第52話 そもそも「覚える」とはナニか? その2
〜 「断片的な知識」が「知識」に変わるとき(前編) 〜



授業中の洪水のような「情報」から
「目的意識」「疑問」「感想」というザル(下図参照)ですくい取った
「断片的な知識」
より高いレベルの
「知識」に変換する必要がある。


【ザル:特に意味はない…】


まずは,
「断片的な知識」「知識」の違いについて
考えを整理しておこう。

風景は,前話で出てきた「横断歩道」にジャンプする。



横断歩道を渡ろうとしているアナタには
「赤信号で渡ると危険」とか
「自動車が停止してから渡らないと危険」とか
「走っている自動車に接触すると危険」とか
「周囲の人との間隔を保たないと危険」などの
「知識」がある。

そして,それらは
「アカシンゴウデワタルトキケン」
と「文」として丸暗記しているのではなく


といったバラバラの
「断片的な知識」
複雑に結びつき,絡み合いながら
最終的に
「赤信号で渡ると危険」という意味になって
アナタが判断し行動するための
「知識」となっているのだ。



さて,ところで…である…

「なぜ,覚える(暗記する)のは大切なのか?」
に対する自分の「答え」を頭に思い浮かべていただきたい。


「まくべん」の勝手な推測で申し訳ないが…

多分,多くの中学生は
「テストで高得点をとるために大切…」とか
「希望する上級学校に進学するために必要だから…」といった
「自分なりの答え」を出したことだろうと思う。

はい,当たっていたら…
「お〜…さすがは,まくべん!」と
心を込めて拍手していただきたい。
パチパチパチ…である。

外れた場合は…
「まだまだ,甘いな…まくべん!」と
人差し指を立てて左右に振りながら
「チッチッチッチ…」と舌を鳴らしていただきたい。



それは,さておき!

テストのための暗記なら…
それは多分に辛かろう…と思うのであり,
受験のための暗記なら…
それはきっと,面白くないだろうに…と思う次第である

事実…暗記するという作業には
多くの時間根性体力が必要になる。

「暗記したい」ではなく
「暗記しなければならない」という気持ちで
暗記を続けるのは…まるで修行僧のような心境に追い込まれるコトもある。

そこでひとつ…「考え方の切り替え」を提案したい。

まあ,「まくべん」によるいつもながらの
傲慢(ごうまん)なお説教だな…
くらいの気持ちで読んでいただきたい。



まずは…
「なぜ暗記するのか?」である。

今まで,このサイトのアチコチで紹介したように
私たちの「脳ミソ」は,とても忘れやすくできている。

私たちの脳は,一瞬に大量の「情報」を処理できるが
そのほとんどは,わずかの時間で消え去っていく。

「情報」は,所詮(しょせん)「情報」であって
「知識」ではない
のである。

だから,私たちは
過去の「苦しみ」や「痛み」
「悲しみ」や「つらさ」から解き放たれて
毎日を新鮮な気持ちで生きることができるのだ。

無事に横断歩道を渡り終わった数秒後には
「判断」の材料になった様々な「情報」のほとんどは
きれいサッパリと忘れてしまっている。

目の前を,どんな自動車が何台走り抜けたか…とか
どれくらいの人が信号を待っていたか…とか
隣に立っていた人が,どんな服を着ていたか…とか
何歩で横断歩道を渡りきったか…とか
そんなこんなの情報は
サッパリと脳ミソから消えてしまっている。

だから…私たちは,毎日を…
新鮮な気分で安全に生きることができるのである。



しかし,である…。
「それならそれでいいではないか…」
「ホントに大切なコトは,自然と覚えるんだろう?」

な〜んて思っていてはイケナイのである。


学校での授業においても
毎時間,多くの
「知識」「情報」と出会っていると思う。

そして,そこで出会った多くの
「知識」「情報」
アナタが近い将来に
何かを
「思考・判断・表現」するときの
材料となるものである。

試験で「問題」に出会ったとき
「覚えたコト(丸暗記したこと)」を
そのまま書いて正解とケースは極めて少ない。

どの「知識」と…どの「知識」を
どう
比較して…
どう
関係づけて…
どう類推して…
どう
組み合わせて…
どう
整理するか…


それも
国語的に…
社会的(地理的,歴史的,公民的)に…
数学的に…
理科的に…
英語的に…
音楽的に…
美術的に…
技術・家庭的に…
保健体育的に…

道徳的に…
特別活動的に…
総合的な学習の時間的に…と
あ〜でもない,こーでもないと
様々な立場や角度から考えることになる。

これらの作業を
「思考」と呼ぶのだ。

「思考」とは
単に記憶を脳ミソから引っ張り出す作業ではないのだ。

覚えた「知識」を材料に
先のような方法(比較・関係・組み合わせなど)で
「考え」を深めながら
最終的にどのような「判断」をし
その「判断」を,どう「表現」するのか。

それが,テスト問題の答えであり
生活の中の問題の答えなのであり
アナタの人生の大問題の答えになっていくのである。

定期テストとか実力テストなどは
アナタの頭の中の「断片的な知識」の量をチェックするだけでなく
それらの知識を材料にした「思考・判断・表現」するの力を
点検する機会なのである。


人の「脳ミソ」は「覚える(暗記する)」ためにあるのではない。
「思考」し,「判断」し,「表現」するためにあるのだ。

そして,そのためには…どうしても
断片的な知識といえど…
「覚える(暗記する)」必要がある…
それだけのコトなのだ。
思考する材料が無ければ
とうてい「思考」などできるワケがないのである。

この「優先順位」を間違ってはイケナイのである。
「覚えたから完了!」というワケではないのだ。



さあ,様々な機会をとらえて
勉強して「覚えた(暗記した)」ことがらを基に
「思考・判断・表現」しようではないか。

そこまでできて初めて…
「覚えた甲斐(かい)がある」
というものである。



「え〜? だったらどうすれば『思考・判断・表現』できるようになるの?」

ごもっともな疑問である。

その答えは次の話で…


今回は,ちょっとハイレベルだったかな…。

ということは…
「まくべん」の説明力の不足…ということでもある。
「反省!」&「精進!」である。