第51話 そもそも「覚える」とはナニか? その1
〜 「情報」が「知識」に変わるとき 〜



「覚えなければテストで点数がとれない」
「覚えたいけど,覚えられない」
「覚えたつもりが,覚えていない」
「授業で一生懸命なのに覚えられない」

「覚える」とは,なかなか手強いモノである。

そこで今回は…
そもそも
「覚える」とはいったいどういうことだろう…
について考えてみる。



「まくべん」読者には,既におなじみのコトであるが…
私たちの
脳ミソ「覚える」どころか
「忘れる」コトを仕事として,日夜活動している。
詳しくは<第3手>を読んでいただきたい。

脳ミソが「忘れる」コトを苦手とし
「覚える」コトを得意とすれば
なんと勉強がはかどることだろう…

そう思う中学生は星の数ほどいると思う。

しかし,「勉強がはかどる」などの
都合の良いコトばかりなら超ハッピーなのだが…
「忘れる」ことができないとアンハッピーになることも多い。



まず…
「痛み」「苦しみ」は,できるだけ忘れてしまいたい。

小さな子どもが泣き叫ぶほどの痛みを伴う予防注射…
今でもその「痛み」が鮮明に記憶されているのなら
アナタの生活は,とても憂鬱(ゆううつ)なモノになる。

大切な人を亡くしたときの
「深い悲しみ」もそうである。
その人の面影は一生大切にしたいが
「深い悲しみ」そのものは,早く記憶消え去ってもらいたい。

いつまでもハッキリ覚えていると
毎日の生活がマイナスのエネルギーに支配されてしまう。

その他…
今までの人生で味わってきた
「痛み」や「悲しみ」,「苦しみ」,「不安」,「恐怖」など
いつまでも引きずりたくないモノである。

そんなこんなで
脳は「忘れる仕事」をメインとしているのである。



脳が「忘れる仕事」をメインとしている
もう一つの理由がある。

脳ミソの重要な仕事の一つに
「判断する」という仕事がある。

「判断」とは,アナタの周囲から飛び込んでくる
様々な大量の
「情報」を,その都度その都度整理して
今もっている
「知識」に照らし合わせて
「どう,行動したらよいかを決める」仕事である。



「横断歩道を渡る」という行動に例えて考えてみる。

ある横断歩道で信号待ちをしているアナタがいる。
歩行者用の信号は「赤」である。
目の前を何台もの自動車が走り抜けていく。
耳には街中の様々な「音」が聞こえている。
アナタの周囲には何人もの人が信号待ちをしている。

たとえ,1秒間という短い時間でも
目から耳から鼻から…様々な
「情報」が大量に
アナタの「脳ミソ」に送り続けられている。

そんな状況の中で
アナタが交差点を安全に渡りきるためには
「よし,今なら安全に横断できる」という
「判断」をしなければならない。

信号の色はもちろん…
自動車の流れ…
周囲の人の動きや気配などなど
注意しなければならないことはたくさん存在する。

アナタは一瞬,一瞬で変化する
「情報」を整理
「よし,今なら安全に渡れる」
最終的な「判断」をすることになる。

うまく「判断」できなければ
永遠に横断歩道の手前で立っているか
横断歩道を渡りきる手前で
「三途(さんず)の川」を渡ってしまうことになる。



横断歩道を安全に渡るタイミングを「判断」しているときには
大量情報瞬時処理する必要があるのだが
これらの情報を一つ一つ覚えていては
瞬時の判断はできない。

覚えた次の瞬間には
また新しい情報が飛び込んでくる。

だから,タイミングを
「判断」した後には
それらの「情報」のほとんどが
キレイに
消えてしまうのである。

そうでないと
「横断歩道上を安全に歩く」という次の行動
できなくなってしまうのである。



だから…私たちの脳ミソは
「覚えるコト」より「忘れるコト」を中心に
仕事をしている
のである。


ここで重要なポイントとなるのは…
脳ミソで,どれだけ多く「情報」処理しても
それは
「知識」として残らない。
というコトである。


昔の人の面白い表現に
「右の耳から入って,左の耳から出ていく」
というモノがあるが
膨大な量の「情報」は
瞬時に脳ミソに入り
「判断」という作業の後に
さっさと「処分」されているのである。

つまりは,コレが
覚えられない理由なのだ。



今度は,ちょっと風景を変えて
授業中で考えてみよう。

アナタが授業で得る
「見る」「聞く」「読む」ことがら「情報」である。

「先生の話を聞く」
「説明を聞く」
「教科書を見る」
「教科書を読む」

ことで得られることがらの全ては
「単なる情報」と考えた方がよい。



信号待ちをしているときに
アナタの前を通り過ぎた自動車であり
隣に立っていたオバサンであり
前から歩いてきたオジサンのネクタイの模様なのである。

「あ〜…早く授業終わんないかな…」
という気持ちと
「あ〜…早く青信号に変わらないかな…」
という気持ちは
まったく同じだったりする。

「あ,ヤバイよ。この順番で行くと次は当てられるよ〜」とか
「今なら<お手紙>回しても大丈夫だよね…」とか
「あの先生,相変わらず字が下手だな…」とか
そんな
「情報」ばかりを処理しているものだから
授業が終わった後…
大事なコトがアタマに残らないのである。

肝心の
「学習の中身」
横断歩道の雑踏の中へ消え去っていくのである。



ただ…
「横断歩道の向こう側から何人の人が渡ってくるのかな」

と考えながら信号待ちをしている場合
そして
横断しながら,おおよその人数を数えた場合
渡り終わって数時間しても
「だいたい30人くらいだったなあ」
という
記憶残るのである。

「待っている人の男女の割合はどれくらい?」
と人数を数えて計算してみた場合
「6:4の割合で女性が多かったなあ」
という
記憶残るのである。

たまたま横に立っているオジサンのネクタイの模様が
「ドラえもん」だったりすると
「えっ!」と驚いてしまったりする。
この場合も
記憶のである。



だから…
「この授業の要点は何かな?」
という
「目的意識」をもって授業に臨むと
「あ…コレとコレがポイントなのね」
「単なる情報」「断片的な知識」となって
脳ミソにインプットされることになる。

また,
「え〜! どうしてそうなるの?」
自分の中で
「疑問」に気付いたり
「へ〜…そうだったのか…」
自分の
「考え」をもったりすることが有効である。

「単なる情報」
「断片的な知識」
に変わる瞬間である。

つまり…
「覚える」第一段階なのである。



そうやって考えていくと
教科書やワークに書かれているコトは
「情報」であり
アナタがノートに整理したコトも
「情報」である。
先生の説明も
「情報」であって
友達の発表も
「情報」でしかない。
単語カードや授業で使うプリントも
単なる
「情報」の集まりなのだ。

「目的意識」「疑問」「考え」を持たないで
授業時間を過ごしても
アナタの脳ミソは,高度な情報処理能力で
次々に情報を処理して
平穏無事に授業を終えることができるだろう。

しかし
それらの大量で貴重な
「情報」
アナタの脳ミソをスルーしてゴミ箱にゴ〜ルするのだ。



さあ…
今日,登校中に横断歩道で出会った人は何人くらいだったか?

さあ…
今日の授業で大切なポイントは何だったか?

ちょっと思い出してみるのである。


たぶん,アナタの脳ミソのゴミ箱の中だろうと思うが
今さらゴミ箱をの探してみても何も無いのが関の山である。
アナタの脳ミソのゴミ箱は
悲しいほどに高性能な消却機能をもっているのだ。
某国の秘密諜報機関が欲しがるくらいに高性能なのだ。


そんなこんなの理由から
授業を受けたり,家で勉強するときには
「情報」「断片的な知識」変換するための
「目的意識」「疑問」「考え」を持ちたいモノである。

さらには…
「断片的な知識」「本物の知識」に変換するための
方法を探っていきたいモノである。

すなわち
「覚える」第二段階である。

次回はそれをテーマとしたい。