の幸ちゃん

【特集・私の食生活@】腰痛のせいで働けず、どうせ死んで行くのだから(まだ食べた事のない旨い物を)と次々とおいしい物、焼酎を飲み干していた昨年。ぶくぶく太って行けば危険信号と思い、セーブしただろうが、痛くも痒くも無く、突然の鼻血。動かない割には栄養過多(?)の高血圧。―今まで生まれて、この方一体、何を食べて来たろうかと考えたら、こんな原稿を思い付いた。記憶もたどたどしいが、幼少時代から、まずは何と言っても母乳で有ろう。次に思い起こせるのは店頭販売されていた紙製のハッカ。舌が真赤や黄に染まった思い出が有る。「当り豆」と云うのも有った。小袋に甘納豆が入っており、5円だったと思う。中に当りが入って居れば大袋が貰えた。ジュースの自販機も無く、どぎつい色の付いた飲物を売っていたが、買って貰った記憶はない。ヤクルトが瓶入りだったのを憶えている。「お米屋さんから販売」とプラッシーと云うのも有ったが、飲んで居ないので、味は知らない。自宅では●●のジュースの素と云う粉末を水で溶いたり、牛乳もスキムミルク(脱脂粉乳)だった。それが回れば良い方で、大抵は水道水を飲んでいた。母の食事は、焼魚定食か煮物が多かった。卵焼きはいつも外側は真黒く、こげていた。カレーライスは誕生日の時だけ。肉は豚肉の薄切りだ。これが当時、一番の御馳走だったかも。親子丼みたいなのが2番目。砂糖・醤油味だが、うす揚げ、野菜等がたっぷり入っていて、ゴハンにかけるだけ。三杯はおかわりしていたかも。だが、弁当の焼魚が良く焼けていなかったと、父は帰って来るなり、母に弁当ガラを投げ付けていた。ビーフンが殆んど茹で上がっていなくて、ゴムみたいな物を食べさせられた事を憶えている。食えないと途中でで私は食べなかったが、母は黙って食べていた。とにかく料理のヘタな母だった。今でこそ、皆感じないと思うが、当時の私達に取っては、お盆と正月の料理が、第御馳走だった。種類・色取りが豊富でお腹一杯、食べれたからだ。土曜は給食が無いので帰って来たらゴハンも何も無い日も有った。両親は共稼ぎだった。空腹でTVを見ながら、母の帰りを待つしかなかった。その次に悲しい食の思い出。食べ盛りの私がお代わりすると、「ごはんはもう無い。人の腹が判るか!」と母が言った時。中学の前半、給食が始まる迄、自宅弁当だったがクラスの隣の子が私の弁当のおかずを見て「嫌いな物ばかり入っている」と言われた時は貧乏って嫌だナと思った。切り干し大根とか、昆布とか、ハレの無いおかずばかり、入っていた。高校の時のクラスメートの弁当のおかずには、生まれてこの方、見た事も無い惣菜も入っていたっけ。小学校・中学の学校給食だけが食の楽しみだったかも。母が作れない・作らないメニューで一杯だったし。八宝菜とかコーヒー牛乳とか好きだった。高校の帰りは友人達とラーメン屋へ入ったり、山形屋バスセンターでジュースを飲むのが楽しみだった。天文館の喫茶店でケーキと紅茶を飲む事も有った。正月の前、餅つきをするが蒸したばかりのおこわが大好きだったナ。父は戦中派で食生活のもったいなさ感からか、唐芋や麦を入れたゴハンが好きで、私は唐芋をはずして食べていた。おかずは二品迄で、三品以上作ると母を叱り飛ばしていた。「贅沢は敵だ!」と言わんばかりだった。唐芋は常におやつで有り、釜の底に出来る芋飴を舐めていた。―こんな貧し食生活を卒業して、雲泥の差。東京では次々と旨い物に出会う事になる。会社の研修会の時のお昼弁当は仕出しで、おかずもゴハンも温かく、舌鼓を打った。外食は殆んど出来なかったから、自宅以外でこんな旨い物に出会えるとは…。惣菜も始めて口にする物ばかりで、東京は食の天国だったのだ。
            (以下、次回)



       
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第14回全国環境自治体会議に参加して

 5月24-26日の会議のうち第9分科会「環境教育」に参加。五人番のアコウについて説明しました。まず市民会館でMBC放送で放映されたビデオを見てもらい、それから移植された太平次公園へ向かいました。参加者には「五人番のアコウ顛末記」と「山川港と五人番のアコウ」が配布されました。さらに元々生えていた大渡海岸の五人番へ移動。ここでも山川港や五人番の歴史的意義などを説明しました。
これとは別に、縄文の森をつくろう会では市民会館に模型による展示をしました。「遊閑楼」というホスピスコンプレックスの建物群の模型です。同時に以下の印刷物も配布しました。
遊閑楼について
 池田湖と鰻池の間に、テレビ塔の立った鷲尾岳という標高411mの山があることをご存知の方は、意外と少ないのではないだろうか。この頂上に立つと、開聞岳、大野岳、佐多岬、大隅半島などを一望でき、池田湖や鰻池も美しく光を反射しているのが見える。この鷲尾岳から少し北へ行った所に、尾下牧場跡という40haばかりの起伏にとんだ草原がある。
この地は標高360mだが、周りに山がないことから360度展望がきく。鷲尾岳の展望に加え、桜島や旧グリーンピアまでも見ることができる。
 太陽の光を浴びながら通り抜ける風の音を聞き、清々しい空気を吸い込んだ人はたちまち生気をとりもどし、元気が出てくることだろう。
 このような地で、生命の灯火が消えていこうとするヒトたちと、生きるエネルギーに満ちている者達が、お互いに影響しながら生活するすことができたらどんなにすばらしいことだろう。生命が今にも消えようとしている人々に、終末医療の施設であるホスピスを、生きるエネルギーに満ちている者達に、創造する場を提供したらどうだろう。
 このような考えを現実のものにする建物群のことを、仮に「遊閑楼」と名づける。
概要
1. 場所―――山川尾下牧場跡 約40ha
2. 建物群―――「遊閑楼」
 ホスピス、集団工房、湯治場、美術・博物館(資料館も兼ねる)よりなる。これら一つ一つについては後述。
3. それぞれの建物は、有機的につながっている。例えば、これらを空から見たら、
お互いに係わり合いを持って存在していることが一目瞭然となる。
4. 経営母体は県・市町村
5. これらの建物群は、一世代で完成させるのではなく、次世代がチェックしながらよりよいものへ変えていく。
6. 死んでいく者と、生きていく者とがどうして同じ場所で生活するのか。
ものを創造することや美しいものを見ることは、ヒトの喜びである。
死に直面したヒトは、その余りにも重い現実に、最初は怒り、葛藤し、やがて妥協し、最後はその現実を受け入れるという。どうしようもなくこの世を去らなければならないヒトのそばに、いてやることはできないものだろうか。勇気づけ、悲しみを少しでも忘れさせ、喜びと幸せを感じさせることはできないものだろうか。
7. そのヒトの最後の何日かを遊閑楼で過ごすことになったとしよう。
工房で何かを作りたいヒト、風呂に入ってゆっくり月見酒でもしたいヒト、夜空に輝く星を眺めていたいヒト、どこまでも祈り続けたいヒト、様々な人と話していたいヒト、心行くまで本を読んでいたいヒト、楽器を演奏したいヒト、音楽をホールで聞きたいヒト、テラスでお喋りでもしてお日様に当たりたいヒト、などなど、そのヒトの最後の何日かを充実したものにする。
 遊閑楼にはホスピス(浮来亭)、集団工房(やぶから坊)湯治場(望年館)美術・博物館(尾下記念館)があり、ここには一般の健康な人々が出入りしている。これらの人々と日々接することにより、この世から一足先に去っていかなければならないヒトたちも、残る者たちに心からさようならと言え、満足し、幸せだったと思うことができるだろう。またここに来る健康な人々も、去っていくヒトたちから多くのことを学ぶだろう。
8. 建物群を取り巻く環境には、最大限の注意を払う。建物群は森の中に点在する。
植林などには50-100年かける。
9. ホスピス―――浮来亭 
ここに言う浮来亭は、ホスピスという概念とは少し違う。
 この地で、最も眺めがよく、日当たりのいい所が選ばれる。部屋は個室。洋室と和室があり、簡単な炊事が出来、露天風呂、広いトイレなどがある。大きな遮光窓があり、ベッドに寝たままで周りの景色を眺めることができる。家族は好きな時に来て泊ることも出来る。看護詰所は楕円形の建物の中心にあり、24時間体制である。ここでは鎮痛を主に行い、積極的治療行為は行わない。
 小さいながら図書館、音楽ホール、喫茶店、パブ、スーパー、理容室、祈りの場、などなどがあり、出入りは自由。特色は、建物の屋上に小さな天文台がある。徹夜で星を観測することも自由。工房、美術館、湯治場、いずれへでも5分以内に行くことが可能。
10. 集団工房―――やぶから坊
 円楼のような形をした建物で、部屋は個室、簡単な炊事ができ、寝泊りも可能。どの分野の人が来ても、製作、販売、展示会などができる。
一種の芸術村である。近くに登り窯があり、定期的に焼いていく。中庭は広く取ってあり、安く長く滞在できる。一区切りついた者は、マナーを守り直ぐに引き上げること。一定の期間がきたら出て行くようにしておくのもよい。
11. 湯治場―――望年館
 長期滞在型の温泉。温泉に入りながら、浮来亭内にある健康センターで体のチェックができる。また一般の宴会などもできる。個人での滞在、家族での滞在、団体での滞在、いずれも可能。展望風呂はここの目玉。温泉に入り一時休息もできる。生命保険会社とタイアップして、生涯ここで暮らすことも可能。
12. 美術・博物館―――尾下記念館
 遊閑楼で生活した人々が創造したものは、ここに展示可能。但し、展示するものには通し番号だけを記し、名前や経歴は一切出さない。もし作品や作者やその人の経歴が知りたければ、データライブラリイで検索できる。データライブラリイの中には、遊閑楼で生活したヒトたちや人々の名前、経歴、病歴が詳しく入っている。これらの記録は許可を得て閲覧することができる。
13. 遊閑楼の建物群は森の中に点在するかたちであるが、森の好きな場所に散骨ができる。散骨できるエリアは大体決っているが、広く取ってある。墓碑は立てない。家族がその場を確認できる樹木を植えたり、小さな印は置くことができる。
14. 結語
 我々はどこから来て、どこへ行こうとしているのか。そして一体幸せとは何なのだろう。我々は飛びぬけて発達してしまった生物である一方、日常生活ではあまりにも私利私欲に振り回されていないだろうか。我々一人一人がやっていることは、まるで方向が違うように見える。
すでに宇宙空間への開拓が始まっている。どんな時代になろうが、地球がヒトの故郷であることに変わりはない。このかけがえのない地球上で、今後何世代も、仲良く幸せに暮らしていくにはどうすればいいのだろう。遊閑楼はそのモデルを提供しようとするものである。
遊閑楼を実現するには100年あるいは200年かかるかもしれない。故郷にこれからも住み続けようという仲間達と、遊閑楼を造るという夢を持ち続けたい。

2006年5月
 縄文の森をつくろう会 永田 和人

 持続可能な社会を作り上げていくための参考になればと提出したものです。
写真はその遊閑楼を作製している所と展示物です。






























 
「市房岳登山」  皓以兆


 昨年、須田君と大隈半島にある稲尾岳登山をした後、次は人吉の市房岳に登ろうと提案したら、即断即決。機会があったら登りましょうという事になった。それから二人のスケジュールがなかなか合わなかったけど、連休明けに決行することにする。ネットで週間天気予報を見ていたら、5月21日、22日が天気が晴れ。須田夫妻は前日磯庭園の芸術祭を見に行くということで、5月21日昼2時姶良で彼らを乗せて、いざ出発。高速を走り、途中えびのインターで下り、人吉ループ橋をとおり、人吉をめざすことに。川くだりをしようと思って行ったら、最終は3時ということで、断念。明日の登山に備えて、食料の買出しをすませ、人吉の名物「うなぎの蒲焼」を頂く。「おいしかったなー」
さて、食事を済ませ今日の宿泊「市房キャンプ場」をめざす。着いたのが8時前。湯山温泉に入り、体をほぐし明日に備えることにした。市房キャンプ場は本格的なログハウスで設備もそろっていて、かつ新しいのできれいだった。空を見上げれば星がきれいで、宿泊者は我々だけで静寂そのもの。
次の日あさ6時におきて登山口に向かう。キャンプ場の近くから登れば1合目スタートだったが、車で林道最終地点が3合目の登山口に向かう。
我々より先に中年男性2人組が準備していて、その後中年の男性1人がやって来てその人が最初にスタート。我々はその後を登山開始。4合目には「縁結び」の神様「市房神社」が見えてきた。そこで登山の無事を祈願して登る。途中「ツクバネウツギ」白い花を咲かせるアジサイの仲間がそそとして咲いている。
急坂を登って行くと、樹齢800から1000年ぐらいの杉の巨木がでんとして我々の前に現れた。こういう巨木は屋久島にあるぐらいではないかなと思いながら、
登る。5合目「仏岩」6合目「馬の背」7合目くらいからが熊笹が生えている道を登っていく。8合目あたりに「コバイケイソウ」の群落が出現。花の時期はきれいだろう。行き絶え絶えで登っていくと。先ほどの中年男性が下りてきた。頂上付近は「アケボノツツジ」がちらほら咲いていたけど、見ごろは5月初旬とのこと。残念。登りを続けていると「山頂まで5分」の看板があった。今までの疲れが一気に解消。現金なものだ。無事山頂に着いた。1722mの市房岳からは「霧島連山」「雲仙」「阿蘇」が見渡せるそうだが、霞んでいて展望は開けない。
頂上から少し行ったところに「心見の橋」と呼ばれる大きな岩が岩と岩の間に挟まっている。この橋は心のきれいな人しか渡れないということらしい。
須田君の奥さんがその岩に登った。無事渡れたので、多分彼女は心がきれいに違いない。
頂上に2組の夫婦が登って来た。平日ということもあって、中年登山者が多いと思う。定年後夫婦2人の共通の趣味があるということは、とってもいいことと思うし、かつ健康に良いと思う。
頂上で昼食を取るつもりだったが、下山して食べようということにして下りる。途中光合成をしない植物「ギンリョウソウ」を発見。まっしろい姿をしている別名「ユウレイソウ」という気持ちの悪い名がついている。「市房岳」は別名「御岳さん」とよばれ、地元の人々に信仰されているという。
市房岳はつつじをはじめとして、季節を彩る花が楽しめるし、登った時期は新緑が目を楽しませてくれた。
登山道にそって流れる川の音が心を癒してくれる。この川は市房ダムをとおって球磨川に注ぐのだろうか。
最後に杜甫の「望岳」をもじって
「市房岳はどのような山かといえば、青い色は霧島から雲仙、祖母と果てしなく広がっている。造化の神はこの山に神秀を集め、山の南と北では、夜と朝を異にするほどだ。この山から層雲がわき立つのを見れば、わが胸も揺り動かされ、山のねぐらに帰る鳥をまなじりもさけんばかりに、眼を見開いて見送る。
ああ、いつかこの山の山頂に登って、眼下に広がる多くの山を見下ろしてみよう。」

 

梅雨入りしましたね。うっとうしい日が続きますが、気持ちは前向きに行きましょう。










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