第20スキル
「交友を択ぶ(こうゆうをえらぶ)」

〜橋本左内の「啓発録」に学ぶ 解説編その5〜



さて,いよいよ「啓発録」最終回!
「交友を択(えら)ぶ」

である。

前目からの流れでは…


学問を頑張ってると
時々,調子に乗って
自分の才能や能力を自慢したくなる病気
かかってしまう

自分で注意するのは当然だが
そんなときは
「よき友」に注意してもらうことが
最も効果的である。

だから
「よき友」を選ばなければならない。


まあ,そんなところであった。

さて,橋本左内先生のおっしゃる
「よき友」とは,どんな「友」なのだろうか。

そして,その「友」は
アナタの生き方とどのように関わってくるのだろうか。

そんなこんなを考えながら
ジックリと読んでいただきたいのである。



「交友を択ぶ(ほぼ原文)」

交友は,吾が連・朋友の事にて,択とはすぐり出す意なり。
吾同門同里の人,同年輩の人,吾と交りくれ候へば,
何れも大切にすべし。

乍去其中に損友益友候へば,則択と申す為肝要なり,
損友は,吾に得たる道を以て,其人の不正の事を矯正し可遣,
益友は,君より親みを求め,車を詢り,常に兄弟の如くすべし。
世の中に益友ほど難有難得者はなく候間,
一人にても有之ば,何分大切にすべし。

総て友に交るには,
飲食歓娯の上にて附合,遊山釣魚にて狎合は不宜,
学問の講究,武事の練習,士たる志の研究,
心合の吟味より交を納れ可申事に候。

飲食遊山にて狎合候朋友は,其平生は腕を扼り肩を拍ち,
互に知己知己と称し居候へ共,
無事の時,吾徳を補ふに足らず,
有事の時,吾危難を救ひくれ候者にてはなし。

これは成り丈屡出会不致,吾身を厳重に致し附合候て,
必狎昵致し吾道を褻さぬ様にして,何とか工夫を凝して,
其者を正道に導き,武道学問の筋に勧め込候事,友道なり。

偖益友と申すは,兎角気遣な物にて,
折々不面白事有之候,夫を篤と了簡すべし。
益友の吾身に補ひあるは,全く其気遣なる処にて候。
士有争友雖無道不失令名と申すこと,経に有之候。

争友とは即益友也,吾過を告知らせ,我を規弾致しくれ候てこそ,
吾気の附ぬ処の落も欠も補ひたし候事,相叶候なり。
若右の益友の異見を嫌ひ候時は,
天子諸侯にして諫臣を御疎みなされ候と同様にて,
遂には刑戮にも罹り,
不測の禍をも招く事あるべきなり。

偕て益友の見立方は,
其人剛正毅直なるか,温良篤実なるか,
豪壮英果なるか,俊邁亮明なるか,濶達大度なるかの五つに出でず。

此等は何れも気遣多き人にて,
世間の俗人どもは甚しく厭弃致し居候者なり。
役損友は,佞柔善媚,阿諛逢迎を旨として,
浮躁弁慧,軽忽粗慢の性質ある者なり。
此は何れも心安く成り易き人にて,
世間の女子小人ども,其才智や人品を誉居候者なれども,
聖賢豪傑たらんと思ふ者は,其所択自ら在る所あるべし。




「交友を択(えら)ぶ(まくべん訳)」

「交友」とは,自分が付き合う友人のことで
「択ぶ」とは,多くの中から選び出すという意味である。

自分と同じ先生について学ぶ人(同級生など)や
出身地が同じ人,
同じくらいの年齢の人などであって
自分と付き合ってくれる人があれば
みんな,友人として大事にしなければならない。

しかし,そんな友人には,
損友(そんゆう)益友(えきゆう)があるので
その違いを見定めて
選ぶことが大切なのである。

友人の中に損友がいたら
自分の力で,その友人の悪い面を正しい方向へ
導いてやらなければならない。

益友であれば,自分の方から付き合いを求め
どんなことでも相談して,
常に兄弟のように付き合うことが望ましい。

世の中では,
益友にはなかなかめぐり合えない。

それほど得にくいものなので
一人でも益友がいたら
どんなことがあっても
大切にするべきである。


友人と付き合う場合,
いっしょに飲み食いしたり遊んだりすることだけのためだったり
どこかへ一緒に出かけたり魚釣りするだけの付き合いは
あまりよろしくない。

いっしょに勉強したり,武芸を練習したり
武士の心得について研究したりするような
付き合いをするべきである。


飲み食いや遊びで親しくなった友人は
普段は腕を組み肩をたたき合って
互いに
「親友」と呼び合っていても
平和なときに,自分の人格をレベルアップさせるためには役に立たないし
トラブル発生のときにも,自分のピンチを救ってくれることはない。

このような友人とは,できるだけ会う機会を少なくし
遊びへの誘惑に負けない
強い意志をもち
ついうっかりなれ合いになって
人としての道徳的な道をはずれないように
注意する必要がある。

そして,なんとか工夫をして
その友人を
正しい方向へ導き
武道や学問に関心をもつようにさせることも
友人としての使命である。


ところで…,

すぐに仲良くなれる損友とはちがって
益友との付き合いは
実に気をつかうものである
付き合っていると,時々
面白くないこともある。

しかし,そこをよく考えなければならないのだ。

益友が自分にとって,とても有益なのは
まったくその
気をつかうところがポイントである。

「孝経
(こうきょう:儒学の教科書)」という本には
「争友(そうゆう)があれば,
無道
(むどう)の人物でも
名声を失うことはない」

と書かれている。

「争友」とは,自分の悪いところを指摘してくれる友人である。
つまり,益友のことである。

自分の悪い部分を
指摘し,忠告してくれてこそ
自分では気付かなかった自分の弱点を
修正することが可能となる。

だから…,
益友からの
忠告に対して「ムカツク」というのは
殿様が自分の不正に対して忠告した家来を
冷たくあつかうのと同じコトなのである。
最後には罰せられ,
思わぬ災難をまねく結果にもなるのだ。


益友を見定めるには,その人が,

厳格で意志が強く正しいか…。
優しさにあふれ,人情があり,誠実な人物か…。
勇気があり,決断力があるか…。
才能と知恵がさえているか…。
小さなことにとらわれない広い心をもっているか…。


の五つのポイントで判断すればよい。

こういう人物は,付き合っていく上では
とても気をつかうことが多く
世間一般の人からは嫌われている場合が多い。

それとは反対に
損友は,他人に気に入られることを最優先し
お世辞を言ったりペコペコしたり
他人のペースに合わせること一生懸命で
抜け目もなく,落ち着きもない。
とても軽々しく,イイカゲンなものである。

こうした人とは,すぐに仲良くなれるので
世間一般の人々は,
それらの人の才能や人柄をほめるのである。

しかし…,
ビッグな人物になろうとする者は,
友人を択ぶ場合には,
一般人とは異なった
厳しい見方
友人を選ぶべきなのである。



以上,橋本左内先生による「啓発録」の第5目
「交友を択ぶ」であった。

要は…,

全部の友人大切にしなさいよ。
特に,自分に
「忠告」してくれる友人は
とっても大切な
「益友」だからね。
ムカついたり,キレたりしないで
ジックリと
反省をして
「直さないとなあ」と実感する部分は
キチンと直したいものですね…。

というところだろう…と考えるのである。

ただ…
誤解がないようにフォローしておくが
「益友だけと付き合いなさいよ。」
「損友とは絶対に付き合うなよ。」
とおっしゃっているワケではないので
その辺は十分に注意したいものである。


友達付き合いの基本は,あくまで
「何れも大切にすべし。」
である。



さて…ここまで「啓発録」を読み解いてきた。

中学生諸君は
イロイロなことを考えながら,思い浮かべながら
読んでくれたことだろうと思う。

中には,橋本左内という人物に
興味や関心を持った中学生もいるかもしれない。

しかし…である。

「偉人」と言われる人物の著書伝記に出会うと
「とても私にはできない」とか
「天才だったからできたんでしょ」という
感じ方をする中学生もいるのである。

残念ながら,そのように感じる中学生は
多分,その場で
「発展完了」
「進化終了」
「はい,できあがり」

になってしまうだろうな…と考える。

逆に…
「よし,私も・・・」
「よし,俺も・・・」
「せめて,百分の一だけでもやってみようか・・・」

と感じる中学生は,まだまだ発展する余地があるワケだ。

「啓発録」の中で,橋本先生も記されていたではないか。

忠義孝行の事を見ては
直に其人の忠義孝行の所為を慕ひ傚ひ
吾も急度其人の忠義孝行に負けず劣らず
勉め行き候事,学の第一義なり




最後に…

「啓発録」は,とても素晴らしい書である。
しかし,所詮(しょせん)は
過去の書である。
そのまま現代に生かせる知恵や考えがある一方で
歴史を隔てた価値観の違いから
どうしても受け入れられない考えも存在するのだ。

どの部分をどのような状態で自分の中に取り入れていくか…。
それは,
自分自身で,自分なりに考え,解釈し
自分の言葉にして,自分の中に取り入れる
必要がある。

これは,どの本を読む場合も同じである。
いくら素晴らしい書だからといって
そっくりそのまま実践するワケにはいかないのである。

その結果,刀や槍を振り回し
学校内を駆け抜けて行くようなマネをしたあげく
「だって,橋本左内が言ってたから・・・」
などと言い訳をするならば
それこそまさに「稚心」そのものである。

くれぐれも,そのような事態に発展しないよう
どうぞ宜しくお願いしたい。

(完)





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