上之坊の地名の起源 上之坊という地名は、坊という文字が示すとおりお寺に由来します。 坊津町自体がお寺を構えた港という意味です。そのお寺とは、現在の坊泊小学校 があった場所に、明治4年の廃仏希釈まで鹿児島県の3大寺として栄えたお寺で す。寺の名前は一乗院龍巌寺で、西海金剛無寺とされ、西の高野山として権勢を 誇り、国家護持の勅願寺として寺号を如意珠山といい、その時に寺の山門に掲げ られていた扁額が坊津町歴史民族資料館に保存されています。これらを全部並べ ると 西海金剛無如意珠山一乗院龍巌寺となるのでしょうか。 創建されたのは西暦496年だったそうですが、平家物語の時代には一時衰えて いて、その時代、平清盛の横暴を極めていた権勢を覆そうとして企てられたとい う「猪ヶ谷の企み」が発覚した時、日野小納言は俊寛僧都と共に鬼界ヶ島(今の 三島村硫黄ヶ島)に流島の刑で島流しになっていたのですが、日野小納言の息子 は幼いながらも父親の後を追って坊津まで来た所で、坊津の沖を流れる黒潮の速 さに涙を飲んで帰ってくる日を一乗院で待つ事にして、寺の僧となって精進し、 やがて一乗院を再興する事になりました。日野小納言という家の格が寺の勅願寺 とする上で大きな役割を果たしたのでしょう。 上之坊は、龍巌寺が開基された時に、上之坊という説教所を作ったという事で すから、地名の起こりからすでに1500年を超える歴史を持っている事が分か ります。同じ時期に鳥越・上中坊・中坊も付けられています。 その頃、上之坊に居たのは近衛家の荘園として支配されていた土地を管理する 人々でした。現在の上之坊に住んでいる家庭の姓を見ると「上村」と「竹内」が 昔からの住人です。1945年頃まで支配していた土地を考えてみますと、現在 は枕崎に組み入れられている鍋ヶ平から春日鉱山の上の宗前の岳までを含んでい ました。それを明治になって市町境の線引きを確認する時、当時、坊津を支配し ていた積もりの役人たちは自分が支配していた土地ではなかったので、どこに境 界があるのかを知らなかったのです。それで枕崎の言いなりになって決められた そうです。島津氏は坊津を支配していなかった事を示す事実だと思います。 元々坊津は島津氏が戦をして勝ち取った土地ではなく、島津氏が薩摩の支配権 を与えられた時に、遠縁であった近衛家が後から島津氏に坊津の支配権を譲った 事から島津家の直轄地であった事で、管理の者も島津の家来として威張っていた 割には詳しい事を知らなかったのでしょう。自治支配が残っていたのだと思いま す。 上之坊の住民の先祖は、坊の岬から鍋ヶ平までを支配する豪族だった事が伺え ます。その住民たちの結束の証が十五夜や「おいのたま」=鬼の玉=であったの です。遥か昔から絶える事無く連綿と続けられている行事です。