| 6月25日水害 | 気象現象 | 台風 |
気になる気象現象:
1999年の秋は、気になる状況が到来する事を告げている。
気温が高い事に注目する人が多いが、これは、気象が13ヶ月の周期で変化する事によるものであって、今の気象は、繰り返しの途中に過ぎない。
こういう変化の年の次に来る冷害をこそ、最大の関心を持って考え、対策をすべきである。
既に、来年が冷害になる兆候が、11月の気象図の中に繰り替えして現れている。これは、来年の冷害が厳しいものである事を示していると考えて、稲の生産を考えるべきである事を教えている。
気象図の中に、中国大陸の北東部に、シベリアからの寒気が、楔状に現われて、オホーツク海に広がる現象である。6年前を考えてみればこの意味を理解出来るはず。
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水害
6月24日で梅雨明けかなと思っていたら、前線が南下。25日3時の種子島レーダーでは、ピークが坊津付近から南にある状況になった。それから凄まじい雷が始まった。電気を消しても雷光が途絶えることがなく、明るいまま。連続の雷であった。「人類殲滅のシナリオ」が示されたときの状況とそっくりであった。昭和20年代、子供の頃の雷は、連続して鳴りやむことがなかった。子供心に、戦争で亡くなった人たちが、海外に捨て置かれている自分達を怒って、雷の音に乗って帰ってくるのだろうと思っていた。それ程の雷が鳴った後、川が激しく流れ始めた。川床の舗装をすると言う時に滝を埋めることに反対したが、1mほどのミニ滝が落下音を立てている。この音が消えた状態になると、災害が起こる。8.6水害がそうであった。
家の下の川を20個くらいの石垣の石と思われるサイズの衝撃を立てながら、石が流れた。自動雨量計を見ると100mmを越えている。記録的短時間雨量になった。このまま、継続すれば、間違いなく、大災害になると言えた。
災害が始まる予感で、消防団服に着替え始めた。防災放送が、か細い音で災害を警告する感じで、1回だけなった。しかし、そのサイレンを何故鳴らしたかという意志を伝える言葉がない。私達消防団員は、サイレンの断続音で動作を始めるように訓練されている。放送であるのに、意思の伝達もない。後で、団員全員が、電子音に対しては、反応しなかったことを言った。激しい雨音も緊迫した状況が伝わらない原因にしていた。災害などの非常時には、ボリューム調整を無効にすることになっていたのに、小さい声で、猫が鳴くように1声だけなるのが災害連絡である筈がない。恐怖をあおる緊迫感がない物は、意味をなさない。
全団員が、確実に反応したと話しているのは、サイレンの音であった。激しい雨音の中でも、微かに聞こえるサイレンの音にも、消防団員全員が反応したのだ。
消防団の出動原因は、
谷頭地区では、元々、地形的に急峻な頁岩の褶曲で出来た山並みの崖下まで迫って造られた家に、山の上から風解して堆積している土砂が流れ下る水と一緒に人家に襲い掛かったものであった。土砂に混じった枯れ木が流れを遮り、側溝を塞いでしまったため、家々の床下に流れ込んでいったものであった。これが災害に繋がっていく予見となったのであろう。放置された里山が、崩壊し始めているのかも知れない。
谷頭の川は濁流になっていた。水が、急峻な谷川をもの凄い勢いで流れるとき、為す術もない。防ぎようがなく、人の安全を見守るだけである。セメントで築かれた擁壁に付けられている穴からは、勢いよく水が噴き出している。危険な状況であることは推測できた。しかし、今回はこれで済んだ。
幸い、人命に損害がなく、流れ込んだ土砂は敷地の余地を埋めた程度で収まった。災害現場に覗く顔は、殆ど、高齢者である。
避難をするようにと、消防分遣所の職員が言ってきた。言い方が曖昧である。私は、傍にいたので、「避難は勧告であるのか、命令であるのか、誰が言ったのかを明確にしなさい」と言った。地元の人間は、動きそうにないと思ったからである。この件は、どさくさの中で有耶無耶になった。差し迫った状況がなくなっていたことと、坊ノ浜地域公民館長が来なかったことである。こうした災害の時に、公的な判断を住民に伝える仲立ちをする人間が不在であることは、異常であった。町長選挙にまで出た者が、災害の現場に居合わせないとは。
こうした災害の現場で、防災のための知恵が語られなければならないのに、これでは、嘱託員制度が無意味である。消防団員時代、全く訓練に参加せず、来ても、訓練の無意味を言い、自分は何もしなかった男であったが、植木等の歌みたいな奴らしい。
菖蒲谷の現場は、裏山の崖が崩れて、家の中まで、土砂がは入ったものであった。私は、連絡係で、自動車に残ったので、現場までは行かなかった。
泊から清原方面の状況はもっと悲惨であった。泊の摂光寺付近では、推移が腰の高さに達したという。このため、町水道の水源地も冠水した。25日10時半から坊泊地区・清原地区が断水状態になった。貯水タンク容量に余裕があり、幸いにも、完全な断水状態までは陥らずに済んだ。
26日夕暮れに災害現場を廻ってみたが、中坊と泊橋から摂光寺付近は床上浸水していて、浸水した家具や衣類を道路に出してあり、気の毒であった。荒所の崖は、高さ20m位、幅20m位にわたって崩れている。新設道路で、5年ほど経過しているが、老化した逆褶曲の崖を20m高程削っていたので、新設当時から崩れるだろうと予測していた部分であった。現在片車線の交互通行が可能の状態になっている。土砂量が多いので、復旧には、時間が掛かりそう。風解した頁岩地帯が露出しましたので、崩落が山の高いところまで広がって行き、今後も災害頻発区域になるでしょう。10年単位の目で見て、将来の景色が一変する引き金になると思われます。
中坊の太鼓橋付近は、悲惨であった。よく、死者が出なかったものである。現在工事中であるが、二軒の家は滝から墜ちる水しぶきが、滝上の川床を塗って流速を早くするという馬鹿げたことをやったために、瓦を剥ぐほどに激しく吹き付けるようになり、その防護壁が造られていた。それを工事で壊したところに今回の水害である。水は新しく造られた導水溝を通らず、古い川筋を流れて滝を墜ち下り、新設の導水路でなくなった川筋を通れず、真っ直ぐに家に流れ込んでいた。工事半ばの橋の盤は垂直に延ばされていた鉄筋が80度ぐらい曲がって、激流に生えている水草のようになっていた。顔見知りの工事の担当者に、「昨日は現場に来て唖然だっただろう。」と語り掛けると、「もうなあ、ただ、水の力に驚くばかりでなあ。立っていた鉄筋が全部寝ているのだから、」「工事はやり直すのカイ。」「わからん。」でした。歩行者用の仮橋が掛かっています。7/1仮橋が通って、車両も通行できるようになった。
バスは、枕崎・上之坊のトンネルの際で折り返しで運転しています。車は坊ノ浜方向への道は通れますが、中坊からは太鼓橋が不通です。迂回路は、松ヶ迫団地入口から、鳥越に抜ける町道があり、泊方面へは、真っ直ぐに進み、役場支所や宮田美術館に行く場合などは、鳥越の坂から右に折れると新設道路一乗院線が、支所の傍に通じています。バスも7/1から通常運行に回復。荒所は土砂の片づけは終わっているが、片側通行の儘。
中坊や荒所の災害で分かることは、細々と進んでいた土地改良時代にはなかった大型機械で建設工事を進めたことが、自然を根こそぎに破壊する典型的な災害といえる。
以前、上之坊の運動広場付近から野間の広林谷を通って、坊ノ浜の高見から谷頭・愛宕・菖蒲谷を通る道路を造る計画の説明会があったとき、私は、たった一人で論陣を張って、この道路の建設に反対して、この計画を説明会で葬ったことがあるが、坊津の地盤が如何に脆い構造であるかを、裏付ける災害であった。
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E2000.7.29台風6号
7月28日昼、奄美大島を通過した。北上中。時々電線が鳴っている。
D1999.8.7 台風8号
台風8号は、8月7日1時頃坊津を掠めて西へ通過。
このときのきあつは995.5hpa
風は、微風程度。雨量は相当あり。気象データー参照。
C1999.8.2 台風7号
台風7号は、2日午前3時現在、沖縄の西にあり、発達中。進路は北西。
台風11号は発生時の900mbの亡霊に騙された。上陸時の我が家の気圧は989mbであった。中心が通った筈の坊津では、草花の花弁が痛んだ事ぐらいである。あるいは、実際の中心位置が気象庁の観測位置よりも東にあったのではないか。実際は屋久島の南を通ったのではないか。
今度の台風は如何にマスコミが過剰の恐怖を掻き立て過ぎているか、年老いた母を見て思う。冷静に敵を判断出来ない姿は、報道が冷静でない事を知る。過剰反応の極みである。
今年初めての台風接近である。
前日から台風が接近上陸の可能性が確実になって、まず、17日夕方の予報では台風の移動速度が速いと言う事で、風が吹かない内に庭の木を共同聴取用のTVのケーブルに当たらないように切り戻した。
18日の朝、何と予約の患者が来ていた。台風は来ると言うのに。仕方がないから、施術を済ませた。台風君もそれに付き合ってくれて、少し、スピードを落としてくれた。
坊津は夜8時まで殆ど無風状態のままであった。枕崎側にありポンカン園は夕方の五時過ぎから雨が降り出した。6時前に枕崎に行くと猛烈な雨になった。風も強い。
坊と枕崎は風の被害の出方が全く違うのである。枕崎は台風が今度のように南東から接近する時に大被害を受け、坊津は北へ通り過ぎた台風の吹き返しで被害を受ける。
坊津は、台風の最中になっても防災対策が出来るが、枕崎は、その時はもう一切が吹っ飛んでいる。このため、足の早い台風が来ると、枕崎の人は早くから予兆があるので対策が出来たが、坊の人は直前まで台風の接近を察知出来ずにコテンパンにやられたのである。ルース台風の時など、祖父は台風の暴風圏が掛かり始める2時間前まで、魚釣りに行っていて、物凄い台風が来ると言って飛んで帰ってきて、風雨の中で台風対策をやった。終わらない内に激しい風雨になった。家中をガンジ絡めにした事を今でも思い出す。
隣りは、風が家の中を吹き抜けたから、対策が出来るか出来ないかの差を思い知ったものであった。それゆえ、台風のコースを発生と同時くらいに予測する事は、念願であった。今は情報が豊富で、楽である。
6号台風は、昼間、スピードが減速し始めた時、南下してUターンして東に向きを変えるかもしれないと思ったが、増速して気象台のいう通りに西に進んだ。マスコミは十島村が進路上にある事を忘れて、上陸がない事を言っていたが、十島村の島々は暴風雨に晒されたのである。本土中心主義は不愉快である。
それにしても、急速に衰弱してよかった。今夜も島々は暗闇に包まれているのであろうか。