第17スキル
「振気(しんき)」

〜橋本左内の「啓発録」に学ぶ 解説編その2〜



おちゃない,おちゃな〜い…「子ども心」を捨て

「おしっ! やるぞ!!」
と心を決めたら次は…
どうやって「テンション」を高めるか…
どうやって「やる気」を奮い立たせるか…
どうやって「根性」を発揮させるか…

が問題になってくる。

「え〜… なんだか自信ないなぁ…」
そう感じる中学生は
まだまだ「稚心」を捨て去っていないのである。

もうしばらく御母上のヒザの上で
指をシャブリながら甘えているとよい。

別に慌てて「稚心」を捨て去ることはナイのだ。
余程のことが無い限り…
時が経てば自然と「稚心」は去ることになるだろう…

まあ,10年後か…20年後か…
はたまた…30年後かもしれない。

いずれにしても
「稚心」が残っているうちに
「それでも頑張ろう」と決心しても
左内先生の言うとおり
「一切の発展はない」のである。

まあ,その辺で,しばらくの間
「子ども」という立場を
十分に満喫すべきである。



では!
「稚心」を捨て去った…
もしくは
捨て去ろうと頑張っている中学生は
コチラである…。

いつものとおり「原文」からである。



「振気(ほぼ原文)」

気とは,人に負ぬ心立ありて,
恥辱のことを無念に思ふ処より起る意地張の事也。

振とは,折角自分と心をとゞめて,振立振起し,
心のなまり油断せぬ様に致す義なり。
此気は生ある者にはみなある者にて,
禽獣にさへこれありて,禽獣にても甚しく気の立たる時は,
人を害し人を苦しむることあり。
まして人に於てをや。

人の中にても士は一番此気強く有之故,世俗にこれを士気と唱へ,
いかほど年若な者にても,両刀を帯したる者に,
不礼を不致は,此士気に畏れ候事にて,
其人の武芸や力量や位職のみに畏れ候にてはこれなし。
然る処太平久敷打続,士風柔弱佞媚に陥り,
武門に生れながら武道を亡却致し,位を望み,
女色を好み,利に走り,勢に附く事のみにふけり候処より,
右の人に負けぬ,恥辱のことは堪へずと申す。
雄々しさ丈夫の心,くだけなまりて,腰にこそ両刀を帯すれ,
太物包をかづきたる商人,樽を荷ひたる樽ひろひよりもおとりて,
纔に雷の声を聞き,犬の吠ゆるを聞ても,郤歩する事とは成にけり。
偖々可嘆之至にこそ。

しかるに今の世にも猶未だ士を貴び,
町人百姓抔御士様と申唱るは,
全く士の士たる処を貴び候にて無之,我。

君の御威光に畏服致し居候故,無拠貌のみを敬ひ候ことなり,
其証拠は,むかしの士は,
平常は鋤鍬持,土くじり致し居候共,
不断に恥辱を知り,人の下に屈せず,心逞しき者ゆへ,
まさか事有るときは,吾 大御帝,或は将軍家抔より,
募り召寄せられ候へば,忽ち鋤鍬打擲て,物具を帯して,
千百人の長となり,虎の如く狼の如き軍兵ばらを指揮して,
臂の指を使ふごとく致し,事成れば芳名を青史に垂れ,
事敗るれば,屍を原野に暴し,
富貴利達,死生患難を以て其心をかへ申さぬ。
大勇猛大剛強の処有之ゆゑ,人々其心に感じ,其義勇に畏候へども。

今の士は勇はなし。
義は薄し,諜略は足らず,迚も千兵万馬の中に切り入り,
縦横無碍に駆廻る事はかなふまじ,
況んや帷幄の内に在て,運籌決勝之大勲は望むべき所にあらず。
さすれば若し腰の両刀を奪ひ取候へば,
其心立其分別尽く町人百姓の上には出申まじ,
百姓は平生骨折を致し居,
町人は常に職業渡世に心を用ひ居候ゆへ,
今若し天下に事あらば,手柄功名は却て町人百姓より出で,
福島左衛門大夫,片桐助作,井伊直政,本多忠勝等がごとき者は,
士よりは出申さゞるべきかと思はれ,誠に嘆かはしく存る。

箇様に覚のなきものに,高禄重位を被下,
平生安楽に被成置候は,偖々君恩のほど男す限りなきこと,辞には尽しがたし。
其御高恩を蒙りながら,不覚の士のみにて,
まさかのときに,我君の恥辱をさせまし候ては,返す返す恐入候次第にて,
実に寐ても目も合はず,喰ても食の咽に通るべき筈にあらず。

ことさら我先祖は国家へ奉対,聊の功も可有之候得ども,
其後の代々に至りては,皆々手柄なしに恩禄に浴し居候義に候へば,
吾々共聊にても学問の筋心掛け,忠義の片端も小耳に挟み候上は,
何とぞ一生の中に粉骨砕身して,露滴ほどにても御恩に報い度事にて候。
此忠義の心を撓まさず引立,後還り致さぬ様に致候は,
全く右の士気を引立振起し,
人の下に安ぜぬと申す事を忘れぬこと,肝要に候。
乍去只此気の振立候而已にて,志立ぬ時は,
折節氷の解け酔のさむる如く,
後還り致す事有之者に候,故に気一旦振立候へば,
方に志立候事甚大切なり。




「振気(しんき:まくべん訳)」

「気」とは,絶対に他人には負けないという気持ちである。
他人に負けるとことを「恥ずかしい」と感じるところから発生する
「根性」のコトである。

「振」とは自分の目標に向かって少しの油断もなく
心の緊張を保ち続けることである。

この「気」は生き物全てが持っており
鳥やケダモノでさえ,ちゃんと持っているものである。

キレた状態のケダモノは
人間を傷つけたり苦しめたりする場合がある。
しかし人間は,気持ちの持ち方一つで
その人をとても高いレベルに
引き上げることができるのである。

人間の中でも武士ほど「気(根性)」の強いものはない。
世間では武士の「気」のことを「士気」と呼んでいる。

一般の人々が,どんなに若い武士にでも無礼な行動をしないのは
この「士気」をリスペクトしているからで
その人の武芸や力量や地位などが直接の原因ではない。

しかし…長い間,平和な時代が続いたので
武士としての考え方や行動は,とてもユルいものになってしまった。
武士の家に生れたのに武道の修業をサボり
それでも身分や地位は高くありたいと望み
女性へのスケベ心はとっても強く
自分の利益のコトばかり気になりに
勢力的に強いグループに入ることばかり考えている。
(まったく…どこかの政治家みたいである…)

先に書いたような
人に負けない気持ちをもち,死ぬことを恐れない
勇ましい武士の精神が全く失われてしまったのである。

現在の武士は腰に「刀」こそ身につけているが
大きな荷物を背負った商人や
樽(たる)を売り買いする身分の低い人々より
遥かに気力の点では劣り,小さな雷の音さえ恐がっている。
ひどい者になると,犬がほえるのを聞いても
尻込みするようになってしまった。
実に情けない悪い方向に変わってしまったものである。

それにも関わらず町人や農夫などは
今でも武士を「御武家様」と呼んでるのである。

これは武士の本質を認めて呼んでいるのではなく
主君の権威の下で従っているだけで
しかたなく,表面上,武士というモノに
頭を下げているに過ぎないのである。
(まるで…虎の威を借るナントヤラである。)

昔の武士は,平和なときは農民と同じように
スキやクワを持って畑で働いていたものである。
畑で労働する点は農民と少しも変りはないが
心の持ち方は,農民と全く異なり
常に
「恥辱(恥ずかしいこと)とは何か」を知っていて
他人には負けないように努力し
どんな事情があっても
人としての正しい生き方を外れてまで
自分より強い者の言いなりになるようなことはなかった。

また戦(いくさ)などの非常事態が起こり
朝廷や将軍から命令があれば
スグにスキやクワを捨てて
戦闘のための装備を身につけ
百人,千人の兵隊の指揮官となり
虎や狼のような勇士を指揮しながら
命の続く限り戦って
成功すれば歴史に名前を残し
運悪く戦いに敗れれば
戦場で死んでしまうことを少しも恐れなかった。
そして,その決意は
「偉くなりたい」とか「死にたくない」といった甘え心をはね飛ばし
決してゆらぐことがなかったのである。

だから世間の人々はその心に感心し
リスペクトしたのである。
義勇
(正義のために発する勇気)を敬(うやま)って服従し
武士を尊敬したのである。

今の武士は,あまりものナサケナイのである。
勇気がなく,義理には薄く
作戦を立てるような知恵もない。

敵の軍勢の中に突入して
右へ左へ大暴れ…な〜んてことは
まぁ,無理である。
まして
大将として作戦本部から指令を出し
自分の軍勢を勝利に導くといった才能などは
とてもとても望めないのである。

だから結局,現在の武士は
町人や農夫に刀を身につけさせたものと同じである。
むしろ,武士から刀を取ってしまえば
町人や農夫にも劣る者が
どれほどいるかわからないと言ってもよい。

農夫は普段から力仕事に慣れていて
筋肉は大いに発達している。
町人も,商売に関しては
並々ならぬ勉強や経験を積んでいる。

今もしも,天下の一大事が起これば
ヒーローとなる人物は農夫や町人から出てくるだろう。
福島左衛門大夫,片桐助作,井伊直政,本多忠勝のような人物は
武士からは出ないだろうな…と,とても悲しくなる。

このように自覚のないダメ武士でも
普段から高い身分にあって,高い給料をもらい
なぁ〜んの不安もなく,経済的な安定を得ていられるのは
偉大な主君のおかげなのだから
私たちは深く感謝しなければならないのである。

主君から,これだけの恩を受けながらも
(気がつくと周囲は)臆病の武士だけになり
もしも天下に一大事が起こったとき
主君に恥ずかしい思いをさせるとしたら
ただただ「ゴメンナサイ!」と言うしかない状態である。

このように考えると,心配で夜も眠れず
食べ物もノドを通らないくらいに不安になるのである。

武士が主君からこれだけの恩恵を受けているのは
私たちの御先祖様が,それなりのはたらきをしたからであろう。


これからも武士が,今さら大きなはたらきもなく
何の不安もなく生活していくことを考えれば
主君への忠義の心を持っている武士は
キチンと勉強をして,一生を通して忠義を実践するべきである。
そして,主君からの恩恵に応える精神で
いろいろな苦しみに耐えなければならないのである。

この忠義の心を常に高いレベルでキープするためには
前に書いた
「士気(武士としての根性)」を忘れず
人に負けない心がけが必要である。

ただし,注意しなければならないのは
どれほど「士気」が高まっても
自分の「志(目標)」がハッキリしないままだと
春になって雪や氷が溶けるように
酒の酔いが,そのうち醒(さ)めてしまうように
本人がどれだけ頑張っても
「士気」はそのうち失われてしまうものである。


だから,
「気」をキチンと持った上で
次に「志(目標)」を立てることが大切になってくる
のだ。



以上
橋本左内の「啓発録」より第2目(もく)
「振気」であった。


要は…

本気で勉強を始めたら
「絶対人には負けられないゾ!」
「負けることは恥だゾ!!」と考えて

(これが「気」の部分である。)
常に油断なく頑張る気持ちを持たなければならない
(ココが「振」の部分である。)
ということである。

そして
「気」だけで「振」することは不可能なので
どうしても
「志」が必要になってくるワケなのだ。
(う〜ん…ココだけ読んだ人には,まるで暗号である)

後は…堕落した大人武士への不満が
タラタラタラタラタラ…と書いてある。


昔も今も同じようなものである。
中学生から見た大人というものは
ホントにダラしない存在である場合が多い。
テレビや新聞には
スゴイ大人もたくさん登場するが
ダラしない大人の方が
圧倒的に多く登場するようにも思える。
冷静に世の中を見渡せば
決してそんなコトはないのだが…
どうやら大人の「だらしなさ」というものは
いつの時代でもオーバーステートされるものらしい…
大人として大いに悔しい…。(泣)


ここら辺が「中学生らしい」と言えば
実に「中学生らしい」のである。


しかし
この「不満」が
単なる「愚痴(グチ)」に終わらないところが
さすがの橋本左内先生である。

「だったら自分はどうするのか!」
「だったら自分はどうなるべきか!」

その辺を深ぁく…深ぁく…深ぁ〜く考えているのだ。

さあ,中学生諸君!!
現代の社会や政治や大人達への愚痴や不満は
星の数ほどあるだろうが…

だったら
アナタは
どうするのだ?
どうなるのだ?


である。

そこんところがぁ…
とっても,とっても,とっても
大事なのであ〜るっ!!

ダラしない大人にならないためにも…ネ!!





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