坊の岬付近の今 坊の岬は北西の季節風の防波堤である。岬の西側は冷たい季節風が 絶え間なく吹き付けている。岬にいたる馬の背の様な尾根道は吹き付 ける風で息も付けない。 しかし、一度南東斜面に道が折れると、もうそこは南国の日だまり が一日中射しており、木の下には青いススキが年中絶える事はない。 その葉の色は、ただの緑色ではなく、青みを帯びた色である。冬の寒 さを絶える色なのであろう。他の季節には見る事の出来ない美しい色 である。 坊の岬の下は岩場になっているが、冬は東シナ海を北上していた黒 潮が北西の季節風で押し戻されて行き場を失い、九州の西海岸に大き な高まりとなって押し寄せ、それが坊の岬に至って開放されて逆巻く うねりとなって枕崎の方に流れていく。それはまさに大河である。昭 和26年頃、恐らく太平洋戦争で生き残った数少ない焼玉の汽帆船で あったのだと思うが、岬を回るのにこの潮の流れにはまって、私たち が草を刈って帰る3時間半エンジンは全速にしたまま枕崎の沖まで流 されていった事があった。この後、地元の鰹船はずっと海岸側の凪い だ所を通り、岬の下の岩場の隙間を通り抜けて帰っていった。最もこ こを通る時、船長は血の小便をしたと従兄弟が語った。コースを指示 する漁労長はサーフィンの要領を言ったという。 坊の岬には灯台がある。ちょうど百メートルの断崖の上にある。こ の灯台を建設する時は、大変な苦労であったという。大正時代の事で あり、当時は松が生い茂って不気味だったそうだ。生い茂る松の枝か ら枝へと、当時の逞しい大人の腕の力瘤を凌ぐほどの長さは5mを超え るヘビがいたという。そのヘビには耳があったというのは今でも見た 人たちの語り種である。 樹齢400年から800年の松が昭和30年代までは海岸線や山の尾根に生 えていた。尾根を渡る風はスゥオーーと聞こえ、心を和ませてくれた。 その松が昭和26年10月14日夜の台風が運んできたマツカレハの幼虫に よって丸裸にされ、葉のない松の状態が3,4年繰り返され、海岸の松 から枯れ始めた。再び葉を伸ばす力を失った松が芽を出しかけたまま 枯れた。年輪を数えるとどの松も四百七八十年を超えていた。余りに も大きいので何回数えても正確な年数を特定できなかった。 最も大きかったのは、坊の港の上「寺」と呼ばれる地域の山(坊の 浜から岬に行く道の途中の脇に生えていた)にあった松で、いうに 800年を超えていた。この松も樹齢を特定しようと何人かが挑戦した が数えるたびに違ったという。 こうした松が消えた岬の道は殺風景で単調である。しかし、皮肉に も見晴らしが良くなって坊津のリアス式海岸の複雑な入り江の情景が 隠すものなく見えている。 坊の岬に辿り着いて灯台の先にある芝生の上に寝そべって旅の疲れ を癒すのは心地よいものである。吹き付ける風も切り立った崖を這い 登った勢いのため、この崩れかけて細っていく芝生のテラスの上は吹 き忘れてそよ風だけが通っていく。 坊の岬に立つと、水平線が270度開けている。水平線の左を飾るも のは開聞岳の麗姿である。坊の岬から見る開聞岳は完全な左右対称の 姿をしている。ここからの姿を見ずに開聞岳の事をいうのは資格がな い。開聞岳の背景は大隅の山々である。その山並みが尽きる所に佐多 岬の灯台が白く輝いている。 佐多岬の灯台越しに種子島が水平線にはう様に見え、南端は竹島に 遮られている。なんとも優しい竹島の姿、丁度「{ 」を倒して両側 の山にメリハリを付けたような島影の中程から屋久島の船行付近の急 な斜面が始まり、洋上アルプスの名の通り聳えている。西側は硫黄ヶ 島に係り、丁度、竹島と硫黄ヶ島に弧を掛けた様に見えている。屋久 島の永田は硫黄ヶ島に隠れる事無くと灯台の光が海上を照らすのが水 蒸気の反射とした見えている。硫黄ヶ島は常時噴煙か見え、ここが噴 煙が上がると28時間20分後に桜島が噴煙を上げる。しかも噴煙の高さ は大体硫黄ヶ島の噴煙の高さの三倍である。 平家物語に書かれている平清盛の時代に、俊寛僧都が猪ヶ谷で謀反 を謀ろうとした科で硫黄ヶ島に流された時、一緒に流されていた日野 小納言の子は坊津まで父を尋ね来て、岬の沖を激しく流れる黒潮に涙 を飲んで、当時、勢いが衰えていた坊津一乗院に入って僧侶になり、 一乗院を国家護持の祈祷を行うお寺として指定してもらい、再び隆盛 を取り戻したと伝えられ、お墓も現在の坊泊小学校の後ろの上人墓に 大きな石の棺桶式の墓で残っている。 硫黄ヶ島の西隣り口之永良部島が見え、噴煙を上げた事がある。山 には殆ど煙が見えている。同じ火山島の中之島が口之永良部島の右に 遠く見えている。口之永良部島と一緒の所に見えているが、こちらは 水蒸気が多い日は霞むので距離が違う事が分かる。かって船乗りの人 と見える見えないで論争した事があったが、位置関係と口之永良部島 は群島になっているが霞み具合から距離が相当違うのを認めた。 これらの島影が途切れた空間に孤独の瀬が見える。そしてすぐに黒 島が文字どおり真っ黒く横たわっている。まるで巨大なナメクジの様 である。竹島・硫黄ヶ島・黒島の三島の中では一番大きいし、近いの で海を隔てた隣り町という感じがする。昔は坊津と三島村の間には隣 り町の行き来があった。やはり、敗戦直後、三島は米軍の支配下にお かれ、行き来を断たれた事が大きかった。三島の島々を見ながら、す ぐ其処なのに外国なのかと悔し涙をした記憶がある。沖縄の方々の無 念や知るべし。 黒島を過ぎると水平線よりも手前に草垣島と宇治群島が見える。そ の北に甑島の列島が見え、水平線が尽きて甑列島の北を隠すように野 間半島が伸びて、その右に野間岳が海の中を覗き込むような姿をして 聳え立っている。 私の祖父が昔話として語ったのは、むかし、野間岳と硫黄ヶ島と開 聞岳は非常に仲が良かった。女らしい野間岳を硫黄ヶ島も開聞岳も妻 にしたいと思っていた。そのうち開聞岳と野間岳が仲良くなった。そ れを妬んだ硫黄ヶ島が腹立ち紛れに腰にいつも下げていた鉈を開聞岳 に投げつけた。開聞岳は鉈を避けたが避けきれずに頭の天辺を切り落 とされてしまった。頭を切られて開聞岳は一週間寝込んでいた。傷が 治りきらないまま、開聞岳は仕返しの方法を考えた。開聞岳は大きな 薪の束を作り、桜島に行って桜島に火をくれるように頼んだ。火はな かなか大事なものであったので桜島はどう頼んでも分けて呉れなかっ た。ようやく一ヶ月掛けて火を分けて貰って帰った。ところが硫黄ヶ 島は用心深くて火が付いた薪の束を投げつける暇がないうちに火が消 えてしまった。開聞岳はもう一度桜島に火を呉れる様に頼みに行った が桜島は大事な火をきやしてしまったといって怒り、火を二度と呉れ ようとはしなかった。困った開聞岳は桜島が出かけた留守にこっそり と薪の束に火を付け、帰ってきた。硫黄ヶ島は力持ちであったので薪 の束を後ろに隠しておいた。硫黄ヶ島はなかなか用心深かったが、一 時すると用心を忘れた。その隙を見て硫黄ヶ島に投げつけた。何か仕 返しをされるだろうと用心していた硫黄ヶ島は身をかわして薪の束を 受け止め、薪の束を開聞岳に投げかえした。背の高い開聞岳は投げか えされた薪の束を硫黄ヶ島の頭に突き立てた。すると薪の束は取れな くなってしまった。開聞岳はしばらくすると鉈の傷が治ったので硫黄 ヶ島と仲直りしようと天の神様に仲裁を申し出た。天の神様は事の一 部始終を見持て居られた。神様は開聞岳が再び野間岳と近づく事を許 されず、西と東に隔てられ、その間に激しい潮の流れかあって渡って 来られない所に硫黄ヶ島をおかれた。そのため野間岳は今も寂しそう に項垂れて立っており、硫黄ヶ島の火は消えず、開聞岳も頭を切られ たままになったんだという話。 坊の岬に立ってみればこの話の意味が良く分かるように思える。物 憂げな姿に見える西の野間岳と肩を怒らして聳える東の開聞岳と川の 様に逆巻く荒海が坊の岬の足元を流れて、硫黄ヶ島を隔てている、こ の場所でしか生まれなかったであろう。話であり、他の所からでは分 からないものがある。坊の岬を訪れた人だけが味わえるものであろう。 坊の岬は太古(と言いたいが坊の岬は6300年=万年じゃない=前の 阿多カルデラの噴火の頃)はどんな形をしていたのか。坊の岬の基底 岩石は溶岩ではなく、海底で堆積した泥の山である。その上を阿多カ ルデラの噴出物である溶岩が覆っていたのが、その内部で高温高圧の 熱変成を受けた泥岩質の基底部が溶けやすい物質組成に変わり、特に 海岸や海底では基底物質が海水に溶解して侵食が進んで溶岩が自重で 内部に崩落して珊瑚礁のリーフのようになっている。 同じ形の海底風景が崩落した崖の姿とともにある。崩落した溶岩の崖 の内側は赤や黄色の色彩豊かな堆積岩の崖があり、脆く崩れて海に落 ち続けている。坊の岬は岬の端だけが溶岩で岬の頭は比較的編成を受 けていない堆積岩であるが、特に最近の酸性雨で溶けて、岬の形が崩 壊に向かっているように思える。特に岬に登る最後の坂は風解が激し いため岬に至る道が細くなりつつある。 ところが足元の危ういここからの海の色が一番美しいのである。い つまで見ていても見飽きない優しい色をしている。それに連なる浜か ら高立神の荒々しい風景は何度見ても違う景色として見る者を圧倒し 続ける。  若い時、坊の岬は恋人の道でも会った。車が行けない静かな空間で あった。若者たちが坊の岬にたどり着いた時、そうでなくても若者た ちは恋人気分になれた。力兄宅の従兄弟達が大阪から来た時、よく岬 に行ったが、恋人気分にさせられた。喜久枝とかもそういう意味で思 い出せる人である。 著作権所有 上村 巌 1988年1月28日 著作者住所 鹿児島県川辺郡坊津町坊6510番地