武田百合子著「富士日記」抜粋
(中央公論社発行・昭和52年度田村俊子賞受賞作)


上巻カバー)夫武田泰淳と過ごした富士山麓での十三年間の一瞬一瞬の生を、 澄明な眼と無垢の心で克明にとらえ天衣無縫の文体でうつし出す、思索的文学者と天性の芸術者とのめずらしい 組み合わせのユニークな日記。
中巻カバー)並はずれて奇抜で誰も思い及ばぬ発想のなかで、事物の核心を すべて喝破する、いわば生まれながらの天性の無垢な芸術者が、一瞬一瞬の生を澄明な感性でとらえ、 また昭和期を代表する質実な生活をあますところなく克明に記録する。

熊本県・佐藤晴子様からのメール提供その14  その23

文庫本上巻 325ページ〜327ページ

昭和四十一年五月四日(水)晴
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 陽なたで鎌を砥いでいると「ユリ子、ユリ子、ちょっと。へんなものがある。ちょっとでいいから見てごらん」と、 そばへきて、 小さな声で主人が言う。秘密くさそうに、いそいそと言う。主人が案内してくれたのは、勝手口の草むらの中の 松の根もと。高山植物らしい花が咲いている。葉も茎も花びらの外側も、銀色に光る産毛のような毛で、 びっしり掩われている。 つりがね草のように下向きに咲いている花の中がわは、濃い、黒血のように濃いえんじ色で、奥の方にオレンジ色 の蕋がある。下を 向いているから、そのえんじ色は外からは分らなくて、産毛のような銀灰色に花も茎も葉も包まれた。 花でないような花、植物でないような植物なのである。いつから、ここに出てきて咲いたのだろう。 触ってみても、花の中を覗いてみても、底知れない不思議な思いがする、宇宙からやってきた動物みたいなのだ。

昭和四十一年五月十八日(水)晴
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 二週間来ないうちに、庭はまるで変ってしまった。・・・・・・・・・・
・・・・・・・・この前、咲いていた動物のような不思議な草は、すっかりとうがたって、 花は銀色の長いひげのようなものに変っていた。 ・・・・・・・・・・

文庫本中巻  483ページ

昭和四十四年五月十日(水)晴 風なく暑い
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 焚火のそばの、名前の判らない高山植物のような、毎年一輪しか咲かない花を、去年一株、犬の墓の上に移してみたら、 今年は焚火のそばの花が散ってから遅れて一輪咲いた。葉柄も花茎も花の表がわも、すっかり白銀色の柔毛に つつまれている。猫柳の毛のようだ。花は百合よりもっとうつむいて咲く。花の奥をみようとして、 花柄に指をかけて仰向かせると、花の柄はしなやかでくにゃくにゃしていて、猫の手をいじって遊んでいる ときそっくりの感触だ。動物のような花。花の中がわは黒ずんだ真紅で、オレンジ色の花芯がある。 毎年こうして猫をいじるように遊んでみるが、毎年、不思議でたまらない。散ってしまうとほっとする。


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