第54話 「究極の『学びの姿』は『ひとり学び』」
〜めざすは「ひとりで答を導き出すこと」である〜



「学びの姿」には,いろいろな姿がある。

教室では,先生の説明を聞いて学ぶ姿がある。

また,友だちの意見を聞いたり,
自分の意見を発表したりする姿も見られる。

さらには,隣の人やグループで話し合ったり
ときにはクラス全員で話し合ったりする姿も見られる。



授業意外の場面では,
友だちと一緒に宿題をしたり
教えてもらったり,教えたりする姿が見られる。



塾では,先生の説明を聞いたり
与えられた問題を解いたり
分からないところを個別指導してもらったりする姿が見られる。



家では,家族に教えてもらったり
ひとりで宿題や予習・復習をしたり
テスト勉強の計画を立てたり
それを実行したりする姿が見られる。

様々な場所で,様々な「学びの姿が見られるのである。



現代の中学生は
「学ぶこと」に専念することを許された存在である。

「学ぶこと」をさしおいて
仕事や家事などを強制されることはない。

だいたいの場合において
「学ぶこと」隙間時間で学級の仕事や家事,
地域のボランティアなどを手伝わされる存在である。

一方,学校を卒業した社会人
社会人としての務めである「仕事」や「家事」が最優先されるのである。

学びたい人や学ばなければならない人は
「仕事」「家事」隙間時間
「学ぶこと」に充てなければならないのである。

そういった意味において
中学生には
「学ぶこと」に専念する権利が保障されている

のである。

だから,中学生の「学びの姿」には
いろいろな「学びの姿」が用意されているのである。



さて,ここで「究極の学びの姿」について
中学生諸君の自覚を深めてもらいたい。


いろいろと存在する「学びの姿」の中で
最も重要な「究極の学びの姿」とは「ひとり学び」である。



学校の授業でみんなでワイワイを学ぶ姿も大切なのだが
それはあくまで,アナタの「ひとり学び」
効果的に効率的にサポートするための「学びの姿」なのである。

友だちとの教え合いも,塾での個別指導も
アナタの「ひとり学び」補助するための「学びの姿」である。



もともと「ひとり学びとは,とても難しい学びなのだ。

まず,自分で「何か知りたい」と感じなければならない。
「何か知りたい」と感じたら,自分で調べなければならない。
自分で調べると,分からないことがたくさん出てくる。
「分かった」「分からない」を自分で整理して
「分からない」を更に追究しなければならない。
同時に,「分かった」部分覚えなければならない。

「全部分かった」には,なかなかたどり着かないが
「全部分かった」ときには,次の「知りたい」
自分の中から見つけださなければならないのである。

これが「ひとり学び」の手順であり,なかなか難しいコトなのだ。



だからこそ,「授業」がそれをサポートしてくれる。

数学の先生が「関数ってのはね…」
「知りたい」部分を紹介してくれる。
「どうやって解いたらいいのかな」疑問を用意してくれる。
友だちが「こうやって解いたらいいと思います」
解き方のヒントをくれる。
そんなこんなで授業は進んでいくのである。

アナタの「ひとり学び」を強力にサポートしてくれるのだ。

家に帰ったアナタは,教科書やノート,プリントを参考にしながら
本格的に「ひとり学び」をスタートさせる。
もやっとしていた「分かった」「分からない」がハッキリしてくる。
そしてアナタは,ひとりで問題が解けるようになるのだ。



今一度確認しよう。
「究極の学びの姿」とは「ひとり学び」である。



その証拠に…
どんなテスト試験においても
中学生は「ひとりで答を導き出すこと」を求められるのだ。
隣の人と相談したり,グループで話し合って
答を導き出すテストや試験は…まず,ありえないのである。

さあ,「ひとりで答を導き出す」能力を鍛えるために
「ひとり学び」を大切にして勉強するのである。