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この文書は、当初、私の脳梗塞の症状が、どの程度回復しているかを確認する目的で書き始めたものです。したがって、未完成の物で、毎日の様に書き換えられています。中の配列も変わって行きますので、ご了承下さい。時々、巡回して覗いて下さい。 (下の小窓が簡易目次になっています。)
| 戦艦大和が沈んだ日 | 実子の小児麻痺 | 1942年 | 父の出征 | 防空壕掘り | 空襲 | 空襲の思い出 | 恐ろしかった空襲 | 大爆撃編隊 | ||
| 昼食時間 | 1948年頃 | 塩炊き | バス停の祖父の呟き | 上之坊の義人上村笑内 | 鹿実吉田教員の涙 | 南京大虐殺の記録の存在 |
寂動正体療法はこの時期に芽生えたのである。(実子の小児麻痺の欄に詳しい。)
私は太平洋戦争の開戦130日前に生まれました。私が物心付いたとき、日本は戦争の最中で、沢山の貴重なものを失いましたが、生き伸びる事が出来ました、その幼い日に経験した事を書き綴ってみました。貴方が経験された戦争前後と違いがありますか。全て、その日々の自らが体験した事であり、創作はありません。そのため、個人名などもそのままであり、ご迷惑を掛ける方もあるかもしれませんが、お許しください。どうしてもという方は、伏せ字化を考えます。
また、当初、自分史として書き始めていますが、1945年当時の生活は、江戸時代の生活と、余り差がなかったように思います。農民としての祖父の姿と、上之坊と言う地域の様子を通して見えた、坊津の生活史としての面からも、書き留めてみる必要があると思いますので、「上村 巌」という子供の目を通して体験した、当時の子供達の姿も書いていきます。当時の姿は、今考えると、理解を超える悲惨すぎる時代でした。然し、全てが事実としてあった事です。(若干の年の記憶の勘違いがあるかも知れません。)
1941年から44年
1941年、私は坊津町上之坊のこのホームページの発信地で生まれた。この年は、私が生まれた年であるから記憶はない。(生まれた頃の記憶があるという人がいるが、)
私と弟は、祖父と祖母そして母に守られ、坊津の人々の温かい愛情を受けて成長した。父が戦死して、残された私達は、荒んだ世相に翻弄された人々と、同じ苦しみを受ける瀬戸際で生きていた。それは、日本のどの世代も経験したことのない異人種との戦いに敗れて、彼等に支配された世界であった。
その中で、年老いた祖父と祖母は、母を助けて私達を守り育ててくれた。祖父と祖母と地域の愛情に感謝の気持ちを込めて、過ぎた時を思い起こして、記録してみたい。
この文をご覧頂ける方は、冗長な文章から、この時代に日本の片隅で何があったか、どんな生活をしていたのか、幼い目が何を見ていたか、その意義を、少しでも見つけだして頂ければ、書き記して行くだけのものなので、望外の喜びであります。
記憶の中の最初の場面
1942年
生後40日で大阪に行き、1歳6ヶ月の頃まで、住んでいたという、大阪市住吉区の記憶がはっきりとある。沢山のドッガークレーン(ドック用クレーン)が、川か海か分からない、広い水面の遙か向こうで、不規則に動いているのを、毎日窓越しに見ていた。
そして、これを見たくて、毎日、卓袱台を出してくれるように母にせがんで、まだ、ちゃんと立てない足で、卓袱台にしがみついて乗り、へっぴり腰で立ち上がって、見ていた。しかし、足が安定して立てない上に、不安定な卓袱台に乗っているために、ぐらついて、何度も畳にひっくり返ってしまった。頭を打って、泣いていたことを思い出す。
時々、ひっくり返って、頭を打った痛さで泣いて、泣き疲れたまま眠ってしまい、会社から帰ってきた父と、一緒に階段を上がってきた母が、
『あら、あら、静かにしているな思ったら、落ちたまま寝ていたのかい。』と言い、父が、
『可哀相に。落っこちて泣いたまま、泣き疲れて、寝ているのに、ほったらかして、呑気なものだね。』と言って、父が、私を抱き上げた事が、何度かあった。
父が、会社から帰ってくると、真っ先に、窓の外を見せてくれるように、せがんでいた。父に抱かれてみる外の景色は、部屋の奥に置かれた卓袱台から見ている景色に比べて、大きく、視界一杯に広がった。そして、川面を吹き渡って、二階の窓辺を吹き抜けていく風が、生暖かく、重くも心地よかった。この頃の安治川口の空は、既に煤煙でくすみ、真っ青ではなかった。それでも眼下から頭の上まで広がる空を見たかった。それ故、その景色を見せてくれる父の帰宅が待ち遠しかった。
父は、魚を仕入れてきて、山辺の土地に売りに行くことが、しばしばあったという。だから、ちょっとだけ抱いてくれて、夕暮れまで、帰らないことがあった。その時の、魚臭い手の儘、夕暮れの窓辺を、見せて貰うのも嬉しかった。動きを止めたドッガークレーンが、夕映えで光る水面に映る姿を、何時までも見ていた。父は、それを一緒に見て、楽しんでいた。母は、「子供と一緒ね。」と笑った。ところが、この時抱いてくれていた父の肉感的記憶を忘れていた。それが、こうして体験を思い出しながら、書いていく間に、細かいところが、記憶に出てきた。
肉感を伴った父の記憶は、戦争に奪われたまま、戻ることはないままとなり、肉感を伴う姿では、存在しない。後述する南薩線の鹿籠駅での別れが最後であった。出征して行った時、生まれて6ヶ月後の弟に比べれば、様々の機会に抱かれているのに記憶がないのである。
もしかすると、弟との違いを意識しないようにするために、肉感のある記憶の部分を、殊更に捨て去ることで、可愛そうな弟との経験の差を、ない事にしようとしたのかも知れない。どうも、その意識を持って、弟との差に罪の意識を持って、済まない思いを持っていたように思う。
ところで、この記憶している景色は、母の話しで安治川口付近から対岸の日立造船所のクレーン群を見ていたのだそうである。
吹田の火の見櫓
父達は大阪市大正区の二階住まいから、大阪府吹田市の片山に移った。ここでは、汽車とビール会社の高い煙突が私のお気に入りであったという。
吹田には、東洋一の大操車場があったため、占領後の日本管理で起きる混乱を防ぐ対策として、空襲を受けなかった。だから、吹田は、私が20歳の頃、淀川製鋼に行くようになっても、戦前と変わらない、幼い日のままの町並みが残り、見慣れた景色があった。
ここは、汽車の操車場が近かったので、毎日、「汽車ぽっぽ」を見に行くのを楽しみにしていたらしい。ある日、汽車はいつも横から見ていたのが、鳥瞰的視野で見た景色に変わった。足下近くまで迫った汽車が、白煙を上げている迫力はすごく、非常に素晴らしく、興奮して、「シュッシュッ、ポッポ、シュッシュッ、ポッポ」と、手摺りを握り締めて、身を揺さぶりながら、見ていた。
すると、景色が大きく変わって、目の前は、青空だけになった。そして、耳元に大きな輪が開き、その口からは、耳を劈くような音が吐き出された。初めの内、頭がくらくらしていたが、見ると、金槌を堅く握りしめた手が、鐘を叩いているのであった。その音が気に入った。鐘が鳴らなくなったら、耳元で、怒鳴り声が鳴りわたった。
その時、鳥取の大地震があって(1943.9.10=昭和18年)、吹田も大きく揺れて、警防団長が、家庭に火の元の警戒を呼びかけるために、鐘を打ちならしに火の見櫓に駆けつけ、上ろうとすると、おしめをはめた子供が、火の見櫓の上で、身を揺すっていたという。警防団長は青くなって、そろーっと上っていき、子供を捕まえて、鐘を叩き、降りてきて、
「どこの子だ。揺れる火の見櫓に上らせる親は、どこにいるのだ。」と怒鳴っり狂ったという。この時、見つけて貰えなかったら、墜落していただろう。
自分の前に、目の前一杯に鐘の口が広がり、ガンガンガンと大きな音がして、耳が詰まり、鐘の口が揺れていたのを覚えている。後に、美空ひばりの火消しの映画で、半鐘を打ち鳴らす場面と、この情景がダブった。
その時、我が母親は、ちょっと目を離した隙に居なくなった私を、名前を呼びながら、捜し回っていたのだそうな。自分の家から、火の見櫓の所まで行くのには、国道を通らないと行けないのだが、良く通れたものだと思う。のどかな時代を物語っているというべきかな。
勿論、母は、警防団長から、こっ酷く叱られたらしい。平常時でも、人は上らないところに、子供一人で上がっている上に、大地震の余波を受けて、火の見櫓も揺れている時だから、警防団長の興奮も、極致だったろう。
小学校の頃、中坊の、警防団の詰め所の近くを帰る時、火の見櫓を見上げると、何か胸騒ぎと時めきを感じていたのは、このときの記憶によるものであろうか。
一緒に歩いていた同級生の山畑秀樹に、
「あの鐘を打ち鳴らす時、鐘の傍って、すごい大きな音がするんだよなあ。迫力あるよ。」と言ってしまって、
『お前、消防の鐘を叩いたことがあるのか。してはいけないと言われている事なのに、それを知っていると言う事は、登ったと言う事だろうが。しかも、鐘まで叩いたんだな。明日、先生に言いつけよう。』と訝られたことがある。この時は、何故、そんな記憶があるのか思い出せなかった。
また、大人になってから見た映画、『鉄道員』の、最初の場面の中に出てくる、操車場の俯瞰的視野の右隅から汽車が接近して、視界の正面を埋めて、遠ざかっていく場面を見たとき、「俺はこの場面を見たことがある。何故だろう。」と考えたのであるが、幼い日の記憶が蘇ったとき、謎が解けたのであった。
1944年6月(2歳10ヶ月)、父が兵隊に召集されることになり、大阪の吹田から鹿児島県坊津の現在の家に引き上げて戻った。
その時の景色は、ドアーが前開きの黒い色のハイヤーに乗って帰った事と、乗っていた車のことを〔借り切り〕と言っていたことが思い出である。鹿児島弁ではカイキイと発音されていた。
その時、降りようとするハイヤーの、ドアの下から見える未舗装の路面が、水に覆われているのを、怖がったことと、大勢の出迎えの人が怖かったことが、鮮明に思い出される。丁度、百合梅雨(ながし)の晴れ間に帰ったのである。それからの日々は、やはり意識すると、鮮明な記憶が呼び出せるようである。
出迎えの人たちが、不思議な言葉で語っていた。勿論、鹿児島語なのであるし、父と母が語っていた筈なのに、声の高さが違うのである。そして、大きな口を開けて、大きな声で笑う、日焼けした顔が怖かった。父と母は、県外の人間との交流が長かったので、大阪では大阪弁を使い、生の鹿児島弁を使っていなかったのである。
祖父が、水を嫌がる私を抱き取った。祖父は大阪に来たことがあったので、私は慣れていて、素直に抱かれた。当時の上之坊は、バス停留所がなかった。新道を降りて、10m程行ったところで、左に石段があり、家の方に石段を下りるとき、抱かれていた祖父の手から降りて、祖父の、農業で荒れてあかぎれだらけの硬い手に縋りながら、自分で歩いた。
石の階段は、段差が20cm以上あった。前夜まで降っていた雨で、洗い流された真ん中は、段差が高くなっっていて高くて通れず、段差が緩やかさを残している、端の方の所を、怖々と歩いた。雨で洗われた石段の真ん中の、赤みのある石の色が、鮮やかに目に焼き付いていた。そこを通ろうとしたが、高すぎて、歩けないことが分かって、また、端を歩いた。
両側の家の人々が、木戸口に出て、私達の帰郷を歓迎してくれた。石段を下がり始めた途中では、竹内若婆さんと鶴吉叔父さん、反対側の畑越しに一鷹富夫・ユキさん、石段が橋になる所では、竹内初鶴おばさんやスミ婆さん達が、家に入る道の所では、上村元小父や妻のユキミ達が、出迎えてくれた。
家は、両側が畑になっていて、畑と道の間が、竹の柵で仕切ってあり、幅150cm程の道を30m入った奥にあった。畑では、長浜松之助・ハツナ夫婦が、芋床の整理をしていた。通る私達に、笑顔を向けた。
家の前庭には、馬糞が干してあり、黄褐色の固まりが、南国の夏の日を受けて、盛んに蒸気を出しており、むんむんと、蒸れた匂いが立ちこめていた。子供の背丈では、漂う熱気で、窒息しそうに思えた。私は、固まりから、湯気が立ち上っている異様な雰囲気に、恐怖を感じて、後込みした。母は笑いながら、「これにも、慣れないと行けないのだから。」と、先に立って、家に入っていった。湯気が立っているのに、何故、火傷をしないのかと思った。
余りの事に、祖父の手を振り払って、後込みする私を、祖父の後に従って歩いていた父が、後から抱えて、馬糞が、庭一面に広げてある中に、人が通るだけ開けてある、小道状の部分を、小走りにして、家の入口まで行った。父に抱かれると、顔の廻りに纏い付くように漂う空気の気配が、爽やかさの混じった空気に変わった。何故なのかと思った。大人しくなった私を、『やはり、お父さんに抱かれるのが良いんだねえ。』と言って、みんなが笑った。私は、意味が違うことに、何かを言おうとしたかが、どうでも良いと思い直して、口ごもって止めた。
祖父は、『今日は、馬糞を干さない積もりだったが、雨が続いて、溜まってしまった。馬小屋を清潔に保って、馬を病気にならせないようにするために、仕方なく干したのだ。』と、言っていた。父は、気を使わせてすみませんと、言ったようだが、正確には記憶していない。
馬糞の上を、抱えられて通過して、家の前に立つと、大阪とは違う、強い、明るい光の中から、光を背にして、入口の踏み石に当たった夏日の照り返しの中で、家の中を見ているため、中は真っ暗く見えた。縦格子が沢山光る、黒い大きな戸棚がある事だけが分かり、その下に、明かり取りの無双格子が開いており、向こうに、隣の家の壁に生えた苔が光っていた。
開け放たれた、上がり口の、土間の広がりの中に、父と私の影が、くっきりとした像を落としていた。
母は、先に家に上がっていた。祖父に促されて、父が、私を先に中に入れてから、中に入った。敷居は一段高く、子供の足では、越えられなかった。仕方なく、敷居に乗って、父の手に縋る恰好で、土間の中に入った。
家は、吹田の家の出入りに開ける戸が、カラカラという、軽い戸車の音がする、格子の桟にガラスの入った戸であったのに比べると、子供の手では開けられない、桟の太い板戸であった。
それまで、いつも唄っていた、『トントン トンカラリッと 隣組、格子を開ければ 顔なじみ、廻して・・・・』という歌がマッチせず、唄えなくなったことを感じた。
家は、大きい作りではないが、中に入ると、全ての物が真っ黒く、艶を持って光って輝いて見えた。祖母が、畑仕事が出来ない日に、糠袋で、磨き上げていたのである。
父は、高い上がり框に、私を上げて、靴を脱がせた。腰掛けている上がり口の板の空間は、広くはなかった。
私は、母のいる仏壇の前に行った。煤けて光る仏壇の前に、父と母が座り、両手を合わせた。私も両親の両親の前に座って真似をした。
その後、出迎えていた大勢の人間が集まって話をしていた。私は、疲れて夕方近くまで眠っていた。起きると、父と母が戯れるようにしながら、庭の馬糞を集めていた。たっぷり水を含んでいたし、半乾きの儘、日が暮れていたし、明くる日も天気になると言うことで、二つの山にして、そのまま掃き寄せて置き、明くる朝、広げるのだと言った。馬糞の山は、竹笹を編んだ箒で奇麗に掃き集められて、円錐の形になっていた。その山は、手をかざしてみると、少しなま暖かい余熱が残っていた。私が手をかざしているのを見て、父と母が『臭いのに。』と笑った。しかし、昼間湯気が立っていた時は青臭かったのが無くなって、少し香しい感じがあった。
その笑い声を聞いて、隣の長浜オトメ婆さんと前の家の上村袈裟次郎夫婦が、『若い仲の良い夫婦の笑いは良い物だねえ。』と寄ってきた。袈裟次郎爺さんは目が見えないことが、その素振りで分かった。妻のミサおばさんは、興奮して震えていた。
馬糞の山にかざしていた手に、馬糞の温もりを感じなくなると、6月なのに梅雨特有の湿気寒さで冷たさが忍び寄ってきた。父達はオトメ小母さんや袈裟次郎さん達と庭先で語っていたが、私は、釜戸の温もりに誘われるように、土間の左の釜戸の前に行った。
夜になって、暗い電灯がついた。吹田の電灯に比べて、暗かった。一つの電灯をコードをのばして、二つの部屋で使っていた。電灯は、夕食の間、食事をする下座の柱に下げられていた。夕食は上がり口側の2畳半の下座の間に準備されていた。祖父は、大きい祖父の体に合わせて父が作ったのだという、足付きの箱膳を使い、私達には折り畳みの膳が広げられて、父と祖母・母・私と弟が座った。弟は、まだ、乳飲み子であったので、母の膝に抱かれていた。
灯火管制が敷かれている鹿児島の夜は、静かであった。食事の間に停電になって、食卓に蝋燭が灯された。私の頭の高さに置かれた蝋燭の明かりは温かく、皆の顔が、優しく浮かんで見えた。
明くる日、物音で目が覚めると、祖父と祖母はまだ暗いのに、畑仕事に行く準備をしていた。空襲がない、朝星の薄明の前に畑に行き、米軍機が来るかも知れない黎明の中で、畑仕事を始めていたのである。母も起き出した。父には、まだ寝ているように言って、食事の準備をしているようであった。部屋の仕切も板戸であったので、寝ている部屋は、蝋燭の光が板戸の隙間から見える以外は真っ暗のままであった。
馬が歩き始めた。庭を出ていく足音が、地響きを伴って、自分の傍を通り、乾いた音に変わって遠のいて行った。ほんの一時音が消えて、馬が石段を踏みしめて登る音がして、県道の砂利を踏みしめる音に変わり、やがて何も聞こえなくなった。馬の足音が聞こえなくなって、祖母が後に続いて出ていった。祖父が出ていくのを合図にしたように、周りの家からも、馬の足音が聞こえた。やがて、その足音とも聞こえなくなって、元の静けさに戻った。母が寝間に戻ってきた時に、私は再び眠った。
父と母の明るい笑い声で、私は目が覚めた。仏壇の上の板壁の節目から、強い光が差し込んでいた。父と母の笑い声は、外から聞こえた。起きあがって、外に出ようとするが、出口がない。母を呼ぶと、戸を開けてくれた。仕切戸の桟が擦れる音がして、戸が開いた。外に出ると、父と母は、昨夕、二山に纏めてあった馬糞を広げようとしているところであった。
母は、半分を広げていたが、父の方は、要領が解らない風で、もたもたしていた。それが笑いの原因であった。
父は肥掻きを使っていたが、母が持っているのは、先のない竹竿一本であった。父が広げた馬糞は、固まりが砕けず、大きな固まりのままゴロゴロしていた。母が広げた方は、大きな固まりが無く、整然とした感じであった。
父は、母の真似をして、竿で広げようとするが、馬糞は動かなかった。母は、
『一遍に全部を動かそうとしないで、少しづつ、剥ぐようにすれば、旨くいく。』と、説明した。教えられた通りにしようとしたが旨くいかなかった。父のへっぴり腰を、母は、声を立てて笑っていた。
父は賢明に繰り返していたが、竹竿が折れてしまった。父は、真っ赤になったが、母は、代わりを出せばいいと言って、縁側の床下から、別の竿を取り出した。父は、折れて短くなった竹竿を使いたい風で、馬糞で太くなった竿を構わず、そのまま握って使った。すると、前はぎこちなく動いていた竹竿が、スムーズに動いて、馬糞の山が前より良くならされた。母は、
『旨い、旨い、力の入れ方が旨くなった。』と、拍手をした。父も笑いながら、馬糞の凸凹をならした。
「簡単にやっているように見える、肥干し、一つをとっても難しい物だねえ。」と、言った。
『難しく見えるけど、肥を広げて干すのは、毎日のことだから、コツを飲み込めば、すぐに慣れるのよ。何でもない事になる。』と、母が答えた。父は、竿に付いていた馬糞の粉で汚れた手を払いながら、
「農業というのは、簡単に見える事を沢山組み合わせてなっているのだから、難しいんだよねえ。」と、言った。母は、
『そうでもないと思うけど。』と、言った。
「そうよ。お前さんは生まれた時から儘っていた人間。だけど、私は、今から全部を習わなければならない人間。見ること全部が初めてですよ。お前さんは、私の先生なんだからよろしくな。」と、父は頭を下げた。
『無理しなくて良いわ。出征までの気要を養わないとね。巌ちゃんが起きたから、朝ご飯にしましょうね。』と、言って、母は母屋と馬小屋の間から入った、勝手口の方に行った。
父と後について行くと、家の北西側の空間があり、家の中の「流し」から流れた水が溜まるように、壺らしいものが埋められた溝があった。中には、赤くて極細長い虫らしいものが、沢山、藻のようにゆらゆらと揺れていた。足音がすると、動きが止まった。「おやっ。」と思って近寄ると、なお動きが無くなった。何だろうと近づいたとき、自分が立っていた部分が崩れた。
尻餅をつきそうになった時、父が私の身体を受け止めていた。その周辺は、降った雨水が通るようになっていて、少しぬかるんでいた。「流し」の水で土が洗い流されないように、石が敷かれていたが、私は石畳を踏み越えて、酢泥(スド=どぶ)の中の落ちたのである。膝まで入ってしまった。しかも、父が引き上げようとしたが簡単には引き上げられなかった。父は、馬糞の粉で汚れた手に母から、柄杓に掬った水を掛けて貰って、一洗いしたばかりの濡れた手で私を捕まえていた。
そのため、母も私を助けようとする父に押されて、ぬかるみで体を交わせず、石船の手前に積んであった漬物用の石の上に尻餅を付いた。
落ち込んだ足が抜けない原因が、靴が抜けないように頑張っているためであることを気づいた父は、
『靴は後で取ればいいから、脱ぎなさい。』と言った。靴が抜けないように頑張っていた足を延ばすと、足は簡単に抜けた。しかし、靴が酢泥の中に残ってしまった。靴を取ろうとする私の手を父が制した。気が付くと、助け上げられた私は、酢泥まみれになって、悪臭で息が詰まった。泥が付いた所は、チクチクと痛かった。父は、汚れた私を水できれいに洗ってくれた。それから、酢泥の中に手を入れて靴を取り上げた。腕の毛が泥まみれになっていた。泥まみれになっても汚した靴を取ってくれる父が嬉しかった。
大騒ぎをしていたので、眠っていた弟の澄則が起きて声を上げていた。母は、先に手を洗って、ヒナダの石畳から家の中に上がっていった。
石畳は、炊事場の内の半畳分の石畳になっている場所を呼んでいた。「イッダン」と言っているが、石畳が圧縮表現されたものであろう。
酢泥は洗い落としてもらった私であったが、悪臭は残った。足も洗い流して、水を使い尽くしてしまった。その事を言いながら、父は、私を抱えて、石段から、私を上げた。
「後で汲みに行くから良いですよ。」と母が言った。更に、
「こっちの水も使って、「ハンズ」の中も少なくなっているから、3回くらい行けば足りるでしょう。お父さんとお母さんが畑から帰って、「アエ=(沐浴の洗い)」をするから、湯を沸かして、足りない分は、また晩ご飯の後に行けばいいから。今は、水は多いから、水を汲むのに、番をしなくても良い時期で、行けばすぐくめるから良いのよ。渇水になると大変だけどね。」と言った。
朝ご飯を食べた後、私は、もう一度、さっきの酢泥の中のものが気になって、のぞきに行った。気になっていたものは、母が食事の後始末で流す水が流れてくると、勢い良く動くような気がした。しかし、ご飯粒が来ると、動きが止まり、暫くして、白いものが沈んで見えなくなると、また動き始めた。やはり、生き物なのだと思った。
気になっていたものは、もう一つあった。何か、食べられそうなものが、酢泥が奇麗な水になって流れていく先の、石垣の際に、小枝を沢山広げた木になっていた。しかし、石船の所から見ると、その枝は全部川の上にあった。川は幅はないが、深い谷のようであった。丁度、その下には、一段低い隣から、我が家の石垣に木が渡されているのだろう。その上に、薪や柴が半分ほど載せてあった。
私が石船の方に行ったと言って、母が声を掛けた。私の返事の声を聞いて、父が表から廻ってきた。私は
「あれを食べてみたい。」と言って黒い実を指さした。父は、母に
「あれは食べて良いのかい。』と尋ねた。母は、
『山桑だから、酸っぱくて、美味くはないけど、食べられますよ。』と言って、
『危ないから気を付けてね。』と付け加えて言った。
『山桑だって。食べることは出来るらしいよ。』と言って、水を使い切って水が無くなった石船越しに、山桑の幹を引き寄せて、食べられそうな熟度のものを採ってくれた。水で洗って食べてみたが、柔らかくなったものは水っぽかった。水で洗わないで食べるとおいしかった。それを母に言うと、
『母は生ま物は水洗いしてから食べないと、熟している物は蠅がたかるから、お腹が痛くなるのよ。』と言った。父が山桑の実を採ってくれている間に周りを見た。
水を溜める石船には、シダ類が沢山生えていた。そして、そのシダは下の石垣まで続いていた。石船の左横には、使い込んで、角が少し丸くなった砥石があった。吹田で、父が使っていた砥石は、真っ直ぐであったので、「何で違うの。」と聞くと、「しょっちゅう使っているからよ。」と答えた。砥石の両横が30cm程づつ開いていて、左に、高く盛った石組みの上に、長くて葉っぱの広い草らしいものが生えていた。祖父が高射砲陣地を造りに行った時、車岳から採ってきた「タニワタリ」だと母が言った。
「タニワタリ」は下草として植えられているのであって、そこには、柿の木が、一緒に植えてあって、高くはないが、素晴らしい葉陰を造っていた。実は渋柿であった。盛り土の肩には、「雪の下」が一面に生えていた。
厳しい6月の日差しも、馬小屋の北側であることも効果となって、爽やかであった。その先は川になっていて、山桑と枝を交わすようにタブの木が、まだ、熟すのに間のある赤紫の肌に、黄色い斑模様がある実を付けていた。手の届かない西の端には、熟すのが楽しみになりそうな大きな実を付けた枝が、川面からの上昇気流を受けて、気が遠くなるほどに緩やかに、ゆったりと揺れていた。あの実は、食べられるのだろうかと私は思った。
馬小屋の裏は、一尺ほどに切った竹を並べて棚にしてあった。棚の下には、いろいろの瓶が並べてあった。柿の木の盛り土との間は、二尺ほどあった。一番北側のコーナーはゴミを捨てる場所になっていた。全ての物が黒っぽく縮んでいた。その黒さは酢泥と同じように見えた。外にあるものは黒く縮んで干涸らびているのに、水の中のものは何故膨れているのだろうと不思議に思った。匂いも、自分が落ちた中は、同じ様な酸っぱい感じであったが、ゴミも同じ酸っぱい匂いの感じであった。
私が、腐りかけた野菜くずを触りに行きそうな素振りをしたので、父は、『もう良いだろう。あっちに行くよ。』と言った。私は父に従った。
しかし、私は、水でジタジタして狭いけど、変化に富んだこのシダの空間が気に入った。
ツンゲ竹
父の出征
父が応召して、出征の時、前の夜と朝、祖父は父への労いと、「子供のことは責任を持って育てているから、任務を果たして帰ってくるように」と、言っていたことを覚えている。
父は、召集令状が来たことを、祖父から大阪で電報で知らされた時、「アメリカは日本が戦いを挑んで勝てる国ではない。アメリカは強大で、国力が全く違うのだ。だから、この戦争は日本が負けることになるだろう。しかし、負けることは分かっていても、お前や子供たちと家族のために私はいく。」と母に語ったという。
(父は、大阪の住友金属に勤める前、ブラジル航路のアルゼンチナ丸のスペイン語が話せる船員であったので、アメリカの姿は何度も見ていた。母と出会う前、ブラジルの女性と結婚することを考えていたのだという。祖父に結婚の承諾を貰うために帰国して母を知り、婿養子になって結婚するを決意したのであるという。さらにアルゼンチナ丸に乗る前は、日本水産のトロール船に乗っていたので、この時も、外国船員も乗り組む船の船員であった。これはたくさんの写真がある。それ故、戦争の結果についての見通しを感じていたのであったろう。これは、後年、母が語った言葉である。)
召集令状を前にして言われた母は、自分が若い時に、駐米大使だった方の家に女中でいたとき、「日本はアメリカと戦争をすると負ける。」と、言うことを話されることがあって、『旦那さんは非国民だ。日本が負けるものですか。』と反論すると、『あなたは、やはり東郷元帥の国の人だねえ。』と笑われたことがあって、朧気に強国アメリカのイメージを持っていたので、父の話は抵抗なく納得したという。)
父達の出征兵士壮行会
そして、坊泊尋常小学校の校庭で、出征兵士を送る住民の壮行大会が開かれたことを思い出せる。そこでは、十数人の応召する者が一人一人紹介されていた。彼らは名前を紹介されて、挨拶を勧められても固辞し、黙礼をしただけであった。私の父は壇上に立ち、挨拶の言葉を述べた。
「年老いた祖父母に家族を託することの心苦しい思いと、幼な子を抱えた家族を頼む。」という意味のことを言っていたことと、司会の人が何かを言って、他の人にはない拍手を受けた事が記憶に残った。
後で、母にこの拍手の意味を確かめると、「自分は、独学でスペイン語の勉強をしたが、成績が優秀でも家が貧しくて勉強が出来ない子をなくするために。」と、500円の金を奨学金として西南方村(現坊津町)に寄付したことが紹介されて、拍手を受けていたのだという。当時としては、相当の金であったという。
父が配った鉛筆
それと鉛筆を各家庭に送ったその残りが、子供の時に貴重な品としてあり、大切に使っていたことを思い出す。高価な物であったようで、三菱鉛筆の黄色のゴム付きであった。良い香りのする木で作られており、オレンジ色で紫色の金具で消しゴムがつけられたものであった。後々、学校に行くようになって大事な文章を書くときだけ使わせて貰えた。出来るだけ芯を削らずに使っていた。
また、同級の女の子(日高美智子)が、親が大事に家の奥に直していたものを、入学の祝いにと、せがんで貰ったのだと言って、大事に使っていた鉛筆があった。私と日高美智子は同じ机に座っていて、鉛筆の貸し借りの時に、特別に扱っている鉛筆であることは知っていた。その鉛筆を泊の男の子が欲しがって、『使わせてくれ。貸せろ。』と言ったのを、『父が大事に直して持っていた一本しかない鉛筆だから、貸すのはイヤだ。』と言って、頑なに断っていた。
それが原因で、日高美智子へのいじめが起こり、宮下和馬は、鉛筆を無理矢理奪って、芯を折った。その時は鉛筆の事情を知らないまま、日高美智子と一緒の机に並んでいた私は、宮下和馬が繰り返すいじめを止めに入り、後で、その兄に殴られて、鼻血を出したのであった。
この鉛筆が、父が各家庭に送った鉛筆だったと知ったのは、数年後に、我が家で大事にしている物と同じ鉛筆を日高美智子が持っていて、そのお父さんも大事にして使わずにいた、何故だろうとその鉛筆の意味を聞いたのに母が答えてからのことであった。その時のやり取りから、鉛筆は坊の戸主会の家庭だけに配られており、泊の家庭の子は知らなかった意味を理解したのであった。
壮行会の日は、さらに出征兵士を送って浦尻峠まで歩いたことと、途中で父を求める私を、父が母から抱き取ったこと、浦尻峠でトラックに乗って出発する父との別れを受け入れず、離れたがらないで泣いたために、車の出発が遅れると警防団長から諭されて、トラックの下に立っていた母に、渡された自分の姿のイメージがある。
鹿籠駅
そして、その日はそれだけで終わっていない。枕崎まで行って、それでも泣きやまない私をなだめるために、南薩線の汽車に乗って鹿籠駅まで行ったことを覚えている。枕崎駅からすぐの亀沢の堀切の斜面が、心を締め付けるように迫ってきて、父かすぐに帰ってくるからと、一生懸命に諭して、鹿籠駅で降りることを納得していったのは、亀沢の堀切の狭さに対して恐怖を感じたからのように記憶している。
その時、鹿籠駅には、坑木や枕木に使う松が山積みにされて、幾山もあった。炭坑や南方の国に線路を敷くために持って行くのだといってた。
この景色は、小学校2年生の時に、春の遠足で同じ区間を乗ったときも、同じであったが、帰って来ない父を思って悲しかった。
父の乗った汽車が去っていった伊集院方向に向かって延びている線路を見つめて佇み、涙ぐんでしまったため、移動する生徒の列を離れた私を、『何をめそめそしているの。みんなに遅れたら置いていきますよ。』と、貴島美保子先生は、ヒステリックに激しく叱咤した。
鹿籠駅のバスの乗り場の様子が違っていた。「軍需物資優先」であった駅の配置が、「人優先」に変わっていたのであろうが、駅の敷地の端っこにあったバス乗り場が、駅の改札口に近くなっていた。だから、それを知らないで、汽車を降りた時、遅れても長い距離を歩いていく間に走れば、皆に追いつけると思っていたのである。
皆に、このバス乗り場が変わっていた事を言ったが、誰も知らなかった。この事でも、変なことを言う生徒としてレッテルを貼られてしまった。普通は田舎に住んでいる者は、特に、子供が汽車に乗ることなどなかったのである。また、例え、汽車に乗ったとしても、一駅しか乗らないで鹿籠駅で降りるような贅沢をする事はなかったろう。
子守願望の娘達
坊津で暮らす私は、大阪弁を使う可愛い子として、親戚中の女の子にかわいがられた。初めの内は隣の咲枝が守を独占していた。親戚の美代子や幸子達が、私達にも守をさせて欲しいと母に頼んだ。はっきりしないままに早く来た者勝ちにしていたが、毎日、守り役の取り合いであった。結果は、いつも隣にいる咲枝が学校から帰ると鞄をおいて、すぐに家に来るので、権利を得ていた。美保子はそうした咲枝と協定を結んだ風で、守の権利をせしめていた。それは、美代子の内は米屋をやっており、咲枝を黙らせる物を持っていたことにあった。私に与える物として、家で貰ってきた物の中から、咲枝にも一欠片を分け与えることで、咲枝を納得させていた。
そうした様子に業を煮やした幸子は祖母に泣きしいた。幸子は祖母の姪であり、父親の英治は弟として、妻のツイマツ共ども何かあれば世話をする親密な行き来があったので、母も困り果てた。
母は、3人に引っ張り合いをさせて自分の方に引っ張れた者が勝ちで、週の半分を取り、残った日を二人で分け合うように言った。引っ張り合いの結果は、痛がって泣く私を、最初に離したのは幸子で、美代子が離し、咲枝は勝ち誇った。そして、私を独り占めに出来ると喜んだ。
母は咲枝に3日を与え、二人に2日ずつを与えるようにした。私は引っ張り合いでもげそうになった手足の痛さで泣き続け、母は、泣きやまない私を咲枝から引き取った。3人が帰ってから、自分の愚かさを愚痴にして詫びた。
夜、『見ていて、恐ろしかった。幸子が心優しい子であることを知った。咲枝は、かわいがるようでも、やはり他人なのだ。』と語る母に、祖母は、
『昔から判っていることじゃないかよ。子供を痛か目に遭わせて、止めもせんで、よく見て居れたもんだよ。馬鹿が。可愛そうに、けがでもした時は、どうする積もりだったのかい。他人の血が、如何に薄情なものであるかを考えないで、そんな事をさせる馬鹿親が、どこの娑婆におるかよ。本当に親なのなら、人を見て考えてせんからだよ。人の心を見抜けない者には、親の資格はない。親の資格もないのに、親の顔をしておるのか。無理なか目に合わせて、馬鹿かい。お前は。』と、今まで聞いたことのない口調で、咎めながら、母を何度も叱った。
その後、幸子は、この日の決定に従い、美代子は咲枝を従前の要領で、買収して、好き放題に守の日を仕切っていた。
いろいろなところに連れて行って貰った。特に、現在の坊津町公民館の敷地は、当時は漁業組合の鰹節製造工場などがあり、その東南の県道に面した家が兵舎として使われていたようで、慰問の意味もあって、幼い子供を恋しがる兵隊に請われて、連れられて行ったようである。
そこには、納戸に相当する場所にオルガンがあって、何か制約があったようであるが、私がおねだりすると、兵隊さんの所に頼みに行って、特別に許可を受けて、オルガンを引いて貰っていたように思う。幼い子供の願望を叶える形で、兵隊さんに抱かれて、一緒に聞いていた記憶がある。そして、兵士が本当によく私を抱いてくれた。子供を持っている兵士たちであったという。それ故、乏しい物資の中から、私は芋しか持っていけなかったが、時々、軍からの支給品として貰った甘いものを、おやつとして貰っていたように思う。私は、そこに父親のイメージを重ねて感じていたのであろう。
防空壕
1944年初夏、それまで、空襲がある度に、家のすぐ傍の橋の下とか、内ノ木場の手前の凧ん山の暖竹の藪に隠れて済ましたいたが、空襲が昼間でも頻繁にあるようになり、上空からの攻撃に、身を隠す必要が迫って来た。
家から少し遠かったが、麦の刈り取りが済んだ内ノ木場の、畑の土手を利用して、防空壕を掘ることになった。確か、3日ほど掛けて、祖父母と母と、隣の繁雄や喜津夫も混じって掘った。
高さ、幅とも150cm位、奥行きは5m位だったと思う。坊津の基底岩盤である、頁岩が風化した緻密な粘土質の土手であったので、穴を掘るのは容易であった。土質は10mほど上の山では、風解で礫化したした頁岩が露出して山になっており、その粘土層は、頁岩が阿多カルデラの噴火の時の灼熱で、変成を受けて、破砕、分解した後、風化して堆積した、赤土の部分である。防空壕を頼って、避難してくる人数が増えたため、祖父はさらに奥に広げたが、穴の最奥部は、山の芯の礫質が出てきた。基底岩盤であるので、表面を水が沁みて流れていた。梅雨になると、そこから水がしみ出るようになって、床は、草を敷いた上に戸板を敷くようにした。壁面にも草を貼り付けた。最初は湿り気が酷かったが、床面の周囲を掘り下げて排水してからは、ジメジメしなくなった。
防空壕を掘った場所は、坊津港からは見えない山間であるが、浦尻峠を越えて、南の硫黄ヶ島や水平線が見えていた。艦砲射撃などの外洋からの攻撃には、一番に無防備な所であった。後に明らかになったオリンピック作戦が現実になっていれば、確実な標的になっていただろう。それでも飛行機が攻撃するのには、谷間になっている分、背後にある山が、上空からの機銃掃射の狙いを定めにくく防護している状態であった。
防空壕を掘る日は、祖母は、炊事係で、空襲がない内に十分な食事を家で作って運んできた。凧ん山を越えて食べ物を入れた鍋や釜を担って上がってくる母達を、防空壕を掘っている畑から見ていた。
穴を掘っている途中で、空襲になったときのために、カムフラージュ用の麦殻と草の山と、板戸が運ばれてきた。そして、土手の立て掛けて、草をその上に載せた。隣の家の喜津夫、繁雄がそれらの運び役であった。その妹の咲枝は、私達二人の守りを楽しんでしていた。
防空壕を掘った畑は、麦を刈り取って収穫した後の下草が、緑の絨毯のように柔らかく覆っていた。私達は、緑の絨毯の上に寝転がって遊んだ。草エンドウや雀の帷子・ヨモギがいっぱい、畑の面を覆って生えていた。それらの草の香が、寝転がった私達を包んで満ちていた。大阪にはない、大自然の味わいが、幼い脳裏に焼き付いた。
麦を刈り取る時には、完熟していなかった豌豆が、ちょうど熟していたのを、母と私が収穫して、その日は豌豆を煮て食べた。大阪では味わったことのなかった、取りたての豌豆の香りを、今でも思い出す。空襲を受けなかった一時の、ハイキングの様な、安らぎの思い出である。
空襲
1944年の梅雨の頃から空襲が頻繁にあるようになった。
最初は、夜だけあった空襲が、昼間もあるようになって、晴れた日は、必ず空襲があったように思う。来る日も来る日も、空襲警報のサイレンが鳴った。
坊津は、九州の西南端であるから、本当の目的地の空爆を終わった護衛戦闘機が、坊の岬が帰路の沖縄に向かう目印の場所として存在しているので、帰りがけの駄賃に、住民を追い回した遊び程度のものであったのだと思うが、追われる側は必死であった。
標的を捜している軽いエンジンの音が、重いエンジンの音に変わると、機関銃の射撃音が始まっているのである。そして、機銃を打ち終わると、機首を上げて、音が遠のいていった。極まれに、日本軍の迎撃戦闘機が、来てくれた。その時は、音で分かるので、みんな、外に出て、手を振った。
坊津の家々は、地形が、枕崎から押し寄せてくる波が、東シナ海に向かって崩れて落ちていく、波頭のような斜面になっている所に張り付いているから、飛行機が狙いを付けても、すぐに機首を引き起こさないと、山にぶっつかる地形構造から、港以外は、戦略的意味がなかったのであろう。本格的爆弾による攻撃は、数回しかなかった。
それでも、毎日の夜間爆撃の飛行機が通る度の避難は、年を取った祖父母にとって、大変であった。祖父は、私を背負って、ドンノマンカの急な坂の上まで駆け上がり、私をハゼの木の下に残して、弟を連れに家に降りていく。
私を下ろした祖父は、胸を押さえて喘ぎ、苦しさで、胸が張り裂けそうだよと言うことがあった。私は、請われるままに、背中を撫で摩り、叩いた。祖父が、弟を背に駆け上がって来るまでの、空襲警報のサイレンが、不気味に鳴っている薄闇が怖かった。私は震えながら、祖父と弟が、無事にハゼの木の下に来られるように祈って、じっと待っていた。上がってきた祖父は、震えている私を抱いて、
『サイレンだけで、まだ、飛行機の音は聞こえてこないから、大丈夫だよ。」と言った。そして、私の手を引いて、内ノ木場までの坂を、ゆっくりとした足取りで、登っていった。母達は、食事の後始末と、明日の食事を作ってから登ってきた。
空襲の時は、私達家族5人と隣の長浜トメ一家4人、オミツ婆さんが常連で、竹内庄之助一家も、夫婦と悟、末吉、美保子が、3km離れた南ヶ迫の自宅の防空壕まで行けずに、数回だが、来たことがある。それは庄之助の妻、ミエ婆さんが、爆弾が炸裂する空襲の恐怖で、大騒ぎをしたことで、記憶しているのである。
他にも、何家族かが、我が家の防空壕に、避難してきたことがある。その時は、山の裏側の坊泊尋常小学校が攻撃を受け、防空壕の山の裏側にある、上中坊の馬が、撥ねた機銃の弾丸を受けて死に、上中坊で炸裂した爆弾の破片が、山を越えて、家の防空壕の真上に、50cmほど突き刺さっていたのだから、衝撃の大きさと、土が落ちたのは当然ではあった。
破片が落ちてきた瞬間、防空壕内では、大きな地響きと揺れがあり、天井の土が、ぱらぱらと落ちた。それでミエ婆さんがパニックになったのである。母も、私と弟を、息が止まるほどの力で抱きしめていた。明くる朝、母が、防空壕の上に突き刺さっている破片を見つけて、掘り出していた。祖父母は、空襲が終わると、馬を家に置いているときは、帰ることが多かった。朝、母が掘り出した破片を見ながら、馬の無事を確かめて、馬の朝の世話を済ませて戻ってきた祖父が、
『爆弾本体でなくて良かったよ。本体だったら直撃だから死んでいたね。』と語っていた。母は大きな衝撃を受けていた。
戦場にいる父の安否に、不安を持った瞬間であったのだろう。この日を境にして、母の心が変わったのを幼い心も感じた。
空襲の思い出
空襲警報が鳴るたびに逃げまどったのであるが、空襲の状態は、最初は夜間空襲が殆どであったが、次第に昼間でもあるようになってきた。
祖父母は、いつもの様に、枕崎が遙かに見える果越の畑に行ったが、枕崎の激しい空襲が始まったのを見て、急いで、逃げて帰ってきた。祖母と母は、一足先に、弟を連れて内の木場の防空壕へ行き、祖父は、馬をつなぎ込んで、それから私を背負って逃げることになった。その日は、まだ日が高く昇る前であった。空襲警報のサイレンは鳴り続け、避難を始める女達の声が、絶叫に近い恐怖を感じさせる調子で、家々から聞こえていた。枕崎の空襲の火を見たため、なかなか落ち着かない馬を宥めて、ようやく、馬小屋に馬を引き入れて、祖父は、県道の口まで、私を負ぶって駆け上がった。この頃の青年舎の庭の入口には、江戸時代まで上之坊の氏神様であり明治初期に坊の八坂神社に合祀した、霧島六所権現の門が残っていた。
階段を駆け上がっている最中に
「何をしているか。敵機に見つかるではないか。」と、警防団員から罵声が飛んできた。祖父は、果て越しの畑まで8kmの往復で、へとへとに疲れていて、内ノ木場の防空壕まで上ることを諦めたようであった。祖父は抱いて這う様にして公民館の石段を上って、その罵声に構わず、中に飛び込んで行った。
青年舎には、兵隊も居た。罵声を浴びせているのは、警防団の人間で、兵隊は黙っていた。公民館は入り口以外は、板戸が明かりと取りに細く開いているほか、板戸の隙間からの漏れ日が差し込んでいるだけで暗かった。沢山の罵り声で中にいる人の気配さえも定かではなかった。中に入るとき、兵隊が玄関の外に出て、祖父が入れ替わるようにした。中には沢山の大人が居た。皆の視線は、避難が遅かった祖父を咎める空気で満ちていた。
「枕崎が燃えているのを見ながら、畑から逃げ戻って、興奮している馬を繋ぐのに、手間取っていた。」と説明する祖父に、それ以上の小言はなかった。早く避難していた人たちからは、祖父達が青年舎の前を掛け下る様子は見えていたのである。
年取って、孫達を委ねられ、集落から一番遠くにある畑まで通い身を粉にして働く、祖父に対する同情を口にする年寄りもいた。また、長い道のりを、良く敵機に発見されないで、戻って来られたなあと幸運を喜んでくれる者もあった。孫達のことを思って、必死であったことを言って、祖父は涙を流した。労りの言葉には涙もろくなっていた。
その日の、枕崎の空襲は、かつてない激しいものであった。まるで、近くで爆弾が、いくつも炸裂して、地面を揺るがしているかのように、吹き抜ける爆風が、身の回りを揺るがして、東に崖を負っている青年舎でさえも揺れいるのを感じた。私は、地響きの度に、恐怖で祖父に堅くしがみつき、泣いた。
空襲が激しく、時間が長いことから、祖父は、攻撃を受けているのは枕崎だけであり、坊津が目標でないことを確信していた。その事をみんなに語った。
兵隊が
「幼い子を恐怖に晒すのはいけない。防空壕は、音が和らいで、ここよりはましだから。」と促したのを受けて、青年舎の奥にある防空壕に移った。
そこには、8家族ほどが、逃げ込んでいた。入ってきた祖父と私を見て、咎め、泣く私の声が、飛行機に聞こえると言って、中に入るなと、私の泣き声よりも大きな声で叫び立てた。防空壕は、西向きの岩盤を刳り抜いた8m位で、枕崎に反対向きの斜面にあるためか、中は、青年舎に比べて振動が小さく、喚き立てる女達の声の方が、遥かに大きかった
私は、泣き止み掛けていたのに、その女達の声と闇に白く浮かぶ顔に光る目の表情に恐怖を感じて、再び泣き始めた。入り口からの漏れ日で顔だけが白く浮き上がって喚いている女の顔は、見覚えのある者達ばかりであった。
祖父は、背中から離れようとしない私を、無理矢理下ろして、
「どうか、この子だけは頼む。栄吉から預かった、この子を死なせては、出征の時に、安心して戦ってくるように言った俺の役目が済まない。頼むから、この子だけ置いてくれ。」と言って、自分は外に出ていった。
しかし、女達は、喚くのをやめないので、爆弾の恐怖ではなく、女達への恐怖で、なお泣き出した。「どうして子供が、穴蔵で泣く声が、飛行機に聞こえるのだろう。」と思いながら泣いた。
泣く声が、大きくなったので、祖父は戻ってきた。そして、入り口にドッカと座り、
「俺が、ここの防空壕の壁になる。泣き声が飛行機に聞こえて、爆弾が落ちても、俺が身体で防いでみせる。俺が死んでも、この子だけが、助かってくれればいい。俺は、もうここから動かんぞ。よしよし、どこにも行かないから安心して、泣くのをやめようね。お前は爺ちゃんが守ってみせる。」と、私を宥めた。
防空壕の中は、祖父が、入り口から入る光を遮って座ったので、奥の方に差し入る光が少なくなり、奥にいる女達の顔が見えなくなった。祖父の言葉と、暗闇で、顔だけが悪魔のように襲い掛かってきていたのが消えたので、安心した私は、祖父のあぐらの中で、泣き疲れて眠っていた。
空襲警報が解除になって、家の川向の家の女達は、我に返ったのであろう、さっきの恐ろしい形相が、恥ずかしそうに言い訳をする者が少し居た。そして、眠りから醒めかけた私を、可愛いとも言った。しかし、また、その思いを殊更にうち消すように、居丈高な姿で表す者もあり、全てが空々しい姿として、脳裏に焼き付いた。だから、戦後20年経っても、許す心は起きなかった。
恐怖の中で、かねての知り合いであることが、何の助け合いにもならないものとして記憶が残った。川向の家の女を亡くなるまで許せなかった。恐怖によって、自己愛だけが占有した心は、他の家族を受け入れる度量を全く失い、排除しようとする、エゴイズムの固まりになっているものなのだと思った。
空襲がやんで、しばらくして、外に出たが、まぶしい日であった。その後、しばらくの間、何故、子供の泣き声が、爆音を轟かして飛行する飛行機を操縦している人間に、聞こえるものだろうかと思い続けた。
そして、髪を逆立てて、浅ましい形相をして、祖父と私を罵った人間達が、昼間の光の中で、親しげな声で語る善人ぶった姿が、不思議でならなかった。幼いながらに、人間の心の様を見る目を磨いてくれた。
空襲の中で、最も恐ろしい思いをしたのは、現実に銃撃をされたときであった。今日は、空襲はないと決め込んで、暢気に家にいた母が、空襲警報の予告ナシの突然の空襲で、私達兄弟を連れて、家の床下に逃げていた。ところが、爆弾が炸裂した爆風で、隠れてた床下の目の前の薪の束が、外に転がったのを見て、恐怖のあまりに居たたまれなくなって、家の外に逃げ出したのを見つけた戦闘機が、私達を追い始めた。橋の下に逃げ込む余裕がなかったので、そのまま走った。竹内春吉の家の前を通って、竹内時吉の家の石垣の下を走る時、機影が、真昼の空を埋めるように、迫ってくるのが見えた。崖が行く手を遮って、川に降りている所を、5m駆け下りて、上村末次郎宅の下の川岸が、僅かに岩の窪みになっている場所に押し込まれた。そして、背中に負った弟が、崖際になるように、母は身体を押しつけた。母と弟の下のなっても、私は、暗い草緑色の主翼が太陽の光できらりと光るのを見ていた。
その時、機銃掃射の音がして、弾丸が、10m余り先で、川底の岩場に弾け、何度も跳ねていった。弾けた岩の破片が、顔に飛んできた。弾丸の弾けるのが、耳に痛く感じられた。危ういところを、急峻な坊津の山が助けてくれた。平坦地ならば、確実に打ち抜かれていたことであろう。
後で考えると、空襲警報のサイレンナシに始まった空襲に恐怖を感じて、全身も手も震えて、ボタンが填められず、着るものを思うように身につけることが出来なかった私が、のろのろして、逃げる時間を失った事が、一番の原因であったように思う。私は、凄いのろまであったから。
この時は、500m離れた小学校が爆撃を受けていたのだった。
| 空襲警報最中の排便 |
防空壕のある芋畑の畝間を掘って、排便をしている最中に、空襲警報が始まった。警防団長が、「空襲警報、空襲警報。」と言いながら、山の奥の自分の内の防空壕に走ってきた。緩やかな上り坂を走っている途中で、サツマイモ畑にしゃがんでいる私と、見守っている母に気づいた。
自分は、一生懸命に、警戒を叫びながら走ってきたのに、悠々と、畑にしゃがんでいる姿を見て、怒りを顔面ににじませて、語気も荒く、早く隠れるように促した。畑一枚下の、畝際の道に立ち止まっていたが、その声を聞いて、恐怖を感じた私は、出かけていた便が、引っ込んでしまって、顔を真っ赤にして息むが、どうしても切れなかった。母は、気づいて、警防団長に、「良いから行ってくれ。」と言った。
「一般民が、爆撃の危険に晒されているのを見過ごして、行けるはずがない。空襲が終わってから、すれば良いんだ。」と言った。
「子供が、そうガミガミ言われては、出てくる物も引っ込んでしまうがな。出てくる便に、引っ込めろと言って、お前さんに、それが出来ますか。引っ込めて、病気になるより、出した方がいい。それで敵に見つかったら、それだけの命しかなかったものと思えば済む。飛行機が来たら、この子を庇うのは私です。」と言って、とうとう、警防団長は、母の剣幕に、しどろもどろになり、立ち去っていった。
畑を挟んで、言い合いをしている間に、最後の長ーい便がでてきた。土を被せて、全部済ませて立ち上がると、警防団長が、背戸んツボシの奥の、防空壕の中に消える後ろ姿が、木立の中に見えた。防空壕に入る頃には、空襲警報は解除になっていた。
警防団長の剣幕をはね除けるように、反論する母の姿を、頼もしく思ったことであった。
| 1945年4月7日 |
この日は、非常に鮮明に記憶に残った日であった。
「戦艦大和」が坊津の西の水平線の先に沈んだ日である。
今考えると、坊津の山々が、呻吟し、嗚咽していた日だったのである。坊津の山々が『戦艦大和』の最後の声を、身を震わして受け止め、悲しんでいたのである。私達は、その呻吟・慟哭する声を聞いていた。
この日、何時もは夜来る空襲が、朝から始まり、空襲警報のサイレンが鳴っているのに、坊津には、米軍の飛行機が来なかった。サイレンの音に急かされて、凧ん山の木陰になった岩場に避難していて、温かい日差しの木漏れ日を浴びながら、米軍機が通り過ぎるのを待っているのに、空襲警報が鳴り続けているのに、姿が見えて来ない米軍機に苛立っていた。
三家族が、内の木場の途中の、凧ん山の暖竹の藪の葉陰に集まって、先に行けずに隠れていた。空襲警報は何度も鳴ったのに、飛行機の音が北上して来ず、やがて、何かが起こっているざわめきのような物音だけが、坊岬の方向から聞こえており、轟音のみが、遠雷のように聞こえている事が分かってきた。皆は、身動きを止めて、その音が何であるかを、聞き取ろうとしていた。
『雷の音のように聞こえる。』と、誰かが呟いた。
日清・日露の二度の戦争に徴兵されて、参戦した経験している祖父は、
『あれは雷ではない。沢山の水雷や、砲弾が炸裂している音だ。』と言った。微かに聞こえている音は、間断ない砲弾の発射であり、非常に大規模な戦闘が、坊ノ岬から遠くない場所で行われていることを感じさせた。
凧ん山は、真っ直ぐ南に、硫黄ヶ島が微かに見えているし、西には坊津港の入口が、眼前に見え、その彼方の水平線上には、夕焼けが東支那海を染める時、鷹島が東支那海の際として見える場所である。それでいて、西の海からは山陰が始まる所で、海上からの攻撃に対しては、見えない場所であった。
『戦艦大和』の最後の雄叫びが、凧ん山の南東にある、上之坊の青年団が管理している廿世山の山肌に木霊して、届いていたのである。芭蕉山には木霊せず、廿世山だけに木霊していたので、坊の浦の西沖遙かであることだけが予想できた。私達が、身を潜めている頭上を覆う、今年芽立ちの濃緑色の暖竹の葉が、春風を受けて、サラサラと硬い音を立てながら揺れていた。そして、木霊して聞こえる大きい轟音では、一段と高い音で身を揺すった。その音は、聞こえている音の意味することを知りたい衝動を増幅していった。
空襲が来ないので、坊津港が見える側を、覗いてみたかった。しかし、明らかに西の方で戦闘が行われているとすると、そこを見るということは、戦闘をしている敵機に姿を曝すことであっり、自分たちが居ることを知らせる行為であった。
祖父は、
『西に見える側に、身体を出すな。』と言った。
私は、小道を這いずって行った。小さい子供が、立ったまま、走っていった。それを止めようと、大人が動物のように、四つん這いで走った。森 サエ(達雄)の家の畑の、僅かに色づき始めた麦が、風に忙しげに揺れていた。開墾したばかりで痩せた土地であったので、麦の葉や穂は、祖父達が作っている麦のようには重さがなく、揺れ方が早かった。畑の土手の際で、女は子供に追いついて、横抱きにしてひっくり返った。山の礫が風解して赤い山道の地べたに、女は仰向けになったまま、暴れる子供を押さえた。子供は山畑ユイ子・女はヒロであった。私は、それに四つん這いのまま追いついて、麦畑の土手に身を隠しながら、西の空を見た。
東西畝で植えた麦の列が、突っ立って、南の風に揺られて、ひっ付いたり離れたりして、時々開く空間から見えている視界には、高い視線で、飛び交うと予想した飛行機の姿はなかった。海上にも戦闘音に相当する戦艦の姿はなかった。どんどん姿勢を上げていっても、坊ノ浦も見える程になっても、何も見えなかった。
「何も見えないよ。」と、大人達に叫んで教えた。
それを聞いて、大人達も、へっぴり腰で、西の空が見える空間に顔を出した。
『何も見えない音がする海上の空間は、何だろう。』と言いだした。
私が大きな声を出したのと、話し声を聞きつけて、すぐ近くの家の、木村政成が避難していなかったらしくて、坂を登ってきた。
『馬が暴れるものだから、逃げることが出来なくて、いつも家にいる。昨日なあ、馬草切りに岬に行っていたら、今まで見たことのない大きな戦艦が佐多岬の沖から来て、北の方に甑島方向を廻って行くのが見えた。とてつもない大きさだったので、あれが、話に聞いていた戦艦大和かなと思った。空襲が怖くて、夕方まで待って帰って来たら、芭蕉山の下がり口に憲兵隊が居って、『今日見たことを人に喋るなよ。』と、言われて恐ろしかった。戦艦は北の方に行くのかと思っていたら、帰るときに気づいて見たら、南西の水平線より向こうに方向を変えて南下している様に見えたから、沖縄を取り返しに向かったのかも知れないなあ。何回も音がしているから、大艦隊が戦闘をしているのかも知れないなあ。なあ、長太郎叔父さん。』と、一気に話した。
『知らんない。吾子は何も見とらんし、俺も何も聞かなかった事にして、胸に納めておこう。ここにはスパイはおらん事だが、話は風で飛ぶからなあ。怖い話だからね。』と、目の先をすぐ下の家に定めながら、興奮して声高に喋る木村政成の軽口を咎めた。木村政成は顔を赤くして口ごもった。後は沈黙して、全員が西の空を見つめていた。目の下の山畑ヒロの家の兄弟は、警防団長であった。
目を凝らしてよく見ると、何もない様に見えた水平線の先、鷹島から南よりの水平線すれすれで、何か鳥のように動くものがあることが分かった。
遠い、坊岬の遙かな西の沖で、海面すれすれの処で飛行機が動いており、遙かに高度を取っていた飛行機が急降下して水平線の下に消えて、再び高度を元の高さに戻して旋回し始めて、しばらくしてから、激しい音が身体を揺するのを感じた、何度も何度も、遠雷のような爆発音が聞こえていた。明らかに水平線の向こうで激しい戦闘が行われているのである。ただ、それが何であるかを見ることが出来ないもどかしさを感じていた。
耳を澄まして聞くと、その方向からは、大砲だけでなく、高射砲や速射砲らしい、発射間隔の短い音も、もっと細かく途切れ目無く聞こえていた。
「ほんの水際で撃ち合っているように聞こえるなあ。恐ろしいなあ。」と、誰かが言った。
「あれだけ撃ち合っていて、近ければ、煙が見えるはずだけど、煙は見えていないから、見えている水平線からの距離も、もっと遠いんだろうな。」と、平静に戻った木村政成が呟くように言った。
やはり、見えない水平線以遠の音であることだけが、感じられ、もどかしくも不気味であった。膝が震え、身震いしていた。この時は、米軍が島伝いに北上してくる巨大な足音として、水平線のこちら側で音が聞こえるようになった時は、死ぬのだろうなあと思い、身震いが止まらなかった。
やがて、黒い雲のようなものが、立ち上ってきた。その後、さらに、しばらくして白い物が混ざったような雲が、水平線上に立ち上ってくるのが見えていた。更に、暫くして、それまでの、激しい戦闘を思わせる音とは違う、くぐもったような、腹の底まで揺さぶる「グワーーーン」という音が聞こえて、それ以後は、音がしなくなって、不思議な静寂が起きた。それまで急降下を繰り返していた飛行機が、円になって上空を飛び、様子を見ているようであったが、やがて、南の水平線に消えた。間違いなく、水平線のすぐ向こうで、戦闘があったのだと思った。飛行機が北上して来ず、南下して行ったことで、日本の艦船が沈められてしまったのだと思って、悔しくて溜まらなかった。何かが終わったことを、子供心にも感じた。
この日の廿世山の木々を揺るがして届いた轟音が、まさしく「戦艦大和」のものであったことを知ったのは、ずっと後になってからの事である。そして、木村政成の「戦艦大和」を見たという話が、本当であったことを知った。
坊津の山々は、沖縄奪還の使命を果たせなかった「戦艦大和」が、悲運の最期を迎えて、身を打ち振るわせる叫びに、共に身を震わせていた。坊津の山々も「戦艦大和」の最期に、同調して身を震わせて泣いていたのである。そして、私達も共に身を震わせていた。
やがて、幼い私の心にも、悲しみと怖さが広がっていた。そして、戦闘員を助けてやれない事への寂寥がのし掛かっていた。
「戦艦大和」が沈んだ日の記憶を、鮮やかに甦らせる契機になった、テレビ朝日のホームページでは、「戦艦大和」の沈没位置を、北緯30度43分,東経128度04分、水深345mと示している。
「戦艦大和」が沈んだ距離は、坊津から、中之島までの距離と比べて、少ししか違わない。中之島は坊津から真南にあり、中心の火山は高さが1000m余りであるが、凧ん山と同じ坊津の100mぐらいの山の上からは、天気のいい日は、口之永良部島と同じ高さで、すぐ西の水平線上に高く見えている。黒潮から立ち上る水蒸気で、すこし視界が悪くなると、口之永良部島は見えているのに、中之島は消えているから見分けられる。
「戦艦大和」から立ち上る噴煙が1000mあったとすると、私達が見ていたのは、間違いなく、「戦艦大和」が水中で爆発した最後の噴煙の姿だったことになる。だから、白く見えたのである。攻撃する飛行機も点として見えていた。入道雲とは違う、黒々とした煙が水平線を這うように湧いていて、やがて、白く湧いた雲は尾を引くように垂れていた下が途切れて、独立した雲に纏まり黒い雲と混ざり合って、何時までも消えなかったことが、助けを求める戦士達の魂の声として、普通の雲とは違っていた現象として記憶に焼き付いている。
戦後、小学校5年生から6年生の時、「日本かく戦えり」シリーズの映画があった。最後に中学3年の時「戦艦大和の最期」の映画が出来たように思うが、アメリカ軍の熾烈を極めた猛攻撃の中を必死で沖縄を目指す「戦艦大和」の様子があった。
その映画は、当時、坊津高校の講堂で上映され、祖父に、この映画だけは見せてくれと行って、お金を貰ってみたが、日本中を回って坊津に着いたのであろうフィルムは継ぎ接ぎだらけで、雨の様なフィル無傷だらけで何度も切れた。この映画を見ている小学生達は、攻撃を受けている「大和」を拍手をして喜び、「早く沈めろ」と言って拍手をしていた。敵味方彼我の峻別をできない、辛酸の時代とは関係のない人間の時代が始まる足音が大きくなるのを感じた。一緒の場所で見ていた森洋三に、この事を話したが、彼も、子供の反応の意味を理解しきっていない風であった。もしかしたら、彼にすらも、私の言葉の意味が伝わらなくなっているのかも知れないと思った。
≪1999年、55年が過ぎた今になっても、この日を思うと、込み上げる嗚咽を抑えることが出来ない。
そして、薪を運びに行った幼い日々、我が家の持ち山がある弁財天から、いつも見ていた海。坊岬を眺めて、真っ直ぐ、その遙か先に戦艦大和は沈んでいる。「戦艦大和」の乗組員であった「吉田 満」は著書「戦艦大和の最期」(文藝春秋社他)で、坊の岬の沖に「戦艦大和」は眠っていると書いた。『宇宙戦艦大和』も、坊ヶ崎の沖に眠る大和を甦らせて人類の危機を救うと描いた。
その坊岬を近景に見て、その先の水平線に隔てられた海底に「戦艦大和」が沈んだいる海を見られる弁財天の丘を、何時の日か、「大和を忍ぶ慰霊の丘」に整備したいと願っているが、脳梗塞を起こした自分の健康を考えると、夢に終わるのかも知れない。また、その丘と、道路に挟まれた土地が訪れる人の駐車スペースとして必要であるが、、私と意見を異にする人物の所有であり、気短になってしまった自分では、分けてくれるように説得の話し合いをする気力が保持できそうになく、難しくなっているのである。
考え方が違う、この問題を回避したくて、20年以上前に、この話を坊津町の過疎対策振興審議会の懇談会で話したが、誰も同調する人がなかった。「戦艦大和の最後」を遙か南方の徳之島付近と思いこんでいて、坊津の沖であった事を知っている人が居らず、何で、坊津が「戦艦大和」に関わらなければならないのだという空気であった。「大和」が金の俵を坊津に持ってきてくれるかもねと話したが、戦前派の感覚さえも風化している「戦艦大和」への思いの差に、残念さを感じた。
困惑の原因は、坊津の伝馬船で助けに行ける至近の沖で沈んだ「馬来丸」の慰霊祭だけでも大変なのに、更に「戦艦大和」の慰霊祭を抱え込む事への迷いがあった。
その危惧に対して、慰霊祭をしない「大和を忍ぶ丘」として整備すれば、必要な土地は提供すると言ったが、石碑は要るだろうから、それだけでも多額の費用になるからと、賛同者は一人もなかった。それ故、私もそれ以上は言えなかった。今に至るまで私は貧乏のどん底にいる。だから、もし、この話が取り上げられる日があったら、その時でも良いと話して終わった。
しかし、やはり、大和が沈んだ海に最も近い弁財天の丘に、年を取って「戦艦大和」の慰霊碑がある徳之島までは行けない人たちのために、慰霊の丘を造りたいのである。観光の為にではなく、大和を忍ぶ人たちのためにである。
「大和」は、身を滅ぼしながら、平和な日本を築いて欲しい」と、それを最期の頼みとして、心を揺さぶって、行ったように思うのである。≫
(この項、完稿)
爆撃機の大編隊
激しい空襲が毎晩続いていたのが、坊津が爆撃の対象から外されていくように感じられ、少し変わってきたことを感じるようになった。それまでは、明らかに帰り掛けの駄賃に掻き回して帰る感じであったのが、克明に攻撃している感じになっていた。それが梅雨空で途切れたように感じられた日の梅雨明けを感じさせる夕方、真っ赤に燃えるような夕焼けの空をものすごい数の飛行機が南下するのが見えていた。
私達は、青年舎の東側の「ドンノマンカ」から見ていた。「ドンノマンカ」は私の家の屋敷であるが、度々の台風被害のために「華巖屋敷」の現在の位置に家を移して、後地を菜園にしていたが、西側半分を中村常志に家を建てる敷地として貸していた。
「ドンノマンカ」から防空壕がある内ノ木場まで、500m程の細い登り道が続いていた。「ドンノマンカ」と、青年舎の間は猫の額ほどの「ドンノ山」があり、世話をする人がいない氏神があった。石の山であったので、その下に岩を刳り抜いた青年舎の防空壕があった。そして、南の端に樹齢数百年を経たハゼの木が生えていて、天空を遮っていた。
私達は、その事で安心して、爆撃機の大編隊を見ていた。地面も揺れるような大きな爆音が西向きの斜面にある上之坊全体を揺るがしていた。
『ばんざーい。ついに日本軍が反撃に行くのだ。沖縄に総攻撃を掛けに行くぞお。』と、誰かが言った。それに引かれるように見ていた全員が万歳をした。私は万歳に同調はせずに、暫く一緒に見ていたが、
「あれは、アメリカ軍機だと思う。日本軍の飛行機の音ではない。それにあの音は爆弾を積んでいる飛行機の音ではない。爆弾を積んでいるときの飛行機の音は重い筈。爆撃が終わった後の飛行機の音だ。軽い音の飛行機が南に向かっているということは、日本の本土が爆撃されたんだ。爆撃を終わった飛行機が沖縄に向かっているのではないのかい。」と私が言った。
『何を、そんな筈がない。制空権を持っている日本の空を、あれだけのアメリカ軍の飛行機が飛べるかよ。お前は非国民じゃないのか。スパイか。』と一番大きい男が言った。
非国民と言われて狼狽しながら、
「あの飛行機の数は2000機を超える数だ。グラマンもいるし、ロッキードもいる。それに下駄履き機(P2ユンカース)が沢山いるよ。B29の数は恐ろしい程の数だよ。あれだけの大量の飛行機をアメリカ軍からぶん取ったという話は聞いた事がない。」と、私は精一杯の思いを込めて反論した。
飛行機の音が、日本軍のものではないことは、誰もが冷静になれば分かることだった。一時の沈黙があった後、
『俺は帰る。』と、誰かが言った。言い出して、みんなが白けたように一人二人と帰り始めた。私は、夕空が暗くなるほどの飛行機を持っているアメリカが怖かった。それは、父が危ないと言うことに繋がることを心配した。
全ての飛行機が西の山に隠れたとき、夕焼けの空が元の明るさに戻った。坊岬の沖はそれからもなお30分くらい大編隊の音が雷の様に聞こえていた。
いつもは機銃掃射を浴びせて南に向かう飛行機が一機も遊んでいかなかったと言うことの意味を考えた。
夜の闇の中で思いを巡らしていると、暫くして、遠い距離を飛んでいたため燃料の余裕がなくて、寄り道などできない逼迫した状態で、一目散に飛行場に向かって帰るところなのだということに気づいた。小学校に行くようになって、米軍の記録映画を見せられた沖縄の飛行場の記録の中に、この時の着陸する飛行場を整理できず、燃料切れで滑走路際に墜落したり、、動かなくなった機体をブルドーザーで滑走路から捨てている情景があった。それ程に遊び半分が出来ない緊迫した状況があったのだ。だから、いつもに比べて、音が異様に軽かったのだ。
数日後、戦場で足の怪我をして、傷痍軍人となって帰ってきた親戚が、祖父に挨拶に来て、曲がらなくなった足を差し出したまま撫でながら、空襲で壊滅状態になった小倉の様子を伝え、
『今度の戦争は負け戦だ。もう、日本は長くはないなあ。フィリピンの栄吉が心配だけどもなあ。』と、語った。
あの夕焼け空さえ暗くなるほどに空を埋めて飛んでいた飛行機が、それだったのだと確信した。ただ、この時に、何故2000と言う数字を言えたのかが分からない。この頃の子供が使う単位は、「5厘」と「銭」の単位であり、「1円」の単位とは無縁であった。子供の世界に、何故、「千」の単位があったのか。
空襲の体験はまだ続く。
1945年頃
私が子供の頃、日本の社会は憂いに満ちていた。1945年夏、馬の肥やしが庭先でいっぱいに広げられて、よく乾燥していた時、戦争は終わった。私の家にはラジオがあったのであるが、昼は畑仕事に出ていて、夜しか聞かなかったので終戦は知らずにいた。復員してきた親戚が終戦を告げた。
戦争が終わって、生き残った若者達の結婚ラッシュが始まった。祖父母は、毎週の様に結婚式に行った。
竹内静雄・竹内信子の結婚式
谷上幸男・村上スヨの結婚式
谷上幸男と村上スヨの結婚式は、盛大なものであった。
谷上幸男とは結婚式前にあっただけで、親密な面識はなかったが、新婦の村上スヨ姉さんは、セキ姉さんと二人姉妹で、いつも、私の守りをしてくれる祖母の弟の竹内英吉(通称英次)叔父さんの娘・幸子姉さんが谷頭の家に連れて行ってくれていたし、坪ん湖のオエイ婆さんの家に行くときは、スヨ姉さんがにこやかに、「帰りには寄りなさいね。」と、声を掛けてくれた。
美しい、花の様な笑顔が、いじめっ子がいる怖い阿弥陀堂の通りを通り掛かる時、谷の上の庭から笑い掛けていてくれるのが嬉しかった。私は、その優しい笑顔を見られるのが楽しみで、怖い苛める子供が待っている坊ノ浜の道を使いに行った。
帰る時に、素通りして行かないように、庭先に出て待っていてくれる事があって、うれしくて立ち寄っていた。スヨ姉さんの家は、屋敷と谷頭の道との間の谷川に石橋が掛けてあり、庭に入ると、玄関先に石榴の木があり、高麗芝の芝生の庭先には石灯篭があった。庭は、南西の川の側に子供の手では抱ききれない程度の栴檀が生えていたので、豊かに蔭をなし、庭はしっとりとしていた。その外側は、手入れの行き届いた一つ葉の生け垣になったいた。家が高い石垣を築いた上の屋敷であったので、生け垣は台風に備えた、高い作りにしてあった。家も念の入った作りであり、上之坊で見る、どの家より大きかった。
家に上がらせてもらうと、少し白い髪の混じったユキお婆さんが、喜んでくれた。スヨ姉さんは、必ず、珍しい物を出して食べさせてくれた。スヨ姉さんと一緒にいると、ゆったりとした気分になってしまうのが不思議であった。それは、スヨ姉さんの美しさにあるのだと思った。
そのスヨ姉さんが、結婚する事になったと知った時、寂しかった。美しい顔が見られなくなるのかと思った。そして、その男性が羨ましかった。どんなに幸せな人だろうかと妬ましくも思った。
この時は、遠い縁戚にはなるが、曲折を経た遠くない位置での、長い付き合いになるのだとは、予想だにしなかった。
谷上幸男兄さんは、鰹船の新進気鋭の船員で、高名を馳せていた。スヨ姉さんのお父さんも、若い時は、漁労長を長い間やっていたのである。大きな体を揺すりながら、昔の日々を語ってくれた。話しながら、
「吾子は、面白い子だねえ。俺達年寄りの話が面白いかい。この頃の子供は、年寄りの話を聞かなくなったと思ったが、違う子も居るのだねえ。」と、不思議そうにしながら、船で沖に出ているときの鰹を捜すときの雲の動きとの関わりや、長い航海の船員の心の動き、鰹に出会っている時の船の中の様子など、話をたくさんしてくれた。
『後を、継がせたいと思わなかったか。』と、聞くと、
『うん、継がせたかった。だから、スヨとセキがどっちかが男であってくれたら、自分が経験したことを教えてやれたのにと思うよ。』と呟いた。スヨ姉さんは寂しそうな、済まなさそうな顔をした。
「スヨ姉ちゃんが結婚したら、相手の人に、経験した事を話して上げればいいのじゃないかなあ。そして、その人に自分の経験した事を生かして貰えば、その人も、良い船頭になれるのではないかなあ。」と、私が言うと、
「よーお、そいじゃっとよ。吾子は、良か事を言う子じゃねえ。スヨと一緒になる兄さんが、そういう考えの子だと良いがねえ。俺は嬉しくなった。そういう事が分かる子も居るんだねえ。」と、満面に笑顔を浮かべた。そうした事で、早くから、許婚になっていたのであった。
幸子姉さんが、連れて行ってくれた時に、時々、その男性の事を言って、
「どんな風に思うものか」と、言うと、スヨ姉さんは顔を真っ赤に染めて恥じらっていた。言いたがらないスヨ姉さんに、
「ねえ、隠さんで、教えて。」と、せがんだ。
『巌ちゃん、口に出して言われなくても、あの真っ赤な顔が、幸せ一杯と言っているでしょう。』と、幸子姉が言った。
言われた私も赤くなったが、スヨ姉さんはもっと赤さが増して、薔薇のようで、その姿は、子供心にも絵の様に美しかった。恥じらいながらも美しい人に思われている谷上幸男という人は、どんなに幸せな人なのかと思った。一度、見てみたいと思った。その事をスヨ姉さんに言った。
鰹船が入港した日、丁度、壺ん湖に使いに行った。すると、スヨ姉さんが家から出てきて、
『谷上幸男さんが来るから、帰りに寄って、会っていってね。』と言われた。
オエイ婆さんの家での用事を気もそぞろで済ませて、壺ん湖を上がった。
谷頭の道に出ると、スヨ姉さんが迎えに来てくれた。谷上幸男兄さんは、縁側でスヨ姉さんのお父さんと漁の様子などを語っていた。夕暮れの縁側からは、夕焼けが映える海面に、坊の浦全体を埋めた沢山の鰹船が浮き上がって、見えていた。
話の途中であるのに、スヨ姉さんは、「御身に合いたがっていたのは、この子ですよ。」と、谷上幸男兄さんに引き合わせてくれた。私は、人心を集めた有望な船員さんに会わせて貰えて、上気していた。誠実そうだが身体付きは小さいのに、どうして、船員を纏めていけるのだろうかと不思議であった。引き合わせてくれている間、話が中断して、お父さんが「子供じゃあるが、俺の経験を、吾子に語って生かしていけば、吾子が良い船頭になれると俺に言う子だよ。勿体なか。」と語りながらも、話を中断されて寂しそうな素振りに見えたので、『上がって一緒に語っていくように。』と勧めら、語ってみたかったが、夕暮れを理由にして辞退して、折角の貴重な時間を割いて貰ったことをお礼を言って帰った。
帰る道すがら、心が弾んだ。苛めっ子が声を掛けたが、聞こえない振りをして無視して帰った。折角の嬉しい日を邪魔されたくなかった。
ある日、幸子姉さんと行くと、スヨ姉さんから、結婚式の時は、私も来て欲しいと言われた。戸惑っていると、
『本当は、お爺さんと座ってもらいたかったのだけど、お爺さん達も別のカップルの結婚式の段取りをする日とかち合ったので、貴方がお爺さんの変わりに座るのよ。だから、幸子姉さんに連れてきて貰うようにしたから、お爺さん、お婆さんにも話をして貰うから心配しなくて良いのよ。』と、いう話しをされた。
飲み込めないまま、私は幸子姉さんに連れられて、結婚式の場に行った。当時の結婚式は、今と違い、仏前結婚式と言うべきもので、自宅で行われた。今まで見たことのない盛大な結婚式であった。
私にも、表の席が準備されていた様であるが、私は、あまりにも屈強な顔見知りでない男性達の集団の姿に、怖じ気づいてしまった。私は場違いな感じに対する戸惑いもあり、帰ると言い出した。スヨ姉さんは私の声を聞いていた様で、宴の途中でわざわざ立ってきて、私に晴れ姿を見せてくれた。白い打ち掛けで、角隠しをしている姿は、夢を見るようであった。この時、初めて艶やかと言う言葉の意味を知った。私は、両手を突いたまま、その姿に見とれていた。
そして、スヨ姉さんは、加勢に来ている人に
『帰ると言うから、この子の表に据えた膳を下げて、他の子供達と一緒にさせて上げて。』と声を掛けた。
同級生の谷上巧達もいた。
『これから親戚だから、巧とも仲良くしてね。』と言われた。私は、うれしくて溜まらず、こっくりと頷いた。
結婚式の様子を全部見ていたくて、新郎新婦が見える場所に膳を移動して貰った。そのすべてを頭に刻んだ。幸子姉さんに連れられて帰ったのは、ずいぶん遅くなってからであった。
| 塩炊き |
塩炊きは、終戦直後の台風被害が酷く、貯蔵食糧を出した後であったため、自家保有米が無くなり、米が配給されないため、米を買い出しに行った時の、物々交換の材料として生産された。最初、我が家では塩炊き釜がなかったので、初鶴婆さんの家が庭の造った釜を使わせて貰っていた。潮は、中坊の江篭の谷の網干場の後の岩場から組んでいた。そこは、足場が悪く、干潮になると汲むことが出来なかった。
そんな時、宇都川で木挽きをしていた竹内善之助おじさんが、ドラム缶を手に入れてきたので、高甲菱(コウビシ)の持ち山の先の岩場の窪みを使って釜を造りたいのだが、内方のシナが体が弱いので、自分の独力では釜が作れないし、自分たちの頼れる親戚でもある、そして、すぐ傍の山を持っている長太郎爺さんとやりたいのだがと、共同塩炊きを相談してきた。
「家の土地は畑を作っている所までで、あそこは官有地であるから、自由に使って良い所で、自分に断らなくても良いんだよ。私は畑が忙しいから思うように出来ないし、」と、言ったが、善之助叔父さんは、「一緒にやらせて欲しい。」のだと言った。これについては、妻のシナも同じ考えなのだと語った。
ドラム缶は既に買ってあるとの事で、半割にする事まで、すぐにも出来る話であった。1週間後、善之助叔父さんは、
『騙された。話していたドラム缶を人に回されていた。』と言って来た。合わせて、
『最高の人物である長太郎爺さんを騙したことになるから、ちゃんとしてくれと談判して、その代わりに、もっといい状態のドラムを手配しているから、明日から、半割にする作業に掛かってくれる。一日遅れけども了解して欲しい。間違いはないことを約束してきた。』と言って来た。善之助叔父さんは、
『長太郎爺さんを騙すことにならなくて良かった。』と、感激して帰った。
間もなく、善之助さんが上ん山の宇都迫側の赤土取り場で釜土を掘り、それを祖父が高甲菱まで馬で運び、共同で釜を造った。ドラム缶を半割に切り開いた塩炊き釜で、交代で塩を炊くようになった。普通は、鏨で切ったままにするのを、約束を違えたからと、切り口は怪我をしないように、丸く織り込ませる細かい細工をサービスさせてあった。
塩炊きは、海水を波打ち際に入って、片方が30リットル、両方で60リットルを木桶を使い、打ち寄せる波打ち際で桶を倒して構え、波が引く前に起こして、一気にすくい取っていた。祖父は危ないから柄杓で汲むように何度も言ったが、母はこの要領で汲んでいた。
約30mの岩場を掛け上って、塩炊き釜に3イネこぼして、30分炊き、また潮を汲み足す。これを何回も繰り返し、二昼夜掛け炊き続けて行っていた。
二日目になると煮詰まった煮汁から、塩が結晶し始め、その塩を釜の高い部分にかき寄せて、さらに潮を汲み足し続けていくと、茶色の汁が多くなって、これは、苦汁で、汲んで取り出していた。
仕上がりの明け方、祖父が溜まってきた苦汁をくみ取り、追い炊きをして仕上げていた。出来上がった塩は、家に持ち帰って、さらに苦汁を搾り取ってから、天日干ししてサラサラにして、母が買い出しに持っていった。苦汁は、親戚のサエ婆さんのオカベ屋に持っていくと、オカベ(とうふ)が一丁貰えた。時々、たくさんくれることがあった。
祖父母は畑仕事がないときは、塩炊きに掛かっていた。雨の火も焚いていた。私達兄弟も祖父母に就いていくことが多かった。夕方になると祖母は弟を連れて帰り、私は祖父と共に残ることが多かった。
そして、遙か水平線の向こうから、父の乗った船が白波を蹴立てて帰ってくることを信じ続けていた。火がよく燃えている間、その日、どんな感じで船は帰ってくるのかなあと、何度も何度も、繰り返して聞き、その日の情景を膨らませていた。
黄昏れていく景色を眺めながら、父のことを語り、やがて、一番星が瞬き始め、二番星が上るとき、
「おじいちゃん、今頃、お父ちゃんのいる国からもあの星が見えているのかなあ。お父ちゃんもあの星を一緒に見ているのかなあ。」と訊ねた。祖父は
「そうよ。みているよ。早くお前たちに所に帰って来られるように頑張っているよ。兄弟二人が仲良くして、お利口にしていれば早く帰ってきてくれるよ、」と、鼻水を手でかみながら言った。
昼の仕事と塩炊きで疲れた祖父が、岩場のくぼみに私を庇うようにして眠っているのを気づくことがあった。祖父の手からは、畑で草取りをした草の汁が皹の沁みて残っているのだろう、草の香がした。その祖父の手の草の香を嗅ぎながら、身体は動かさないで、じっとしているまま、岩の窪みから頭だけを出して、見上げる空には、眼前一杯に星が広がっていた。その中の一番明るい星を父の星と見立てていたので、いつもその星に無言の語りかけをしていた。
「お父ちゃん、早く帰ってきて。お母ちゃんもおじいちゃんも、一生懸命頑張ってくれているよ。早く帰ってきて、みんなの難儀を軽くしてやって。」と。
母が買い出しから帰って、潮汲みをしているとき、私達兄弟は、母と一緒にいることが楽しく、一緒に高甲菱に行って、波に戯れ、岩場に寝転がって遊んだ。弟は、母から離れたがらなかったので、母にまとわり付くときは、潮汲みがしやすいように、少し離れて、弟を止めていた。塩を汲み終わったら、弟を離してしたいようにさせていた。塩を汲み終わって、火を焚いている間は弟は母の膝から離れなかった。
潮汲みは決して安全に仕事ではなく、波のタイミングを計って汲み取らなければならなかった。ある時、タイミングを誤った母は、波に揉まれ身体全部が海水の中に没して、見えなくなったことがあった。しかし、桶を離していなかったので、海中に持って行かれないで済んでのであった。安全な岩の高見から見ていた私は、海水の中に没した母が見えるまで、息を詰めて、弟を押さえて見ていた。母が海水が引いて、緩やかな動きに変わった海水面に中で、岩の割れ目に止まっていた。そして、塩を汲んで上がってきた。母の強さを思った。
母がいないときは、弟は私とおとなしくしていることが多かった。祖父母は薪を運びに、高甲菱から、遙かに山の上の弁財天の山まで行った。そんなときは、次に塩を焚く竹内善之助小父に、私達を預けていったりした。私の家が塩焚きをしている時は、私達も、弁財天の山に行くこともあった。弁財天の山は、割合広かったので、山を細分化して細切れに順次切っていた。弁財天の山には、250年を越える松もあった。その松が醸し出す梢の音は、低い松では味わえない音であった。
大人しくしていることに疲れた弟は、私の股ぐらで眠ることもあった。そんなとき、上を向いて口を微かに開けて眠る姿は、私の庇護心を激しく揺さぶった。そして弟の頭が、岩に触れて痛くならないように抱き、髪の香を嗅ぎながら、お父ちゃん早く帰ってきてと祈った。
| 高甲菱 |
高甲菱は私達兄弟にとって、一時期は塩焚きの為に寝起きもして育った場所であり、岩場が多く、時々、マニアの釣り人が来るだけの、愛着のある場所であった。浦尻から高甲菱までの間には、500年近い樹齢の松が天空を作陽に沢山生えていた。海岸には巨大な岩が渚近くと山の際にあって、独特の風景を形成していた。子供の時から、どうして、2つの岩がそこにあるのかが疑問であった。それを、祖父に尋ねて困らせた。
高甲菱(タカコウビシ)は、浦尻と塩ヶ浦に挟まれて南に突き出た岩場で、両端が高い絶壁になっており、細長く突き出た砂場のない、なだらかな岩の渚である。坊津の一番静かな南向きの海岸である。
高甲菱の岩は溶岩で出来ている。山下鼻との間は、どうして一様に溶岩で覆われていないのか、その間は何故赤い色の礫なのかが不思議で、何故そうなったかを知りたいと小さい時から思っていた。
中学生の頃に、自分なりに想像を結集して、溶岩の山があったのだが、溶岩に覆われていた中の水成岩の岩が内部で受けた熱変性のために水に溶けやすくなったのだろう。打ち寄せる波の動きで解けて内部が空洞になり、外を覆っていた溶岩が、それ自体の重みで崩壊して、外洋の荒波で崩壊したものであろう。崩れ残っている山の先端が、小さい礫になって崩れやすい岩である事と水辺やその先の水中に散在する巨大な岩が、山下鼻と桟様釣り出しの間が崩壊してなくなっている痕跡の歴史を物語っていると思った。
また、今、表面は溶岩が覆っているが、溶岩の内部には、入り込んだ波で出来た空洞があちこちで観察できるのである。高甲菱でも荒波が高く迄打ち寄せる日に観察すると、なだらかなスロープを見せている岩の内部から潮吹き現象が見られ、波が激しく通り抜けている所がある。
長い年月の地球の変動の動きの中で、形成された地球表面の姿が、どれほどの激しい物であったのか。少年の興味をそそる課題であった。
巨大な岩を山の上まで運ぶ事が出きる物は水しかない。そんな水の動きがあったのか。あの巨岩があの高さに動くのには、うんと高い所まで水が覆い、しかもすごい早さで動かないと石は動かない。あったとすれば、坊津の全てが海の下に沈むことになり、何もかにも洗い去るような大波になってしまう。そんな大波がどうして起こるのか。
そんな疑問に解決を出すために、夏の海に潜り、大きな石が動くのに必要な海の深さはどれ位なのか。石の大きさの何倍の深さで石が動き始めるか、潮の動きとの関わりはどうなるか、石の重さは海水中ではどう変わるかなどの実験をしたりした。仲良し会の団体水泳で、浦尻の浜で海水浴をしている時に、みんなに協力して貰って、大きさの違ういろいろな石を水中で一斉に離して貰って、石が沈む位置を確認してみたりした。大きい石は波の動きに対して直線的に動くが、小さい石は、波の動きに合わせて曲線の動きをすることが判った。やはり、それ以上に石の形が影響するという結論になった。
それは、石を水面で跳ねさせて「ピンピンハララ」をして遊んでいる時に、空中では形状の差は出ないが、水面に触れた瞬間から、差が現れることでも確かめた。
高甲菱に行くと、次から次に疑問が湧いてくるのであった。手伝いが出来るようになって、祖父と一緒に仕事をしている時、そんな想像で頭が一杯になって立ち止まっていると、祖父は、『立ってばかりいると、誰かが馬を繋ぎに来るぞ。腰を屈めて仕事をせんか。』と怒鳴るのが常であった。
| 硫黄ヶ島 |
終戦直後、三島村は米国占領軍の管理下の置かれ、坊津と硫黄ヶ島など三島村との間には、国境線が引かれた恰好になった。戦前は坊と三島は心安く行き来する土地であったが、当時は船舶も接収されて、エンジンの付いた船はなくなって、手漕ぎの伝馬船では、間を流れる黒潮の川は無限の隔たりを感じさせる世界になった。
高甲菱から見える硫黄ヶ島・黒島・竹島が、外国領土になってしまった。
そこに見えているのに、外国領土になり、坊津の人間は、すぐ隣の気軽に行き来できない島になっていた。鰹を釣りに行くときは、風の具合によっては、島影に避難するのにも、許可が要った。その苦労を、祖父母を慕って家に来る鰹船の乗組員が愚痴として語ることが多かった。
特に、祖父は秋になると沢山の薪を集めて、冬の囲炉裏には、囲炉裏の縁が熱くて触れないほどに薪を焚いて、家を温かくして、海で冷えきった身体で訊ねて来た人を、もてなしていた。来る人、来る人が、その事を有り難がり、涙声で喜んだ。来た時は身体を丸くして、もごもごと話していたのが、身体が温もるのにつれて背を伸ばし、身体を伸ばして、大きな声で笑いながら、いろいろのことを語った。アルコールを持参したものは、歌を歌ったりした。
そうした時、北風に吹きさらされながら、坊津に帰る船足を黒島沖で止められて、時化が収まるのを待っている時の事を語ることがあった。昼間は沖に離れ、夜は岸辺の近くまで寄せて、波浪を避けて避難していたという。占領軍の見張りがいなくなる夜9時を見計らって、接岸上陸して、不自由している物資を置いてくる事もあったそうである。日本の国でありながら、外国に支配されていることの不便さ・苦しさを語った。
| 潜水艇 |
祖父母が弁財天に薪運びに行って、兄弟で高甲菱に残っていた春のある日、私達は渚近くの波のざわめきを眺めていた。すると、潜望鏡らしいものが、自分たちを見ているのに気づいた。それは、ゆっくりと動いていた。
「お父ちゃんが帰ってきたのではないか。」と、弟が言った。上がって来るかなと、暫く見ていたが、それらしい様子はなかった。暫く沈黙の時間が流れた。
「お父ちゃんが帰ってきたのなら、浮き上がる筈だけどねえ。」と、私は言った。
『浮上することが出来ないで居るんじゃないかい。』と、弟が言った。
「助けてやらないと。」と、二人が同時に言った。そして、顔を見合わせた。
しかし、幼い私達には、どうすることもできなかった。祖父達は、出ていったばかりで、大人が帰ってくるまでには、時間がありすぎた。
何も出来ないで居る間に、潜望鏡は高甲菱の渚近くの岩場の沖を動いていく。流れ藻の動きと変わらない速度で動いており、自力で動いているのではなかった。次第に沖に向かう流れの中に取り込まれたようで、沖の瀬の方に動いていった。
潜望鏡であること丈は間違いなかった。戦争が終わって1年以上が経っており、亡くなった兵隊が閉じこめられたままに漂っていたのであろうが、子供の私達にはどうしようもなかった。
まだ、近海でも機雷が沢山見つかっていた頃でもあったので、潜行艇で出撃したまま、死亡して助けられないまま、人知れず漂っているのだと思うと、居たたまれず、胸を掻きむしる思いであった。涙ぐみながら、岸から遠ざかっていく潜望鏡を見つめていた。
後々までも、生きて帰った人の姿を見るたびに、地球を彷徨っている兵隊がいるのにと、陽気に振る舞う姿が不思議であった。その事が記憶に残った。
| 子供の遊び |
私は、大阪弁を使っていたので、男の子とは遊べなかった。また、男は、集団で悪いことばかりやっていたので、馴染めなかったことも原因していた。
その頃、女の子達が遊びに使っていた唄。
◎ 一門目の伊之助さん、一の字が嫌いで、一万一千百石一斗一升一合升に、一合なと加えて二門目に渡した。二門目の仁之助さん、二の字が嫌いで、二万二千二百石二斗二升二合升に、
鞠つき唄
◎ 一掛け二掛け三掛けて四掛けて五掛けて橋を架け・・・・・・・・・・・
鞠つき唄
◎ お茶ん茶んべ、お茶を一杯の飲ましゃんせ、まだまだ。未だと言うのは誰ですか。お前の後ろは誰ですか。
一人の子供が目になって、中心に目を塞いでしゃがみ、他の子供達は手を繋いで輪になり、この唄を歌いながら回る。唄が終わったら、鬼は目を塞いだままで、自分の後ろにいる人の名前を当てる。名前を当てたら、当てられた人が目になって交代する。
◎ 郵便さん、落ちました。拾って下さい。一枚二枚三枚
鞠つきの唄
◎ ひとーつ 一人のお嬢さん ふたーつ 服屋に貰われて みーつ ミカンを食べました よーつ 夜中に腹痛起こし いつーつ 田舎のお医者様 むーっつ 迎えに行きました ななーつ なかなか治りません やーっつ やっぱり治りません ここのつ この子は死にそうだ とおーで とうとうお釈迦様
いろいろの遊びのリズム取りに使った。
(なんと、死なせてしまうんです。)
◎ 親子モンゴ
正月の昼過ぎから夕方の日没前に、上之坊の子供全部が集まってやるもので、上之坊の子供を二つに分けて、親と子にする。目になった組は、公民館の下の電柱の処で待機して、逃げる組から指示された100から150くらい数えてから逃げた組を捕まえる。捕まった者は、電柱の処で手を繋いで、助けを待つ。逃げる組の者が、電柱に繋がれている味方を手を繋いでいる中から、中心に近いタッチした人数迄解放できる。解放された人は、また逃げられる。全部捕まえるまでやるので、30分くらいの時間がかかっていた。
全部捕まえたら、交代。
待機している間歌っていたのは、犬の銀の金玉 と いんどじんのくろんぼ を 10回から15回唱えた。
逃げる範囲は制限が無く、遠く、下浜や、坊のは間の寺までも追っかけ回していた。また、栗ヶ野峠までも鳥越の坂間でも走り回った。とてつもなく広いエリアを使って遊んでいたのである。
| 松笠 |
坊津の浜辺には400年を超える沢山の松が生えていた。その松は沢山の松笠を着けた。私達子供にとって松笠は冬の暖をとるのに絶好の燃料であった。だから、落ち葉と共に拾い集めて持ち帰る物であった。敗戦後、海辺で見つけた松笠は、一時の間、岩に打ち付けて、憎しみを吐露する材料に変わっていた。「マッカーサーめ。参ったか。敵討ちだ。俺の恨みを受けて見ろ。」と言って岩に投げつけるのである。それは、10個ぐらいが粉々になる迄続けられた。少しでも笠の部分が残っていると、芯だけ残るまで投げ続けた。
父や叔父達を失った無念を晴らしたい行為として、誰一人止めるものはいなかった。むしろ、誰もがその行為に加わっていた。
だが、私はその行為のむなしさに気づいて、遊びに加わらなかった。その私が一度だけ松笠を投げつけた。
| 父の戦死 |
戦死の公報は役場の人が持ってきた。
その日、二人の役場職員が、来た。二人であることの意味を祖父が拘って、何事かと言ったが言いよどんで中に入り、いつになく、腰を低くした丁寧な物言いで入ってきた。
いつもは、気楽な物言いをするのに、切り出しにくそうに話を切りだした。分かっていることなのに、祖父に名前を確かめ、母に文書を差し出した。母は、身体を強ばらせて、身動きしなかった。祖父が代わって受け取り、母に渡した。母は、堪えるものを押し込むようにして、仏壇に前に行った。母は、やがて、押し殺していた嗚咽を静かな声にして、静かに泣いた。
父の戦死の公報を受けた時であった。一人で、浜辺に行って、松の根方にあった松笠を全部粉々にし、踏みつぶした。最後は涙で何も見えなかった。気が治まるまで松笠を潰した。その時、母は、浦尻の浜に下がる丘の上から見ていたのであろう。涙を拭きもせず坂を上がっていた私を抱き、前掛けを外して、顔全体を拭ってくれた。そして、抱きしめた。その後、何も言わずに浦尻峠までの坂を上がった。
| 子おっ取い船 |
この頃、祖母は高高菱の畑に行っているとき、近寄ってくる船に警戒的になっていた。ぼつぼつ機械船がいるようになっていたが、打ちのめされた日本人は、殆ど手漕ぎであったそうした海岸に来るエンジン付きの船は、徴発船を捕った朝鮮の船だと思っていたようで、朝鮮人が子供を捕りに海岸に来ると警戒していたのである。
| 話しゃ門前、語るは上之坊 |
| 幼少年期の私2へ |