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妻と私 出水市針原の災害予告 下浜の水害 新潟の土砂崩れ予告
霊魂の話(1 広島の橋げた落下事故の霊 名古屋空港の霊

妻と私

私が結婚する相手の事を意識したのは、小学校5年生の時であった。
  随分と早い様に考えられるが、これには訳がある。私が小学5年の時というのは、昭和27年のたまたま特異な時期(時代)であったのだ。この2・3年、非常に結婚が多かった。祖父達は何日か置きに結婚式に出ていた。結婚が自由になり、好きな者同士が一緒になっていく様子を、隔世のこととして祖父母が語る様子を聞いていた。祖父は良い事だとして語り、祖母はしぶしぶ受け入れていく様子であった。
  そんな事で、男と女が結婚し、花嫁は文金高島田姿で、何日か掛かりで親戚の家に挨拶回りをしていた。挨拶に来る日、祖母は歓迎の支度をして待っていた。挨拶に来た花嫁に挨拶をされる時は嬉しいものであった。しかし、何年もつだろうかという危うい組み合わせもあった。
  そうした事からの連想で、ふと、俺の嫁さんになる人は、もうこの空の下のどこかに生まれているのだろうなあと思いつつ、いや、まだ生まれていないような気がするなあと思案打ち消していた。小学生の間には何の予感もなかった。
  それからしばらく考える事もなく6年が終わり、中1の新学期が始まった。20日に学校が火事になり、2日が過ぎて、朝、東の空を見た時、あ、今日生まれている。俺の嫁さんになってくれる人が生まれたんだと思った。しかし、12年以上年が離れている事になる。勘違いだなと思った。
  1月ほどして、女の子が生まれたという知らせが祖父に齎された。それは、予感したものと符合する事になると、ちょっと震えた。でも、思い過ごしだと打ち消した。
そのまま、1度も触れ合いの時はなく、16年が過ぎた。親戚筋でありながら、 お互いの存在を意識した事さえなかった。屋久島と坊津に離れていたので、当時の屋久島航路は船が小さくて悲惨な行き来の状態であったのだ。
  今は亡き岳父やその弟が来た時の話は、異次元世界の話を聞くようであった。苦労続きの開拓者の話は、20W一つの囲炉裏を囲んでの語りにふさわしかった。家内の祖父が亡くなり、私の祖母が亡くなりで、屋久島から来る事が続いた。そして、家内の母が急死して、私か屋久島に行った。
  その動機は、岳父が祖母の亡くなった時、仕事を休んで葬式に出てくれた事への感謝の気持ちであった。苦難を越えてきた夫婦が無念の別れに追い込まれている時、慰めではなく、励ましをしなければという気持ちであった。
  鰹船で沖に向かっていた兄弟達も、屋久島の安房港に寄港して、葬儀に参列出来た。
葬儀が終わって、会話があるようになった時、私は耳を疑った。懐かしい声が聞こえるのである。幼い日、父を戦争で失った私たちを可愛がってくれた祖母の姪の声にそっくりの声の持ち主がいたのである。子供の時、私の嫁さんになる人は私を落ち着かせてくれるこの声の持ち主であります様にと思った、そのままの声であった。
  そして、聞いていくと、私が予感したその日に生まれていた。神は私の為に準備をしてくれていたのだと思った。予感は本当だったのである。
  その夜、付き合っていた男の子に、「笑子は私の妻になる子である。横合いから突然出てきてこんな事を言うのは悪いが諦めてくれ。」と宣言した。兄弟達は笑って賛成した。多分無理だろうと思っての事であったろう。
  神戸で学校帰りに交通事故に遭い、私はその情景を病室の天井に写る絵の様に見ていた。私も坊津で前日に交通事故に遭って入院していた。見舞いに来て呉れた親戚達に何かがあったと思う。連絡を取ってくれと頼んだが、1週間後に事故に遭っていた事を知らされた。後遺症で回復出来ない事を何度か聞き、125ccの単車で神戸まで治しに行った。立ち眩みの症状を何とか静める事が出来た。
  十島村の村長に申し入れて、中之島の住民を治しに行った時は、ふっと、気配りのバリヤでの保護を忘れていた事を気づいて、「ガンバレーーッ。僕は守っているぞー。」と強く強く念した時、想像した通り、襲われそうになっていた男を蹴飛ばして逃げる事が出来たという。まさにそのままの事が起きていた。
  準看学校を卒業して夜間高校に通っていたまま結婚した。成人式には尻込みするのを説得して、目立ち始めた腹のままで出席した。
  今、家内は病気になった。結婚以来、良く持ったと思う。安らぎの時になればいいと思う。時々に治してはいたが、とんでもない薬を飲んでいた。
  副腎皮質ホルモン剤。1963年頃在職していた共済組合で、私は副作用の怖さを知っていたので、最も重点を置いて市町村役場の家族に投与されるこの薬をチェックしていたものであった。家内がこの薬の投与を受けていた事を知り、止める手だてをするようにした。身体中が変質していた。筋肉が変わっている。関節も変わっている。
  看護婦なるが故に医者の投与する薬に無防備なのである。勤務病院の医師に話して、私が話していた事の正しさを知った格好であった。
  妻の叔父が脊髄炎に罹ったとき、細菌感染の恐怖の為に長期間、大量の副腎皮質ホルモン剤の投与を受け続けた時も、満月顔・腹部膨満・胸部の赤らみ・食欲の異常増進と体重に増加があり、胃の痛みが始まっているのに何ら観察もせず、漫然と投与され続ける薬の怖さを指摘して、始めて暫減投与が始まったのであった。それまでに起きた症状が消えるまでに掛かった期間は6ヶ月であった。
  妻が投与を受けた期間は長くないが、回復した症状よりも、変調した状態の方が長い苦しみを残している様に思える。肌に現われている現象は根深いものである。


予告した災害

災害は忘れた頃にやってくるというが、過去に私が予告した災害はいくつもある。しかし、人々は私を嘲り、罵る。災害は確実にやってくる。

予告した災害は、地震だけではない。
鹿児島の水害は完全に予告し、大水害が発生するときのシミュレーションまでやった。そして、人にも伝え、パソコン通信で伝えた。
まず、水害が起きる前の状態について当時の様子を述べてみる。長い経過が伏線としてあるのだ。災害が突然やってくるのではない。

その前にちょっと寄り道をしたい。
出水市針原の土石流
出水市針原地区が水害になった事は皆の記憶に新しいと思う。その針原の地を訪れたのは、1987年9月であった。
この地に住む果樹農家の奥さんが声が出なくなっていた。レコードも出しているほどの美声の持ち主であったが、幼稚園の子供たちに意思を伝える事が出来ずに苦しんでいるという事であった。
たまたま、熊本市で農家の会議があったので、出席したとき、件の彼は汽車で来たという。帰りに私の車で家まで連れて行けと語った。彼はしぶしぶ従った。何せ、私の車はボロ。しかも遊んで帰りたかったのに、私と帰れば目論見は全てパー。でも、妻の為には涙を飲むしかなかった。クーラー無しと悲惨な3号線であった。
走りは悪くないので、早く着いた足で彼の蜜柑園を見に行った。
彼としては手入れの行き届いた園の様子を見て欲しかったのであろうが、私の目は園の土質と土手に出ている岩の丸みを見ていた。
「おい、ここの石は造園の時に動かしたかい。この土は最初からこんな土だったかい。腐食が底まであるようだから開園からの年数に比べて多すぎると思うが。」と聞くと、
「おはんな、ないをば見ちょっとな。オイは木を見てもろをごたって、連れっ来たとに石の話ちゅわ何いな。ここは殆どそのままで土手も出来とったよ。」と口を尖らしていった。
「と言う事は、ここは土石流が途中で引っかかった状態じゃな。この上には人家があるかな。」
「相当あるよ。」
「それは良くない。」
「なんでな。」
「ここは、やがて土石流で何もかもなくなる。土石流はあるもの全てを押し流すぞ。家も人も全部、流れを遮ろうとする全てをだ。」
「そいを、いけんせえち言うとな。おいに。」
「おはんは、農協果樹部会長じゃっで、ここの上の住民を集団移転さすいごっすっとを。」
「集団移転ち、簡単に言やってん簡単には出来ん事じゃが。」
「全ての住宅を退ける事が先。果樹園にすれば土は深いから流れても再生出来る。農業被害は歴史の中では一時の涙。人を失えば永遠の嘆きになる。」
「じゃっどん、いけんして何処さえ行っがないかお。」
「場所はある。出水製紙の跡地が処分出来ないで眠っている。あれを移転用地として市が買い上げて整地して分譲する形を取ればいい。集団移転なら補助が出る。一挙両得だと思うよ。」
「じゃっどん何ごて、オイがせにゃならんと。」
「果樹部会長で、俺をここに連れてきた罪だな。自慢の心が危険地帯である事を見せてしまったんだ。」
「危険なら、ダムを造れば良かとじゃなかかなあ。」
「ダムを造れば人間は安心であるかのような錯覚を起こす。すると新たな人家が増えて危険状態が増幅されて、ひさいしゃはふえる。」
「集団移転しかなかとかな。」
「ない。10年の余裕はないと思う。君はこの土手の底から出る水の色を観察して、水の色が赤くなったら早く逃げるように言うべきだ。」
「何という事かいな。何でなんだ。」
「ここの土地を買った事がその責任を生んだんだ。その代わり、君は神に助けられる。神はその君の行いを記録するぞ。」
「脅迫だな。これは。」
「やるしかない。いつか歴史的会話になると思うよ。」
「厄介な事をさせられる。」
「いや、歴史が感謝すると思うよ。そして、10年後にはどれほど大事なことを言っていたかが理解されるよ。」
「一応、言ってみる。だけど、誰が信じるかなあ。」
「もう一個所、予告して集団移転を勧めた所がある。」
「どこな。」
「新潟県の一番南の青海と言う所も15年ぐらいすると崩れるだろうから、集団移転するように勧めた。」
「移転したな。」
「いーや、だけど、もうすぐ崩れる。」
「恐いことを言うなあ。」
「だけど、その通りになる。聞いて実行するか、しないかで、この世に居れるかどうかが別れる。」
「わかった。説得出来る自信はないけど、やってみる。だけど、気が重いなあ。」
「その代わり、感謝される日が来るかもしれないよ。」と笑った。
この後、帰ってきた奥さんを治し、美声が戻ったことを確認した。1回では完全でないことを念を押したがそのままになった。その後、彼が気にしていた一人の失明した女性を治した。1mの距離にいる私が見えなかったのが、6m離れた壁のメニューを読める様になっていた。

それから10年。災害は発生した。

針原地区の人達が事の重大性を察知出来ていたら起きない災害であった。
ダムなどでは防げない。ダムによってもっと底から出水市市街部を埋める大災害になるだろう。その時、愚かさを知るだろう。あそこの土はダムなどでは止められるものではない。

やがて、現在造られているダムがムダ・無力な事を知る日が来る。その前に針原地区が安全に暮らせるようになったかのような誤った安堵が住民から語られるだろう。自分達が集団移転を拒否した重大な錯誤をそのままにして。
行政は集団移転をしなかった住民に、針原地区に固執したことの恐ろしさを強調し続けるべきである。決して安住の地になったと言ってはならない。
自分達が針の筵に住んでいる怖さを言い続けることで、住む人を減らす努力をして欲しい。


坊津町下浜の水害

鹿児島市の水害の前に、もっと愚かしい坊津の話もしておきたい。

それは1974年の9月頃に行われた、現在の国道226号線の改良工事の説明会の時に始まる。
226号線は枕崎市迄で終わり、町頭交差点から坊津方向は名にし負う悪路のままの県道になっていた。それゆえ、坊津に来た人は地の果て坊津に来たりという実感を味わっていた。
その悪路が改良される事になり、説明会が行われた。その時、私も行った。私の関心は道路がとこを通るかの問題ではなく、坊津の地形と土質をどのように捉えて行われるかにあった。どういう意味かというと、水の流れがどのように処理されるかという問題であった。
私は道路が運んでくる水を何処で流すかが、坊津の災害を大きくする左右する可能性があると見ていた。それで路面を流れる水が決して住宅密集地に流れ込まない方策を立てることを要求した。
そして、当時の下浜川は護岸工事が行われて川口が狭く変えられていた。その事の危険性を指摘した。説明会には県の土木の関係者のほかに、坊津町の町長から土木関係の各課の課長まで出席していたので、この状態で坊津町で最高雨量が振った場合、依然と違って床上まで漬かる水害になりと警告した。
私が小さい頃は、大水害寸前の雨が降り続いた。下浜川の上流の上之坊地区は溢水状態で流れていた。しかし、川口が完全に開放されていたので、ぎりぎりで流れていた。それでも満潮とかち合った時は床下浸水が起きた。
それで、下浜川の川口の復元回収と直接波が打ち寄せないように川口の先にゲートを造るように提案した。
町長や行政の担当者は真剣に方策を考えないと行けない方向に受け止め掛けていた。ところが事もあろうか下浜に住んでいる人間がそんな危険があるとは思えないといい始めた。行政がそんな間違ったことをする筈がないというのである。町長さんに命を預けてある。絶対信じているとも言った。
アホかいと思った。そんな会話は置いて何とかしなくちゃ行けないなと締めくくられて、20年近くが過ぎた。
下浜の北側にある谷上電気が家を改築することになった。盛り土がしてあるのを道路と同じ高さまで堀下げるという。私は八坂神社の豊祭で太鼓を20年間打っていたので、その時に地上げされているその土地の寸法が水害が起きたときにすぐ先の海への排水口との高さを計算されてギリギリに作られていることを見ていた。それで、土地を下げる案に反対した。
夜2時になっても、考えを変えないというので、「では、もうすぐ起こるであろう下浜の水害の様子を教えてやる。自分が生まれ育った所は水害の心配のない所に住んでいたから分からないのだが、下浜の川が満水になることが何度もあったことは、奥さんは身に染みて知っているよな。啓子さん。」と尋ねると何度も経験があることを証言した。
「この25年余り、集中的な降水がなかったんだが、それも終わり。再び雨が多くなってくる。下浜川の口を狭くしている結果として、水害が起きる。これは人災だ。私は警告したけどその時下浜の人間が俺を笑った。その天罰の下りる時が来るんだ。その時にどんな事が起きるか分かりますか。」
『いや、分からん。』
「だろう。酔っ払いに何が分かるもんか。だけど教えてやる。下浜川が川口の狭さの為に排水出来ない分は行き場がなくなって道路の側溝から溢れ始める。そこも一杯になると下浜の一番低い所から埋められていく。一番低い所ってどこか分かるかな。」
「啓子の家かな。」
「違う。便所の肥壷さ。人間の居住空間で一番低い所は肥壷なんだ。その中が水で一杯になると何が起きるか。」
「.......」
「肥壷に溜まっていた便は全て水に追い出される。肥壷の中は水だけになるんだ。」
「うん。」
「肥壷から追い出された便はどうなると思うか。」
「流れるなあ。」
 ゜どんな風に流れると思うかな。」
「分からん。考えたこともなか。」
「俺は毎年考えていた。便は流れていく水の先端に浮いて漂っていく。堤防で囲われた下浜では水の行き場は、ここの店を通って北の端にある排水口しか水の流れ口がない格好になる。だから、ここの店の前を下浜の全ての糞が流れていくんだ。流れていく水の面よりも低い所があれば、真っ先に糞が染み付きながら水に覆われていく。ここば誰の家だから遠慮しようとかいうことはない。平等に重力の原理だけで流れていく。ここの家の前は一番濃い糞が一番大量に流れる。」
「げーーーーっ。ちょっと気分が悪くなった。トイレに行ってくる。」
「逃ぐっとか。話はこれからだがな。」と言ったが立ち上がっていった。
「水が引いた後、こびり付いた糞は落ちなくなる。壁の表は洗い落とせても、隙間から壁の裏や桟に付いたものは壁を全部変えない限り、梅雨になる度に重ぐるしく匂う。香しく匂うのなら良いが、逃げようがない臭さだ。ずーーーーっと続く。新築の臭い家は誰も見に来ん。壁を変えても柱の一番下は変えられません。その隙間からは匂い続けますよ。べべ一になった商品は誰も引き取りませんよ。高いものほど下においてあるから、悲惨だな。谷上の息の根は一雨で止まる。一晩で350mmの雨が降ったことがある。時間は5時間以内。私が測ったから間違いない。」
「もう良い。わかった。」
「本当な。」
「本当。絶対嘘は言わん。だけど、年寄りの人が階段を上れないのをどうするかなあ。」
「階段にしないですロープにして、展示床を土間にして、客が立つ場所を高くしなけりゃいいじゃない。」
「そうか。」
「余った金は俺に呉れろな。」
「ハハハハハハ。それが本心じゃないのかい。」
「もう、2時半だが、誰がそれだけの為に時間を潰すかい。あんたの泣く姿を見たくないだけのことよ。皆は貧乏になるぞ。俺を笑った罰が当たる時が必ず来る。昔の人は馬鹿じゃないんだ。昔の人が舐めた辛酸を一人でも聞く人がいれば、それで良いと思うよ。」
と言って、牛満つ時を過ぎた一之宮の坂を駆け上った。

それから2年後、下浜川は8.6水害の前に、私が言い続けた通りになった。
下浜の肥壷は全て水で満たされた。その水が下浜の一帯を覆った。
谷上電気店の前をプカプカと肥溜めから解放された物が流れていったが、同店は水没を免れた。唯一人、私の忠告を聞き入れ、屋敷の地下げをしないで家を建てていた。
何代も前の先人の辛酸の末に築かれた知恵を生かした者の勝利であった。
忠告を嘲り笑った者達は、糞まみれになった。
そして、水害後、一応は奇麗さを取り戻しているが、家の隙間に入り込んだ匂いは取れない。その悪臭が人々を悩ませる。水に使った物は一応使える物は残してみるが、湿度が高くなると何処からともなく漂ってくる、重苦しい臭さに堪らず、調べてみると水に浸かった物が発する臭いであることが分かり、使い物にならないことを思い知らされたという。
  水害は、空間を満たして引くだげであるが、我々はその後、全ての場所を清浄な姿に復元することは出来ないのである。


新潟県での災害の予告
親不知子不知の急坂を通過後に恐怖を感じた。
1967年、自転車で北海道まで行った時、新潟県に入った時のことである。
当時の国道8号線は、まだ、舗装されていない所がたくさんあった。急な坂道を自転車が壊れるのではないかと心配する激しい衝撃を受けながら下っていった。
 その坂道がもうすぐ終わる所で、身の毛がよだつ感じに、襲われた。瞬間、「何だ。」と、ハンドルをドロップ位置から上に握り直して頭を上げた。その目線の方向には、遙か山の上に赤茶けた山肌が見えていた。あの山が崩れてくるのだと直感した。


霊魂の話(1)
  鹿児島県の北部牧園町の山間部は霧島高原である。
ここを通る霧島の林田温泉から霧島神宮までの道路は、夜10時を過ぎると車の通りは途絶えてしまう。
原因は国民宿舎と林田温泉の間で幽霊が車に乗り込んでくるという事が事故を起こした車に一緒に乗っていて助かった人の証言で明らかになったのだという。事実、何人もの人が交通事故で死んでいる。警察では集中的に同じ場所で起きる交通事故の原因が分からずに、運転者のスピードが原因と考えて、深夜の運転に注意を呼びかけていた。噂が広がって深夜に通る人がなくなり、事故は減った。しかし、知らずに通る人が犠牲になった。
  霊は車の人に悪さをしようとしているのではなく、連れていって欲しかったのである。しかし、霊を怖がる為にスピードを上げて事故になってしまう。私は、この霊を、いつか連れ戻してあげたいと思っていた。
  1996年夏、私は、活動が起きていた霧島の新燃岳周辺の地震エネルギーを測る為、ここを夜中1時に繰り返して通った。前もって、もし幽霊が乗ったら連れて行く腹構えでいた。そのために、乗ると音がするようにしておいた。果たせるかな第一の幽霊出没現場と思われる附近に到達した時、冷たい冷気を感じた。窓を開けると暑い夜であったので、高原でも暑かったが、クーラーを止めた。しきりに音がしていた。その音は、道路のカーブ状態に関係無く出ていた。自分自身に恐怖の心が起きないように努めながら、大きな声で、
  「良くぞ私の車に乗ってくれましたね。」と、話し掛けた。すると音が止まった。コンタクトが取れるようだと思ったので、話を進めた。
  「良く聞いて下さい。貴方は自分の家へ帰りたいのでしょう。良いですか。貴方が宿っていた肉体は死んでしまったのです。貴方のご家族は、貴方が亡くなった事を嘆いています。そして供養もされているのです。貴方が交通事故にあった後、家族は貴方の亡骸を引き取られたのですが、その時、貴方に一緒に家に帰るように声を掛けるのをせずに、帰られた為に、貴方は置き去りになって、帰る場所を見失ったのです。貴方は自分の家は知っているでしょう。多分貴方の家の傍まで行くでしょうから、そこまで乗っていなさい。そこに着いたら降りなさい。通る道から離れている時は、私の心を動かせるならば、家の方にハンドルを切るように働きかけなさい。お家の附近の地震エネルギーを計ってみたくなる心を起こさせればいいのですから、行ってもよいですよ。家に帰られたら、ご先祖様が貴方を待っていらっしゃいますので導いて連れていって下さいますから、ご先祖がして下さる通りになさればいいのですよ。。それまで安心して乗っていて下さい。」と語り掛けた。
  物音は静まり、冷気だけが続いていた。霧島の山を下り、丸尾になっても乗っていた。
  「遠慮しなくていいですからね。このまま行きますよ。」と言って更に下り、牧園町の運動公園の所で用足しに降りた。
 戻って見ると、まだ気配があったので、
  「このまま、真っ直ぐに行きますよ。もうすぐ塩浸温泉です。その先は妙見になります。この道路から遠い時は、分かれ道から先は、来たタクシーに乗って行きなさい。運転手に見られないようにして行きなさい。」と言った。
  妙見温泉の橋を渡る手前で気配が消えていた。妙見温泉の南の駐車場所で確かめたが何も無く、音もしなくなった。この日以後、霧島の山中での交通事故の話を聞かない。
  ただ、高千穂河原の駐車場では逃げる霊があった。これは稿を改めて書きたい。
最近、牧園の温泉で働く人が来たのでその話をすると、塩浸温泉という言葉を言った。事故の人がこの附近の人であったようである。とすれば、その霊は家に帰れたのであると思う。安楽の世界の到達出来ていて欲しい。


広島の橋げた落下事故の霊

  広島市の新都市交通システムの工事の時に、橋桁が落ちて11人が亡くなる事故があった。
この事故の6日前に、私はこの現場を通り、事故の日の恐怖を体現した。この交差点に差し掛かったのは広島市で開かれた研修会が終わって、山陽自動車道広島インターに向かった、5時前であった。
  交差点の手前15m位の所で「うわーっ、橋桁が落ちてくるーっ。速く走れーっ。死にたくないー。」と叫んで、ハンドルを叩いた。ひょっと、冷静になって、橋桁の状態を見た。
  橋桁は橋脚の中心に載っており、地震でもない限り落ちる可能性のある状態ではなかった。それでも、恐怖が鎮まらないので、もしもの時には橋桁が落下する可能性が最も少ない橋脚の下に走り込めるように、ハンドルを右に切って急発進出来る体勢で身構えていた。
  信号を2回待つと、交差点の一番前に出た。その時、交差点の中央に建った橋脚の下に亡霊が佇んでいるのが感じられた。
  「ああ、異常感はここから発せられていたのか。ここに墓があったのを手荒く暴いて、キチンと墓を移転させて頂きたいという供養をしなかったのだ。これは俺の力ではどうにも出来ないレベルのものだ。あの霊媒は何という人だったかなあ。広島県にいる間に思い出せたら、あの人に供養してもらうようにマスコミに電話をしよう。俺は、この感覚をここで感じたのは今日が初めてではないなあ。去年の12月の忘年会の日に、森林公園で時間を潰して帰りに、ここを反対側から通った時も、亡霊がいるなあ。工事で墓を暴かれたのかも知れないなあと意識したよなあ。」
  信号が変わった時現場を走りながら、南無阿弥陀仏と隻手の合掌をして、高速道路に入った。走る間中、霊媒の人の名前を思い出そうとしたが、愛子という名は出てきたが、苗字が出てこなかった。広島県内のパーキングエリアでマスコミの電話を調べて記録した。
  結局、家に着くまで思い出せないで終わった。家に着いて、
子供に「あの霊媒の人の名前は何と言ったかねえ。広島で大変な事が起きそうだ。電話をしようと思ったけども名前が思い出せなくて、電話が出来なかった。あの有名な人よ。」と、言うと
  「宜母さんな。宜母愛子さんじゃなかとな。」とねすぐ答えた。
  「それ、それ、その宜母愛子に霊の払いをして貰わんと、大変な事が起きる。」
  「何が起きるの。」
  「橋桁が落ちて沢山の人が死ぬ。あすこにいた11人の霊が成仏する為に同じ人数が死ぬかも知れん。」
  「気持ちの悪か。」
  「うん、俺がそこを通っている時に落ちてくるかと思った。そうでなかったと言う事は、少し時間があったようだ。広島県内を通過中に思い出せればよかったんだが、結局思い出せんかった。それで聞いた所。」
  「後で電話をする。」
と言いながら、2日が過ぎて、夕方、思い出して電話をしたが、電話を受けた人は、
  「そんな事を言われても、何も出来ません。工事の当事者に言われたらどうですか。」とけんもほろろで
  「言われる気持ちは分かります。私は今、鹿児島から電話しています。工事を何処がしているのかなどの住所などを調べる手立てがありません。こういう電話を受けたと伝えてもらえませんか。」と頼んだが、良い返事ではなかった。
  そのままになって、明くる日の6時過ぎ、子供たちを連れてポンカン園に風呂の燃料を運びに行った。途中でラジオのスイッチを入れると、広島の事故のニュースを臨時ニュースで伝えた。その時は、地名を知らなかったので、大変な事が俺がいつも通る所で起こったようだと考え、倉庫に着いてテレビを点けてみた。そのままでチェーンソウを使い、作業を始めた。
  時々、手を休めてテレビを見ていると、何と3日前に私が恐怖した景色がそのまま起きていた。
  分かっていながら、何も変えられなかった自分の無力に打ち拉がれた。全身の力が抜けて動く事が出来なかった。悲しそうな姿で橋脚の下に佇んでいた霊が可哀相であった。また、事故によって亡くなられた方が気の毒であった。
  事故後、そこを通る事がしばしばあるが、現在は全ての霊が残されていない。


名古屋空港の怪

 名古屋空港で中華航空機が墜落事故があったとき、墜落の原因は操縦ミスという結論になっているが、私はその直前の時期に同じ名古屋空港で怖い体験をした。
 時期としては、1ヶ月も空いていなかった。
 鹿児島発の全日空機で名古屋空港に差し掛かった時、私は眠りから覚めた。眠りが中断された原因は、胸を捕まれて空港内のある地点に向かって強く引き寄せられている感覚であった。『何だ。これは。』と思って窓の外を見ると、滑走路ではなく緑の芝生が眼前に迫っていた。私が乗っていた座席は右窓側の5番で機首のカーブが真っ直ぐになる部分で前の座席より外側に1席出ているところであった。だから、飛行機の進む方向が正確に見えていた。
 引かれているように感じたのは、操縦条件の変化のためではなく、すべての物質を強く引き寄せている力が働いているためで、乗っている飛行機自体も、引きつける力の方向に進んでいることが解った。
 飛行機の速度は既に着陸速度になっており、高度は50mを切っている様に見えた。ここで舵を切ることは、翼端失速につながるけども、操縦士が出来ることは離陸のやり直しではなく、舵を左に切って、すぐに当て舵をして機首を立て直して滑走路に車輪をつけることだと思って、そうなるように強い念力を送った。操縦士に届けばいいがと平常心に戻って我に返った時、飛行機は間一髪左に傾き、すぐに当て舵が切られて滑走路に激しく落ちた。逆噴射のタイミングは滑走路の3分の2を過ぎた付近で始まった。タッチアンドゴーを考慮したことが明白であった。
 飛行機が左舵を切られた時、よく、左翼端が地面に接触せず、翼端失速もしなかったものだと思った。
 着陸の時、強く引きつけられていた場所を確認したが、強い吸引力は、過ぎていく左の角度のまま続いていた。
 その原因が何であるのかを確かめようとしたが、物理事象として、他の人に説明できる物は何も見えなかった。飛行機を出る時、操縦士に今あったことに対する咄嗟の操縦に素晴らしさを賞賛する伝言をスチワーデスに頼んだ。スチュワーデスは怪訝な顔で伝言を伝える旨の応答をした。飛行機から降りて、空港ビル内からその現場を見通せる所を通過するとき、もう一度確かめてみたが、それらしいオーラも認められなかった。

 中華航空機は墜落した。

 事故の後で、尾翼がある位置を確認すると、間違いなく、吸引力を感じていた場所であった。あの地点から抜け出そうとした中華航空機は、吸引力で引き戻されたのである。
 あの強力な吸引力を思い返してみると、乗っていた全日空機がかわした災害は、背筋が冷たくなる意味を持っていたと思う。

 この事を、航空会社3社に提起したいと思っていた。事故の後整理も終わった頃合いを見計らって、安定高度を飛行している機内で、スチュワーデスに体験を語った。
 強い吸引力の原因として考えられるのは、名古屋空港が私が記憶している物だけで2回の墜落事故がある。その時の霊が十分に供養されていないことがあるのではないか。事故の頃若かったであろう両親も亡くなり、忘れられて、50回忌の供養が出来ていないのではなかろうか。
 また、事故後に体験したことをタクシーの運転手に話したところ、小牧空港の滑走路周辺は、元々、小高い丘であったこと、土の中から人骨らしい物が発見されたことなどを空港整備に従事した運転手の父親が話していたことが分かった。
 小牧周辺は、過去何度も陣取り合戦があったところであり、小高い丘は戦いに破れだ者が供養されることもないままに朽ち果てている可能性が高い場所であるのだ。これが、自衛隊機を引き寄せたのかもしれない。
 考えられる事を併せて、中華航空機の犠牲者の供養とは別に供養する場を、名古屋空港を使っている会社が語らってもってほしいと説明した。

 果たして、スチュワーデスの提案は採用されたであろうか。