国道226号線を坊津の方に入ってくると、集落の始まりの最初は上之坊の運動広場であった。過去形になっているのは、1996年から始まっている国道の拡幅改良に伴い、住宅地の移転用地として広場の位置が選ばれ、住宅地になったからである
広場工事
広場工事
上之坊の運動広場は、岬周辺の話の中でも触れたように、元々池になったていた。「上の池」と呼ばれていた。池の水は上之坊が高台になっている為、上水として使える水の水源が乏しく、梅雨が明けて1ヶ月経つと水量が減って水を「一いねぎ」汲むのに「たんご」を並べて順番を作らなければ、水を確保出来なくなっていた。夜中中番を作って汲んだ。番の時間は水の出具合で変わるので、順番がきた時、そこの家庭の人が汲みに来ない時は、誰かが代わって汲んでやって自分の分を汲んで帰っていた。
仕事の都合で汲みに行けない時、「上の池」に汲みに行った。水の質は良くないので、飲み水としては使えず、主に洗濯水に使った。
干天が40日を越えると、あちこちの「井川」は、枯れ始め、下浜の井川に組みに行くか、「上ん池」に行くかしかなかった。遠く、坊の浜の「隅の川」にいく事もあった。これは、鰹船が帰ってきて若者が居る時だけであった。その日は坊の浜の通りは水を汲んで走る若者の掛け声さえも賑わいに勢いを添えた。
上之坊の住民にとって、「上ん池」は本当に貴重なものであった。それゆえ、楽に水が汲める事は上之坊に住む者に取って一番渇望する事であったし、水汲み作業が上之坊の地域的発展を阻む要因であった。上之坊の向上発展にとって、水の問題の解決と、子供の教育が最大に課題として位置づけられた。
1956年、上之坊で簡易水道を掘ろうと言う話が持ち上がり、「山ん講」の上流に水を求めて穴掘りが始まった。日量20t程度の水は出たが、130戸がたっぷりと使うには不足と言う事で、更に掘り進んだが坊津の基底にある固い頁岩の岩盤に当たり、手掘りでは歯が立たず、住民に不満が広がって挫折した。
坊津町が簡易水道の本管をを上之坊まで延長した事もあって、老人家族から町の水道を引くようになった。それと共に「上ん池」は上之坊のたばこ工作組合の苗作りだけしか使われる事がなくなり、夏は子供たちがとんぼを取ったり、泳いだりする場所に代わっていった。こうした経過で各世代毎に、この池に対する思い出は違っている。
この池を生かして、鯉を飼って公民館の運営資金を捻出しようとしたが、不届き物に取られていた。
1965年になって、坊の岬に牧場を造ろうと言う話が持ち上がる。この話はゆっくりと進行していた。その頃、上之坊の公民館は、白蟻の被害を受けて、甍の真ん中が落ちかかった状態になった。公民館の建設資金が出来るまで何とか持たせようと言う事で、資金積み立てが始まり、それまで真ん中に4本柱のつっかい棒が立てられた。最初は異様に感じたが、お寺の本堂を考えればそうでもなくなった。全ては慣れであった。その頃の子供たちは問題にしなくなっていた。
1969年、上之坊の公民館は新しい完成した。ブロック鉄筋平屋立て、将来二階建てにして、上に小会議室を造ることを夢の構想として残している。これも歳月の中で忘れられているのではなかろうか。
この工事の完成直前の時、今はない中川海運社長が度々坊津に里帰りされていた事から、工事を目に止められて、100万円を寄付して下さる事になった。
公民館の総工事費が240万円であったから、大金であった。中川喜次郎氏が寄付金を下さる事になったのは、便所が資金不足で昔のままになる予定であったのを、「折角立派な公民館を立てるのに便所が昔のままではそぐわないから、金は出すから、建物に合うトイレを作りなさい。」という事で始まったのである。
急遽、設計変更が行われ、トイレも新しい公民館になった。不似合いの金の掛かったトイレになっているの箱の為である。この時は、水洗化の話になったが町水道はこれを許さなかった。このため、寄付して頂いた基金は半分残り、後に広場の整備資金として使われた。基金として管理されていたので個人的な流用とかはない。
上之坊公民館は、坊津町公民館の分館にはなっていない。坊津町の出先ではなく、自力で一切を建てたのであり、坊津町の援助を受けていないからである。これは、何度も協議して公民館の協議文書として残っている。私はその協議の記録者である。
上之坊公民館が出来上がった時、公民館の前庭が1m狭められる結果になった。それによって、狭くなった広場は、子供たちが遊ぶのには狭さを感じるようになった。当時は、子供の数が多かったので、全部が遊ぶのには十分でなくなった事を痛感した。新しくなった公民館では夏休みの開いた一日中開放していても子供が遊ばなくなっていた。4本柱の間、危険である事から、使わなくなっていた為、公民館を遊び場として位置づける感覚がなくなっていたのであろう。
その間に子供たちの遊び場は「ながまえ球場」に移っていた。「なかまえ球場」とは「七曲がりの坂」がある谷の取り付き口の地名で、子供たちが呼び習わしていた耕作しなくなった荒れ畑を踏み荒して球技が出来るようにした場所の事である。ここは現在は砂防ダムになっている。
「ながまえ球場」に行くには足場の悪い滑りやすい細道を通っていかなければならなかった。子供たちは小雨の日でもそこで遊んでいた。「安全な遊び場を子供たちに造ってやりたい。」というのが当時の地域の子供たちの面倒を見る「私の願望」であった。あの「上ん池」を埋めたら三角ベースぐらいは出来る広場になるのだが、しかし、金は公民館建設で使ったし、提案のし時ではないと思い、子供の遊び場を造る事が次の課題である事だけを親達に提起していた。
そうした経過の中で、岬牧場の話が進行し、同じ地域に住む私にも加入の働き掛けがあった。私たちにはポンカン園があったので断った。幾度も話があった中で、組合長の家で話している時に、「取り付け道路を作る時に出る残土の量は非常に大量であるが、どうするのか。良ければ「上ん池」を埋める事にしないか。そのためにだったら集落民を説得する役を引き受けるよ。」と提案したが、捨て場所はあそこがあると断った。しかし、その場所では半分も入らないと思うと言ったが「大丈夫。」と言った。
「専門家が見て決めたんだから。」と言うのが理由であった。「取り付け道路の部分の土は質が違う事が分からない人だったんだ。あそこは普通の土地ではないんだ。ブルドーザーで動かしてみれば普通の倍のボリュームになって、計算違いに気づくだろう。その時になってからでもいいから、集落に相談があれば賛成する話だけは付けてやる。組合に参加しないけど、「みっかん(水神)に牧場を造る事を夢見た事のある人間からのプレゼントだ。」と言って別れた。
工事が始まり、残土捨て場は日に日に狭くなっていくか゛、道路は進んでいない。残土捨て場の壁まで崩した。残土量をますます増やす愚かな事をしていた。
ついに工事は出来なくなっていた。
早く、ギブアップすればいいものをと思ってみていた。
1ヶ月が過ぎて、ついに組合長が協力してくれと頭を下げてきた。私とは闘牛の角突き合わせの間柄であるから、私が予告していた通りの成り行きになって協力を求めるために頭を下げざるを得なくなって断腸の思いであったろう。
私は「整地まで、法人でやる事を条件にして協力する事を承知した。そして、「池の排水の溝は1m以上掘るって池を空にしないと、水の神が後に残って祟るようになる。」と付け加えた。それは工事をする時の重機の安全の為に言ったのであるが、工事の時、30cmしか掘らなかった。
岬牧場の組合長と、この時の公民館長とは、馬が合わない組み合わせになっていたが、子供たちの為に説得して「上ん池」の埋め立ては終わり、「上之坊遊園地」が誕生した。
公民館が自前で子供が遊べる広場を持てたのである。「ながまえ球場」は、持ち主に叱られないかとビクビクしながら使っていたのであるが、持ち主達には草が生えるのを防げると言って、説得していた。
話が前後するが、公民館の建設に当たり、中川喜次郎氏から頂いた寄付について下らない話がくっついた。個人的な話であったが、公民館としては寄付を下さった氏の厚い故郷を思う気持ちを汚さないように公民館建設の為にトイレ作りの資金として戴き、下らない話しは後からの付け足しとして聞き流して無視する事になった。ただ、公民館長には煮え湯を飲んでもらった。
上之坊に住む者は、上之坊を我が物にしようとするものには妥協を許さないのである。
それは、坊津にゴルフ場を造る目論見があった時にも、それを阻止するパワーとして発揮された。
上之坊運動広場が出来上がって後、子供の三角ベースには十分であったが、大人も使うのには手狭である事から、周辺の畑地を買い足して集落の運動会もやれる広さに拡幅された。ウッフフであった。欲望の拡大の典型的な構図であった。
この拡幅が終わって、祝賀行事の準備をしていた時、若い建築業の男に「おい、これから10年してよ。ここには家が立っていたりしてね。」と語り掛けた。男は向きになって、「御身は、何を言わっとな。今、出来たばっかいのグランドの祝賀会をすっちいう所い、ここに家が立つ。何ちゅうことかな。やる気をなくさせるような事を平気で言える御身の気が知れん。」と言った。
「いやさ、10年たった頃は、ここの県道が国道になってさ、改良の為に周辺の家に立ち退いて欲しいと言う話が出てくるかも知れんよ。そうなれば立ち退いた家の人を少しでも坊に留まって貰えるようにする為には、その頃は、整地して10年経って、盤が締まったここが一番いい土地になっている。坊の土質はぼろぼろ崩れるから孔隙が多くて10年位しないと家は建てられんよ。不安定な土地に家を建てて災害になるよりは、代替え地は後から作ってもらう事で、行った方が良いと思うよ。」「げんかなった様なあんべがすっ。きこごちゃなか。」と言って逃げていった。
それから7年、言った通りの状態が起きて、上之坊運動広場は移転した。運動広場の敷地には住宅が並び、件の建築士が請け負った家も建った。
そして、今、「坊トンネル」が上之坊の内ノ木場から中坊の風呂屋の位置に向け地掘削工事中である。
現在、観光バスは坊津に来なくなっている。原因は渋滞状態になって、2時間以上の混乱になり、観光バスが客を飛行機に乗せそこなってね、旅館代や飛行機代など大損害を出したらしい。
坊津に来たら、停まっている車は、先の状態を見て待っているのだと言う事を肝に銘じて欲しい。特に大きい車が停まった時は、横をすり抜けていく我先の運転は、離合も何も出来ない缶詰状態を造る元になる。
坊津には、日本標準時は適用出来ないのです。時間の流れは、ゆったりと流れています。私の施術所なんか、上海時間のようである。私の頭が完全に目覚めて、フル能力で動くようにならなければ、施術は始めないから、まともに始まった事は年に2,3回である。時間で施術をするのではなく、来た人を治す頭脳の準備が出来たときに施術をするのですから。
時計の進行が止まっている積もりの、異次元空間の体験として過ごすといい所ですよ。
別の項で書いてある、松籟を、番所の公園で楽しむといいですよ。ここは車の往来が山の後ろを通るようになって無くなり、歴史民俗資料館から海側に降りたところにあります。草むらに寝転がることが出来ます。