の幸ちゃん

『拝啓(浮来亭)読者殿』A
      旅館修業編

 
北陸の旅館での面接は終了した。一日で帰鹿する予定だったが、宿泊料は要らないので、明日、女風呂の掃除をして欲しいとの事。女性客が少ないので、湯を抜き大掃除したいとの事。《2泊目》風呂はボイラーで24時間、波立つ様に沸いている。翌朝は経営者とイケスへ。鯛800匹、カンパチ、フグ3000匹がイケスの中で回遊している。上からエサ袋をアチコチのイケス口へ流し込む。山育ちの私にとって、波の上を上下左右に動く物の上を歩くのは、腰に響く。次のイケスへ渡れない。もう少し近ければ良いのに。海に落ちそうで恐い。経営者もアキれて、2日目は「もう邪魔だから、来ないで良い」と呆れ顔。2日目、女風呂の掃除も終わり、ふぐ調理人のM君を紹介された。彼は20歳。どこかで見た気がすると思えばV6の三宅健似だ。――良く、そう言われると言う。昼間、返事もしない、とっつきにくい青年だったが、夜三人で飲み始めたら、「じいちゃんに定置網を好きな様に扱って良い」と言われ、海の男になる決意をしたと、問わず語り。一気に意気投合。それでは明日こそ、帰鹿しようと話していたら、電話でお客三人、予約入る。「ふぐフルコース」との事。(吉屋さん、明日、ふぐ調理の特訓だ)と三泊四日、決定。あらら…。《3日目》水が旨いのでM君と「雪解け水かい?旨いね」と私。ポンプアップで地下水との事。まろやかで旨い。M君、いわく、「南極の氷の水が一番旨いですョ」とのたまう。「飲んだ事、有るの?」と私。「イヤ無いです!」と彼。すかさず「冗談も氷山の一角かい?」と言ったら「旨い事、言いますね」と笑ってた。――翌日、午前中は板さんとM君と私とで、フグ調理の下ごしらえ。夕方から料理準備。私もバンダナと前かけで洗い物等のヘルプ。途中、板さんが吸い物の味を、私にも試飲させて呉れ、素直に感想を述べた。板さんの高級割烹風の味堪能出来た。本当に良い旅だった。旅行と云うより「人生の旅」だったと思う。――さて、帰りは。舞鶴〜鳥取〜出雲〜津和野〜山口〜下関〜大分、豊後高田へ。(昭和の町)としてTVで脚光を浴びている町で一泊。何となく、青春がよみがえる旅でした。『永田先生に』(死ぬ時は死になさい)と言われた事が有る。部屋で一人寝していると、朝、起きれるか。このまま一人で死ぬのでは?と考え、おびえた事も有る。幾ら、隣に好きな人が居ても、死ぬ時は一人だ。誰も一緒に死んでは呉れない。列車事故、交通事故、ガケくずれ……?その本人に突然来る、死から逃れられない。先生は、そう云う意味で言われたのだろう。死も一つの運命と受け止められたら、少しは気が軽くなって来た。私も死が来る日迄、生き続けよう。少しは元気を――生きる気力を貰った気がした。

『憧れた職業』 実際には実現しなかったけど、憧れていた職業を書いてみたい。――高校の時、同級生が「モデルの仕事をすれば?」と言ってくれた。当時、私って、そんなにイケメンだったのだろうか?言われた理由を聞けずに50代になってしまったけど。当時、MG5(資生堂)のモデルが黒い犬と一緒にCMに出ていて、かっこいいと思っていたけど、今年前半、ブクブク太って(失礼…)、保険のTVCMに出てましたネ。気付かれましたか?―さて、私の話。小説家に憧れ、文章作法の本を購入し、一作は応募した。20歳前後は自分の曲を売りたかった。歌手になりたいと云う意味では無いにしろ、芸能界に少しは憧れていた。面白く、楽しそうだし、色々な処へ行って、おいしい物、食べているし……。動機が不純ですか?――私の作曲品では森昌子さん向きや由紀さおりさん向きの曲も有り、売れて、お金が入れば、指宿だの盲導犬協会等に寄付したいナ。 
 カメラマンにも憧れて、写真展を見に行くと、私にあんな作品は撮れない。結局、何にも才能が無いと気付くと、自分の人生が判らなくなる。勿論、商業デザイナーにも憧れて、沢山の修業本を購入し、展示会にも行って勉強し、デザイン学校へも通ったが、これらの授業料(元手)を何も取り戻していないのも哀しい。只々、入手した金をバラまいただけの人生だったのか?大成功すれば東京に家を建て、両親を呼び寄せる事も考えていたのだ。本当に人の夢は儚(はかな)い。

『寿命』カタチ有る物は壊れると云う。お金の無い時に次々と物が故障。全ては寿命か。車のタイヤがパンク。ビデオデッキも写らなくなり、リサイクルショップへ走り、それでも写らず、電気屋さんに修理依頼。カーオーディオのエコライザーも壊れて、テープもラジオも聴けない。淋しい車内のドライブ。出費は重む。私の腰も痛む。私まで寿命の様である。



        
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山川港は日本の臍(へそ)だった


 大渡の五人番のアコウが台風で倒れたのが2004年8月。丸2年が経って、アコウにまつわる話が色々と出てきた。五人番という見張り番所が出来たのは1660年以降。1659年には山川薬園が出来ている。いずれも19代藩主島津光久の命による。山川薬園では、主にリュウガン〈龍眼〉、レイシ(茘枝)、ハズ(巴豆、毒を排す)、キコク(枳穀、ダイダイ)、カンラン(寒蘭)などを栽培していた。これらはすべて中国東南部を中心に産する亜熱帯植物。「五人番のアコウは首里城から運んできた」という言い伝えが大渡地区にあり、アコウもそれらの植物と一緒に運ばれてきた可能性が高い。
1609年、18代藩主島津家久(忠恒)の時に薩摩は琉球へ侵攻。これ以後1879年、沖縄県となるまで、琉球は薩摩の支配下にあった。琉球は中国の明の時代からその家臣でもあったので(冊封体制)、琉球王国は国の存続をかけて、中国、日本の二重支配下で様々な辛苦に耐えなければならなかった。山川の五人番には、1613年から1879年まで琉球王国の記録に残っているだけでも992回使節船が来航している。琉球船は五人番のアコウにもとも綱を巻いたと言われている。
1400年代後半からは、開聞岳を目印に、多くの南蛮船が山川に来航するようになった。唐通詞(通訳)が常駐し、中国やポルトガル船が頻繁に往来し、やがて山川には唐人屋敷も出来ていった。当時の山川港の喧騒が偲ばれる。山川港での歴史上の出来事を拾い上げてみた。
1546年12月 薩摩の住人ヤジローはポルトガル人アルバレスの船で山川を脱出。
1549年7月 ヤジローはフランシスコ・ザビエルを山川に連れてくる。(教科書では最初の日本上陸地は鹿児島の祇園之州となっている)
1592、1597年(文禄、慶長の役 朝鮮出兵)2度にわたり島津義弘は兵を出した。50余艘で川内の久見崎を発航したのは慶長2年3月。両年とも山川の多くの水夫たちが動員された。
1609年 薩摩は軍船100艘、兵3000人を山川に集結させ琉球に侵攻。
1705年 沖縄からカライモを持ち帰った前田利右衛門は、山川廻船問屋の豪商、河野覚兵衛の水夫(かこ 廻船の食事あるいは事務の係り)だった。岡児ヶ水にある利右衛門の墓標は七代覚兵衛が頌徳碑と共に1846年に建てた。利右衛門は子供と同船していて遭難し家門は途絶えている。河野家は一時指宿の知林ヶ島も所有し山川の殿様と言われていた。西郷隆盛が徳之島に流される時も河野家の船が使われた。
1728年 薩摩の港〈山川港ともいわれている〉を大阪に向かった船が遭難。カムチャッカ半島南端に漂着。17名の乗組員の内15人がコサック隊に殺害され、ゴンザとソウザだけが生き残る。ゴンザは世界初の露和辞典(露薩摩語辞典、収録語12000)を編集。21歳で没。
1812年3月 伊能忠敬は屋久・種子への渡海のため山川港で2週間風待ち。
1837年8月 米船モリソン号が日本人漂流民7人を乗せ山川港に来航。薩摩藩は砲撃して退去させ、日本人の帰国は叶わなかった。
1858年3月 幕府練習艦日本丸(後の咸臨丸、勝海舟艦長)山川港に来航。指宿で湯治中の島津斉彬は、早馬で知らせを受けたいそう喜び、翌朝日本丸まで出向いた。船長カッテンディーケをはじめオランダ船員達とも歓談。さらに集成館で歓待。同年7月8日斉彬天保山で砲術操練を観閲、帰途発病。16日急逝した。
1859年1月 西郷隆盛、山川港から大島に遷される。(1862年2月大島から帰る)
1862年6月 西郷隆盛、山川港から徳之島へ配流。のち沖永良部島へ移される。(1864年2月、西郷赦されて鹿児島に帰る)
1863年8月 薩英戦争。前年の生麦事件の報復のため、英国は7隻の戦艦で8月11日錦江湾入り口に。山川砲台で指揮を取っていた東郷吉左衛門(東郷平八郎の父)は、英艦隊来ると直ちにのろしを上げる。知らせは30分後には藩庁に届いた。英国艦隊のアーガス号にはアーネスト・サトウやウィリアム・ウィリスが乗船していた。二人とも日本の幕末・明治維新を語るときには欠かせない人物。外科医ウィリスは生麦事件で惨殺されたリチャードソンを検死した。のち西郷さんに請われ薩摩に赴任。西南戦争で鹿児島を離れるまでの7年間に、現在の鹿児島大学医学部の基礎を築いた。この後、日本は1902年に日英同盟を締結。2002年には日英同盟100周年を記念して、日英グリーン同盟と称し、日本全国にイングリッシュオークが植えられた。指宿にも同じオークが植えられ、元気に育っている。薩英戦争以降、一時期の不幸な時を経て、日英の友好関係は今も続いている。
 山川港は600年以上薩摩の要衝だった。しかし、1879年の廃藩置県によって、琉球藩が沖縄県になってから、琉球からの使節船は五人番に来航しなくなった。五人番所と五人番のアコウはその後100年以上忘れられたままだった。2004年8月、樹齢300年と言われる五人番のアコウが台風によってなぎ倒された。運良くアコウは太平次公園に移植され生き残り、山川港が薩摩の要衝だっただけではなく、日本の歴史上重要な要衝であったことを教えてくれている。


「悪石島」         
         
今村俊一


 皆さんは悪石島を知っていますか?
悪石島は、屋久島よりは南で、奄美よりは北にある十島村の中にあるのです。
 11月4日(土)に日本本土に復帰して55年を記念して、行われた、十島村の、7つの島を走る約30キロのマラソンに参加しました。一つの島の人口が100人前後の島を朝6時半から夕方6時半まで4キロぐらいずつ、12時間かけて船で移動しながら走る大会でした。こんなマラソン大会は、世界中でも珍しいそうです。全国から108人の人が参加しました。遠くは山形県から来た人が居ました。最初の島に着くのが鹿児島港を出てから、6時間かかりました。ひとつひとつの島には、40分ぐらいしか居れなくて、ゆっくり楽しむ事は出来ませんでしたが、楽しい思い出になりました。
 7つの島の5番目に走ったのが、長年あこがれていた、悪石島でした。
私にとっては、悪石島は、中学生の頃テレビで見ていた「ひょっこりひょうたん島」なのです。悪石島に上陸した時は、とても感動しました。私が悪石島を初めて知ったのは、15年以上前のことです。十島村の各島には、電気屋さんが無くて、電化製品が故障になったら困っている。そこで夏休みを利用して、高校生がグループで毎年一つの島に1週間ぐらい泊まりこみで修理している。とのニュースを見たときでした。その年が、たまたま悪石島だったのです。私が行けば電気屋として、何か役に立つのではないか。いつかは、行きたい、そして住みたいと思っていました。その島にやっとたどり着けたのです。応援をしてくれている悪石島の人達に、走りながら「悪石島に又来ます。住みたいと思っています。」と言って来ました。そしたらなんと、「住む家はあるよ。」と返事が返ってきました。嬉しかったです。
 夜は、最後の島の宝島で懇親会がありました。その時も、助役さんや、教育長さんにも「悪石島に住みたい。」と話して来ました。とても喜んでもらえました。刺身や、牛肉のバーベキュー、イセエビの味噌汁がとても美味しかったです。益々、悪石島に住みたくなりました。又いつか行ける日を楽しみにしています。「菜の花マラソン」や「菜の花咲かせ隊」の事も宣伝してきました。


 ぶーめらんの幸ちゃんから手紙が来た。毎月送ってくれる原稿と手紙と思っていたが内容が少し違っていた。住所は福井県の敦賀からのようで、腰痛も有るのだが、すこぶる元気がにじみ出ている。心機一転の雰囲気が伝わってきた。こっちにも元気が伝染してきた。
 その日の夜、浮来亭のメンバーの須田君のブログを見たら、山口で張り切っている様子が出ていた。これもまた元気を与えられた。
 寝る時に思った。
 やりたいことなのか、やらなくてはいけないことなのかは分からないが、やることがあるのは良いのかもしれない。明日も仕事があるとやや心を重くして寝ることが多かったのだが、間違っていたのかもしれない。仕事があるということは本当は良いことなのかもしれない。
 そう思ったら、また心を重くすることが減ってしまった。
 おやすみなさい。


◆崔兄弟ジョイントコンサート

指宿市民会館に約300人ほどの方が集いました。お二人の魂を揺さぶるような歌声が、開場に満ちました。「心が洗われるようだった」とある方が言って帰られました。満ち足りた幸せな時間でした。

◆第5回ふれ愛フェスタどんぐりこま回し大会が、10月29日なのはな館で開催されました。
ジュニアの部(小学3年生以下)
1位 39秒63 中村友哉
2位 33秒69 金子泰典
3位 31秒20 嶽川せれに
シニアの部(小学4年生以上)
1位 53秒58 尾辻隆
2位 50秒29 山下謙
3位 46秒29 松岡昌也

















◆五人番のアコウ

今朝の冷え込みはそれほどでもありませんでした。五人番のアコウも元気です。トンビが飛び回っています。

2006年11月16日(木) 9:36
(縄文の森をつくろう会のHPより)

◆毎週金曜日の浮来亭で、今、ケナフの紙すきをしています。興味のある方は来て下さい。


ある会合で浮来亭のことを話したら、興味を示して頂いた。
 毎週金曜日に集まって、飲んで語っていることと、毎月発行している、この新聞のことである。
 中味を聞かれたので、「思ったことを思ったままに」を本線に「何か楽しいことはないか?」を見つけようとしていると答えた。
 皆さん「何か楽しいことを聞かせてください」



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