第50話 授業中の「おもしろい」は人生の宝石
〜 砂漠の中で水を求める方法 〜



「えっ?」

「授業がおもしろくないって?」

それは,一大事なのである。

「えっ?」
「授業がおもしろくないのは,当たり前のコトでしょうって?」

いやいや,どうしてどうしてである。

確かに授業や勉強はつらいものでキツいものだが
「おもしろい」とか「おもしろくない」とかは
全く別なお話なのである。




また…誤解がないように書いておくが
授業の中の「おもしろい」とは
先生の漫才トークでもなければ
友達のズッコケ発言でもない。

授業は「お笑い小劇場」ではないので
50分間連続で,おもしろオカシイわけがない。

50分間連続でアナタを楽しませてくれる先生なら
教室に立つより,舞台に立った方がよいのかもしれない。

そんなモノは
「おもしろい」ではなく「おかしい」なのである。

<御参考までに:大辞泉より>
【おもしろい】興味をそそられて,心が引かれるさま。興味深い。
【おかしい】普通とは違うところがあって笑いたくなるさま。
※ なお,古文の場合,【おかし・い】には
興味をそそられる。景色などが興趣がある。風情がある。
かわいらしい。美しい。魅力がある。りっぱである。
などの意味があるので注意したい。
テストに出る確率もメチャクチャ高い言葉である。



それではイッタイ…
授業中の「おもしろさ」とは何か?

それはアナタの
感性
ビビビビビビっと反応する瞬間なのであり
「感動」する瞬間なのである。



「そ〜だったのか」
とか
「え〜〜〜,そ〜なの!」
とか
「ど〜して,ど〜してぇ!!」
とか
「あれ〜〜〜〜〜〜?」
とか
「不思議だなぁ〜」
とか
「すっげぇ・・・」
とか
「ほぉ〜・・・」
とか
「え?」
とか
感じる瞬間なのだ。

または,言葉には出なくても

鳥肌が立ったり
ゾクッとしたり
ドキッとしたり
ジーンとしたり
ワクワクしたり
ドキドキしたり
鼻血が吹き出したり
(あ,それはないか)


まあ,そんなこんなで
アナタの心が右へ左へ前へ後へ
チョロチョロのレベルからから
ビュンビュン・グワングワンのレベルで
揺れ動くことなのだ。

それが授業中の
「おもしろい」なのである。



この授業中の「おもしろい」は
アナタの人生にとって,とても重要なのだ。

例えば…である。

小学校の家庭科の時間にミシンの使い方を勉強する。
しかし
数時間程度の勉強で
ミシンがけの技術がマスターできるワケがない。
せいぜい
ミシンの「さわり方」の基本の部分を知るのが精一杯である。

だが…
ある小学生は,そこに
「おもしろい」を感じた。
心が反応したのである。

彼は,その後も何度かミシンがけを経験する。
自分で「おもしろい」と感じたことである。
何かの機会に「やってみようかな」と思うのは
極々自然なコトなのである。

学校の雑巾(ぞうきん),制服のズボンの裾上げ,
体育服のゼッケンに上履き入れの制作などなど。
様々な製作体験を重ね,いつしか彼のミシン操作の腕前は
セミプロのレベルにアップするのであった。

世の中に「ミシンを使える人」と「ミシンを使えない人」がいるのは
そんな事情があるのである。
(ちなみに,まくべんはミシン掛けができる種類の人間に属している。)

最初のミシンとの出会いを
「おもしろい」と感じるか
「おもしろい」と感じないか・・・
すべてはそこから転がり始めるのである。




さて,「おもしろい」が大切なら
たくさんの「おもしろい」と出会える授業を受けてみたいものである。

授業中に,より多くの「おもしろい」を提供するのは
先生のお仕事である。

授業中に,より多くの「おもしろい」を見いだすのは
生徒のお仕事である。

先生のお仕事は,
是非とも先生の方で頑張っていただきたいのだが
所詮は人間のすることである。
授業の中に,いつも「おもしろい」を仕込んでくる先生は
それほど多くないだろういと推測する。
(ゴメンナサイ,全国の先生方…傲慢な発言を許してくんなんしょ…)

中には,永遠に…
「おもしろい」とは縁がない授業を展開する先生だっているのだ。
時々,新鮮な旬の食材を贅沢に使って
とんでもない味の料理を作ってしまう料理人がいるが…
(あ…それはワタシだ…)
人間だもの・・・仕方がないのである。

そういう先生の授業を受けるハメになったアナタは
実に不運であり,不幸である。



空から「おもしろい」が全く降ってこない
荒涼とした砂漠のような授業から
永遠に抜け出せなくなってしまうのである。
(とは言っても,卒業すれば出られるケドね。)
(とは言っても,高校でも大学でも更に広大な授業砂漠が待っているケドね。)
(就職しても,多分・・・仕事砂漠の中で暮らすことになるケドね。)


ドンダケの根性をもって
「おもしろい」という名の雨を待ち続けても
近い将来,カラカラに乾いて死神のお世話になってしまうのである。

砂漠の中で降る望みのない雨をひたすら待ち続けるか。
それがイヤだったら,どうするべきなのか…である。



砂漠で水を手に入れる方法にはいくつかあるだろうが
とりあえずは,
3つの選択肢を紹介したい。

ひとつ:事前に水筒などに水を準備して砂漠に入る。
ふたつ:水を求めて歩き始める。
みっつ:そこに井戸を掘る。

ひとつ目を除いて,後の2つの方法は
砂漠の雨を待つのと同じくらい
水と出会える可能がは低いかもしれない。

それどころか,体力の消耗が早くなり
さっさと死神の御登場となる可能性もある。

しかし,
必ずしも可能性はゼロではないのだ。

ちなみに
本物の砂漠の中でのサバイバル術を期待してはイケナイのである。
これはまくべん得意のイイカゲンな「たとえ話」であり
フィクションであり,ハクションではないのである。

どうしても本物の砂漠でのサバイバル術を知りたいのなら
浦沢直樹氏の漫画を読むか
別のサイトを探して欲しいのである。

何らかの事情で,本当に砂漠で遭難して
「たしか,まくべんに書いてあったぞ」などと
いい加減な知識を掘り起こしながら実践しても
多分・・・助からないのである。
アシカラズである。

それはさておき!!!


授業の中で「おもしろい」と出会う方法
である。
砂漠の中で「水」と出会う方法である。

先の3つの方法を,再確認する。



まずはひとつ目
「事前に水筒などに水を準備しておく」である。

これは
「授業に事前の準備をして臨む…」
ということである。
つまりは
「予習」である。
予習すればしただけ,「おもしろい」と出会う確率は高くなる。
たとえ,先生が「おもしろい」のタネを仕込んでいなくても…である。



ふたつ目の
「水を求めて歩き始める」
授業で勉強した内容と
「関係ありそうなコト」
自分で探して調べてみる…ということである。
言い換えると
「発展学習」である。
勉強内容の周辺に,意外な「お宝」を見つけだすことがある。
そうなると
勉強した内容も自然と「おもしろい」になるのだ。



みっつ目の
「そこに井戸を掘る」
言わずと知れた
「復習」を意味する。

「水がなければ,水が湧くまで井戸を掘れ!」
「わからなければ,わかるまで復習せよ!」


自分の力で「わかった」を掘り当てれば
どんなコトより
「おもしろい」と感じることができる。



以上,3つの心がけをもって授業に臨めば
砂漠授業はオアシス授業…いや,楽園授業に変わるのである。

砂漠の一つ一つの
砂粒
まるで
宝石のような「おもしろい」に変わるのである。

そして,アナタが見つけた
「おもしろい」
確実にアナタの
「人生のチカラ」になって
アナタ自身を更に輝かせるのだ。

また…
実際の宝石は,お金で買えるが
人生の宝石は,決してお金で買えないモノなのである。


<合掌>