の幸ちゃん

 ★病院でMRI撮影(CTスキャン)した事有りますか?私もヘルニア腰痛の時、体験。下水道管位の大きさの中に寝そべって入って行くのだが、余りの圧迫感に顔にタオルしてもらった。ドラムみたいな音がズンドン聴こえて、20分位かかる撮影の間に眠って居た私。少しも動けない、あの閉塞感はもう嫌です。 ★電気釜のこんな利用方法→ゴハン炊く以外に炊き込みゴハン等も可能ですね。新ジャガが出来た時に中玉の物を皮つきのまま、塩を少々入れて炊いてみた。ホクホク旨い「じゃが飯」の出来上がりです。他に「アサリ飯」「鯛飯」等々とお楽しみ下さい。昔ながらの草ダンゴ・パン等もラップに包んで「保温」の時、ゴハンを寄せ、あいた所に入れておけば温ったか出来上がり風が食できます。モチ系統はベトベトになります。食前に時間調整して下さい。匂い移りのヒドイ物は入れないで、読者も色々と試して下さい。発見次第、私も又、書きます。 ★私の情報不足か。最近「北方領土を返せ!」と広告を見なくなった。どうなってるのかナ?現在ロシア人も住居しているらしい。日本に返還されても利用価値は?凄っごく寒いのでしょう。日本から行くのに一回モスクワまで行き、陸路で大回りし、一番近い港から船で行くと云うTV番組を観たのは数年前。久々に思い出したが、'04夏は「拉致」「アテネオリンピック」三昧でしたしね。(首相が最近下見に行った報道が出ました)
★車の外部を拭く時、雑巾を洗剤水で洗って使用しましょう。車にワックス(?)がかかった状態で汚れを寄せ付けず、雨の日もスッキリです。 ★一人者が沢山、野菜を買い込んでも腐らすだけです。自給自足と思って、枝に貯金と考え、野菜も造り始めた私。暑さで三分の一位しかGET出来なかった'04の夏でした。台風後の片づけが長びき、秋野菜も手つかず……。★ゆで卵はアツアツの出来上りが好きでラーメン屋に冷めた物が置いてあって、お腹すいてても食べません。又、温泉卵があっても食べません。居酒屋で半熟卵が出て来ても、お腹こわす私です。残ったら、サラダとかに混ぜて冷したり、熱々ラーメンの中に入れたりします。 ★鹿児島県に住んで居れば「県道」ですね。北海道では「道道」と標識が有ります。最初、見た時、何の事か判らず間違いかと思ったのだ……。(大阪・京都では府道、東京では都道と云うのかナ?) 北海道の民宿に泊した時、近所の大浴場へ行きましょうと民宿主の話。食後、マイクロバスで10数分走って、大きく広い温泉に。今で云うスーパー銭湯でしょうか?湯気で殆ど何も見えぬまま、洗って湯船に浸かって……。ただ、それだけの想い出でした。 (続き)再映画館の話――東京から帰鹿して、国分には「文化劇場」、枕崎には「東映」が有り、2〜3本立てを千円前後で観た記憶が有る。一時「加世田東映」の建物が残っていたのも記憶が有る。当時、娯楽が少なくて昔は盛況したに違いない。東京に居る頃はロードショー(新作一本封切)は値段が高いので、半年位まてば、千円位で3本か、一日5本上映館って云う店も有った。ドーナッツとコーラ位で休日を安く過ごした日も有ったのだ。山の手線と云う電車が丸く走って居る。その途中で乗り換えれば、千葉でも埼玉・神奈川(横浜)にでも行ける訳で、必ず有名都市には再映画館が有り、週末に予定を立てたりしていたのだ。 ★ここ数年、しなくなった事。→レンタルビデオを借りなくなった。――でも、最近、やってみたい事。(再現ドラマ)でテレビに出てみたい。アレに出て来る人は一回切りか、次は余り見ないが、私ならカツラ被って、色々な役が出来るのに……。子供の頃と言っても車を運転した頃から、アメリカの一直線のハイウェイを猛スピードで飛ばしてみたかった。これは映画の影響かも。日本では猛スピード出来る処はない。カーブと信号が多すぎて。高速道路?140キロ位出すと、覆面パトカーが追って来ます。 ★アメリカのサイモンとガーファンクルと云うデュオ・グループが居ます。映画「卒業」で「スカボロ・フェア」と云う歌を唄っており、バックコーラスに(パセリ・セージ・ローズマリー・タイム)と耳に入り、スカボロ市場で出会った女の子の名前かと思ってた高校三年の頃。これらが香草(ハーブ)の名と判ったのは30代位の頃でした。超・恥かしい!! ★若い頃「十年早い!」なんて言われてたけど、30年たっても何もない。私の人生、残り「十年しか無い」のですけど。 ★おじさんの不思議発見!!→梅の実が熟して落下して、芽が出て来ないのは何故?何十年も梅の木の下に実は落ちてるけど、芽(幼木)が植えてるのを見た事ない。土の中に埋めなくては、いけないのか?御存知の方、教えて下さい。★「コーフンのるつぼ」って言いますね。るつぼって、何か御存知ですか?理科実験で使用する白い湯呑み位の茶碗が有りますね。アレをるつぼと言います。色々な薬品を入れて、火が点いたり、少しなりとも爆発する(?)様をコーフン状態に見せかけたのでは…?


 24時間リレーマラソン

                 今村俊一

 10月23日(土)午後3時から24日(日)午後3時まで指宿マスターズ陸上クラブの24時間リレーマラソンが行われ、私も参加した。
23日の午後2時ごろは、市営陸上競技場に7〜8人のメンバーが集まって、テントを立て「指宿マスターズ」の横断幕を張り、これからの24時間リレーマラソンの準備が出来た。ドリンク剤やバナナ、パン、飲料水、おにぎりなど飲物や食べ物が、テントの中に持ち込まれている。(さすがに缶ビールなどのアルコールは無い)
午後3時、車のラジオの時報を合図にスタートした。1人10周づつがルール(20周や5周の人も居たけれど)で、タスキをつないで行く、自分の仕事や都合で、何周目から走るか予約を入れていく、自分の番が来るまでは、仕事に帰ったり 、テントの中で休んだり、飲んだり、食べたりして過ごしている。順調に進んでいたが、だんだん暗くなりテントの中に照明が必要になって、あわてて取りに帰って取り付けてひと安心していたら、今度はテントの中が、さみしい、そこでテレビとアンテナを取りに帰り、取り付けた。スイッチを入れたら、新潟で地震があったとの放送、地震の放送は、一晩中流れていた。(皆忘れられない1日になった)
友達や、家族が時折応援に来てくれる。私の2回目が23日午後9時過ぎに廻って来た時、ちょうど丹波小走ろう会の6年生の女の子が、お父さん、お母さんと一緒に応援に来てくれた。そして彼女は、最初の2周と最後の2周を私と一緒に走ってくれた。とてもうれしかった。
だんだん夜もふけていき、家に帰る人も居る。又逆に仕事が終わってから来て、一晩中居てくれた人もいた。夜中に寿司の差し入れもあった。私も夜中にも順番が来たけど、星がとっても奇麗で気持ちよく走った。車の中や、テントの中で仮眠をとった。そうしているうちに、だんだんと明るくなって朝になった。朝になったらメンバーもまた沢山集まってきて、テントの中がにぎやかになった。南日本新聞の記者も来て、取材をしてくれた。
私は、24日の午後3時までに5回(50周、20キロ)走った。最後に走った時は、みんなの汗でタスキは、びっしょり濡れていた。全体では、762周(305キロ)位走った。すごい事をしたなーと思った。皆とても満足そうな顔をしていた。その夜は、反省会で大いに盛り上がった。昨夜は、徹夜状態だったので、さすがに、飲むほどに眠くなり、早めに切り上げた。とても楽しくて有意義な時間を過ごした。
 次の日の夕方、陸上競技場にジョギングに行ったら、5〜6人のメンバーが走っていた。皆走るのが本当に好きなんだなーと、思った。  次は、菜の花マラソンが楽しみだ。


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 その後のアコウとモリソン号にまつわる話

 94日に移植した五人番のアコウに新芽が確認されたのが911日。だが929日に襲来した台風21号でその新芽も枯れてしまった。待ちに待って、1113日また新芽が確認された。このまま順調に芽が出て、来春には葉を一杯茂らせてくれることを祈るばかり。

 さて、五人番のアコウ顛末記をたくさんの方々が読んでくださり、多くの励ましのお手紙や寄付を賜った。改めて深く感謝申し上げる次第です。以下はその顛末記の中で述べなかったことについての補足です。

 18378月、五人番の湧き水を分け与えたと伝えられるモリソン号に乗っていた7人の漂流民の中で、最年少は音吉という少年で19歳になっていた。彼らは結局日本の土は踏むことはできず、その生涯を主に中国で送った。音吉はマカオに戻ってからすぐモリソン号に乗りアメリカへ。以後数年間商船や軍艦に乗っていた。その後デント商会の高級社員として上海で活躍。シンガポールのマレー人と結婚し2男1女があった。1849年通訳としてイギリス軍艦マリーナ号で浦賀へ。1854年には日英和親条約締結のためにスターリング艦隊と共に長崎に。この時すでに英国籍を取得。ジョン・マチュウ・オトソンと名乗っていた。ところが音吉は漢字の読み書きが満足にできなかった。条約の条文作成になって日英双方が困ってしまった。通訳はよくできたが条文作成はできなかったというのである。

 もう一つ。モリソン号には後エール大学の中国学教授になった25歳のサミュエル・ウェールズ・ウィリアムズも乗っていた。彼はモリソン号で乗り合わせた日本人達から日本語も学んでいた。18534年のペリー提督江戸湾来航時に同行し、中国語日本語通訳のチーフを務めた。1854年の日米和親条約締結の条文作成では、日本側通詞の森山栄之助らと苦労を共にした。1854年、再度の来航を待っていた二人の日本人が、旗艦ポーハタンに小船で近づき制止を振り切って甲板上に乗り込んだ。この二人は外国への密航を企てた若者で、その内の一人は吉田松陰だった。松蔭らは応対したウィリアムズに外国に行きたい旨を必死に懇願した。ウィリアムズは残念ながら松陰らが何を言っているのかほとんど理解できなかった。聞き取る力があまりなかったのではないかとも言われているが、恐らく松蔭が方言をしゃべっていたのも一因だろう。ペリー提督は結局二人の乗船を許さなかった。ウィリアムズは二人に早口の日本語で乗せられない理由をまくし立てた。この時彼が松蔭の本意をよく理解していたら、日本人二人はアメリカへ渡り、その後の日本史は大きく変わっていたかもしれない。


縄文の森をつくろう会から
■「五人番のアコウ顛末記」の本(前ページの写真)ができあがりました。是非読んで下さい。
作業に出費がかかりましたので、できれば千円(あくまで希望価格)で読んで頂ければ尚幸いです。
■第6回かごしま環境フェアーと第3回いぶすきふれ愛フェスタが10月30ー31日で開催されました。縄文の森をつくろう会では恒例のどんぐりこま回し大会を2日間やりました。最終日は天気も快晴となり16時頃まで楽しみました。こま回しの記録はジュニア、シニアとも50秒を超えることはできず、新記録は出ませんでした。
平成16年度どんぐりコマ回し大会指宿会場
成績発表(敬称略)
ジュニアの部(小学4年以下)
@中村なおき 幼稚園 41秒40
A北林圭介 小学3年 39秒09
Bそみやだいき 小学2年 38秒69
C村山正き 小学2年 37秒04
Dゆの上ようへい 小学2年 36秒67
シニアの部(小学4年以上)
@山下昇 43歳 49秒13
A尾辻隆 54歳 46秒59
B仮屋彰二 34歳 45秒45
C内薗敬二 13歳 42秒09
D帖佐真樹 中学3年 41秒56 

●浮来亭のことを書いていただいた文が本に載っています。買って下さってもいいし、図書館にも有りますから、是非お読み下さい。
南日本新聞社発行の
「心にしみる話 第7集 ふるさと」

●ちょっと早いのですが今年の望年会の日程が決りましたのでお知らせします。多数の出席を望んでいます。
日時 12月29日 18時
場所 紅楽
会費 3000円
出席の連絡は馬場・今村・安間に
●12月10日に駅前通り会のきれいな奥様方が元気を出そうという催し物をするそうです。時間がありましたらお出かけ下さい。


  蓮太郎


 毎日、お昼になると迷い考える事がある。つまらない事だと笑わないで下さい。思い切って打ち明けます。
 頼んでいるお弁当は幕の内のようなものだから、おかずの種類が多い。食べる順番で迷うわけである。悩んだ末に好きな物を最後に食べている。以前にある人が「好きな物から食べれば、いつもある物の中で一番好きな物を食べれるよ」と言われたことが、頭に浮かぶからである。そうだなと思いながら、今日も好きな物を最後に食べた。
 寝る時に考えた。人生も、楽しい事を最後に取っておくよりも早く楽しんだ方が良いのではと。明日の弁当は好きな物から食べることに挑戦するぞ!






 寒くなってきました。風邪など引かないように気をつけて下さい。今月は二冊の本の紹介がありました。記録に残って良かったです。








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