青年期

淀川製鋼 市町村職員共済組合 鰹船の番頭 坊泊漁協事件
電子手帳の提言

 私の青年期の始まりは、18歳の高校卒業の時に置いた方がいいのではないかと思う。その時期は、猛烈なチャージングの時期であった。人生を見晴るかす時を迎えて、自分が修得し得た蓄積が十分でないことの自覚が、猛烈に起きていた。知識の飢餓である。
 それで居て、今までに修得した知識で何が判断できるのかを試してみたい欲求もあった。

淀川製鋼の野村さんとの出会い
 淀川製鋼に入社して、配属された職場は鍍金課の整備部であった。この職場は、普通の生産ラインの業務ではなく、生産ラインの保守・整備の仕事であった。従って、一般的な会社勤めとは違った就業スタイルであった。慣れるまでの間は、8時〜5時の就業形態で始まり、3ヶ月後から、6時〜6時の勤務形態に変わった。形式的には、12時間労働でたる。
 こう言えば、過酷な労働状況を想像されるであろう。しかし、そんな物ではなかった。1週間の中にリズムがあって、忙しい日は、殺人的スケジュール、暇な日は社長に申し訳ない暇なスケジュール、これが繰り返しているのである。

市町村共済組合時代
 1963年2月1日から鹿児島県市町村共済組合の事務局に勤務することになった。切欠は、鳥越ポンカン生産組合の設立の説明会で町長と知り合ったことであった。この設立の説明会は、農協長の中村初め・県会議員の有馬光雄なども顔を連ねていた。

鰹船の番頭時代
 時代と言うほどに長い期間、番頭をしていた訳ではない。
 ただ、鰹船経営が、大変革期に当たっている時に、番頭になったことを書きたい。
 とにかく、大変な時期であった。先ず、大不漁の時期であった。少しでもルーズな経営をした船主は、悉く潰れて、堅実な経営に徹していた船主だけが、経営を維持していた。それらの経営者でさえも風前の灯火という感があった。そして、粗悪な船員が多くなっている時期であった。質のいい船員は、殆ど、不漁が続く鰹船を見限って、汽船に乗るようになっていた。汽船といっても300tから1000t程度の運搬船であるのが、殆どであった。しかし、汽船に乗り組めば、船長や機関長などの資格を持っていなくても、固定給が受け取れるようになり、家族の生活は安定するようになるので、鰹船の不安定な生活からの乗り換えを期待する者が多かった。
 残っている船員は、年を取った船員と、汽船に乗ることを誘って貰えない者と、家族のために坊津を離れられない者の比率が高くなっていた。必然的に船員の質が下がっていた。それでも、乗ってくれる船員が居れば、いい状態になっていた。
 鰹船の船員は、乗船期間は、一年づつの雇用契約になっており、船員側は自分の都合で辞めてしまう状態であった。船員を集めるのは、鰹船のリーダーである漁労長が一切の権限を持ち、船主が直接関わることなかった。
 私も、番頭の職を引き受けることになる時、船主との直接の関わり合いはなく、漁労長が番頭をしてくれないかと話しに来た。私は、当時、前任者が亡くなった鳥越ポンカン生産組合の事務を引き受けていた。それとの両立が出来ないと、不可能であることを話して、了解の元に、番頭をするようになった。
 引き受けたことには、理由があった。
 小学校五年生に時、私の大の友達は、長浜初輝君であった。二人の交友は今も続いているが、初輝君の家で遊んでいた時、当時、初輝君のお父さんは、坊泊漁業労働組合を組織して、確か、副組合長をしていたと思う。その組合運営について、自分達、起き出しの組合員が知らない内に、組合長が、勝手にいろいろ、話し合いを勧めていて、起き出しの組合員が知らない協定が増えていて、それに、組合員が縛られる事態が多くなっているとの話をしていた。それに困った番頭の松山さんが、どうすればいいのかと、相談に来ていた。そして、初輝君のお父さんに、組合長になって船員を救って欲しいと語っていたようであった。その時、初輝君のお父さんは、今は、俺も子育てで、生活が立ち行かなくなるので、引き受けることが出来ない。子供が大きくなったら、組合員に苦労をさせないでも、組合長を引き受ける事が出来るのだけどなあ。船主の言いなりになってしまう組合員が可愛そうでなあ。本当に済まないと思うよ。と、背を丸めて涙を流していたことが、胸に突き刺さっていた。
  そうした中で、鰹漁業の船員が、給料として貰うべき分が、船首側では貸し金として処理されていて、年末に取られていた分を半分持ちにする所まではこぎ着けたから、全額が、その漁期に置いて、給料とされるように交渉をしなければならないとも語っていた。
 だが、20年経ったときも、労使の関係は、そのままになっていたのである。番頭になる前に、たまたま鳥越ポンカン生産組合の用事である漁労長の家に言ったとき、漁労長が三人寄り合わせて雑談をしている時、行き会わせた。この時の漁労長達の嘆きも、長浜初次氏の時代の儘であった。俺達に、船主を言い込める話術があったら、もう少し、変えられるのだが、俺達は沖の事なら、何とかなるが、交渉事に弱いんだよなあ。ちゃんと話し合いをした積もりなのに、そうなっていないんだから、同じ事で10年以上掛かって、何にも変わっていない事ばかりだよ。と、嘆くので、漁労長は、船の上のスーパーマンじゃないのですか。と、聞くと、三人の漁労長が声を立てて大笑いした。俺達には、そんな権限はないよ。俺達が威張っているのは、船の上だけよ。と、三人が、同じ言葉で、笑った。その時、自分が鰹漁業に抱いていたイメージが違うことを知った。
 こうした、奴隷時代と変わらない鰹漁船員の生活を変革できたらなあというのが、願望としてあったが、現実の漁労組の組合員になる必要があった。番頭になるのは、船に乗って沖に出ることはないが、過酷な生活の一端を知ることはできた。番頭の仕事は、家に残った家族の世話に明け暮れることであった。私の場合は、最初から、出向準備中に怪我をした船員の傷病手当の請求書作成から始まった。
 


 不漁が続いていた秋口、船主である鮫島拓夫が、巌さん、12月から9月までの鰹漁業を見て、どう思うな。と、語り掛けて来たので、そうなあ、鰹漁業というのは、過去から現在までを集約すると「カッパ海老せん」みたいなものだよなあ。その心は、やめられない。止められない。止めたらバタン。共倒れ。いわば、坊泊の全船主のもたれ合いで辛うじて企業体の体面を保っているだけで、どこか一社潰れたら、全部が一緒に潰れてしまう状態でしょう。と、答えた。
 「カッパ海老せん」か。良いことを言うなあ。ズバリだわなあ。残念ながら、反論の余地ナシ。半年の経験で、そこまで言えるのか。
 だって、帳簿を見れば、丸見えでしょう。船主の手も見えちゃうでしょうが。後は、船主が博打をするかしないかの違いで、決まるわけだから。先代の鮫島弥一郎氏は、寄付もケチって、経営を続けることが出来た。後を引き継いだ鮫島拓夫がどうするか。私は、非常に関心を持ってみますよ。
 オイオイ、ここは、私の会社の事務所なんだから、もっと、聞いて心地よい話し方をして欲しいなあ。
 そうして欲しかったら、社長の椅子からでないで、座って話をしないと、今座っている、そこは、雑談用の椅子でしょう。その積もりで、その場所に移ったのでしょう。だから、私とは、労使の関係を離れた一般論として語っているのだから、私は、自由に喋りますよ。
 はっはっは、やられたなあ。しかし、そのままで、気楽に話を続けましょうよ。この「カッパ海老せん」の鰹漁業を、どうすればいいかなあ。自転車でなくて、自動車かそれに近い安定性のあるせめて三輪車位の安定性を持たせた状態に出来ませんかねえ。
 一番、手っ取り早いのは、鰹漁業から手を引いて、油屋業で細々と生きる道を選ぶことでしょう。その場合、糞ひっかぶいの拓夫といわれる事に耐える覚悟が要ります。大勢の漁船員が泣くことになります。それでも、鬼の拓夫になって、企業家としての生き残りを選択するか。その勇気があるか。逆に漁民の意識を変えて、漁業の形態を変える工夫をするか。もう一つの選択をするか。
 形態を変えるというのは、何の事かなあ。イメージが湧かないんだが。
 それは、私の持論ですよ。これが、坊津町の鰹漁業として、一番生き残れる確率が高く、リスクが少ないと思う。かつて、昭和41年に町長や漁協の組合長が、貯金の勧誘で、各部落を廻った時に、言ったことがある。近海漁業の再構築ですよ。今の鰹漁業は原料用鰹の供給業であって、消費者と直接繋がっていない。加工用原料の供給では、一次産業の一番惨めな形態で、利潤は、全て、二次加工業と、三次の販売業に収奪されている。鰹漁業は生かさず殺さずで、継続するだけの立場に張り付けられたままです。食料用鰹の生産であれば、工夫次第で、おいしい鰹を、直接販売することが出来る。消費者と直接繋がれるのです。そして、近海鰹漁業の良いところは、航海日数が短いので、価格がよい時に漁があっただけ持って、入港して、餌を持ったまま、海水の奇麗な坊の浦に入港して、トラックで市場に運べばいい。餌を捨てて、枕崎に入って運搬費用を節約しても良い。そこは、沖の漁模様とのにらみ合いですよ。
 その話は、当時の組合で、貯金勧誘の時に聞いた。自分でやればいいと遣り込めたような事を言っていたなあ。「カッパ海老せん」的今日の事態を考えると、方針の見直しの重要な提言だったかも知れないなあ。
 そうですよ。ガネ〔蟹〕は、自分の甲羅に合わせて穴を掘るのに、坊の船主は、自分の身体を世間の基準に会わせた穴を掘って、それに甲羅を合わせようとしている。だけど、急に甲羅を作れるものではないでしょう。
 確かに、合っているなあ。例えが良いなあ。だけど、やれるかなあ。
 近海漁業は、今しかやれる時期はないですよ。今なら、「水氷」で冷蔵する技術を持った人が、現役で残っています。しかし、五年経ったら、もう不可能です。技術の継続は、目に見えない技術の組み合わせで成り立っているものだから、その技術を持った人が、現役で居れる間に、次の世代に引き継がないと、目に見えない暗黙の技術が失われて、一塊りの技術としての受け渡しが出来ないですよ。鮫島石油店が、それをやれば、資金繰りも余裕が出来てくるのですから、みんなも真似をしますよ。そうすれば、航海が長いために、身体がきつくて辞めた年寄りが戻ってきます。これは、沢山の人が、近海漁業で漁に出たいと語ります。近海だったらなあとね。
 そうかなあ。そんなに願望があるのかなあ。
 年を取って、緊張力の維持が、長期間、継続できないのですよ。だから、下らないことで、喧嘩をするそうです。その原因が、緊張を継続できなくなることにあると、船員自身が、分析しています。
 じゃあ、考えてみる課題として、おきましょうか。
 さっき、もう一つの方法があるような言い方をしていたのは、何ですか。
 それは、金が掛かります。しかし、漁場が赤道直下で操業する状況になってきたためには、これしかない。
 何ですか。勿体が付いているところを見ると、大掛かりなんだな。
 そうですよ。これは、坊津町ぐるみで動かさないと、やれないと思う。坊津町の鰹漁業は、それだけの資金調達能力を持っていない。
 オイオイ、見限った物言いだなあ。
 だって、二千万円は掛かると思いますよ。遣り様に寄っては、半分でもいけると思うけど、古い船体では、危険が付いてくる。
 何をする訳。
 餌を活けていく生け簀を冷却する。
 ええっっ、どうしてやれるかなあ。
 簡単ですよ。鰹船には、冷却装置は元々装備として付いているのだから、流用でも可能なんです。ただ、今までは、釣り上げた鰹を貯蔵するために作動させるようになっていたから、動作温度範囲が、マイナス21度以下、いくらでも、機械の能力一杯に下げれば良かったのを、うんと高い、25度くらいの高さで、維持するように作動温度範囲を変えないと行けない。だから、冷却器を作動させっ放しであったのが、スイッチを入れたり切ったりする制御方式に換えないといけない。それと、冷凍機の冷媒がアンモニアであるので、僅かの漏れがあっても餌魚が死んでしまって、活けられないから、その点検が克明にされないと使えない。安易な気持ちではやれませんよ。
 それでもやれるかなあ。
 それだけの確認が出来た上で、生け簀の構造を変えないと活けません。先ず、今まで海水の交換を底からの自然流入方式でで遣っていたのを、仕切って、管理循環する様にして、直接取り入れない。
 それで、餌の雑魚は死なないかなあ。
 そこが鍵ですよ。今まで、餌が死ぬ時の海水温に鍵がある。原因を知りたくて、操業海域の全部の海水温を無線で送ってくれるように、漁労長と、無線長に頼んで置いたのです。だから、漁模様の後に水温と死滅率が入れてあったんです。
 訳の分からない数字は水温だったのか。同じ数字とだんだん多くなる数字がなんだろうと思っていた。それで。
 送られてきたデーターから見ると、28度までは大丈夫なんです。それが、29度になると、餌の死滅率が一挙に上昇しています。30度になると、一生け簀が三日持たないのです。ですから、南洋の海水温が32度あったとしても、4度下げていることが出来れば、良いのですよ。もっと下げられれば、それだけ、餌魚は長持ちします。それと、温度を下げれば、魚槽内での餌魚の活動量が下がりますよ。活動量が下がるという事は、当然、必要酸素量が低く押さえられる筈です。
 そうかあ。
 そうすると、餌魚の死滅率を下げることが出来れば、魚槽内が汚染する率が下がり、当然、交換の必要水量が下がることになります。つまり、僅かの交換水量で足りることになりますから、海水冷却のための冷凍機の馬力も少なくて済みます。一番の問題は、雑魚場で餌魚を取り込むときに、海水温の儘で取り込んでから、その海水全体を冷却しながら、沖に出るのがいいか、坊の浦を出向してから、雑魚場までの間に冷やして行って、その生け簀に餌魚を入れるのがいいかです。後の方式の場合、急に冷たい水に入れることになるから、餌魚がショックを受ける訳だけど、それが、どの程度の影響になるかです。普通に生け簀に移しても、半数近くが死ぬと言っているから、逆に、急に冷温水に入れられて、運動を押さえられた状態になって、生存率が高くなる可能性もある。暖流と寒流が混じり場所では、暖流魚は動けないだけなのに、寒流魚は上昇した水温で死ぬことがあるらしいから、元々、魚は急激な低水温に対しては、耐性があるのではないかな。
 そこまで、考えているのか。
 当然でしょう。鰹漁業が生き残れる可能性として、考えますよ。私が知っていることは、少ないから、教えて貰ったものを組み合わせたのですけどね。
 これは、鰹漁業が生き残れるかどうかのアイデアとして、もうすぐ、美保造船所に行くから、話してみよう。このアイデアを使って良いかなあ。
 良いですよ。これは、特許が取れるけど、特許使用料は、鮫島石油に上げる。坊津に鰹漁業が残れるかどうかの問題だから。

 それから、3ヶ月後、美保造船所が実用化の試験に取り組み、三重県の船が、試験設備を先に取り付けたことを知らされた。鮫島石油店は、2千万円の資金工面が、間に合わなかったので、2番手になったという。坊津町も、この装置の取り付けと、改造費用の一部を補助金で出す事になった。
 しかし、衰退する鰹漁業の歯止めには、間に合わなかった。
 しかも、最後は、水揚げ筋8千万円を持って、鮫島拓夫はドロンしてしまった。
 その小心者の鮫島拓夫が、オイルショックの時は、坊津の沿岸漁業者の苦境を救ってくれた。
 鮫島石油店は、油の仕入れを、全て、現金で仕入れていたので、最後まで、仕入れが出来ていた。その油を価格据置で沿岸漁業者に供給し続けた。事務の盛彦さんは、少しは、上乗せして、儲けて置いた方が良くないかな。経費は、高くなっているのだから。と言ったが、困ったときは、助けられるものが、助けておきたいと言って、据え置きを変えなかった。当時、ドラム缶1本の軽油が、3万円していた。しかし、鮫島石油店は、6千円で売り続けた。油が無くて操業できない長崎の船も買いに来ていた。5本のドラムに入れて貰えたとき、漁師は、これで、何とか漁が出来ると、涙を流していた。
 ただ、この選択が、会社の経営の命取りにならなければいいがなあと思ったが、資材の全てが高くなっていく中では、会社の資金余裕がな栗、短期手形の発行が始まり、軽油の仕入れ用の資金まで、食い込むようになり、経営の余裕を無くしていった。すると、銀行の幹部との麻雀の回数が増え、ここで、負けることによって、相手の儲けを増やす形でリベートを払っている勘定であったが、鰹漁業への資金融資は厳しくなり、経営の自在性を失っていった。

 今日、遠洋鰹漁業が、餌を遠くまで、活かして行けるようになったのは、この時の会話を美保造船所が採用したことから生まれたものである。
 あの時、本当に、絶望的状況の鰹漁業であった。
 今、坊津には、鰹漁業はない。あの時に、近海漁業に戻って、乗り出していれば、坊津の資金調達力の範囲で産業として、残っただろうにと思う。
 この文章を、小心者の鮫島拓夫は見ていないのだろうか。

坊泊漁協事件
 鰹漁業が衰退していく中で、坊泊漁協が、重大な事態に追い込まれていることが明らかになった。昭和41年当時、坊泊漁協への預金勧誘が盛んに行われた。その時の説明では、遠洋航海が出来る鰹船の建造のために、預金が多い必要がある。鹿児島県漁信連から融資を受けるのには、その組合の組合員の漁協への預金預入額が基準になっており、その金額に比例して、融資が行われている。だから、新船を1隻建造するために必要な借入金に見合うだけの預金を積み立てていなければならない。それで、漁協への預金の集中をお願いします。皆さんが漁協に預けた預金は、漁協から直接、新船を建造する船主に貸し付けるのではなく、県漁信連から貸し付けるから、皆さんの預金に手を着けることはありませんと説明していた。
 私は、別文に書いた通り、この時、たまたま、家に帰ってきていたので、説明が行われた上之坊公民館の定例会に出席していた。そこで、鰹漁業は、資金的に無理のある遠洋漁業を目指すのではなく、鮮魚で販売する近海鰹漁業に、方針を転換した方がいいと発言した。
 しかし、当然、一方通行のやり取りであるから、組織方針が変更されたり、何かに活かされると言うことはなかった。むしろ、冷酷に突き放したと言うべきであろう。自分達が勧めている結果が、どうなるかの分析さえもなかったのであろう。
 私は消防団員であったので、坊分団の副分団長であった宮田馨の所へ問題点を話しに行くことが多かった。宮田馨は副分団長として、何もしない坊分団長に代わって、全ての面倒を見ていたと言っていい。
 そうしたことから、連絡を取りに宮田馨が努める坊泊漁協に行くことが多かった。宮田馨は坊泊漁協で、組合長の車の運転手をしていたので、組合長と出かけていることが多く、帰るまでの間、組合の事務所で、雑談をしながら、待っていることがあった。
 そこでは、思いがけない会話が交わされているのが日常であった。鰹船主の有馬光雄や森秀一が、手形の書き換えをしているのを見ることがしばしばあったのである。書き換えは、印鑑一つで気軽に行われていた。事務担当の原◎リン子も、帳簿を見て、金額をいくらにすればいいかを語っていた。その通りに手形の金額を書き入れるだけであった。
 私は、内心驚きであった。自分自身は、鳥越ポンカン生産組合の事務をしていたので、金融のことは僅かながら、知っていた。農協では、貸付の実行までに何回も審査を行い、生産組合内部の、借り入れをすることについての話し合いは、何度も繰り返して、やっと借りていたのに、判子一つで、事務的な審査の手続きもナシで、書き換えが行われていたのである。まるで、自動的にという感じであった。反社会的行為という自覚もないようであった。
 この時は、まだ、漁協の組合員ではなかったので、口を差し挟むことでもなかったが、行った度に繰り返されている事態に、ある時、漁協は、農協に比べて、借り入れ事務手続きが簡単ですねえ。といったが、有馬光雄は、我々は、これが仕事みたいなもんですよ。水揚げ金もパーラバラと付け払いをしてお終いで、3日もないからなあ。1年が過ぎてみると、借金が減るどころか、増えているよ。アッハッハ。と笑った。原◎リン子は、顔を強ばらせて、口だけが笑っていた。そして、思い出したように、茶を入れに行った。私は、初めて、漁協で茶を飲んでみた。
 見られては成らないことを見せてしまったいう狼狽ぶりあった。
 有馬光雄には、私を、自分達の支配領域の人間と判断する甘えた感覚があったのだろう。
 宮田馨が、森秀一と一緒に帰ってきた。森秀一は、組合長会に出席して、坊泊漁協に厳しい状況を指摘されたと言った。有馬光雄は、カラカラと笑って、喧しく言ったって、無い袖は振れないよ。例え、袖を振っても、何も出て来やせんが。と付け加えた。鮫島寿一が、厳しい顔をしていた。野村◎◎は有馬光雄と餌代のことを語りたげであったが、言いそびれた風で出ていった。
 私は、宮田馨と消防の懸案を語って帰った。組合の職員は、私がいることで、自由に語れないことを感じさせた。その中で、有馬光雄だけが、伸び伸びと無防備に喋っていた。

 その事が、やがて、重大な事態の目撃であることを、私自身も自覚できなかった。また、3人の船頭が嘆いていたことと、繋がる経過であることすらも、認識しなかった。漁協のことは、別な世界の問題であったのである。

以下続く

電子手帳の提言
今でこそ、一般的になっている電子手帳であるが、これが出始めてからの3年くらいは、キーを操って電話番号が記録できる程度のものであった。
私は、この電子手帳に非常に期待していた。しかし、その領分は、大学生のおもちゃというレベルから出ることはなかった。このころ、私はシャープのジェットプリンターを使っていたことと、PTA活動で大量の印刷をしていたので、シャープの鹿児島の支店に行くことが多かった。
この時、シャープの鹿児島支店で品物を買う間に、若い職員に提案文書を書いて、大阪の本社に送ってくれるように言った。職員は、尻込みしたが、シャープが世界のシャープになれるか、田舎の電気屋で終わるかが決まる商品の提案だから、送れと強く言って、商品企画課に送らせた。
「今、電子手帳と言っているのは、電子手帳ではない。大学生のおもちゃだ。電子手帳と銘打てるものを作ることが出来るのは、シャープだけだ。シャープが持っているタッチパネルと、文字読みとり技術を組み合わせて、手書き文字認識が出来るシステムを一体にして、システム手帳として統合することだ。メモリーは、最低でも600KB以上装備すること。ビジネスの領域で使うのには、必須の条件だ。これで、げんざいの手帳サイズにすれば、必ず、日本中のビジネスマンが買う。誰も買わなかったときは、私が10台買って売ってやると言った。それをそのまま見ている前で送らせた。
14日後、シャープの本社の製品企画室長から、企画会議で採用が決まったという電話が掛かってきた。それっきりであった。