の幸ちゃん

『お仕事モードで体重減りました』3〜4年仕事してなかったけど、昨年10月から北陸の旅館でフグ調理のバイト始めて、立ちッ放しなので、体重もぐっと減った。一ヵ月目は肉体疲労と膝痛でつらかった。口にも出さずガマンしていた。酒2杯、飲んだら、ぐっすり眠れた。二ヵ月目は精神的苦痛。遂に、昼逃げを実行。しかし、2分前に奥様に見つかり、又、仕事に戻った。この件の詳しい事は別コーナーにて。これらを経て、今はすっかり、お互いに信頼されているのかナ?
『網洗い』旅館客も居ないし、休みかナと期待していると、「手伝って欲しい」と言われ、ユニック車を運転して浜へ行くと、5つ位、大網が置いて有る。一つずつユニックで吊り、高速洗浄水(カーウォッシュで使ったりする)で網洗い。水圧が強いのでトロトロしていられぬ。網に付いたのり、コケ、虫等を飛ばして洗う。社長は別用でどっかへ行っちゃうし、一人で数枚、洗って……。こんな初体験の連続。ユニック車は看板屋さん勤務の時、経験有ったので……。こんな器用貧乏が役に立つとは。少しずつ細かい体験が旅館向きの私。そして更に又、新しい体験もミックスされて、将来有望か?
『日本海側の清酒』が凄く旨いです。米・水・醸造工程の温度のせいでしょうか?焼酎・ビールよりも常温で清酒をチビチビと飲んでいる私です。―そして又、魚が旨い。水温が低いせいか身がしまってます。はまちの出世魚も、びっくりする位旨い魚です。太平洋側の暖かい地方は、何もかもゆるんでしまうのでしょうか?居酒屋に行くのが楽しみです。
『地図と領収書』 日本地図を退屈しのぎに見てみる。20代、50代に通った道を思い出しながら地図を見ている。頭に風景が見えてくる。何気ない村道。道端の風景。早朝に通学する小学生。何気ない生活風景がまるでテレビドラマのロケの様にも思える。ふと思い出して、同じ場面に行きたい。でも、もう無理。すれ違った人間ともう一度、会えない。話せない。旅情?一期一会?居酒屋であった素敵な人々。ホンの人生のワンシーン。そして今日迄、鹿児島から来たノートのメモには領収書が貼って有る。その時の店の風景まで思い出せる。でも、それが何になる?私の記憶だけの事。人が見たら、只のゴミさ。人生って、ただゴミを作って行くだけの歩みナノカナ?
『何故、今、この旅館で働いているのか…』本当に原稿内容が後先(あとさき)になってしまったが、まず私と旅館主との出会いを書くべきで有った。――私が東京から帰鹿し、「鹿児島デザイン研究所」を自営していた頃、天文館のディスコで飲んでいた時、彼ら2人は話し掛けて来た。北陸から車で旅に出て、照国神社近くの旅館に泊まっている事等。ディスコを出て、知り合いのスナックへ行った。この頃の写真も残っている。私は翌年位に20代の日本一周に出かけた。彼らから住所も聞いていたので立ち寄った。――その後、数年は連絡を取ったり、急に会いたくて冬道を雪の中、車で近くまで行った事も有る。今さら、何を話せば良いのか…。私は途中から、引き返した事も有った。……そんな青春時代の甘さも棄て、貯蓄金がソコを付き始めた頃、就職。アクセク働いて、数年前、姉や知・友人が周囲の人々がバタバタと死去し、知ってる人に会っておきたいと、旅に出たのが、一昨年の春。富士山近くの旅館で風邪をひき、帰鹿した、50年代の【日本半周】で有る。
 旅館の30周年記念でJRとタイアップし、ふぐの料理ツアーをするので、良かったら、手伝って欲しいとの話だった。私も話半分位に生返事だけして聞いていたのだが、昨年九月に電話入り、(手伝って呉れないか)との事。早速、面接に行き、出来そうな内容だったので帰鹿し、畑の作物等を片付けた。(指宿に唐芋を送ったりしましたネ)その後、すぐ北陸へ。仕事は立ちっ放しだし、ハードだし腰痛が再度……。しかしガマンして、口にも出さずやっていたが、逃げようとしたり、今では椅子に座って作業したり、休みを貰って温泉治療に行ったりしている。何の為の加勢で来たのか。逆に邪魔している位で心苦しい限りだ。三月迄のキャンペーンだが、どうなります事やら……。


光と影
頑張らなくてもいいよ
            蒼い風


▼ブラックホール
 警察官、飲酒運転で懲戒免職!教育委員長飲酒運転で逮捕!息子が母親殺しを友達に依頼?とても常識では考えられない事件事故のニュースが新聞・テレビ等を毎日洪水のように賑わし、その都度専門家が原因らしき見解を述べているが、どう考えても明確な納得いくものにはなっていない。
巨大なブラックホールのような、心の闇が支配しているとしか思えないなと、つぶやきながら、次の紙面に目を移すと…
▼スターの復活と信頼関係
 ニューヨークヤンキースの松井秀喜選手が昨年、開幕草々手首の骨折で戦線離脱してから、四ヵ月ぶりに復帰し四打数四安打の大活躍、松井がスタジアムから消えてから、日本のプロ野球には目もくれず、メジャー一筋であったのに、あの日からテレビ観戦が復活した。今年のメジャー開幕ももうすぐである。また録画撮りに忙しくなりそうだ。
 この、復活に関連する松井選手の記事が目に入った。忠臣蔵の大石蔵之助と松井秀喜の忠誠心について触れていたが、大石蔵之助は主君のあだ討ちのため、松井秀喜はトーリ監督をワールドチャンピオンの監督にするため忠誠心を守る。その一念が早い復帰につながり全打席ヒットの、ニューヨークファンを熱狂させる活躍につながったとある。試合後のトーリ監督の談話の「この活躍は当たり前のことだし、驚きもしないよ、彼はいつも今何をすべきか、そのためにはどうすればいいか、良く分かっているからね…」と紹介されていたが、深い信頼関係があればこそのコメントである。
 ブラックホールのような心の闇も、深い絆と信頼関係があれば解消し、理解できないような事件も防げるのではと、この記事を見ながら、ちょっと納得した。
▼頑張らなくてもいいよ…
 見るともなしにテレビに目をやると、みのもんたが司会を務める番組で、「心に残る親からの一言」のコーナーがあり、それぞれゲストが思い思いの言葉とエピソードを話していた。最後に鹿児島の高校一年生で盲目のシンガーソングライターでもあるゲストが登場、彼は980グラムの超未熟児で生まれ、生後一ヵ月で視力を永久に失った。コーナーで母から子への手紙が紹介され、音楽をやることになったきっかけ、子どもに対する申し訳なさの気持ち、不安な気持ちが朗読されていたが、その中に…ちゃん「そんなに頑張らなくてもいいよ」と言う件(くだり)があり、これが母からの心に残る言葉ですと彼は語った。そして彼は言った。「僕はこれからも精一杯頑張ります」、「頑張らなくていいよというのは、まだまだ僕が未熟でその姿が切ないからです。母からそう見られないような社会人として、ミュージシャンとして成長、自立するために、これまで以上に頑張ります」と結んだ。子どもを想い、親を思いやる気持ちが画面から、ひしひしと伝わり順境もいいけど、逆境が大きく人を育てることを認識させられた。このような親子関係ができれぱ母親殺しの委託殺人は絶対に起こらなかったことは断言できる。
テロップが流れる
マンションで
若い女性の死体!
闇は続く・・



ふるさとの宝     歯笛

 3月7日、沖縄芸能連盟の31人が来宿した。五人番のアコウが取り持った縁だった。3月11日、南日本新聞にもその模様が掲載されたので、ご存知の方も多いと思う。一行はゆかりの開聞神社や五人番跡を訪ね、最後は太平次公園の五人番のアコウの前で琉球舞踊を奉納した。芸能連の玉城節子会長は「感謝と感動の一日だった」と話した。その31人の方々と縄文の森をつくろう会の面々が、夜、懇親会を持った。琉球舞踊もたっぷり見ることができた。新しい交流が始まりそうだ。
 10数年前、五人番のアコウと関わり始めた頃、指宿、山川と琉球が深い縁で結ばれていることに気付いていなかった。1837年、米船モリソン号に五人番の湧き水をわけ与えたという話の方が先に分かったためだった。五人番のアコウが琉球から持ってこられた可能性があることが分かったのは、2004年の暮れだった。それから文献や資料に当たった。五人番には1613―1879年の約270年間に1000回程琉球の使節船が来航し、その間破船などで500人程の使臣が亡くなっていた。歴史上五人番は大変重要な場所だったのである。
 大渡海岸で五人番の入り口からさらに山川方向に下った所で、国道が左に緩やかにカーブする所がある。JR指宿・山川線の鉄橋が見える所。その道路の下はすぐ海岸線で、潮が引くと狭い砂浜に波が打ち寄せている。昔は砂浜がもっと沖まであり、戦時中はこの砂浜に岩を積んで守られた家が数軒建てられ、中に雑貨店などもあったという。さらに五人番入り口近くには、満鉄館という旅館があり繁盛していたという。
 山川福元地区の墓地には、浜崎太平次と同じく南方貿易で名を知られた河野覚兵衛家代々の墓が並んでいる。昔、河野家は知林ヶ島を所有し、島津の殿様が宿泊する部屋が屋敷内にあるなど、太平次と並ぶ豪商だった。しかし、河野家の山川石墓石の傷みは進んでおり、その保護対策も急務と思われる。福元地区墓地の奥には旧正龍寺遺構から発掘された墓石も並んでいる。この中には、1786年2月15日に亡くなった那覇出身の大城仁屋という人の墓もある。山川には唐人屋敷や楼閣などもあったので、異国人墓地は他にも発見される可能性がある。ただ山川は終戦直前空襲を受け、町並みのほとんどは損壊したため、それら歴史的遺物がどれほど残されているのか不明。
 山川港はまれに見る良港だったために、藩政時代にはなくてはならない要所だった。大渡海岸の五人番を中心にした指宿・山川の歴史をもっと知れば、ふるさとに対する愛着はもっと強くなること請け合い。



 普段はどちらかというと待たせる方でした。携帯を持たず、筆まめでもない私は周りに言わせれば生きているかどうか心配するだけ無駄だそうです。忘れた頃にひょろっと手紙が舞い込んできて「あらこの人、今度は山口に住んでるんですって。まぁ相変わらず・・・」とこんな感じで32年。これでも良くなったほうだと自分では感心しています。
 ところがいま、どうやら待つ方に変わったようです。毎日、浮来亭のサイトを見ては「あーまだ最新号が出てない」と少年ジャンプを買っていた10代の頃と同じため息をついている。「あーまた同じ記事じゃん」と縄文の森をつくろう会の掲示板を見ては同じ写真を何度とクリックする。
 世の中は本当に本当に大量の情報が氾濫してて、それを取捨選択する技術だけでシリコンバレーでは大金持ちが生まれている。形の無い価値が瞬時に生まれ、同時に廃れる。考えてみればすごい世の中だ。そんな中「待つ」「待たせる」と気に掛ける「行動」がどれだけ「価値」があるのか。そう社会に問うてみようと、山口で事業を展開するに至りました。さて、どうなりますことやら。


さつま町最終レポート
     中園憲郎
 水害から半年が過ぎ被災者の生活状態を見ると復旧状態に大きな個人差が出ていました。早々と建て直し、真新しい家で昨年のお礼や近況を笑顔で話される方の一方で、あの時のまま屋根と骨組みだけの住人の帰らぬガラン筒の家がまだ数十軒。
 それは国の激甚災害指定を受けながらも詳しい復興計画が示されず避難したまま帰るに帰れず手付かずの家などです。
経済的個人差に至っては雲泥の差です。家の修繕や被害回復に、750万円を要しながらその全てに保険がおりた上、国からは生活再建支援金から二人で100万円、町から見舞金15万円、市民からの義援金20万円と、多くの支援を受けた年配夫婦もあれば、保険に入っていながらも水害保険が付いていず、一銭もおりない上、若く収入が多いからと公的資金がほとんど支給されず、住宅ローンを背負ったまま頭を抱えている会社員も居ます。
 商店街においても状況は同じです。3mを越す冠水で全壊状態の被害を受けながらも、二階があると半壊と判断されます。一階がお店の商店が多いのですが、商売に対しては個人保障は行われないので商品や、店がいかに被害を受けていても対象外です。生活を再建する為の支援金という名のネックなのです。
 国の支援金は300万円を限度とし、外壁被害に対し51万円を上限に支給されますが、家族全員の収入が800万円を越すと0円と、収入や条件等が多いのです。支援法は阪神淡路大地震後にできた、地震による被害を救済するための法律で、新潟地震では一世帯約300万円をバラまく事ができたそうですが、今回の水害被害には対応できない部分が大きかったのです。
 経過は様々でした。ボランティアの情報を知らず会社を二週間休み一人で後片付けをした御主人、避難所から帰り玄関のドロで足を滑らせ腰骨を折り入院した消防士の弟さん、新築の家ながら引き渡し直前で難を逃れた家族、被災後首元や皮膚の弱い部分から発疹の消えない御婦人、知人が数人連れて来て手伝ってくれたと思っていたら、後で10万円請求されたアバアチャン、地区住民の被害を何らかの形で保障してもらい負担を少しでも軽くしようと、被災者の会を立ち上げ勉強会や役所との交渉に駆け回る通り会会長さん、「まだ何も終わっていない、護岸工事も、区画整理も、保障問題も全てこれからだッ!」と、語尾を強くしていました。ボランティアをどの様な被災者宅に重点的に派遣するか、対象が見えてきました。年寄りや身内の少ない人はもちろん、商店や収入が高くてもローンの有る人、なによりも自然災害保険に入っていない御宅です。これは決定的でした。 ボランティアの労働提供がそのまま被災者の経済的援助に直接結び付く様な活動をと、認識を新たにした次第です。
 皆さん、保険に入りましょう。それも自然災害保障付きの火災保険にネ!
 



                  

「結婚しました。いや、再婚でした。実は、復縁です」
すると相手は「おめでとう。良かったですね」と言ってくれて、大変恐縮してしまう。
 何故かと言うと、離婚を知ったときに「なぜ?」と思われて、心配していただいた方が多かったし、離婚の訳も相手によって色々と言ってきたので、自分でも良くわかっていなかったからである。
 遠方も方にも知らせなければと、メールを送った。
すると相手は「おめでとう」の後に、色々意見を書いてきてくれた。人それぞれで、楽しく読ませていただいた。
 寝るときに、「なぜ、結婚したんですか?」と聞かれたら、なんと答えるんだろうと考えた。そしたら、離婚の第一の理由がわかった。「一人で暮らしてみたかった」だった。
 でも、こんなことを言えば、又「安間さんはいい加減だよね」と言われそうである。


縄文の森をつくろう会より

●4月22日(日)に総会をビオトープで予定しています。詳しくは後ほど。




浮来亭の庭の桜もそろそろ咲きそうです。
見に来てください。ついでに原稿も是非。



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