の船員たちがゴム靴を履いていたというのは誤り。ゴム靴を履いていていたのは、1854年に来たアメリカ軍艦の船員たちだったわけである。
岩本ケサさんの話は、モリソン号の話ではなかった。1837年と1854年の話が、いつの間にか一緒になって伝えられていたのだ。史実を記録に残していくことの困難を思う。
さて、話はこれで終わらない。1854年に山川に来航したアメリカ軍艦の正体は何か。同じ年の3月31日(旧暦3月3日)横浜村で日米和親条約を結んだペリー艦隊の一行だった可能性がある。ペリー艦隊には「サスケハンナ」「ミシシッピー」「ポーハタン」(以上蒸気外輪フリゲート<快速帆船>)、「サザンプトン」「マセドニアン」「ヴァンダリア」「レキシントン」「サラトガ」「サプライ」(以上帆船)の9隻がいた。条約を終えたペリー艦隊はその後どのような行動をとったのか。「サラトガ」は条約書を持ってハワイ経由で直ちに帰国。5月4日「レキシントン」は沖縄へ。5月6日、「マセドニアン」「ヴァンダリア」「サザンプトン」は函館へ。4月18日下田を出た「ポーハタン」と「ミシシッピー」は函館へ向かい、6月3日函館を出航。1854年6月28日朝、下田に集結していた5艦が、日本でのすべての用件を済ませ発進した。しかし風が吹いていたため「マセドニア」と「サプライ」は再び錨を下ろした。提督はこの2隻には台湾のキールンに行くように命じた.旗艦「ミシシッピー」と「ポーハタン」「サザンプトン」は南西へ進路をとった。翌29日朝、3隻は奄美大島西端を視界に入れた。7月1日、「ポーハタン」は曳航していた「サザンプトン」を切り離し、「サザンプトン」は香港へ向かった。同日、2隻の蒸気艦は無事那覇港に投錨。7月11日、琉球王国との間に通商条約を結んだ。
1854年山川港に入港した黒船は、一足先に下田を発った補給艦「レキシントン」だった可能性が高い。水や食料の調達の他に、ペリー提督からの指示で、軍事上重要と思われる山川港周辺の調査を兼ねていたのかもしれない。ペリー提督と行動を共にしていた通訳のウィリアムズは、1837年、モリソン号で日本人漂流民7名と共に山川港に来ている。今回の航海では、6月28日に下田を出て翌29日には奄美大島近海に到達しているので、山川に寄港する時間はなかったと思われる。モリソン号来航以来、17年振りのアメリカ船寄港に、日米和親条約が結ばれたことなど露知らない山川中が、上を下への大騒ぎになったことは間違いない。

参考:「ペリー提督日本遠征記」猪口孝監修 三方洋子訳 NTT出版 
参考http://www.baxleystamps.com/litho/ry_litho_main.shtml



 指宿市が環境首都コンテストに今年初参加した。
 これは環境NPOがネットワークを組んで自治体の環境への取組を評価したものでドイツのコンテストをモデルにしている。2001年から始まったこの取組は、第三者の立場から公共サービス(環境への取組)を評価するという斬新な手法により知名度を年々増している。水俣市(熊本県)新城市(愛知県)上勝町(徳島県)などが環境先進地として名を挙げたのはこのコンテストがきっかけだった印象がある。今年は指宿市を初め74の自治体が参加した。その結果、1位北九州市(福岡県)。2位水俣市。3位新城市。ちなみに私が現在家を探しているエリアでもある山口県宇部市は5位に入っている。
 このコンテストについてもう少し調べてみると少し疑問が残る。このコンテストは応募した自治体に15項目90問の設問と最後に自由記述欄のある質問表を送り、回答と添付資料を提出させる。必要があればヒアリング、直接訪問する。第三者の立場から公平な比較評価すると言ってる割に非常に不確定要素が多い。
 まず評価する団体は一つではなく、その地域ごとに担当するNPOが違う。次にこれは環境という言葉の意味から仕方ないことだが質問が広く薄い。簡単な項目の説明だけで詳細な情報は明示されていない。そして添付する資料の質、量が一定ではない。熊本のNPO関係者は北九州市から提出された資料が段ボール一杯分で大変だったと言っている。
 情報過多な現代において印象で決め付けてしまうことが多々ある。それによって誤解や不理解、不都合も起きる。本来そのような社会を是正するためにNPOは存在するはずが、今回のような事態が現実に起きてしまっている。指宿市は昨年環境自治体会議を受け持ち、機運高まる中でこのような動きに呼応したことは評価できる。あるいは水俣市や新城市のように互いに切磋琢磨して環境行政の高まりが期待できるであろう。しかし一歩間違えば誤解が生じる。そのリスクも考慮する必要がある。
 環境自治体会議にスタッフとして関わった時、ENSの分科会がつまらないから水俣市に行って酒でも飲んでくるという人がいた。彼は新城市の課長補佐だった。このコンテストを期に指宿市の環境行政担当の方も外を知ってはいかがだろうか。先進地視察のような団体旅行ではなく、ひとりぶらりと町に入り、出会った人から一飯一宿のお世話になるような・・・いや、行政だけではない。環境に携わり、リードしていく全ての人たちに言える。外の情勢と熱を肌で感じなさい。
 宇部市は前述のとおり環境首都コンテスト5位に入った。しかしここ宇部では瀬戸内の海は見えない。海流に飲まれそうな樹もない。残したい風景を持つ人もいない。あるのは近代を数年間支えたコンビナート。それでもここは環境首都5位。


   

 暑くなったり、寒かったり、地震があったりで、天候が不順である。桜の咲くのが遅いとか、色々心配したが、心配した割には大きなずれはなかった。市民会館の周りの草達も4月の頭には立派に伸びてくれた。草達に少しすまないと思いながら刈った。終ったときは奇麗になったので良かったと思った。
 寝るときに思った。人間は忘れないようにメモを取るのだが、草達もメモを取っているのかもしれない。だって、毎年同じ頃に伸びるから。と。でも取ったメモを何処に置いたか忘れないから感心だ。


 縄文の森をつくろう会より
●4月12日昼、下里公民館の大楠に取り付いたアコウの除去作業をしました。10人ほど集まりましたが、クレーン車で作業できるのは1人。アコウは楠の木肌に深く根を食い込ませているため、完全に除去するまでには時間がかかりました。
●縄文の森をつくろう会の総会のご案内
4月22日(日)午前10時
 てんちの杜(揖宿神社内・ビオトープ)
 ビオトープに興味のある方は来て下さい。
 





浮来亭を発行してから12年。時々読み返してますが、楽しいです。皆さんも書いてみませんか。



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