の幸ちゃん

▼「ピザの話」20代前半、東京・池袋のバーでバイトしてた時、料理長チーフが賄いで良く、ピザを焼いて呉れた。生地から造るのでイースト菌もちゃんと発酵させ、柔らかい生地の上にピーマン、ハムだのと色々と乗せてくれ、店長の居ない隙にパッと食べていた。そのチーフも、私がバイト初日に自己紹介し、世間話しようとしたら、「何んで、アンタに、そんな事答えなきゃ行けないんだ!!」と啖呵を切った。一週間位して、やっと心が通じた(?)頃にチーフはピザを作ってくれた。その後、店が終わってからも何度か、飲みに行った事も有った。名前も思い出せないが、当時、流行っていたベイシティローラーズの一員みたいな、日本人離れした顔だった。鹿児島に帰って来て、ピザだの、お好み焼きだのと食べたが、まずい。当時、鹿児島の味は30年位、遅れていた様に思う。 ▼本年に入って変わった生活。→五年振り位に指宿を来訪したのは「一月号」に掲載された。その後、色々と心境の変化も有り、TVが余り面白くなくなって来た。音楽レコード、CD、テープ等を聴きつつ、この原稿を書いている。又、公募雑誌を購入し、川柳・クイズ・絵画・写真に応募し出した。残りの人生に私も何か残せないかと、思案中だ。遊んでばかりも居られない。私もアトが無い。晩年に光が灯れば良いのだが、失われた18年を、残り18年の人生に密度を持って生きようか。この「若い頃の失われた18年」は、いよいよ今年から書き始めます。 ▼何でも略すな!!おじさんは判らず怒っているゾ。TVの「ゴクセン」って、究極の先生(極・先)の略だ。CDだって、音楽ではコンパクト・ディスクだけど銀行ではキャッシュ・ディスペンサーだ。本当に訳が判らない世の中になったゾ。 ▼幸福だと感じたのは、いつだっけ?楽しい想い出より、悲しい事の方が多すぎる気がする(涙……)へど、自殺する事なく、明日も生きなくっちゃ。もしかして、私を待っている人が居るかも知れぬ。(この時、ザ・タイガースの曲を聴いてた。内容はいづれ又、書きます) ▼「不思議な調理法」と、あるミニレストランへ行って「高菜ピラフ」を注文した。野菜を切ったり、炒めたりする音が聞こえて来る筈。客席と調理場は近い。見えないけど、鍋をコンロにかける音はしたが、殆んど次は何も聴こえない。電子レンジの「チ〜ン」の音も聴こえないのに、「お待たせしました」と注文した物は出て来た。旨いから別に何も言わなかったが、後で良く考えると、暇な時に作って置いて一人前ずつ冷凍していたのでは?鍋は暖めて戻す為だったのだろう。(その2)居酒屋で「エビちりソース」を頼んだ。ママは鍋に水を張りコンロにかけた。冷凍エビでも常温に戻すのかと思ったら、冷凍パックを丸ごと鍋に入れた。「ハイ、どうぞ」と出て来た。調理場は全て見えていた。「旨いね」と言ったら、ママは「旨いでしょ」と返した。私の心の中は涙で一杯だった。2〜300円の冷凍インスタントを800円で出している。もう二度と行くまい。スナックじゃなし、ここは居酒屋だろ?…女性は凄い。ちょっと料理が出来て、資金が有ればスナックでも居酒屋でも始める。男(客)はバカだから、ホイホイ集まって、店は繁盛だ。こんな私もバカだが、男はアレコレ考えるとナカナカ出店できない。やはり女性は強いのだ!! ▼部屋の片付けをしていたら、昨年十月、乳ガンで死去した実姉のハガキが出て来た。死んだのに、まだ生きてる気がして来た。病院に、アパートに居る気がする。葬式も49日も済ませたのに。電話がかかって来るかナ?あの世から…(涙…) ▼この予感が当たらなければ良いが…。北朝鮮へ経済制裁をすると、日本へテポドンが飛んで来るのでは?東京・大阪へ落ちたら、日本は壊滅的。増税も有るでしょう。森林税は七月から。消費税は?(一月下旬、筆)


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山川港は日本の玄関だった
           歯笛


 五人番のアコウのことを調べる中で、埋もれていた史実が次々に浮かび上がってきた。
周囲約4kmの山川港は5万年前の噴火口からできた。噴火口壁の一部が決壊、海水が流入し天然の良港となった。その最深部は51m。
1400年代になると東南アジアの船や南蛮船が頻繁に往来するようになった。 南から島伝いに北上してきた船は、円錐状に聳える開聞岳(924m)を目標に九州に接近、山川に寄港した。山川港には荷改めをする薩摩の番所や唐通詞が常駐する唐人屋敷などができていった。
1546年(天文15)ポルトガル人ジョルジュ・アルバレスは貿易が目的で山川に来航。約6ヶ月間滞在した。「日本の諸事に関する報告」を著し当時の山川の様子を詳述している。訳あって人を殺めた日本人ヤジローは同年12月アルバレスの船で山川を脱出、インドのゴアに向かった。東洋への切支丹布教を願っていたフランシスコ・ザヴィエルは、1549年4月18日ヤジローを伴いゴアを出発。同年7月山川の成川に上陸した。8月15日鹿児島着。9月29日伊集院一宇治城にいた領主島津貴久に謁見し布教の許しを得た。
1609年島津家久が琉球征伐に出たのも山川港から。軍船100艘、兵3000人。1613年から琉球王朝の薩摩年頭挨拶が始まった。これは1872年琉球藩になるまで260年間続いた。琉球からの船は行きも帰りも山川五人番に立ち寄り臨検を受けた。
1705年沖縄からカライモを持ち帰った前田利右衛門は、山川廻船問屋の豪商、河野覚兵衛の水夫(かこ 廻船の食事あるいは事務の係り)だった。岡児ヶ水にある利右衛門の墓標は七代覚兵衛が頌徳碑と共に1846年に建てた。利右衛門は子供と同船していて遭難し家門は途絶えている。河野家は一時指宿の知林ヶ島も所有し山川の殿様と言われていた。西郷どんが徳之島に流される時も河野家の船が使われた。
ゴンザという11歳の薩摩の少年がいた。1728年旧暦の11月8日、薩摩の港(山川港とも言われている)を大阪に向け出帆した船に乗っていた。途中暴風雨に遭い約6ヶ月間漂流しカムチャッカ半島南端ロパト岬に漂着。17名の乗組員の内15名がコサック隊に殺害され、ゴンザとソウザの二人だけが生き残った。ゴンザはペテルスブルグに連行され日本語教師となる。そこで世界最初の露和辞典(露薩摩語辞典、収録語12000)を編集。ゴンザは21歳で没した。辞典の薩摩語からゴンザ少年は串木野以南から山川地区出身と推定されている。
1800−1814年にかけて日本地図を作成した伊能忠敬はあまりにも有名。屋久島・種子島へ渡海のため大形帆船8艘は、山川港で1812年3月14日から7日間風待ちをした。22日船出したが、佐多岬へ近づいたところで逆風となり山川に引き返した。26日まで風を待ち27日朝6時出発、屋久島の安房村に9時半に着いている。風待ちの間忠敬は山川のどこを散歩したのだろう。
1837年8月10日には米船モリソン号山川に来航。船には音吉ら日本の漂流民7人が乗っていたが、五人番の役人は上陸したいならば長崎のオランダ人に頼めと山川での上陸を拒否。翌日大砲まで撃ちかけて追い返した。漂流民7人は帰るべきよすがもなく、同胞の仕打ちこそ情けなくも恨めしく、泣き悲しむこと限りなかった。中でも2人は今や本国を思い切る印として髪を切り捨てたものもあって、実に哀れであった。
1858年3月15日勝海舟が日本丸(後の咸臨丸)で山川に来航。指宿殿様湯で湯治中の島津斉彬は早馬を飛ばして海舟に会いに行った。同年9月斉彬急病で死去。
1863年6月27日(旧暦)15時佐多でのろし上がる。英国艦隊7隻、生麦事件の決着を図るべく鹿児島へ来航。山川五人番近くの砲台隊長東郷吉左衛門(東郷平八郎の父)は直ちにのろしを上げた。30分後には鹿児島西田橋付近の本陣に一報が届いた。本陣には初陣の平八郎17歳と兄弟2人もいた。鹿児島湾に侵入した英国艦隊の砲口101門は、同年7月2日薩摩方の砲撃を合図に一斉に火を噴き薩英戦争が始まった。

 山川町全景   



    
蓮太郎

 最近、暑いのか夜寝るのが下手になった。
2時近くにウトウトしたと思ったら、窓際でごそごそ音がする。夢うつつに音の正体を探した。暗闇に黒い物体が動いた。恐怖とびっくりで大声を出してしまった。その物体は私の声に恐怖かびっくりしたのか、窓から飛び出した。明かりをつけ窓の隙間を恐る恐るのぞいたら、そこに猫が私を見つめている。目が大きなステキな猫である。しばらく見つめあってしまった。吾に返り怒鳴って追っ払った。時計を見たら4時過ぎである。2時間もたっていたのだから、寝ていたのだろう。夢ではないと思うが夢のような出来事だった。
 次の夜、昨夜の猫は夏目雅子さんのような目をしていたな。優しく声をかけてあげればよかったなと反省して寝た。やっぱり寝つきが悪かった。
 朝起きて、いつものようにメールを開いたら、高校時代の後輩のJさんからメールが届いていた。文面は個人情報保護法により書けない。もう長くあっていなかったが直ぐに顔は浮かんだ。大変嬉しい日となった。
 寝る時に大発見した。あの猫の目は夏目雅子さんではなかった。メールをくれたJさんだった。Jさんは高校時代「お目々のJさん」と呼ばれていたのだった。
 これはまさに正夢だ、と思った。でも夢ではないから、事実は小説より奇なりだった。


 縄文の森をつくろう会より  

活動予定

9月3・4日は太平次公園へ
9月4日はアコウの日と決定!


9:30
・記念碑の除幕式
・琉球舞踊の披露
(アコウの木とつながりのある舞踊)

是非ご参加ください。

スローナイトストーリーinいぶすき
3日
14:30−草木染めTシャツ作り
20:00−キャンドルナイト(アコウの講話)
4日
10:30−洋上セミナー

活動報告

8月6日午後から揖宿神社近くのアコウの枝切りをしました。去年の台風で大きな枝が折れ危ないというので、6人の仲間が集まりました。枝を払い幹周りのツタを払ってみると、幹周り6.45メートルありました。これは五人番のアコウの6.4メートルとほぼ一緒で、樹齢は300年程と推定されました。共同墓地の中にあり隣家との境界線上にあるため、今後も縄文の森をつくろう会で管理していくことにしました。

連絡事項
・縄文の森をつくろう会のホームページ
  http://www.synapse.ne.jp/jomon-mori/
・毎月第一金曜日・浮来亭にて定例会をしています
ので、ご参加ください。
・今年度の会費未納の方はご入金をよろしくお願い
します。

8月8日のアコウ  


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