の幸ちゃん

『旅の途中で気付く…』体重が増加するとお腹やアチコチに脂肪が着きまくる。着く所が無くなると顔(頭)に着くんですね。耳の上にメガネの跡がクッキリ。ああ、顔まで太って来たと!末期症状来たる。
『ジュースより安い朝食』四国・高松のビジネスホテルで朝食百円と言われ、予約した。ジュース一本、コンビニメニューより安い。内容はミニサラダ、コーヒー、トースト、焼そばの小鉢盛りと、私には充分だった。部屋代金に原価分が入ってるのか、不思議な料金だった。
『出稼ぎ旅館での食事内容』メニューはふぐ料理をメインとしており、殆んど毎日、ふぐの部位が賄(まかな)い・おかずとして、出ます。鹿児島では腰痛で、余り動けず、酒ばかり(?)の生活だったが、客の予約が入ると前日からの仕込みなので、ハードな業務。四年振りに仕事再開し、足腰も痛かったが、「お仕事モード」に体調復帰。お腹はへこむし、胃腸も爽快。良く眠れるし、すこぶる快調。今の仕事は来年、春迄だが、日本全国の棲み込みバイトを探しつつ、残りの人生を生きましょか。こちらは天国です。今迄、鹿児島にくすぶってた自分がバカみたい。悩みを持って考え込み、眠れぬ夜もウソみたい。若女将の料理が旨いので、食べ過ぎない様に気を付けています。酒量も五分の一くらいの減ったのです。アトはこれで宝くじでも当たれば、私の人生、バラ色かナ?…
『旅館のお客が言った』(いい所ですね)と。もっと、ゆっくりして行きたいとの事。旅館主は子供の頃から、ここに住んでいるので、考えた事ないとの事。本当に天気も風景も御馳走の一部だと考える私です。
『海の男に休みなし』一般人はカレンダーを意識して生活してるでしょう。海の男に休みは無いのです。早朝四時頃、定置網に船で行き、獲れた魚を市場へ運び、その日の収益となる。いけすを持っている人は、エサやりに行く。普通の人々は「明日、休みだから、早朝迄、クラブで飲んでカラオケ…」と考えるでしょう。私も大変な処に来てしまったみたい。労働基準法はココには有りません。私も好きで、生きる為、来たので、「腰が痛い」のと、言っておられず、ガマンしております。誰をウラむでも無し。正直、鹿児島に居た時より楽しいし、充実感有るし、この年にして感動しまくり。又、給料(お金)をGETする事の大変さを昔以上に感じております。
『旅館の業務内容と私』親方がフグをさばいた後、身に付いている筋やヌメリ状の物を除去します。皮にトゲが付いている物を機械で取る。他にも色々と下処理が有り、フグ料理の値段が高いのが判る。タイもウロコ取りする。いけすにはフグ・タイ・カンパチがおり、それぞれ調理方法も違いし。タコも海中に居るので、目で見つけた物はタモやヤリでGET。その夜にはタコ刺、タコ飯が、まかないで口に入る。タコやフグヒレのぬめり取りが一番、大変。ナカナカ、取れない。食べる時は楽しく、おいしいが、その前の下処理を自分でやってみて、居酒屋での値段が高いのが判って来た。


さつま町災害レポート
                 中園

 指宿菜の花マラソン大会の運営や、ボランティア、咲かせ隊と、皆々様お疲れ様でした。今年もバンザイ隊に参加しボンタンも頂き、ヨッパライ所かセクハラ男の名前迄貰い、大変喜んでおります。
 残念ながら、心肺停止で除細動機を使い枚聞神社で救急車を呼ばれた方が、その後無事だと良いのですが………。
 それでも、今大会を多くの人が満喫した事でしょう。
 さて、前回文句が多く内容のなかったさつま町災害レポートを、もしも万が一に備えた準備の一役に、被災者の一助になればと、今日はシラフで書いてます。
 集合場所から現地に着き、5〜7人に別れ被災者宅に向かいますが、家族連れや、職場仲間、個人、慈善団体等、即席の混成チームです。
 家人から被害状況を聞き、どこから始め、どこ迄やるのか?御節介焼きが居ればいいのですが、居なければ、アナタ!がやるしかありません。
 何をどうしたらいいのか解らない老齢者宅もあります。新築の家も……。これは、実際は家財を捨て、我家を壊す行為です。どこかで割り切ってもらうしかありません。そして、それは後日、本格的修繕の費用に大きく関ってきます。壁や床の断熱材は一杯に水を吸い、時間を置く程タル木や柱を弱らせ、後々、白アリと被害を呼びかねません。又、泥流や土石流の前兆の土の臭いのするドロを床下に残しては暮せません。それでも最近は、費用のかなりの部分が個人にも出る様になりました。
 災害ボランティアに来る方々は意識や志気が高いとはいえ、その日初めて会ったばかりの、言わば烏合の衆です。活動は安全第一です。しかし、ほって置くと、一所懸命頑張ります。特に体力に自信の有る若者は力まかせに必死で頑張り過ぎます。余裕のない作業は細かいタル木を渡ったり、ハシゴに登ったり、バランスの必要な仕事に、危険を招きかねません。
「ガンバらんでョー。」「水飲んでョー。」「一服してョー。」と、云い続けますが、それでも狭い床下で中腰になり、粘土状になってスコップにまとわり付いたドロを、重たい割に少ししか掻き出せない。キツイ先頭に限って、いつまでも替りません。ですから、最初に私から替り、サボッてると、やっと、一人、二人と休み始めます。そこで、夏の小さな巨人が“塩”です。小ビンに詰めてポッケから薦めると、炎天下、一日4Lもの汗と水を飲まねばやってられない人達が、手に手を出します。チョットした人気者になれますョ。
 手順も良くなり、指揮所はアテにせず、区長と一緒に、次々被災者宅を進む中、戸建アパートに、すでに大工さん達が入っていました。チームは合流して行き、13〜14人に増えており、次の現場を探していたので、若頭風の職人に「手伝おうか?」と聞くと、「ウン!?」と、半信半疑の返事。数分後、全員で行くと、まるで小額の宝クジにでも当ったかの様なオドロキが手に取れる。アワてて電動ノコを取り出し、泥水を出しやすく、床板やサン木を喜んで切ってくれる。シマイには「ボランティアの方が働いてるぞッ!。」と見習いとケンカする始末!暫くして、両手にレジ袋一杯の飲み物を渡してくれた。大家は県外に住んでおり、大工さん達へのボランティア提供だったからです。
 経済的余裕のある家から、電気・ガス・車輌等、業者が入ります。請負金額は決っていたでしょうが、「少し安くしてやってネ。」と頼むのを忘れずに帰りました。余談ですが、包み金を渡すオバアチャンもいます。その時は、遠慮せず感謝して懐に入れず、良くない事だと伝えます。又、残っていた床下での作業を早々終わらせると、主人から稲の苗を造るプラスチック製の苗床のドロを落としてくれと頼まれました。(これは災害とは関係ないだろうッ、元々泥だらけだッ)とは云わず、ニッコリ笑って引き受けました。容器のスミやミゾに一粒も残す事なく、連れの高校生に何度もやり直させ、キレ〜にッ洗ってあげました。2時間で数枚しか洗えなかったのは、云う迄もありません。誰の命令や束縛も受けないボランティアは常に自己判断と自己選択をせまられます。個人の責任で線引きを行い、活動を理解してもらい、災害救援運動が広がっていけばと思っています。カシコ



         
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琉球侵攻400年を忘れないために


 指宿大渡海岸の巨樹五人番のアコウ(推定樹齢300年)が台風で倒れたのが2004年8月。移植後丸2年、アコウは元気になった。同じ大渡に五人番という見張り番所が出来たのは1660年以降。1659年には山川薬園が出来ている。いずれも19代藩主島津光久の命による。山川薬園では主にリュウガン〈龍眼〉、レイシ(茘枝)、ハズ(巴豆、毒を排す)、キコク(枳穀、ダイダイ)、カンラン(寒蘭)などを栽培していた。これらは中国東南部に産する亜熱帯植物。「五人番のアコウは首里城から運んできた」という言い伝えが大渡地区にあり、アコウもそれらの植物と一緒に運ばれてきた可能性がある。
 1609年、18代藩主島津家久(忠恒)は、幕府の許可を得て船100艘、兵3000人で琉球へ侵攻。同年2月28日、山川熊野神社で義弘、家久は、将兵の送別の宴を開いた。3月4日山川から出兵、5月25日までに琉球を制圧した。東南アジアや明との貿易で巨利を得ていた琉球から、その権益を奪うのが主な目的だった。これ以後1879年、沖縄県となるまで、琉球は薩摩の支配下にあった。琉球は明の時代からその家臣でもあったので(冊封体制)、琉球王国は中国、日本の二重支配下で、様々な辛苦に耐えなければならなかった。
 山川港には、1613年から1879年まで1000回近く使節船が来航している。1634年から1850年には、18回にわたり江戸上りも行われた。いずれも薩摩や幕府の藩主や将軍の代替わり時に慶賀使を、琉球王の即位時に謝恩使を派遣することであった。薩摩へは藩主やその子息が病気をすれば見舞いに行くなど、ことあるごとに使臣を送った。
 江戸上り一行は、1660年以降山川五人番で臨検を受け鹿児島に上陸。常宿である琉球館で2ヶ月間ほどの準備期間を経て川内久見崎から出港。瀬戸内海を通り大阪から伏見に上陸。ここから陸路、江戸へ向かった。王子クラスの正史,副史以下、楽師や楽童子など総勢100人ほどであった。往復には1年ほどかかった。
 使節団は航海の無事を祈願あるいは感謝し、山川から開聞まで鳴り物入りで練り歩き、琉球漆仕立ての立派な扁額を開聞神社に奉納するのが慣わしだった。参詣の通り道山川利永地区には、「琉球傘踊り」が現在も残っている。
 那覇港を出た使臣船は、七島灘(現在のトカラ列島)の難所を通らねばならず、嵐で慶良間諸島まで流された船もあった。270年間に500人前後の使臣が破船のために亡くなっている。山川から開聞地区にかけても、多くの難破船が打ち上げられたという。山川旧正龍寺の遺構からは、1786年2月15日に亡くなった、那覇東村の大城仁屋という人の墓が見つかっている。「上り口説」「下り口説」という琉球舞踊がある。これらは琉球王国がその存亡をかけ、使臣団を繰り出した中から生み出されたものである。
 1879年以降、五人番には来る船もなく、五人番は歴史の表舞台から消えていった。人々の記憶からも消えてしまって久しい。




  
蓮太郎

石田衣良という作家を見つけた。ブロードキャスターという番組でコメンテーターをしている人である。感覚が合いそうなので本を読んでみた。やっぱり馬が合いそうだ。
 文中に「心の天気」とあった。何となく納得した。
 寝るとき思った。明日の「心の天気」予報は晴れだな。と。




ブログ「指宿日和」1月29日より


指宿を離れることにしました。
環境教育を柱にした松下村塾の実現に向け、事業を立ち上げるべく山口に乗り込みます。
指宿になぜ移住することにしたのか。あまり考えたことがありませんでした。
昨年の夏の或る日。指宿の人生の先人から問われました。「なぜ指宿を選んだ」私は口を噤んでしまいました。そういえば何でだろうかと。その時、横にいた奥さんがこうつないでくれました。「(当時)2年前、まだ私が京都にいる時に、指宿に住むことを決めたって言うんです。何で?って聞くと、『指宿は空が広いんだよ。』って言うんですよ。なんだかわかんないけど、空が広いのが理由かなって・・・」
しゃれたことを言うつもりはなかったんですが、そう言ったのは覚えてます。とある方の庭でビールを呑みながら、少し上を向くと空が広くて気持ちよかったのを、良く覚えています。海の向こうに大隈半島の山々がクリアに聳えてる独特の風景に見せられたんだと思い返します。そこで暮らしている人たちの風情みたいものに憧れて、自分もそう暮らせないかなと思ったんだと離れて思い出します。
そう、もう離れたんです。
その時、問いた先人から、老子第41章をいただきました。
士聞道、勤而行之。
中士聞道、若存若亡。
下士聞道、大笑之。
不笑不足以爲道。
・・・
ですが私にとってはその方から直接いただいた言葉のほうが沁みます。
「はやく失敗しなさい。」
今後も「指宿日和」は続きます。


「須田君のブログから」  皓以兆


 あっという間に1年が過ぎ、須田君が指宿を後にしました。前向きに「環境教育の松下村塾」を立ち上げるという目標をもって、がんばっていくそうです。がんばってください。指宿から応援しています。さて、彼のブログに「老子第41章」のことが書いてありましたので、興味をもたれた方も多かったことと思います。
上士聞道。勤而行之。
中士聞道。若存若亡。
下士聞道。大笑之。
不笑。不足以爲道。故建言有之
(訳)
すぐれた人間は道を聞くと、努力してそれを実践するが、中等の人間は道を聞くと、半信半疑の態度をとり、下等な人間は道を聞くと、てんで馬鹿にして笑いとばす。彼らに笑いとばされるくらいでなければ、本当の真理とはいえないのだ。
(もっとくだけた訳)
前ばっかり見ぃひんでエエやん
後ろ向いてもエエやん
戻ってもエエやん
繰り返してもエエやん
遠回りでもエエやん
失敗してもエエやん
不器用でもエエやん
何回でもやったらエエやん
弱かってもエエやん
強くなくてもエエやん
泣いてもエエやん
弱いから気付くこともあるやん
急そがへんから気付くこともあるやん
どんな道選んでもエエやん
どんな生き方しててもエエやん
スベテのモンは
何もないとこから生まれ
そんでそれは結局
静かな何もない
原始の世界に戻って行くんやから


 



今度の冬は暖かかったようですね。かえって体調がおかしかった感じがしました。
 今月は原稿がたくさん集まり、ありがとうございました。来月もお願いします。






    縄文の森をつくろう会  07.02.24

 活動報告
◆太平次鍋
日時 1月1日(元旦)日の出
場所 太平次公園
内容 鍋をつついて初日の出を
●300人くらい用意した鍋も、直ぐになくなりました。

◆菜の花マラソン
日時 1月14日(日)18時
場所 マラソンゴール地点
内容 最終ランナーまで応援
●最終ランナーは9時を過ぎました。大変楽しかったです。

◆尾掛海岸の清掃
日時 1月21日(日)朝8時より
場所 尾掛海岸  モーテル香港前
内容 ごみ拾い 
●小雨にもかかわらず、30人くらい参加して頂き、たくさんのごみを集めました。きれいになりました。

◆菜の花マーチの応援
日時 1月27日(土)午前9時から 
場所 宮ヶ浜駅付近
日時 1月28日(日)午前8時から
場所 魚見岳頂上  
●全国を回っていらっしゃる方から、日本で二番目に良い、と言われました。一番は秋田県の鳥海だそうです。

◆てんちの杜
てんちの田に遮水シートをボンド付けして敷き、窯土を締め固めながら入れました。ボンドが臭くて頭が痛くなりました。
  
初めて水を流しました。
石組みが1/3ぐらい済んだので試験的にポンプから水を流してみました。

連絡事項
◆今年度の会費を納入されていない方は納入をよろしくお願いします。
 ・尾辻(市役所税務課)22-2111 ・永田耳鼻科22-2327
 ・今村(マルイ)22-4255    ・安間(市民会館)22-4105
◆縄文の森をつくろう会のホームページ
¨   http://www.synapse.ne.jp/jomon-mori/
◆てんちの杜のホームページ
    http://tenchi2006.exblog.jp/i4
    http://tenchi.at.webry.info/


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