の幸ちゃん

『大分県の思い出』
A、20代に良く九州圏内の温泉等を車で走破した。水分峠へ着いたが、山中で何も無く、昔の標識が一本ポツリと立っていた。 B、同じ頃、焼鳥屋のマスターが大分県出身と知り、軽ワゴン車で、国東半島の空港手前の町(彼の出身地・生家)へ行った事も有る。 C、昨年「50代日本一周」で水分峠へ来て、びっくり。あの山合に高速道路・インター・「道の駅」―はては湯布院行きの道が整備されて、見違える程だ。棲んでいたタヌキもびっくりか?……TVで「昭和の町」と何度も報道されたので豊後高田市へ宿泊する事にしたが、宿も判らず目に着いた、商工会議所で尋ねる。予約なしの宿泊で、食事は旅館の紹介で近くの居酒屋へ。旅先ではこのパターンが多い私。まず公共機関、観光案内所等を訪ね、知・友人を伝って紹介して貰う。間違いが少なく安心だ。地元の人とのコミュニケーションが一番楽しく、かつ面白い旅となるのだ。 D、今回の北陸の旅館の仕事の件で早目に旅立った私。豊後高田の博物館を見逃したので再度、同じ旅館へ。後で聞くと、観光客は来るが、泊まる人は誰も居ないとの事。私はアノ世からよみがえった寅さんか?昭和の街並の旅館と女将。私は「男はつらいよ」のポスターの中でポーズするかの様に、一人旅に入っていた。
『宝くじ話』ナンバー4の数字が一字違いが多かった事を書いた。同じ「道の駅」で購入した宝くじ。行き・帰りの両方共、一字違いだった。こんな奇遇って有るの?もう20回近くも有ります。余りものハズレ差に店員に言ってしまった。「私がこの番号を買ったって、みずほ銀行にチクってないですか?」と。「そんな事は有りません」と売り子嬢。
『50代の人生修業』九月に面接に行った北陸の旅館。北海道の紅葉写真を撮る位の積りで早目に出立し、寄ってみた。裏山のいのししが出没し、家周囲を荒され、片付けて欲しいと、早速(仕事開始)。来客が有れば、ふぐの調理補助。宴会の片付け・皿洗い。予約なしの日は草取り、部屋、ベランダ等、建物内・外の掃除。建物・駐車場も広いので、やる事は沢山有る。今まで私がやって来た仕事の大半が今、ここで役立っている。農作業していた事が除草に役立ち、館主から「草取り名人」とまで呼ばれる。空調工事の仕事は、部屋のクーラーのフィルター掃除。水道屋でモルタルを使っての配管済みの穴埋め等が、欠損箇所のセメント工事に役立った。大型免許は旅館のマイクロバスでお客の送迎迄、依頼されている。バスの掃除もしたが、雇ってもらえるならバス会社の掃除専門も可能か?等考えつつ、テキパキと内も外も掃除。
 トイレ、風呂掃除。側溝の砂上げ等、何でも、やっております。スポーツ?ダイエット?日本海の潮風が私を受け入れて呉れたのか、鹿児島程の汗もかかず、爽やかに生きており、お腹もへこみ、体調もすこぶる良し。長生き出来そうだ。

『人生ケチケチ作戦』 電気代が値下げしたと云う割には千円も上った。夏になって、扇風機とベープマットを使用したせいか? コンセントを抜き、出かける時は、冷蔵庫以外のブレーカーを落とす事にした。少しは金額が減るか? ●ガソリンも値上がりしたので、水汲みも止めた。家の水道水をペットボトルに詰め、一日置いてカルキ・塩素抜きをしてから使用している。金魚を飼う時、水道水はこうしなさいと習った事を思い出したのだ。 温泉も近隣で、無料で水汲みが出来る所を優先する。用事はまとめて周遊して一遍で済ませる様にしている。『同A』買物して来たパックの中に刺身用、地鶏用醤油、うなぎ用のタレが残ったら、全てを煮物用に使います。ダシも混入されている物も有り、あとは自分のお好みの味に調整して下さい。 『同B』洋服等、物を一つ買ったら、一つ棄てる。雑巾等に落とす等すると、物は増えません。思い出が有っても使用不能なモノは思い切って棄てる事です。不要物品はリサイクルショップへ持ち込むか、フリーマーケットで売買しましょう。
『私の食生活C』(おばあちゃんの原宿)で有名な巣鴨とげぬき通り奥のアパートに居を構えていた私は彼女が出来て、同棲する事になった。場所は駅前のハイツ。引越業者の人が近すぎて、びっくりしていた。一日で引越も終了。周囲に中華料理店が有ったので、2人で良く中華や、炉ばた焼に行った。お互いが知っているレストランへ食べ歩くのも常だった。彼女はうなぎ店に勤務しており、私も手伝いバイト風にデパートのマネキンで行った事も有る。当時、元ザ・タイガースのサリー(岸部修三・現/俳優の岸部一徳さん)も購入に来られ、(タイガースのファンでした。サイン下さい)と言おうと思ったが、奥様(?)と同伴だったし、周囲の雰囲気でやめた。私はただ、「いらっしゃいませ」「有難うございました」と大声を出していた。売れ残りのウナギ弁当は彼女が安くで購入して来て、自炊より、残り物(出来合い)を良く食べていた時期。――体が空いてる日は、行きつけの炉ばた焼にパートで手伝いに行っていた。若い20代前半だったので、この頃は良く働いていた。演歌のカラオケを覚えたのも、この頃。池袋のバーでバイトし、彼女と出会った。お客さんだったが、別の女性とも同時に交際していた。バーの片隅にはドラムセットも有り、ギターの先生が私に良く、歌を教えて呉れた。ある意味、「人生の華」だった頃か?体・健康も考えず、飲むわ、喰うわ。行け行けドンドン(?)の時代だった。彼女が別の男と交際し始めて出て行った。給料の半分以上の家賃だったので、再び引越。線路添いの音がウルさい、安アパートへと棲み変えた。金も無く、再び、定食生活が始まる。銀座より八重洲よりの印刷製版会社へ、勤務も変わった。――これが又、社員が飲み助ばかり。一日置き位に飲み歩いた。会社隣のビル3階に居酒屋・スナックが有り、常連になれば店内に泊りも出来て、目茶苦茶な人生だった気がする。薩摩料理の店も安くて、週一位は通ったか。今日は浅草。明日は小岩だ。新宿だと、会社員が知ってる店を飲み歩き、山の手線電車は都内をグルグル回っているので、電車内で眠り、飲む所で降りる。会社近くの駅で降りる等、自分でもびっくりする位ヒドい生活をしていた。――新宿のディスコでバイトしている頃は駅前ビル内に世界料理の店が有り、各コーナーはインド等、各国の味に分かれていた。私はナン等、ビールのつまみを良く食べていた。――東京生活にも飽きたか?これ以上居ても仕方無いかと考えていた。父の死後、母が「帰って来て!」と何度も手紙を呉れたが、良い仕事も無い。給料も安いし…。帰りたくなかった。


 
            蓮太郎


 高校時代のテニスの仲間の具合が悪い、と言うことで、今年二度目の静岡行きとなった。
 新幹線での喫煙はかろうじて一両あった(鹿児島ー八代はなかったが)ので嬉しかった。でも以前に比べて吸う人が少なくなったような気がした。
 乗り物に乗る時に本を読むのが好きだから当然本を読んだが、読んだ本がややまずかった。伊集院静で、彼は一年中「飲む・打つ」の人で、内容もそんな感じばかりである。身体のために節煙・節酒とか食事に注意とかを色々考えるのがバカらしくなるような本で、何故か嬉しくなった。
 磐田に着いて6人で食事をした。当然飲むと思っていたら、4人は飲まなかったし、煙草は私しか吸わない。話は弾んだが飲まないので早いお開きとなった。二次会に行く雰囲気は全然無い。仕方ないからマージャンを付き合ってもらった。
私は時代の流れに逆行しているのではと思いながらすぐ、ぐっすり寝てしまった。



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    2006年を振り返って

 12月16日、湊公民館で縄文の森をつくろう会、浮来亭の望年会がありました。鹿児島、開聞からも来てくださり、40人ほどでわいわい言いながら鍋を囲みました。何かほのぼのとした空気の中で、今年も暮れたことを実感しました。実はこの日、懇意にしている友夫婦が遠くから来てくださり、昼食を一緒に食べました。顔をお互いに見るだけでいいのです。今年も精気に満ちた顔を見ることが出来ました。
 縄文の森をつくろう会はいつも同じ調子。「心が通じる先に希望がある」来られた皆さんそういう顔をしているせいか、話が弾み焼酎の減りが早い。そのまま二次会へ流れて、記憶定かならず。
 10月から11月にかけて、姶良町歴史民族資料館開館20年記念に「戦国武将 島津 義弘」特別展がありました。義弘ゆかりの居城や、国宝に指定された島津家文書(写真複写)、文禄慶長の役や関が原合戦に因んだ貴重な資料を見ることができました。特に義弘が関ヶ原から生還した者たちに与えた感状は見ものでした。関ヶ原に集結した義弘の軍勢は約1500。敵中突破して生き残った者80。10月3日義弘は帖佐に帰り、直ちに200石から10石加増の感状を出しました。しかし、これらの恩賞は、関ヶ原合戦から34年、義弘の死後15年が経過した寛永11年(1634)にようやく支払いが終わりました。薩摩藩は慶長元年(1596)から明治維新に至るまでの藩政270余年間、一貫して郷中教育を行いました。義弘はその先頭を走り、不撓不屈、無私の精神といった薩摩独特の伝統の礎を築きました。宝暦3‐5年(1753‐55)木曾川治水工事の平田靭負(ゆきえ)や天保の財政改革をした調所広郷が現れ、その後島津斉彬、西郷、大久保へとその気風は受け継がれ、明治維新となったのでした。
 もう一つ。12月に入って明治神宮の杜を散策する機会に恵まれました。全国巨樹・巨木林の会が主催したものでした。明治神宮は明治天皇、昭憲皇太后をおまつりする神社で、森厳な内苑と様々な施設を有する外苑とからなっています。創建は大正9年11月1日(1920)。内外苑一帯にうっそうと茂った常盤の森は全国から送られた樹木でできた人工林。日本一の鳥居をくぐって本殿へと向かい、ここでお祓いを受けてから3時間ばかり森の中を巡りました。この日は快晴微風。真っ直ぐ高く茂ったカシやシイなどの梢から、絶え間なく黄金色の落ち葉が降り注ぎ、梢を透かしてまぶしい太陽の光が見えます。散歩道から森の中に入ることや木の枝や葉を取ることは厳禁です。木々の下にはどんぐりが山のように降り積もり、時折吹く風が、落ち葉を舞い上がらせています。木立のずっと向こう側に大東京の高層ビルが林立しているのが見えます。何と不思議な光景でしょう。神宮入り口からすぐJR渋谷駅です。駅前は人の洪水、身動きがとれませんでした。
 今年も残す所あと数日。妙円寺様(メエンジサア)参りの歌から、その最後尾の歌詞を。「無心の蔓草今も尚 勇士の血潮に茂るらん 仰げば月色縹渺と 転(うた)た往時のなつかしや」 よい年の瀬と新年をお迎えください。



どうしようもないわたしが歩いてゐる
山頭火は旅先の酒食や庵の世話、果ては飲み屋、女郎屋の金まで句友に無心した。また、離婚後も妻のもとに何度も足を運ぶダメ人間だった。「絶対友達にはしたくないが、どこか憎めなく、気になる人」だと仲畑さんはいう。「けさは猫の食べのこしを食べた、いくらかでも稿料が貰へたらワン公にもニャン子にも奢ってやらう、むろん私も飲むよ!」こう日記に書いた5日後、句会の最中に休んでいた隣室で念願の「コロリ往生」を遂げる。山頭火の至った境地を松山の庵に訪ねる。


   縄文の森をつくろう会  06.12.29

活動報告

◆11月25日。昨年北指宿中みどりの少年団の皆さんと植樹した、ナカムラの森の手入れをしました。風で倒れた支柱を立て直し又新たに、ツバキ、どんぐりを植えました。
 校長先生はじめ、北指宿中みどり少年団、引率の先生有難うございました。








◆12月16日 湊公民館で鍋を囲んで望年会をしました。鹿児島、開聞からも来ていただき、40人ほどでわいわい語り合いました。焼酎もうまく、二次会の記憶定かならず。何か腰を痛めた御仁が一人、それでもよろよろと最後まで飲んでいる姿はりっぱでした。
 翌17日は朝から地区の方々としめ縄作り。宮ヶ浜信楽寺のアコウ(幹周14.6m 日本一の大きさ)にしめ縄が〆られました。夜はまた飲み方があったということですが、腰痛の御仁は焼酎が効いて痛みも忘れ、よく動き回っていたとのことでした。目出度し、目出度し。

活動予定

太平次鍋
日時 1月1日(元旦)日の出
場所 太平次公園
内容 鍋をつついて初日の出を
菜の花マラソン
日時 1月14日(日)18時
場所 マラソンゴール地点
内容 最終ランナーまで応援
尾掛海岸の清掃
日時 1月21日(日)朝8時より
場所 尾掛海岸  モーテル香港前
内容 準備するもの  軍手 飲み物
少雨決行します 
皆様のご協力よろしくお願いいたします

連絡事項
◆今年度の会費を納入されていない方は納入をよろしくお願いします。
 ・尾辻(市役所税務課)22-2111 ・永田耳鼻科22-2327
 ・今村(マルイ)22-4255    ・安間(市民会館)22-4105
◆縄文の森をつくろう会のホームページ
  http://www.synapse.ne.jp/jomon-mori/


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