目次
| 鹿児島語談判 | |||
| オイルショックの予告 |
昔 話
A 中学校長と鹿児島語は地方文化で談判
正確に年は忘れたが、39年頃に坊泊中学校に中尾と言う名前の校長がいた。
その頃、私は子供会の指導を熱心にやっていた。口篭もる子供が多い事の原因を聞くと、言葉の問題が出てきた。
私は「ここは学校ではないから、かねて自分達が家で使っている鹿児島弁で意見を出してもいいんだよ。自分が思っている事を、自分の言葉で喋る事は大事なことなんだ。だから学校の様に標準語でないと罰を受けるとかいう制限はない。自由に喋っていい。まず、自分が思っている事を皆で出し合う事だ。それが仲良会の原則であり、それ以外には会を妨害する事さえしなければ、何の制限もないよ。あれをするな。これをするな。と決める事ではなく、こんなことをしよう。これをして良くなるにはこれをすれば良いのではないか。と話し合って、自分達が住む上之坊を良くしていって欲しいんだ。」と語った。
すると、「学校で、中尾校長先生が方言は悪い言葉だから、使ってはいけないと言われた。」という事であった。
一瞬、言葉を失った。そして、怒りが込み上げてきた。薩摩言葉を悪い言葉として教育されているとしたら、薩摩の文化はどうなるのだ。親は、悪い言葉を使っている悪い人達になるではないか。
「先生は、学校では標準語を使うようにと、言っただけではないのかい。」と言うと、女子も含めて、全員が
「違う。鹿児島弁は悪い言葉だ。 と言われた。」と口を揃えた。
そこで 「じゃあ、お前達は、自分の親達が悪い言葉を使っていると思うかい。おじいさんやおばあさん達は悪いのかい。」と極端な質問をした。
すると 「そんな事はない。」と言う意見も口を揃えていった。そして、「困っている。」と付け加えた。
「良し、分かった。上之坊の仲良し会では鹿児島弁で発言しても良い事にする。責任は私が取る。最初に言ったように、誰でもまず、自分の喋れる言葉で喋る原則を立てて、標準語で表現出来る人は標準語で喋っても良い。言葉についての制限は一切しない。喋れる言葉が自分の親から受け取った文化なんだ。その文かには優劣はない。言葉によって能力差あるのは、一つの事についてどのような表現が出来るか、それについての表現が苦手であるかと言う事だけだ。それは、どれだけの表現が必要であるかと言う生活上の必要度の違いで起きるものだ。例えばね、暑いと言った時、鹿児島に住んでいる私たちは、湿度が高い事は当然の常識で言わない。しかし、東北・北海道の人は、鹿児島に来ると蒸し暑いと言う。逆に東北・北海道では温度が高くても、湿度が低いから、私達がそこに行くと肌寒さを感じる。土地の気候に人間の身体が順応して、激しい環境変化に耐える能力を備えているんだ。鹿児島には五月頃の爽やかさを「良か肌持ちじゃなあ。」と言う表現がある。しかし、標準語にはないよ。鹿児島弁には表現方法があるのに標準語にはないも野がたくさんある。同じ事が各地方の言葉にあるん
だ。標準語と言うのは日本人が最低限思っている事を食い違いなく伝えられるようにすると言う原則があった。細やかな表現の能力は地方の言葉の力を真似ているんだよ。標準語というのは、オールマイティではない。だから、鹿児島の人間は、鹿児島の言葉を持っている方が言い。そうすると標準語が立派に使いこなせるようになる。それは文化の擦りあわせと言うんだ。文化の二重性という言葉もあるなあ。難しいけど、おじいさん、おばあさん、お父さん、お母さんが理屈抜きで受け継いできたそれぞれの生活そのものが文化なんだ。その文化を受け継ぎながら、次の時代を受け継ぐお前達は新しい何かを付け加えて、生活を豊かにしていく。仲良し会の話し合いの中で、考え方が出来るようになって欲しいのよ。仲良し会では、間違った事や間違った言い方をした時は、それはこういう風に考えたらとか、こういう言い方の方が良いのじゃないのとか、言えるようになって欲しいよ。言われても、上之坊の仲間同士だから、怒ったりしないように予てから仲良くして、遠慮なく意見を交わせるようにあって欲しいのだよ。」と話した。皆、良く聞いていた。
そして、「話を踏まえて、仲良し会では、言葉は何を使っても良い。」と言う話し合い決議が行われた。
校長が話された内容については、翌日、直接校長と話し合いをしにいく事にした。
校長と明くる日の夕方、談判を行った。校長に面会の申し込みをしたが、色々留守にする口実を入った。それを封じ込めで、時間を確保して貰って中学校に行った。
「私はここの町の住民である。住民が校長に会いたいという要望をしてきた場合、現在は逃げるように教育委員会から指示されているのか。私達が生徒として学校にいた頃は、喜んで対応しておられたものであったが、会うのを避けようとしておられるように見受けられるので、変質したのであるならば、改めて町民有志と来ても良い。校長の地域文化に対する認識の問題として、マスコミも含めた論議をするつもりで覚悟して頂きたい。今日の対話の申し入れを断られますか。」と、詰問調で言った。
校長室と職員室の間の戸は開けてあったが、気を利かした積もりの職員が締めましょうかと言ってきた。
校長は締めたそうであったが、「いいえ、ご迷惑でしょうが、開けておいて下さい。閉鎖して行う会話ではありません。聞いていて私が喋ることが間違っている時は、言いに来て頂いて結構です。」と、そのままにしてもらった。
「校長は、生徒に対して鹿児島弁は悪い言葉だから、使ってはいけないと言われたそうですね。これは認められますか。」と問い掛けた。
「その話は、もう遅いので止めましょう。帰って下さいませんか。」と相手をしたくなさそうな素振りであった。
「何を言いますか。この時間を指定されたのは貴方です。私は鹿児島の勤務を明日まで休んで貴方が指定された時間に合わせてきているんです。そんないい加減な考え方で人と接しているんですか。貴方は。私は教職員ではありませんから気まぐれな対応は受け入れません。約束は守って頂く。私は気の短い人間ですし、子供たちとの約束もありますから、貴方の考え方を効かなければ帰れません。それに、貴方に対する親の不満がどれほどのものであるか貴方は知っていますか。私は校長の所業に対する不満を言う親達を宥めてきました。その上でここに来ています。だから、時間に関する追い出しの言い分は私は認めません。教師達には通用するかもしれませんが、住民に対しては無用です。」
「暗くなりますから。」
「話し合いに明るさは必要でありません。声が聞こえていれば十分ではありませんか。肝心な主題は全く聞かずにいらぬことで時間を潰す事になっていますよ。これが教師のやり方なんですか。」
「いいえ、そんな積もりはありませんが、遅く・。」と裏出口の戸を開けようとした。
「貴方は、卑怯者という言葉を知っていますか。貴方の今の姿はその言葉に相当する恥ずかしい状態を行っていると、私は思いますよ。そう言う恥ずかしいレッテルを貼っても構いませんか。人間として、教える立場にあるものとして、どうですか。」
「遅いものですから家族の方が、心配しておられるのではないかと思いまして。」
「校長。誇りを持ちなさい。見苦しい。校長ならばそれにふさわしい行動を取りなさい。ここの中学校に来た者は将来教育界で重きを成す位置に置かれるようになる。何事もなく平穏にが良いでしょう。今私が語りたいと言っていることは、教育の中で非常に重要な課題です。しかし、それでも帰れと言われるならば、不法家宅侵入として警察に電話をして下さい。取り調べの中で一切の過去からの問題も語ります。」
「いや、そこまでは言っておりません。分かりました。話し合いましょう。どういう事でしょうか。」
「一昨日の土曜日、上之坊の子供会が開かれた時、私は毎回鹿児島から帰ってきて指導していますが、発言をしにくそうにしている子がいるので、原因が言葉使いにあると気づいて発言し易いように、標準語が言いにくい時は坊の言葉でしゃべってもいいよとアドバイスした所、方言は悪い言葉だから使ってはいけないと校長が全校生徒の前で言われたということである。私は地方の文化を大切にする活動をしてきた。簡単に言えば、地方文化の継承活動をしている積もりの人間だ。言語こそは地方文化の原点ではないですか。言語なくして文化無しと思いますよ。貴方の言い方で行くと、英語だけが文化であって、それ以外は文化とは見とめないという大英帝国主義に行き着くか、日本語以外は蛮族のなまりだという定義がいることになるんじゃないの。」
「いや、そんな事は思っていないですが、子供たちが就職した時の障害になり、差別を受ける原因になると思ってですねえ。」
「時代を考えなさい。今はマスコミが標準語を日本中に撒き散らしています。貴方が育った鎖国的文化の頃とは違いますよ。もうすぐ、地方の文化が見直される時がやってきます。その時に自分の文化を持っていなかったら、根無し草ですよ。坊津を巣立つ子供たちには、暮らす所が何処であれ、自分が育った土地の文化だけは誇りあるものとして伝えてやるべきです。定着した場所では、坊津の文化との比較をしながら定着した所の文化を取り入れていくのです。自分の中に計るべき文化の尺度を持っていなかったら、良いも悪いも分かりませんよ。自分が持っている文化より深い味わいの文化に触れても、その意味も分かりません。違いますか。」
「それはそうだと思います。」
「そうであるならば、言葉こそがその根源を成すものではありませんか。全ては言葉で感じ取っていくのですよ。自分が持っているものと違う文化に触れる時、緊張し、慣れていくのです。その過程で対比があります。それがあって向上していくのです。そうした葛藤が無いままに生きていく人間には挫折した時振返る故郷感も起こりませんよ。懐かしさ。大事な心情だと思いますが、校長は無用のものだと考えておられますか。困難に直面した時にくじける心を引き止め、頑張らなければと思う。また、帰省した時に、鹿児島の言葉で語り、飲む楽しさは、世代を超え、共通の持っていればこそ出来る事ではありませんか。言葉が通じない世代のギャップが人為的に起こされたとしたら貴方は、その責任を追う事まで覚悟していますか。文化の連続性は大事ではないと思っておられるのですか。」
「大事だと思います。」
「ならば、古里の なまりなつかし 停車場の と言う句の心情は理解されますよね。」
「勿論です。それは、もう理屈のいらない事でしょう。」
「であれば、坊津を後にした子供たちは、殆どがこの気持ちを体験する事でしょうが。その時、鹿児島語を悪い言葉として印象づけられた子供たちは、どうなるのですか。後ろめたい気持ちで古里を顧みなければならないではありませんか。そのような不幸に子供を晒して良いですか。自分が生まれ育った古里は素晴らしい所として、心に刻んでいて欲しいと思いませんか。」
「それは、そう思いますが。」
「鹿児島語は、祖先が使い伝えた言葉であり、父・母が使っている言葉ですよ。遥かな歴史の中で使い継がれたもの・文化の流れを、貴方は切断しようとしているのです。」
「いや、私はそこまでは。」
「言っていないと言われますか。でも、子供たちが受け取っている状態はそうですよ。子供は純真です。これは私自身が実感しました。校長の言葉として外見的には悪に見える子ほどきっちり受け取めています。」
「何の反応もありませんでしたがね。」
「それは校長の狭い情報源の性です。校長室に閉じこもっているのではありませんか。間違った事を言っても、言葉通りに子供は受け取っています。だから、こうしてきたのです。これは、絶対に見過ごせない問題です。このまま放置される時は、南日本新聞にも知っている人はいますから、投書して、教育界で地方文化の蔑視が始まっているという事でキャンペーンを張ります。貴方の名前は出るでしょうね。」
「いや、待って下さい。この問題は、私の配慮が足りなかった所があります。卒業した子供たちの苦労だけを短絡的に考えていたかもしれません。十分考えて処置する事にさせてくれませんか。」
「そういう物言いは、私は大っ嫌いです。やるか、やらないかしかありません。子供たちに言った鹿児島語は悪い言葉であると言った言葉を取り消して、鹿児島の言葉は学校では使わない。しかし、学校以外では、状態に応じて使って良い。家庭では親の言葉づかいに合わせる。と話して頂きたい。それも、明日、明後日の内にやる事。それを約束して頂けないと帰れません。有耶無耶は許しませんよ。」
「職員会を通さないといけませんから、・・・」
「自分がされた子供たちの将来に関わる大事な問題の処理について、何時か処置するでは、責任を取った事にはなりませんよ。私は、この問題の為に鹿児島の勤務を2日休んでいます。しなかった仕事を明日の夕方から、残業をして徹夜で片づけなく出はなりません。それほど重要な問題だと受け止めています。遊び半分で゜今日来たのではありません。だから、貴方もそれなりの事をして下さい。事は貴方から始まったのです。」
「仕方ありません。明日、生徒全員に言います。」
「よろしくお願いします。校長としての体面は損なわれないように、しかし、地方文化は大事なルーツである事を踏まえて話して下さい。上之坊の子供たちには既に言ってある事ですので、子供たちには校長が話されたかを確認します。言葉は地方文化の柱である事を軸にして話してみるのも言いでしょうね。」
「そうしましょう。また、何か子供たちの事で気が付かれた時は、学校に来て語って下さい。」
「私は、上之坊の子供たちの指導で手いっぱいです。明日は自転車で鹿児島に帰りますので、鹿児島から子供たちに電話で明日の様子を聞かせてもらうようにします。」
「そうですか。良く話しておきます。今日はありがとうございました。」
「色々、出過ぎた事を言いました。今後は地域も廻って、住民とも接触を計って下さい。将来子供たちが思い出す良い校長になって下さい。」
挨拶の後、職員室に出ると、二人の先生が残っていた。その先生が笑顔で目線を合わせながら机の下でこぶしを造って拍手のしぐさをくれた。後で聞くと、先生達も問題発言としてどう対処すべきか検討しようとしていたという事であった。
@ 昭和40年(1965年)の話
(オイルショックの予告と中川海運の倒産の予告)
当時、坊津は35年頃の鰹船が30隻を超える状態にあったのが大型化によって減り始め、25隻程度になっていた。全ての船が港に繋がれる正月は、係船の位置を確保するのにも苦労していた。坊の浦に係船出来なかった船は、泊浦の係船した。泊浦は係船出来る場所が少なかったので、不安であり、天候が変わるまで繋いでいる時は、枕崎の港に繋いだままになった。
こうした中で、運搬船に乗る人が増え始め、船員の確保は、次第に船の大きさを競う形で行われるようになった。大きい船の方が遠くまで行ける為、漁獲量が多かったのである。その一方で、高齢者は航海が長くなる為、疲労が蓄積されて、体力が続かず下りる人が多くなっていた。40代になると汽船に行く傾向は更に進んだ。
そして、この頃の船頭になった者が年末に合い言葉は「船子(かこ)頼んが大変だ。必要数の船子を頼んださん。」であった。良い船員は奪い合いであり、役付けを上位に上げて、水揚げ金の分け前を多くする事で、優位性を示していた。
鰹船の収入は、総水揚げ高から、船の直接的運営費を差し引き、残った金額を船員と船主が分け合う式であったので、船員側の受け取る金額は船員全員の総持ち部で割ったものを各人の持ち部数を掛けた金額を受け取る事になる。
必然的に、持ち部数が少ない年を取った船員の取り前は少なくなっていく。この事も年を取って動けなくならない内に船を下りる原因になっていた。難儀は一人前づつするのに取り前は少ないと言う不満であった。頭でっかちの政府みたいなものであった。
船の漁は、船頭の良し悪しが大きく関わっているから、漁の多い船頭の船には乗り組みたい希望者が殺到し、近親者で固められていた。それでも腕の良い元気な船員が真っ先に求められた。そこには複雑な人間関係が色濃く反映していた。乗船契約は1年限りであるので、好ましくない人間関係があれば年末まで我慢をするか、下船して運搬船に乗る為坊津を出るかであった。優れた船員を確保する為に、船を下りた父親を船番にする事も通例として行われていた。漁の少ない船には必然的に船子を必要数揃えられないまま出漁する事があった。それでも、船員を求めて、三重県や静岡県から、移籍して坊津港から出る船として、経営するものもあった。これが船員の最低収入を保証する保証旧制度の導入に拍車を掛ける事になった。それまでは、前半期と後半期に分けて収支を計算する為、、赤字が出ると赤字分を船員側が受け取っていた金額から出さなければならなかった。これを「ふかぶい」と言っていた。
こうした背景の中で、船の大型化を漁協がいい始めた。流出していく船員を繋ぎ止める為には、船を大型化して、遠洋に乗り出して漁獲量を増やして、収入を増大させようと言う事であった。当時の漁協の組合長は、県議会議員をしていた有馬光雄氏であったと思う。上之坊の部落会議(当時は鹿児島県中の各地域の最小単位の集落は部落と呼ばれたいた。)の席に漁協からのお願いと言う事で、町長長井正維氏同伴で漁協に貯金を集めるよう説得が行われた。
その時、我が家は祖父が亡くなり、祖母と暮らしていたので、私は会に出席していた。
「大きい船を作る事こそが今しなければ行けない事である。今、鰹船の大型化を測らなければ坊津の鰹漁業は壊滅する。既に、大型化された枕崎の船にたくさんの船員が引き抜かれている状態にある。」とたくさんの言葉を使って説明された。
上之坊の皆の意見は、「左前の漁協に金を預けて大丈夫か」と言った貯金の安全性の関するものであった。
私は、「鰹線の大型化を必要とする原因は、原料鰹を取る事を考えているからだ。原料鰹というのは、たくさん漁獲があれば安く買いたたかれる。安いから沢山獲ろうとするの繰り返しになる。大型化するとT航海出すのに掛かる経費が大きくなって、しかも遠洋に出るので、帰るまでの日数が多く掛かる。坊の鰹会社の資金調達能力をはるかに越えるのではないか。そうすると、経営状態は借金が膨らむ方向に働く。鰹漁業というのは、常に一定の安定した漁獲量が確保出来るわけではないから、危険だと思う。
原料鰹を獲ってくる、言わば、枕崎の鰹節製造業の下請け的な状態に坊津を落ち込ませていくのではなく、少なくとも消費者との間に中間搾取者が少ない食料用鰹を釣ってくる小型の鮮魚鰹船を数多く持つ事が、坊津の未来が見える鰹漁業が育っていくと方向だと思いますよ。そうすれば、近海漁業として短い日数で帰ってくるから、年を取った人でも乗組んでいけるようになると思います。老人ではない年を取った船員経験者を生かすべきです。」ここまで言った時、拍手が起こり、
「短い日数なら、俺達もまだ乗れるんだがなあ。」。「そうなんだがなあ。」と相槌が多かった。
「こういう希望はここだけではないと思います。検討されたらどうですか。」と言ったのに対して
「漁協としては、大型化の方向でいく事が決まっております。おっしゃるような考え方の人は、会社を作ってやって欲しいと思います。」と森
修一氏が言って、発言を切ろうとしたので、
「大型化すると燃料費がかさむと思いますが、燃料としての重油の問題は、考えておられますか。現在のリットル当たり10円前後の時はなくなりますよ。50−60円の時代がやってくる事を考えていますか。100円かもしれませんよ。そうなると、大型化したサーカス経営に陥った鰹船会社は、あっという間に潰れてしまいますよ。」
これに対しては町長の長井正維氏が
「上村君、原油と言うのはオイルメジャーが採掘の権限を持っている事は知っているよね。その後ろ盾に各国は軍隊を持っているんだ。西側諸国の軍隊を合わせれば、石油産油国は一捻りだよ。だから、心配は要らないよ。」と言って笑った。
「町長、それは甘いですよ。その考えが通るのはここ2−3年のことでしょう。石油産油国の民族意識は非常に高まってい、民族自決運動が加速度的に勢いを増しています。自分達の国の事を自分達が決められない。自分達の国のものを自分達が採れないで外国の会社が勝手に採っている状態を容認しなくなっているのです。産油国は石油採掘権を自国の物として取り戻す戦いを始めますよ。」
「そうなれば、西側諸国の思う壺だよ。国ごと取られてしまうよ。」と町長が遮った。
「今の国際状況はそれを許さないと思いますよ。国連の機能をうまく使って、非難を浴びせ掛けて、時間を掛けさせますよ。それでも攻め入ったら、イギリスやフランスの軍隊は砂漠の中に引きずり込まれて、身動きが取れなくなって、日干しになって死ぬ事になる。車は砂漠の中では四つ足のラクダに巻けるんです。そうしている間にメジャー国間で離反が起きますよ。紛争が収まった後の自国の立場を少しでも有利になるように立ち回るようになると思いますよ。足並みは乱れるんです。西欧は何といっても、喧嘩はしても、指導者は西欧で教育を受けているんです。紛争が収まれば、権利を振り舞わしながら握手をしますよ。日本は、ずーっと蚊帳の外でしょうね。」
「その時は、調停役で動けるようになるよ。」
「いや、それは成り立ちません。日本が平和国家として歩き始めて、高々20年。国連に入ってから10年ちょっとしか経っていない。中東で日本を快く思っているのはトルコだけでしょう。第二次世界大戦で世界に与えた印象は、100年以上経たないと、消えないと思いますから。兎に角、石油が今の10倍になっても持ちこたえられる経営形態を取って欲しいです。鰹船に乗らない私が口を出す事ではないかもしれませんが、お願いします。」と言ってもう一つだけ付け加えた。
「町長は、坊津町の将来の発展の中心に、中川海運の関わりを据えておられますが、中川海運は石油が産油国に押さえられた時、一時的な原油価格の高騰が起きて、日本に油が入らなくなって、潰れますよ。その時、べったり、寄り添っていると坊津も潰れてしまいます。健全な自力の施策を考えて下さい。」と言って発言を降りた。
これには、長井町長は腹を立てた。しかし、組合の専務をしていた森 修一が発言は漁業の貯金の事とは関係ないからと言う事で
「上村君はまだ若いから、世間の事は良く分かっていないんだと思います。良く勉強して大きく育って坊津を背負える人材になって欲しい。」で話は終わった。
そして、オイルショックは10年を待たずに起こった。坊津の鰹漁業は消えた。何とか持ちこたえて欲しかった中川海運まで福田武男に潰されてしまった。中川海運のバックアップを予定していた車海老漁業会社は坊津町に大きな債務保証の借金を残して潰れた。
かく言う私も、オイルショックをもろに被ってしまった。
今、坊津の港を埋めているのは10t未満の沿岸漁業の船だけである。
頼めども
蟹の子だにも
見えぬかな
いかがわすべき
唐の湊に
坊津は、この寂しい言葉を400年近くなって、再び味わう事になった。