| 火消し30年 | 火災消火の現場で | 長浜純一郎分団長急死 |
| 山での炭酸ガス中毒 | 海難事故が起きる時 | 2002年谷頭の火災 |
上村 巌
私は消防団員になって、約30年になる。万年平団員である。これは入団した時からの私の意志によるものである。
入団したのは、1968年11月であった。1967年は勤務していた鹿児島県市町村職員共済組合を強引に退職して、自転車による日本一周の旅で暮れ、新春の1月15日は成人の日に、自転車旅行中の体験を話すことから坊津町でのスタートが始まった。
高齢化が進んだ地域社会で生きる覚悟をした時、ボランティアで尽きる一生になるであろう自分が、身を置くべき位置を測るため一年間は静かに行動することを目指した。
坊津町の様々の実態が毎日の農作業に明け暮れる生活の中で明らかになって来るにつれて、先ず、当面取り組まなければならない事として、防災面が手薄手ある事を感じて、消防団への参加を考えた。消防団は各地区ごとに別れているので、私が住む坊地区の組織は坊津町消防団坊分団であった。
当時の消防団は火災等で出動した時だけ形だけの手当てが支給されるだけの、文字通りボランティア同様の組織で、訓練などを行っても何の報酬もない状態で、坊津の住民は消防団員なんて馬鹿がする仕役だと嘲笑する対象になっていた。
それでも坊地区の災害から住民を何とか守らなければという意志を持った地域定住型の職業を持った人々が退団出来ないままに守っていた。入る人が無く常時欠員の状態にあった。当然、坊分団員は高齢化していた。
従って、入団するや、すぐに出初め式に備えた操法の練習に参加してくれと連絡が来た。中坊の龍巌寺の境内で稽古をした。メンバーは継ぎはぎと言う感じで、指揮を出きる人は居らず、久志分団の有馬次男氏に来てもらって、指揮者をしてもらい、練習といえる状態ではなかった。一人一人の動きを教えてもらうだけでグループでの練習にはならず、個人毎の動作を一つ一つ教えで貰う稽古であった。
今まで、やった事も無い動作で、基本的な動きも出来ない戸惑いが入団したばかりの新米消防団員の目にもはっきりと見て取れる状態であった。団体訓練の機会が無かった事が明らかであった。自分自身が、鹿児島実業高校時代に、体育の時間にいつか役に立つ時があるだろうと教えられていた集団での移動など基本行動の方法が、役に立つ時が来たのだと思った。(後になって分かったが、団員の入退団もずさんで、この時、私は正式の団員として登録もされていない状態であった。全くの無責任消防分団だったのだ。)
入団した時、最初の消防出初め式は、1969年1月6日に坊泊中学校の校庭で行われた。この日は前夜まで寒さが続いた後の、厚い霜に覆われた晴れた日で、西向きの山の斜面の中腹にある校庭は、東側に迫る山で朝日を遮られ、冷え切っていた。地下足袋は霜を解かし、じくじくと潤んで冷えた水分が沁み上がった上に、吹き付ける風が体温を奪い、足の感覚を麻痺させた。出初めの最初は身体を温める体操からであった。
機材点検の後、操法競技が行われたが、坊分団は操法の訓練を受けた分団員が揃わず、他の分団員がやっている姿を見ているだけであった。屈辱的な姿であった。これほどのボロ分団であったのかと悔しさをかみ締めた。
寒さの中での出初め式の後、講堂で表彰式が行われた。最初に挨拶に立った長井正維町長は、「皆さん、ご苦労様です。常日頃ご苦労をお掛けする皆様に、掛けるご苦労に何ら報いていない事を町長として心苦しく思っております。」と言った後、万感篭もる様に目に涙を溜めて、言葉を失っていた。
しばらくの沈黙の後の挨拶は、「消防の責務の重さに比べて、余りにも疎かにされている消防団員の待遇を何とか改善していきたい。我慢して働いて頂いている尊さに必ず答えたい。」という言葉であった。後に続く来賓の挨拶も同じ趣旨の言葉が続いた。
各ポジション代表が同じことをいうという事は、町長と違うことを言うことが出来ない坊津町のシステムの硬直した姿を見せているのかもしれないと感じた。
だが、さらに挨拶の中に軍国時代の感覚を持った言葉さえ出てきたのには驚いた。消防団長の答辞では、警防団と消防団の違いを認識していない、時代錯誤の意識さえも存在することを知らされた。
出初め式の後、分団詰め所で反省会が行われた。当時の坊分団の詰め所は中坊の元警防会館にあり、会館内には二台の可搬消防ポンプが手車に乗せられて置かれていた。その外に手車のない可搬ポンプが1台あった。
分団員は、装備されている器材を十分に使いこなすことすら出来ていない状態にあった。それは後で述べるがこの反省会の会話の中で、ひしひしと感じられた。この会館には消防用のサイレンがあり、サイレンが正常に作動するかどうかを確認することを兼ねて、6時・8時・10時・12時・1時・3時・5時・7時にサイレンを吹鳴していた。そのサイレンを吹鳴する電源スイッチをいれる仕事を元坊津町消防団長であった榊
格志氏が名誉職のように住み込みで行ってた。
当時の消防団員は、健一・泰二・寿一・幸男・正木・井手・一雄・誓・竜内・仲蔵・喜晴たちがいた。弥四郎・重吉たちは出稼ぎに行って1年の大半は不在であった。在籍しながら顔を見ないままの団員が相当いた。そのため、顔が思い出せない人がいる。
分団長が健一氏・寿一氏であった時はまだマシであった。次の分団長の時代は全くの無責任時代であった。副分団長(宮田 馨)任せで、訓練には一度も来ず、団長が見るに見かねて催促すると、皮靴姿で現われ、団員の怒りを買い、団長に忙しい時に何の訓練かと文句を言う始末であった。
消防ポンプの操作は副団長をしていた宮田 馨任せで日ごろ省みる人はなく、いざという時には起動がスムースに行かず、筒先を持った人間はなかなか出ない水に地団太を踏む状態にあった。馳せ参じるといえば聞こえはいいが、野良にいた人間が分団詰め所に集合して重い手車を押して火事場に駆けつけるまでには、2,3軒は燃え落ちてもおかしくない状態であった。当時、ポンプを運ぶのが4人以上いないと動かせない状態であった。高齢団員にとって、過酷な出動であった。
そうした中で起きた火災では、素早い行動には、住民の協力が不可欠であった。それが裏目になった事がある。1958年頃おきた龍巌寺の書院の焼失火災では、ポンプがすぐには起動できず、延長された消防ホースが階段の傾斜を使って行われていたため繋ぎの口金が逆向きで、それの引き直しに時間がかかり、放水に手間取って焼失を押さえられなかったとの事であった。その時は、本堂への延焼だけは渡り廊下の破壊消防という原始的方法で食い止めることが出来た。
また、火災の消火に当たっての基本知識が無い事も、詰め所での反省会で明らかになった。輻射熱の知識が無い事を感じた。水蒸気による熱遮断、防護の知識が無く、延焼を防ぐ操作が無いまま、燃えている建物にだけ注水している江戸以来の貧しい消防の姿が見えてきた。
消防設備の定期的な点検と消防ポンプの起動テストは常に行っていなければならないものである。それを疎かにした時に火災は発生する。火災の発生現場では全員が殺気立って行動する。そして、装備が正常に作動することを前提にして筒先を持ったものは危険の中に身を晒している。どの一つが欠けても命を懸けた消火活動は成り立たないのである。ポンプが始動出来なければ、全員が浮き足立って行動が地に付いた動きを失い、怪我をし易くなる。消火の基本は到着と同時に起動出来るポンプとホースの接続完了と同時に放水が出来る事にある。
私はそうした考えで消防団活動を見ていたので、ポンプがいつ掛けても必ず一発で起動できる状態をすることを実現する役目を呉れるように求めた。その担当は機関員が担っていた。
以後、長い間、私の役割は機関員であった。5日から1週間刻みで、坊分団に配備されている、すべてのエンジンを動かすようにした。バッテリーが上がっていても起動できる状態を保っていた。それは語るは易くして、根気のいることではあった。仕事の都合で点検予定の日から2日も間があくと、掛からなかった時の恐怖がのしかかってきた。
その恐怖の元は、小学校の時の坊の浜の「アンダンどんの下(阿弥陀堂下)火災」(お袈裟婆の火事)であった。火元はお袈裟おばあさんの家という事であったが、原因は「ルース台風」の災害復旧事業として、公営住宅が建てられたが、その住宅を建てた時に釜戸の近くの床梁が、セメントの使用量を減らす為に、規定位置で切断してなかった為に、かまどの中近くまで伸びた床梁がセメントで覆われた中で炭化が起こり、発火したものである事が現場検証と、その後の火災原因追求の発火実験で確認された。過去にも大火があった時、火元になった人であったが、不名誉をすすぐ事になった。
出火時間は早かったが、貧弱な消火設備で急傾斜地に張り付くように建てられた家は火が燃え盛るにつれて風を呼び、坂を吹き上げる風は火の粉を高く巻き上げ、上之坊と火災現場との間の175mの山を越えて火の粉が飛んできた。後に坊の岬まで火の粉に追われて逃げた人達がいた事を生徒同士の話で知ったが、確かに火の粉は岬までも届いていた。草切りに行った時にその時の火の粉が火災現場から広がって落ちている事を確かめた事がある。
吾が祖父母と母は、山越の飛び火火災が起きる事を心配して私たちを起こし、非難用に着せ替えさせた。公民館の庭に上がって山越に舞い耀る火の粉を見上げて震えた。この火災では、62軒が燃えた。同じ恐怖の思い出を作ってはならなかった。幼い目には戦争以来の恐怖であった。
消防団員として、真っ先にしなければならない事は、消防技術を習得する事であった。消防学校に行ってくれないかと副団長の宮田 馨氏から声が掛かった。一も二もなかった。消防技術について自分が知らない事が無い様にしたかった。
消防学校に行って驚いた事は、「坊分団か、初めてだねえ。」と言われた事であった。今まで誰も消防学校に行っていなかったのかと屈辱の思いであった。群集としての分団状態で捨て置かれていたのだ。火の性質も知らない状態で呆然とした思いで火に水を掛けるしかなかったのだ。燃え広がる火事の原因が分からなかった筈である。消防学校での訓練が終わった時、本当に涙が出た。
当時の消防学校の教官は知覧町出身の塗木氏であった。私は一人呼ばれて、「坊の火事を覚えているかい。私たちも行ったよ。坊津を守る為に頑張って欲しい。今は貧弱な体制で、心細いと思うが、必ず、後に続く者が出てくる。一人だと思うなよ。」と励まされた。
当時、総務課の防災事務担当であった林 安治氏が言った「上村君、頑張ってくれ、坊分団を住民が安心して頼れるレベルの分団になるまで、育てて欲しい。」言葉の意味が分かるようであった。
この林 安治氏で思い出すのは、消防に関してたった一度だけ涙を流した事件があった。40年頃坊津町久志の役場の隣りの久志中学校グランドで消坊学校から教官が来られて消防操法の現地講習が行われた時、坊分団の招集で集合したのは宮田副団長以下3名であった。分団長の長谷 竜内は副分団長が2回も呼びに言って漸く出てきた。集合時刻はとうに過ぎていた。3人は漁協の車を借りで乗り、私は単車で久志に向かって出発した。久志に着いた時、当然であるが現地講習は既に始まっていた。私は幹部達の後ろに並ぶつもりで物陰から先に出た幹部を探すが見えない。そのうちに、林 安治氏が気づいて呼びに来た。幹部達は着いていないという。仕方なく、他の分団の後ろに並んで講習を見ていた。
林 安治氏は幹部達が事故に合っていない事を確かめる為に連絡を取りに役場に走って行った。後で聞くと、分団長は家に戻っており、時間に遅れて小人数で行くのは恥ずかしいので途中から引き返したのだという事であった。遅れたのは自分の不始末。こんなルーズな人間が危険な場所での采配を振るうのかと思うと情けなかった。消火中に怪我でもしたら、指示もしないのに勝手にやった事だと言われそうに思えた。現地講習の帰りの単車の上で単車を止めて泣いた。声が出るのを堪えられなかった。坊地区の人々がかわいそうであった。信頼を置いている消防の幹部が自分の体裁だけで行動している姿。誰が想像するだろうか。「よし、自分一人は地区民を裏切らない消防人になろう。人の事は言うまい。たったひとりのしょうぼうだんとおもえばきもはれる」と思い直し決心し、行動だけで現わした。
・ ずんだれ分団長が一期で辞めた後を継いだ宮田馨分団長の時に、坊分団は見違えるようにちゃんとした分団になった。集まっても烏合の衆であった分団が、統制の取れた集団行動が出来る分団に変わっていった。矢張り、消防団は、その基本において規律ある集団行動が出来て、初めて息を合わせた命懸けの現場行動が取れるのであると思う。
宮田 馨氏が分団長を竹内高志氏にバトンタッチした後、退団したいと言った時、私は反対した。「平ででも残れ。そして坊津町消防団の副団長になれ。それだけの事をやってきた人間である事を私が証明する。」と他の団員の言葉を制止して慰留した。なぜ、平の団員の私が強力に主張するのか、他の団員はこの言葉の意味が分からなかったようであるが、私は日陰の存在として活動した彼の苦労に報いてやりたかった。当時、彼は漁協問題で、非難されて、厳しい立場に置かれていた。しかし、それと消防団活動とは別であった。彼は私が入団して以来の年月を消防団がまともに機能するように誠実に尽力した。私がホンプ等の綿密な点検作業をしていたから、良く見ていた確信があったのだ。口だけではない消防団員の固い結束を培う為に本当に地道な活動をしていたのではない。
過去の事を書いて現在を書かなければ片手落ちになる。宮田馨の跡は青野太知雄が分団長となり、現在は巻木茂男が分団長になった。現在の坊分団は、責任を果たせる状態になっている。過去の不甲斐ない状態は存在しない。筵、私が病気になって引退を考える時が来た。今なお留まっているのは、昼間の火災発生時に居住地にいる団員が少ない事が懸念となっている事である。
坊津町消防団全体では完璧とは言えないが、高い消防力を持っている。一人一人の消防力が高くなっている。チームワークも過去においては個人的非難が存在したりして、ギクシャクした所があったが、会議においてこの点を指摘し、「消防団は職場の延長ではなく、消防団の階級の中での指揮で行動し、職場とは別の世界を作って協力し合って、お互いに守られている信頼に基づいて行動し、支援しようではないか。」と問いかけた。これを機に、お互いを思いやり、励ます雰囲気が全体を充実させている。
漸く、夢に見ていた消防人の結束が生まれていると言える状態まで成長したのだと思う。あの涙で立ち往生して走れなかった道尻の情景はなくなったのだ。消防団活動を安心して去れる時が来ていると思う。
長浜 純一郎分団長の死
坊分断の分団長、長浜純一郎君が亡くなった。純一郎君は、父親の長浜健一氏が退団することになり、その後に消防団に入団する人が宛がないことから、息子を入団させることで退団を了承してくれと言うことで、消防団に入り、以来、本当に真面目すぎるほど真面目に尽くしてきた。
私とは、ホゼ祭りで私と二人で親太鼓を20年に亘って叩いて来た仲であった。私が長谷竜内と喧嘩して止めるとき、太鼓を叩いていた他の者も止めると言ったが、純一郎君に止めないで継続して欲しいと後を託して、みんなを纏めて貰った。
こうして、続けてきた町の振興のための目立たない部分の支えに身を尽くしてきたことを、理解し合っていた間柄であった。その為、辞める積もりでいた私に、2001年の暮れまで頑張ってくれ。そして、一緒に辞めようと約束していた。それが、先に思いもしない純一郎君の急死で、私は取り残されてしまった。
恐らく、坊津町で一番分かり合えていた人間であったと思う。俺だけに、ショックが大きく動けなかった。
思えば、最後の出初めが済んで、反省会も終わって解散した時に、『純一郎君、体は大丈夫かい。無理しているよ。』と訪ねたが、『まあ、何とかなあ。ただ、振り向いた時にフラーッとするのがあり。後で暇を作って行きたい。その時は頼む。』と答えた。私は、『残り時間はないよ。今ここで治そうか。』と話したが、そのままになった。喉の下の腫れが気に掛かっていた。
やはり、それが原因であった。通夜の夜の彼の寝姿は、そのことを強く示していた。
火事場の経験は、都市部の消防団員と違って、地方の消防団員では意外に少ないものである。ただ、年柄というようなものがあって、多い年は立て続けにサイレンが鳴るが、少ない時は、ぴたりと止まる。それゆえ、火事場の経験は教訓として残すべきであると思うが、記録される事はない。
消火活動に参加した者が、それぞれの消火を行った持ち場から見た消火活動が記録されて、後輩に教訓として残されるべきなのに、個人毎の敬謙に埋没していくのである。
戦争の時もそうであったように、一切の経験が個人の中に閉じ込められて、グループの財産として蓄積される工夫が存在していない。
そのため教訓が将来に生かされることがない。消しっぱなしなのである。各ポジションで、どういう行動があり、どういう現象が発生して、消火に当たってどんな問題点があったか。後から考えてみてもっと良い方法はなかったか。その現場でそれが出来なかったのは何故か。器材や人の配置などを検討する機会は全く無い。
慰労会はあるが、そうした観点から検討を行うばとしては認識されていない。そのため、私は火災沈下後に、声を大にして、火災現場での問題を幹部に言いつらう様にしている。それが幹部会で論議されている。それはおかしいと思う。システムとしての消火体制や器材の使用方法などについても、工夫が聞こえてこないのである。記録に残して行く事が体制として必要である。教訓が全く残らないままであるという事は、失敗が繰り返される事を暗に示していると言える。
過去の教訓を最も必要とし、求めているのは消防団に入ったばかりの時である。その時にどれだけの過去の教訓を自分の中に取り入れて持っているか。自分自身が火災という物理現象に直面して、どう取り組めば最小限の損害で消し止められるか。全ては蓄積している知識の差となって答えは火災現場で出される。消防に関わるものは、全ての現場で試験をされ続けている。
火事の本質は「燃焼」という科学現象にすぎず、「燃焼の三要素」の一つを取り去れば火災は沈下するのであるが、火災にあった者は一生の蓄積を失う悲惨と生命さえも失う危険の可能性の中で、的確な行動をしなければならない消防人は、器材の準備とそれを動かす機能能力と共に、心の準備も必要であるように思う。
火災現場には同じものはない。条件の組み合わせは、全部違っているが、微分的視野と積分的視野を組み合わせ、指揮する者と火災に立ち向かう者が、どの組み合わせを使うか、使っているかを分かり合っていなければならないのである。
火災に立ち向かっている者には微分的視野で見ているので、自分の目の前で起きている事だけしか見えない。それ以外の条件の変化は見えないのである。火災が大きくなると、この傾向は更に拡大する。
・ 指揮を執っている者は、積分的視野で状況を見入るが、局部現象は見えにくくなる。
建物火災で、最も先に確認される事は、人命の救助である。最近は私たち消防団が駆け付ける前に、常設消防職員が、現場に着いているので、消防団の配置は指示に従って動く事が多くなった。
それと消火栓を維持する町水道の配管が、ビニール配管に変えられて給水能力が高くなり、錆だらけの鋳鉄配管時代のように消火栓に繋いだ消防ホースが人が踏んだだけで潰れて水が止まるような事もなくなった。上之坊の上のタンクを消防水利として再活用する工事が完了した時は、防火水利は踏んでも潰れなかったが、水道の水利は軽く踏んだだけ潰れて出水が止まる状態であった。
海難事故が起きる時
坊津は海難事故の多い所である。暫く無かったが、やはり年に2回程度はあると考えている。海難事故が発生する時、共通した特有の気象状況がある。はるか遠くを熱帯性低気圧が通った後である。遙か遠くの海面が風で叩かれたとき、非常に周期の長い波が生まれ、想像を超える距離を伝わって渚に打ち寄せる。しかも、岸辺に白波がない。
海難事故が起きたとき、地元の漁業関係者の口から出てくる言葉は決まっている。
「馬鹿かい。こんな日に海に行く奴が居るかい。瀬の端に行く奴の気が知れん。」
軽蔑の言葉である。同情の言葉はない。
勿論、消防団は、要請があれば、救助活動はする。
しかし、火災の場合と違って、活動によって生きて来るものはない。消防団が活動を開始するまでに、空しい時間が経過し過ぎているのである。
事故が起きてから、早く、連絡が取れれば、救助が間に合うこともあるが、今までは海岸までの険しい道を登って、車の所まで辿り着き、最寄りの家まで連絡を取りに行くまでに1時間半以上掛かっていた。釣りに行くときは、山の上の道路から磯まで行くのは、どんな険しい道も下り坂なので、時間が掛からない。しかし、道路に戻るときは、殆ど全部が登り坂である。この時の体力消耗は想像を絶するものである。
現在は、携帯電話が坊津の海岸でも通話区域になったので、海難事故の連絡が早くなり、助かることが多くなった。
今日、1999年8月11日も海難事故があって、一人死亡している。たまたま、通りかかった漁船が一人を救助し、一人は上がっている岩場に近づくことが出来ず、携帯電話で連絡して、消防が動き、県の防災ヘリコプターが出動して救助されている。
救助した船は、坊津町久志浦付近で活動している漁船であるので、瀬の際まで寄ることが出来るのに救助が出来なかったと言うことは、海面の上下が大きかったことを意味しており、表面からは波立ちが見えない大きな波が岩場に寄せていたと言うことを物語っている。
事故が起きるとき、共通のもの。これである。
磯に大きい波が打ち寄せているときだけが、波が荒いのではない。表面には見えない、波の強い状態があるのである。海面より100m位高いところから見ると、良く見分けられる現象がある。
普通の時の海は、坊津であれば、黒潮であるので、一面青黒い海であり、波打ち際が打ち寄せる波の時だけ白くなっている。それ以外の時は、全部が海の色一色である。
しかし、海難事故があるときは、波立っていないのに、海岸から海底に向かって20m位が白くなっている。この日は、激しい引き波が寄せているのである。だから、浜辺では全ての物が海の底に引きづり込まれる力が働いている。表面は穏やかであるのに、水面下では、沖に向かう力が掛かっている。特徴的な現象は、海の中で、石がカラカラと音を立てて動いていて、水に入ると、耳が圧迫される感じがする。近くの石が動いているときは高い音が主になって聞こえるが、遠くの石が動いているときは、高い音は吸収されて、低いゴトゴトという音だけが聞こえる。水に足だけ浸けていても、その動きが低い震動として聞こえている。
砂浜であれば、足の下の砂が足を掬うように掻き取られていく。
そういう場所で水に入ってはいけないのである。もし入ったら、ここに書いた現象に気づいたところで水から上がることである。もし、足が立たない所まで出ていたら、立ち泳ぎをしてはいけない。立ち泳ぎをすると沖に向かう水面下の流れが諸に掛かる。出来るだけ、水面近くの海岸に向かっての流れだけを味方にして手が海底を捕らえるまで、出来れば胸が着くまで泳ぐ方がいい。
浅くなったと思って立ち上がると、打ち寄せた波に足を取られて、揉まれて方向感覚が無くなる。そして、遠浅になっていることが多いので、ますます、慌てることになる。
釣りに行っていて、転落した場合は、転落して場所に上がることは出来ない。転落した場所では、波の上げ下げの落差は2m位ある。もし、運良く高いところに手が掛かったとして、足で支えることが出来ないままで押し上げる力が消えて、瞬間出来に2m引き下げる力が掛かるのと同じである。。
それだけではない。海岸線の波打ち際付近は、瀬牡蛎と呼ばれる鋸の歯の列のような牡蛎がびっしりと並んでいる。子供の時、子供会で海水浴に行って、引き潮が強いと判断して、海水浴を止めて遊んでいたとき、水泳の上手な青年が遠くから泳いできて、牡蛎の岩場に上がろうとしたので、浜に廻った方が良いと叫んだが、そのまま上がってきた。牡蛎の岩場で何度も揉まれて、波が弱くなって上がれたが、全身傷だらけであった。傾斜が10度くらいの緩やかな岩場でさえ、この状態なのである。
岩場で落ちたら、遠くに見えていても、浜辺に向かって泳ぐ事である。どうせ落ちて助からない命である。浜まで泳げたとすれば、儲け物である。岩場では海底に向かって動く潮が、浜に向かえば波が渚へ運んでいってくれる。助かることを急がないで、藻屑のように自然の一部になって助かる時を待つ気持ちを持てば、助かるときが向こうから来る。
落ちた場所で上がろうと藻掻きながら立ち泳ぎをすると、足から海の底に向かって引き込まれる力を感じることになる。それは恐ろしい現象である。冷たい物が、身体を這い登ってくる感じで浮き上がろうとする身体を羽交い締めにする現象である。その時は、出来るだけ息を吸い込んで数回繰り返し、水中に向かうのである。そうすると、冷たい海水があることが判る。ゾクゾクとする冷たさが感じられるが、暫くすると慣れる。息を止めたまま、引く力の方向に向かって進むこと。力に逆らえば、酸素消費が増えて疲労が増すが、身体に掛かっている力のままに、行けば酸素の消費を少なく出来るので呼吸を止めていると暫く苦しいが、それを過ぎると呼吸をしなくても苦しくなくなる。やがて必ず浮き、呼吸が出来るようになる。浮いたところから逆に海面に向かう力が働き始める。その力に従えば、良い。
急かずに浜の方に向かうことだ。そうすれば、渚は向こうから近づいてくる。浜でも波打ち際まで立たないで、そこが浅瀬であったら、高くに寄せてられたら次に来る波で、もっと上まで運ばれるようにしてから立ち上がるようにする。そうすれば長く漂流していても必ず助かれる。
坊津の釣りに適した海岸線は、波打ち際から殆ど真っ直ぐの感じで40m位まで深く行っている。その先の水深は平らな砂の部分があるらしい。ここは朝日蟹の捕れるところである。
遭難した遺体を引き揚げるとき、殆ど岩場近くであるのに、30mを越えていて、潜水する人が時間を掛けて浮上してくるのであるが、耳や鼻から血を出しながら、水面に顔を出すのであった。
消防団で水難事故犠牲者を船に挙げるときは、殆ど私が引き受けていたが、この時、潜って下さる方には、本当に頭が下がる思いであった。団員である私達以上に、遺体を遺族に返して上げたいという使命に燃えておられた。それでなければ、一本のボンベでは保たないと言って、換えボンベを抱いて潜り、水中深くでボンベを付け替えて装着し直して、遺体に綱を掛ける仕事は果たされないことと思う。
この方は、体をこわして亡くなられた。
今は、団員である私の同級生が引き受けてくれているが、昨年の捜索が堪えたのであろう。失明の危険状態の陥り、やはり、身体を痛めている。遺体を捜すとき、どうしても限界を超えていくのである。これだけの犠牲を強いることを知ってほしい。
海難事故の原因は、無謀な自分の行動が原因である。同情する人はいない。みんな、無言の腹を立てながら、要請に応えているのである。状況を見て引き返す能力こそが必要なのである。
足を水に浸けたとき、海が命をねらっていることを知ってほしい。海が爪を研いでいる時、そのシグナルは聞こえている。
山での炭酸ガス中毒について
梅雨明け直後が一番危ない
雨上がり後の湿度の高い気象状況
落ち葉が深く積もった窪地で起きる
植物腐敗で起きる炭酸ガス毒で窒息死
その時、自覚すること
私の回避策=息を止めて窪地を出る
炭酸ガスによる中毒について、テレビ番組「Xファイル1999.7.4」で取り上げていたので、私が体験したことを紹介しておきましょう。
釣り人が海に転落したことから、消防団活動として、捜索に参加したときである。この時、私は遠くから来た予約患者を抱えていたので、早朝からの捜索活動に参加できず、遠来の一人だけを施術して、後から捜索に参加した。
時間的に遅れていたので、海岸におりるための山道を歩いていく行程は遠すぎて、時間的に捜索に加われず、海岸側から行く道筋を選んだ。自宅を出発する前に、捜索活動に加わることと海岸線を辿る単独行動をとることを捜索本部に伝え、自分は捜索本部が出す通信を傍受できるラジオを携帯している旨を伝えておいた。後は完全に単独の行動になった。
転落したと思われる場所は、笠瀬という急峻な岩場の下にあり、この付近は、主に上之坊の人間の行動エリアである。勿論、私自身の子供の時からの草刈り場であり、付近の地理には詳しいつもりである。
ここの海岸は、特異な性質を持っている。乾燥しているときは普通であるが、水に濡れると滑りやすくなって、海水面からは上がれないのである。滑らない藁草履を履いていても滑り角度が違う。だから、瀬から瀬に飛び移ることは出来ない。引き潮になったばかりの頃は、完全に乾いていないため、うっかり乗ると滑る。そういう危険な海岸なのである。
そういうこともあって、海岸を進み、先の団員と合流する積もりであった。しかし、当時刻、車で接近できる場所に到達した時、海面にあぶくが浮き始めて、海は満ち潮になる直前の潮の様子であった。
車を降りて海岸の岩場に取り付いた時、潮が満ち潮に向かって動き始めていた。困難な岩場の迂回に時間をとられながら、「小塩が浦」の岩場を廻ったとき、既に消防団員と合流できる為に越えなければならない岩の取り付き部分の足場石が波に隠れ始めていた。そこが浸かると、その先にあるオーバーハングを越えることが出来ないので、合流を諦めて、あらゆる漂流物が打ち寄せる「小塩が浦」の海面を監視することにした。消防団が捜索本部と通信している状況は、中継している消防車の通信と共に聞こえていた。
昼過ぎになって、捜索を打ち切る連絡が、捜索本部から伝えられた。消防団員は引き上げる様にという通信を聞いて、私も引き上げることにした。既に満潮になっていたので、直接海岸を通って車の所に行くことは出来ず、「小塩が浦」の山道を通って山越えをして戻ろうと考えた。
山道は深い斜面の谷を通って尾根に出る経路の状態になっていた。通る人が少なくなった山道は、倒木と落葉が積もり、柔らかい感触が長靴を透して感じられた。酸欠ガスの予想をしながら、呼吸の仕方を浅めにして歩いていた。梅雨明け前の湿度の高い真昼の山の中は風がなく、非常に蒸し暑かった。窪地を通過している最中に息苦しさを感じた。
咄嗟に判断したことは、一応念頭に置いていた植物質の酸化による酸素欠乏と炭酸ガス中毒であった。
息を止めて、斜め上に、空気が動く海側の方向に出来るだけ近づくように、酸素消費が多くなる早い動きをしないで、ゆっくりと行動して歩いた。落葉がない、林が少し開いた所まで抜けて、大きく息をした。
すると、今まで、背中にのし掛かるように感じていた重さが薄らいできた。さらに山の尾根を目指して登った。
尾根に出て、何度も深呼吸をした。しかし、頭がさえなくなった感じがとれないので、尾根沿いに海岸の上まで急いだ。海風を受けながら暫く休んだ。
無風の日でも、海から吹き上げる風はあり、微かに上昇気流を感じた。
座っている間、俺がここで死んでも誰も捜し出せないだろう事と、梅雨明け寸前の湿気が多い山の中は、炭酸ガスが多く、危険なのだということを痛感した。無風状態であったので、窪地には炭酸ガスが停滞しているであろう事の知識があったので、事故を回避できたが、致死量のガス濃度ではないにしても、二酸化炭素濃度が高い状態にあるため、長時間の山歩きが判断力や身体の耐久力を低下させている可能性が高いだろう事を感じた。
この事が、脳細胞の破壊を起こし、この後に岡山市の吉備SAで、車中、天火に焙られながら、脱水状態で寝てしまったことなどが重なって、現在の脳梗塞の引き金にになったかなとも思う。
2002.1.3の坊ノ浜・谷頭の火災
2002年は、坊分団にとって、痛ましい火災での年明けとなった。火災が発生した事を知ったのは、かねてから傍受している消防無線の交信からであった。防災無線がない家である事と、上之坊では防災無線の野外放送が聞こえない事から非常時に出遅れる事があり、広帯域受信機を使って消防無線を傍受して出動の事態に備えていた。
この前夜、私は3時半まで甥の上村優と長男達観の正体をした後に就寝していた。4時半過ぎ、受信機から消防出動の無線が聞こえて目が覚め、救急車でなく消防車のサイレンが鳴ったので、もしかするとと思って起き出した。出動に備えて消防服を着ていると、やはり、坊地区への出動である事を示す地名が交信会話に入っていた。
谷頭である事を交信で確認していたので、火災現場には車が使えないので駆けて行くしかなかった。長い駆け足になる事から、水をガブ飲みに飲んで、走り出した。急傾斜地で足場が悪いところであるので被害が大きくなる事を考えた。阿伽講の神様の所に下った頃には足が縺れる感じがした。かねての運動不足が効いた。高見の階段を這うようにして駆け上がった。この時、誰かが名前を呼んだように思った。優だった。見向きもせず、現場に走った。阿弥陀さんの屋敷を過ぎると猛烈な風に煽られて火の粉が舞っていた。
松岡部長が筒先を握って延焼している奥村清一郎方の上から注水の体制を取りつつあった。2人が補助に付いていた。延長した線に向かって「放水始め。」と叫んだ。私はホースを伝って、ポンプの方向に駆け下った行った。非常に足場の悪い場所にポンプはあり、一線の放水が始まっていた。谷頭防火用水のポンプの場所には谷上学がいた。松岡部長のホースに水を通すためには「双行金具」が必要であった。双行金具はポンプ室にはなかった。双行金具が消防車にはないかを探しに谷頭の交差点に行った。現場交差点は消防車は上がれなかったようで、入っておらず、浜まで取りに行かなければならない状況であった。浜に向かって降りようとした時、谷上分団長が単車で坂を上がってきた。後ろの籠の中のあるというので、覗くとあった。双行金具を取り、「金具を取り付ける間、水を止めるから、筒先にそう伝えてくれ。」と言って、『ここで必要なものは自動車ではなく、単車しか通用しない事をよく見抜いていたなあ。仲八郎も、さすがに分団長になった自覚の証左だ』と一人納得しながら、暗い谷に降りていった。駆け回って疲れた足には辛い坂である。キャップランプは付けてきたが、足場が
悪く機敏な動作など出来る状況ではない。転ばない事だけに集中して、ポンプの所に到達した。
「学、水を止めて2線放水にしよう。」と言うと、「そのホースは破れているから駄目ですよ。」と言う。「そうかい。でも、今は何でもいい。水だ。今は、噴水状態であろうと、兎に角、待っている筒先に水を送る事だ。水を送らないと筒先は燃えている現場のすぐ近くにいるから、彼らが危険になる。まず、水を送ろう。その後は、後から考えよう。」と言って、送水を止めさせた。送っていたホースを外したが、上に向かって伸びているホースから水が戻ってきて、二人は水を浴びてしまった。しかし、怯んでいる暇がない。すぐに双行金具を装着し、外したホースと延長していた2線目のホースを装着して送水を再開した。瞑れていたホースに水が入り、圧力が上がると、繋ぎ口から水が漏れ出した。パッキンが経年変化で用をなしていないのだ。私が機関員であった時は、3年に一回の割合でパッキンの交換をしていたのだが、替わった機関員が保守点検をしていなかったようだ。反対側の繋ぎ口の状態を確認しに坂を上っていく。ホース自体が学機関員が行ったようにホース本体の途中も相当の漏水が起きて噴水状態になっている。交換する事を考えたが火勢を見上げると、送水を中断できる状況
ではない。
しかし、余りにも漏水が多すぎたので、機を見てホースを交換する事を考えて、浜から上がってきた枕崎消防本部の消防職員が背負っていたホースから、送水中のホースに沿わせて展長し、一本を借りて延長して、いつでも切り替えられるように備えた。
漏水が多いため、エンジンは全速に近い状態であるのに、5kgしか上がっていない。全速にしてみたが上がらないので、元に戻した。おそらく、30mほどの落差の中では、筒先では圧力が足りないと言っているだろうと想像した。ポンプにしてみれば、急傾斜の場で、3線放水をしているのに等しい揚水量であった。
防火用水タンクには、後30分は保たない水量しかなくなった。何回か、消火の具合と残り水量を確認していたが、強風の中での火災であるので消火が手間取り水はだんだん少なくなってきた。「学、水が確保できない。誰か、分遣所の者に残りの水が十分ないと伝えてきてくれ。」と言った。『どうすれば良いの。』と聞かれた。「昔ねえ、ここは2回大火があってね。その2回目の大火の時、水がなくて手の施しようがなかった時、枕崎から応援に来てくれた消防車が海岸の波打ち際まで降りて海水を汲み上げ゛、その水を燃えている場所の近くの壺んこまで上げて、そのタンクからポンプで放水し、消し止めたそうだ。坊津には最後には海があるのよ。」と答えると、『ふーん、そんな事があったのか。分かった。連絡してくるから、ここに居って下さい。』と言って、連絡に行った。
40tの水が尽きるまでに3回、ポンプが送水不能現象を起こした。原因は何だろうかと観察すると、放水口から湯気が上がっていた。ポンプが送水能力を超えて運転し続けているため、エンジンが過熱しているので、送水している水でも冷却しきれないのだろう。この現象は、昭和44年に消防学校に行った時、教官であった知覧町の塗木氏(当時は知覧町消防団の副団長であった。後に鹿児島県農業中央会長になって在職中に急逝された)が、『大火になった時は、長時間運転でポンプから日が出る事もある。そうならないようにポンプから目を離さないように。』と言われた事があったのを思い出した。傍に来た団員が『手を出さずに、そのまま措いた方が良くないか。』と言ったので、『この時は、水を出し続けないとポンプが壊れるんだ。ポンプが過熱してポンプ内で蒸気が発生して揚水能力を失うのが原因だから、放置すると空焚き状態になって、あっという間に壊れるよ。真空がなくなっているのだから、ポンプ内の空気を排除して水を呼ばないといけないのさ。』と説明した。
その団員がポンプの所に来たと言う事は、火災が下火になって、消火のための人員が余裕がある状況になっている事を示した。水が切れた時、ちょうど海から上げた海水が届いた。これを直結せず、防火用水タンクに入れてそれを吸い上げる方法を取った。直結しなかった理由は、直結すると圧力調整が難しい事にあった。標高差とホースの延長数が多いので、スムーズな消火が維持できるとは思えなかった。一応、直結する事も考えて、必要な金具交換の手筈も確認した。連絡用の無線機がなく、連絡がスムーズに行かない事も考え、タンク中継で送水を再開した。僅かの送水中断で済んだ。すでに残り火の消火だけになっていた。放水止めの連絡が来たのは、放水開始から1時間40分以上が経過していた。水が切れる頃、先に燃料が切れかけ、補充した。
谷頭の配置ポンプが3ヶ月前に新しい物に換えられていて良かった。古いポンプであったら、完全に壊れていただろう。
なぜ、ホースが痛んでいたのか。疑問であった。送水している間に原因になる事は何か、思い当たる物を一つ一つ確認していった。ネズミの巣はない。巻いたまま延長されていないホースが棚に残っていた。そのホースの下に錆びた鎖があった。鉄錆がホースを腐食させて、所々から勢いよく漏水していた原因だったのだ。以前点検した時はなかった鉄鎖が、棚に載っていて、その上にホースをおいた事に原因があったと思われる。鉄錆はホースを痛めるのである。巻いてあるホースに等間隔に近い傷が付いていた事がこの事を物語っている。
火災によって、出火元の山下禎造氏とマス子さんが亡くなられた。また、奥村清一郎氏宅も全焼した。反省する事の多い火災であった。