ホゼ 茜被り 開聞岳

坊津の祭り

上之坊運動会
 2000年の上之坊運動会が上之坊運動広場で開かれた。
茜被り
2000年2月13日、冬の坊津で、珍しい花火が揚がった。何があるのだろうと耳をそば立てていると、
「ハーンニョーイ ハーンニョーイ ハーンエイ サーア サーア ぶも サーア サーア」
と、掛け声が聞こえる。
30年以上の久しぶりの大漁の祝いの声である。
坊の浦の入り口付近に「ぶり曽根」呼ばれている、天然のぶりを餌付けしている場所があって、ここでのぶりが1億円を超える豊漁となったことで、茜被りが出来たと言うことであった。


この声が、坊津の港に木霊することはあるまいと思っていたが、本当に山々に木霊させて、茜を船のまわりに張って、坊の浦を回って
坊の浦を数周してから、裏口に出て、それから、八坂神社に行って、感謝のもち投げをした。


更に、その後、坊の浦で祝いのもち投げがあった。
                         電池切れで写真がありません。

ホゼ
坊津には、いろいろの祭りがある。その中で、最大の祭りは、坊の八坂神社の「ボゼ」祭りである。「豊祭」が、特有の圧縮によって、ホゼとなったとされている。
「ホゼドン」と敬称を付けて呼ばれる。「ホゼドン」は、昔は10月14日が「内の祭り」で15日の「還幸」の本祭りが行われていた。
 坊津が一つの隆盛期を過ぎて、衰退に向かっていた時期がある。見た目には、順調に見える時期に衰退が始まっていた。昭和40年を境にして、全てのことが、衰退の方向に集約されていくのを、身震いする思いで感じていた。
 これは、坊津町の各分野の幹部の間で、共通した認識であった。それは、坊津町が統計で把握できるほどに進行している事態であり、坊津町は、他の自治体に先んじて過疎対策審議会を設置して、打開策を講じようと模索していた。過疎という言葉を早い段階から、町の用語として使っていたのである。
 ただ、坊津町の人口分布は、坊泊に偏っていたので、最も過疎化の事態が進行していた久志・今岳の状況は、理解できるものではなかった。私自身も、坊や泊の密集した住宅の状況を、どう、変えるべきかに関心がある段階であった。だから、鹿児島で当時の町長長井正維氏と、坊津町をどうするのがよいかを語るとき、この視点からの指摘をすることが多かった。それに対して、長井町長は、久志から今岳に至る地域の状況を、僅かな予算しか持たない坊津町の財政状況で、改革どころか、現状を維持することさえ困難であることの苦悩を繰り返し、語られた。
 その状況は、やがて、坊泊でも起きる事として、高齢化の事態が進む前に、出来ることをしていく事で、最悪の事態を回避することしかないでしょうと、語った。
 その、回避策として、坊津にいろいろな祭りを作り、鹿児島の人の足を坊津に向けさせることでしょうと言ったが、何より、現在ある祭りを衰退させない事から、始めなければならないと話した。
 幸いにも、当時は、中川海運の中川喜次郎社長が元気であったことと、中川社長自身が、ふるさとの神社を改修寄進したいと考えられている時期であったので、坊津の神社の社殿改修に心を砕いていただけた。坊津の町民自身が、多額の負担を要する神社改修能力を持っていると言える状態であったので、長い歴史の中で、最後の幸運を与えていただけたと言えると思う。この時、新装した八坂神社のために中川海運は、祭りの一切を面倒を見てくれた。本当に、祭りの荷役に相当する部分を全部負担してくれた。
 そうした理由は、坊の住民は、そうした部分を嫌がる気風があったから、それを、中川海運の社員が社長命令で、肩代わりしてくれたのである。八坂神社の祭りは、氏子である坊地区の祭りでありながら、実体は、駆り集めた人夫で維持されていたのであった。それでいて、見物している住民は、中川海運の社員が流す汗を見ながら、中川の祭りみたいだと平気で言った。
 太鼓を担ぐのは「長アパ」であった。しかし、高齢で、彼に長い道中を太鼓を担がせるのは無理があった。しかし、代わりをしてくれる人はいなかった。聾唖の障害者を軽蔑しながら、その人が担ぐ太鼓で行列が行われていた。既に年老いて、無理を言って、担いで貰っていた。
 この時、私は太鼓を打つようになっていた。当時、太鼓を打っていた岩崎正吉氏が、親戚の法事で、変わってくれる人がいなくて、止められないと話したことがあったので、私に稽古をさせて貰えれば、やっても良いのだけどと言ったことから始まった。
 太鼓を担ぐ役を、自分たちもやることを提案した。みんな、戸惑ったが、ホゼの祭りを自分たちがやるものに変えていく発端として、やってみようとみんなを説得した。拘りは、過去の状況にあったことと、ホゼで日当を貰っている楽しみがあったのを、取り上げることにならないかという配慮もあった。そのために、短い区間を担いで貰って、日当は従来の額で払ってもらい、後は自分たちが担ぐようにすればどうかと提案して、実際にそうすることになった。何よりも、坊の住民の心から八坂神社が遠のいている状況を切り替えて、住民が全部参加する祭りに引き戻したいことにあった。その転換の区切りの切欠を作れれば、中川海運の中川喜次郎社長が坊の人々に植え付けてくれたであろう祭りのイメージが、生きてくるのではないか。時が経つと、そのイメージが薄らいで、住民は、再び、見物人に戻ってしまう。供、説得した。
 何よりも、やってしまうことだと思った。
 「長一」氏は、この事を祭りが始まる前に話すと、驚いていたが、賃金は払われることをいうと納得した。担ぎ直した時を、合図と見て、太鼓を担ぐのを交代しょうというと、助かったという感じで交代した。見物の人たちは、太鼓を担いでいる私を見て、驚きの反応を示した。異例のざわめきとなって反応していることが、気持ちよく聞こえた。
 来年が楽しみであった。
 確かに変わった。なおらいの時、神主の長井実茂氏が、感激したと喜んだのであった。見物人になっている住民を行列の参加者にするのに、効果があっただろうかと言うと、見物人の顔が変わったのが、しっかりと感じられたと言った。
 次の年のなおらいは、今までにない賑わいを見せた。自分たちの祭りという意識に燃えた会話が弾んだ。
 およそ20年、太鼓を叩いてきた。

 その他に、ホゼで足りないものがあった。
 内祭りの時に、神楽笛がないのである。太鼓を叩く役目は終わりにして、神楽笛を練習して、内祭りの不足を解消しなくてはいけないと思っていた。その前に、子供達に太鼓の練習をさせなくてはいけないと打ち合わせの会をしていたとき、長い間に作られていた1年生で太鼓のリヤカーを引いて、2年生で手拍子をして、3年生で太鼓をたたける。身内の不幸で出来なかった者は、他の者が同意して太鼓をたたけるようにするというルールを踏まえる約束の確認をしている最中に、長谷竜内が酔っぱらった姿で現れてルールを無視する話を始めた。
 それで、私は、腹を立てて、八坂神社の祭りから手を引いた。
 残念ながら、内の祭りでは、神楽笛が欠落したままで、寂しいままである。祭りは、華やかな部分に関心が行くが、最も大事なことは、祭りによって、人の心に勢いを与え、弾ませていくことであると思う。
 欲得ではない。祭りを私して、いた者が、居たことだけは、確かである。それが、地域の祭りを、自分の物のようにして振る舞って、何の疑念の感じず、住民を祭りから遊離させていたものであるのだ。
 それに気付かず、20年間、一生懸命に、祭りの外観だけを存続させるために、奔走したのであったことを知って、歳月が空しかった。しかし、今、その悪弊が除かれて、1999年、晴れ晴れとして、上之坊に御輿がやってきた。
 その喜びを込めて、「坊のホゼ」の写真を掲載する。

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 今年は、10月16日が「内祭り」で、八坂神社に合祀されている上之坊の霧島六所権現の為に権現社跡である、上之坊公民館に遷座祭が行われた。「坊のホゼドン」として行われる坊津で最もきらびやかな内容を持った祭りである。
 17日は午後1時から、本祭りが行われた。以下その模様の写真集。


(1)その「内の祭り」の様子である。

 坊のホゼドンが上之坊の到着。


 上之坊公民館で、到着の祭りが始まったところ。



(2)本祭り

 行列の先頭。

 先頭に続く神社旗・毛槍など


 神様は太鼓の音と共に行動される。

 行列を案内されるホゼ祭り実行委員長大谷 巌氏



 賽銭箱にはまだお賽銭は少ないが、中坊から重くなる。


御輿の身辺警護と行列に多くの人を招く面と獅子

もうすぐ出発の時

祭りが行列に移る直前


行列には、子供達は神のご加護を頂けるようにしべを持って、共に歩く。


獅子は子供を「ガブリ」と一噛みして、子供の身を清める役もしてくれる。


f行列が始まると、蘂持ちが増えて、一杯になる。