いじめ 寂動正体黎明 上之坊十五夜 坊津に特老を 歴史民俗資料館 坊泊漁協破綻の救済
松籟(しょうらい) 鑑真祭り提案 自転車日本一周 坊津町青年団復活 坊津町子供大会の提案

我が古里 ...(1990.3)

卒業した中学校の生徒たちへの文(季刊発行の文集)....上村 巖

私はこの50年の間、古里に恋い焦がれ続けて生きて来た。

 自分の古里感を語ろうとすると、人生を振り返る事になる。私は、考えてみると、3つの命題を抱えて生きて来た事を感じる。

 第1は、小学校に上がる前から、強い者が弱い者をいじめる時、それをかばうため、負ける事は分かっていても、年上であっても立ち向かった事。

 第2は、身体の弱い人をみると、子供ながらに、この人を元気にする事は出来ないのだろうかと、涙を流していた事。

 第3は、私は大阪で生きる筈であったのに、この坊津で生きる事になったのは、何故であるのかという、自分の存在に対する激しい問い掛けがあった事。

 この3つの命題は、ある時は戦死した父に問い、また神に問い、小学校に入る頃から、今日に至るまで、常に縒りあわさった綱の面を見る様に、交互に現れる。

 第1の命題では、終戦直後の混乱期、坊津も、「かまっかうどん」(浮浪者)が、しばしば来た。
 その人達は、鍋類や菰を背負い、食べ物を恵んで貰いながら、さ迷っていたのである。
 「かまっかうどん」が来るたびに、子供は集まって、「かまっかうどん」をいじめ、からかっていた。
 私は、屈辱の言葉に耐えて、涙ぐみながら、許しを請う姿に、済まなさを感じ、「止めろ。泣いているのに、何故苛めるのか。」と怒鳴って、年上の者達を制止した。
 そのため、小学1年生の私が、『お前の親戚か。』とからかわれた。泣きたかったが、いじめの輪を解いた充足感と、涙を流して、感謝の言葉を言う、これらの人々の姿に、自分が決して間違った事をしたのではないという思いが、私の心を支えた。
 世の中が変わって、この様な人が粗末にされる事が無くなってほしいと思って、励まして行かせた。
 明くる日から、暫く、上之坊のガキ大将にからかわれるのが、「かまっかうどん」騒ぎのあとの常であった。繰り返している間に、からかわれても何ともなくなった。
 同級生同士でも、いじめる事を嫌ったので、同級生や下級生をいじめた者は、必ず、私に叩かれた。

第2の命題では、同じ頃、学校の行き帰りに、身体の弱い人が、残された身体の能力を振り絞り、雪の中でも働いておられる姿を見て、この人の身体を、健康な身体にして上げられたら良いのにと、胸を詰まらせて見守っていました。

 小学校2年生の時、この頃、天才少女と言われていた美空ひばりが、どんな子であるのか知りたくて、学校では禁止されていた映画を、母に頼んで見に行き、美空ひばりが足の悪い子である事を発見した。それからの6ヵ月間、ひばりの足を、何とかして治してやりたいと思い続けて、医学知識の本を探した。その結果は、祖母が脳内出血で倒れたまま、寝たきりであったのを、立って歩き回れる様に治す、切欠となった。

 1952年、シラミ退治の為にと、女子の髪の毛にDDTが掛けられるのを見て、
 「先生、DDTは農薬です。畑で観察すると、蟻は1粒触れただけで、その瞬間に痙攣を起こして死ぬものです。人間に使って、本当に大丈夫なんですか。今は何もなくても、将来病気の元になることはありませんか。」とか、
 「学校給食で、パンが配られたら、腸の長さは短くなってしまうのではありませんか。日本人は米を食べるから、消化吸収の能力が高くなる様に、欧米人より腸が長いのだと教えられましたが、米が豊富に採れるようになって、米を食べられる様になった時に、ごはんの味を知らなくなって、好みが変わって、米を食べなくなったら、農業はどうなるのですか。パンの食べて大きくなった日本人の腸は、短くなっていないのですか。」と聞いて先生を困らせた。

 高校2年の夏休み、第2命題の解明の手がかりを発見した。
 3年の1959年12月28日、祖父の死を前に、弁財天の山に行って、私は1つの誓を立てた。
 「勢至菩薩よ。我が祖父は滅びの床にあり。我はここに立ちて、戦死した父に代わり、我等兄弟を育てた祖父の命を請う積もりで参りたり。されども、弁財天像の頭を見い出し得ざり。見いだしえなかった今は、それは諦める。かつて、あなたは、人間の生老病死の苦しみを救う誓願を立てられた。しかし、それは経文の紙の上にあるだけで、この世の者の役には立っていない。誓願は、この世に生きる者たちへの契約である筈。貴方が人間から敬い慕われるのは、その誓願が、現に生きる者に対して、具現されるものと信じられているからである。貴方の誓願を、具現するかにみえる医学は、洋の東西を問わず、誓願とは相容れがたき実態のままなり。あなたが、本当に人間を救う誓願を継続しておられるのであるならば、現に、この世に生きる私に誓願を具現するべきその力を与えよ。吾に病いに苦しむ人間を、健康にする手を与えよ。その為にならば、私は、わが命をも、弁財天の前に供える。我を、勢至菩薩の誓願を現証する、手だてとして使いたまえ。弁財天よ、今や、我は汝に請うべきもの無し。汝は、我が手先となって働くべし。我が願いを持って、勢至菩薩のもとに行け」と。

 就職した1960年から、大阪駅の前にあった『旭屋書店』で、鹿児島では買い切り制の為、店頭に並ぶ事のなかった医学書が、大量に並んでいるのを見つけた。それから、夜7時から11時まで毎日立ち読みした。
 店員は、最初の内は、毎晩はたきを持って追い払いに来たが、開いている本を丁寧に持って下がり、傷つけないように戻していたので、1週間後からしなくなり、別の店員がはたきを持つと、制止してもらえるようになり、難しい図は鉛筆を短く切り、ポケットの中で書いた。そのお陰で、人体の構造が分かって、2年半後に治療の方法を組み立てた。

十五夜と仲良会
 この直後、1962年、弟が高校を卒業し、愛知の方へ就職に当たり、上之坊の状況を手紙で尋ねたのに答えて、見通しを知らせて来た。上之坊では子供会を「仲良し会」と名付けていた。そして、青年団が仲良し会を指導し、伝統行事としての十五夜を主催し維持していた。しかし、弟達の卒業と共に、青年がおらなくなり、全てが困難になるだろうとのことであった。第3の命題に対する逡巡の中から、「俺は坊津に生きよう。誰か1人馬鹿になって、坊津に住み続けなくては、上之坊の伝統は消えてしまう。自分の人生を捨てよう。それと、子供達の前に立ちはだかる、大人の役割を演じよう。成長する子供達と共に生きながら、安逸な妥協の家庭に育つ子達に向かって、子供達にとって、大人社会の厳しい目で問いかける役割がいなくてはならない。上之坊の社会には、二つの役割が欠落している。それを補完する役割を、俺が子供達の前に立ちはだかる壁として存在すればいいのだ。それが、上之坊で育つことが出来た俺の恩返しだ。そうすれば、もう1人位の馬鹿が出て来るかもしれない。」と結論し、古里に帰った。

 子供会の指導に全てを掛けていた1962年頃は、坊津に住む若者は馬鹿扱いされていた。1963年、町長の勧めで、鹿児島の方で働きながら、土曜日の昼から、自転車で川辺峠を越えて坊に帰り、夜は子供会を指導して、日曜日に鹿児島まで戻る日々であった。
 その年の秋、上之坊は十五夜を中止していた。残業が終わった9時過ぎに、城山莊から公民館長である竹内静夫兄イの家に電話をして、電話の向こうの静けさに泣いた。
 坊に住もうという決意を粗末にした結果であった。次の年、高校生や大人を説得して十五夜を復活した。私は1週間の休暇を取り、全ての時間を注いだ。

 僅か1年の中断で、無惨な復活であった。年長者の歯がゆがる叱咤に、戸惑う高校生達をかばい、
「頑張ってくれ。お前達の、この屈辱の思いを、必ず誇りあるものにするから我慢して完遂してくれ。」と励まし続けて、祭は完結した。
 年寄り達が、涙ながら復活を喜ぶ姿を見て、自分たちが実現した高校生たちは古里の実感を、しっかりと確かめたのであった。次の年から、十五夜の継続は、当然のこととなって、受け継がれた。

老人ホームの提案
 鹿児島で働く間、町長は宿泊を城山莊にしておられたので、部屋に呼んで下さり、話し相手になって下さった。
 その時、「坊津が老人ばかりになって、活力が無くなる。」と言われることが繰り返された。
 「町長は、坊津が年寄りばかりになって来たと言われますけど、年寄りの町を資産にされたらどうですか。坊津を後にした人達が、いつの日か必ず帰って来る町を創るのです。働き口のない町に、働き場所を作るのです。病気をしても、心配のいらない年寄りが住める施設を造って見られればどうですか。毎日幼い子供達の姿を窓から眺めさせて。年寄りには、子供の歓声が一番の薬だと思いますけど。」と提案した時は、ポカーンとされた。
それから6ヶ月ほど経った後、
 『お前に見せるものがある』
と笑いながら、日本でも2番目と言う特別養護老人ホームの計画図面を大喜びで説明して下さった。
 しかし、その図面は、まるで牢屋のような設計であった。
 「場所の都合上、二階に別れて住むのは仕方ないとして、それが階段で繋がっているのは、上と下の老人を完全に遮断するのと同じです。老人にとって、1cmの段差は無限の距離に等しいのです。階段があると、上下の行き来は出来ません。この階段をスロープにして、建物の周りを鉢巻き状にすれば良いのではありませんか。それと、廊下の幅が狭すぎます。これから先、今は値段が高い車椅子が安くなって、一人一人が、車椅子で移動できる様になる筈です。その時に、2台が余裕を持って行き合えないといけません。車椅子になってくると、廊下が広い必要があります。廊下を広くして、催しも出来る、多目的広場にして、昼間はみんなが部屋を出て、廊下で懇談する場とすれば、部屋に籠らないで、楽しい老人の世界が作れるのではありませんか。
 廊下の広さと、階段のスロープ化は、非常事態が起きたときに、入居者を、いかに早く非難させるかということにも繋がっています。
 階段では、避難を担架で行わなければならない事が、構造の必然として起こります。すると、一人の人を非難させるのに、職員二人掛かりとなります。
 一人の人を安全な場所に運びおわるまで、他の人は放置状態です。危険な場所が視野外になります。車椅子ならば、並べて押せますので、全員が従業員の視野の内にあります。
 一人づつ運ぶにしても、従業員の負担が軽くなり、激しい救護運動になっても、疲労が違います。これは地形上、厨房が下にある構造にならざるを得ませんので、火災の危険を念頭に置かなければなりませんから重要です。」と指摘した。後で、広い廊下と、スロープを側面に付けてある建物の図面を見せて貰った。その事の意味を知らない人は、不格好と笑った。

歴史民俗資料館の提案
 その後、当時坊津の古い住宅が立て替えられている時期であった。
 その頃、町内の家庭には、住宅とは別に小屋が付いていたが、住宅の面積を広げるために、小屋が解体され、小屋にしまわれていた各種の生活用具が焼き捨てられていた。
 それを見るたびに、私は残念でならなかった。
 そこで町長に
「坊津を庶民文化が残る町にしてはどうですか。著名人や指導者の活動は記録が残ります。
 庶民の文化は生きることそのものです。死んだとき、一切の物が失われます。その手掛かりになるべき生活用具が、昨今の住宅の立て替で、焼き捨てられてなくなって行きます。
 あまりにも哀しいことです。今失ったものは、職人もいなくなって再現は出来ません。
 物の価値が変わったのは、子供達と親達の生き方に断絶があるからです。
 今の内に生活用具を保存する必要があります。今はガラクタです。でも、必ず価値あるときがきます。
 建て替えで邪魔になる生活用具を、町に寄付してくださいと呼び掛けて、町の公民館が出来て使われなくなっている中川館に収蔵するのです。ある程度の量が溜まって、中川館が狭くなって来たら、民俗資料館を立てればいいのです。中身がない資料館ではなくて、自分達が持ち寄った民俗資料を納めるための場所が必要なのだといえば、反対できる人はいないですよ。坊津の人間は、文化という言葉に弱いのです。文化を大事に思っていますから。」と説得した。

 これについての会話は、実現まで何度か繰り返された。町長は議会の理解が得られない事へのぼやきを繰り返された。皆は、中川館はごみだめだと笑った。中川海運社長中川喜次郎氏が我が家を寄贈されたものであったので、親族も腹を立てた。私は腹を立てる親族と親戚としての対話の機会が多かったので、「ゴミと見なされているものが、大切な文化財に替わる日まで、町長に時間を与えて欲しい。」と趣旨を説明した。やがて、歴史民俗資料館が出来た。

松籟
 また、城山莊で語っているとき、ある時「巌君、松喰い虫の防除についてどう思うかい。」と聞かれた。

「松食い虫の防除は、今を生きる者がやらなければならない未来への責務です。防除の薬害について環境汚染という事から、いろいろ意見は在ります。しかし、防除をせずに松が枯れた結果が出てからでは遅いのです。失って回復できるものはありません。松食い虫の防除は、『松籟』という言葉を実感を持って残せるかどうかの大変な分かれ道にある事態だと思います。
 『松籟』という言葉が味わいを持って実感できるのは、500年の歳月を越えた松の枝で起きる音です。でも、ルース台風後の松毛虫で樹齢が850年以上の松を最高に200年くらいまでの松は枯れてしまいました。今生き残っている松で、『松籟』という言葉が持つ味わいを実感できるのは150年以上の松だけです。
 なぜそうであるのかを、一本一本の松で確かめてみましたが、枝の硬さが原因で味わいが違うのだと言うことを確信しています。

 『松籟』という言葉が意味する音が出るのは、50年くらいの枝が柔らかい松では起きません。150年を越えた松の枝は固くて、梢といえる部分でも弾力がなく、強い風でも靡く事なく風をはね退けています。靡きませんから吹いてきた風と松の葉が向き合っている角度が違います。古い松の葉は、風に対して直角のままで風を細切れに切っています。その時出る音が『スウゥォーーーー』という音です。
 4,50年の松の枝は風で靡くので、風との角度が45゜から60゜あります。風が切られずに固まりで抜けていますから『ソーーーーー』という音です。
 この違いは大きいです。坊津は『史と景の町』をテーマに掲げていますが、先人の活動を知る縁となる事物は散逸していますから僅かしかありません。何もないに等しい坊津をまわった人達が、公園のベンチで高い松の梢から聞こえてくる『松籟』を聞いたとき、旅路の果ての坊津の味わいを実感できるのではないでしょうか。
 岩盤に深く食い入って根を下ろしている坊津の松が出す『松籟』こそが坊津の財産であると思います。
町長だって好きな句の筈だと思いますが、
   誰も見よ
      唐の湊は
         秋津島
      国に異なる
          岩根松ヶ根

 と読んだ豊臣秀吉の時代に、この坊津に流されていた関白太政大臣近衛伊輔が見た景色が、そのまま現代に受け継がれていることを示せる貴重な財産になると思いますよ。

 松食い虫の被害で松が何にも無くなってから、今から育つ松が『松籟』を起こすのは150年後のことです。でも、その時、もう『松籟』という言葉は死んでいるでしょう。今、もし防除をすれば『松籟』という言葉は坊津を象徴する言葉として、旅人の心に刻まれて、坊津を思い起こしてもらえる心の音として、何度も坊津を訪れる事に繋がって行きませんでしょうか。坊津の未来に生きる子供達への財産だと思いますよ。」と答えた。町長は「吾子は、伊輔の句を知っていたか。本当にそう思うかい。」と驚いておられた。
 自然破壊を最も警戒し、農薬汚染の怖さを言う私が、反対する言葉を語ると思っておられたようであった。 子供の時、浦尻の浜で樹齢500年の松の根元で、『松籟』を聞きながら昼寝をするのが楽しみであった私は、昭和30年(1955年)頃にほとんどの巨木が枯れてしまい、『松籟』という言葉が示す音の感じが残っている松を探して、樹齢との関連があることを確認していたのである。
 「防除をするとすればどんな注意をすればいいのかねえ。」と言われるので
 「有機燐剤の防除散布による海岸の汚染が問題であるわけですが、それを最小限に押さえる努力をすればいいと思います。防除は防除適期が一年に一日しかありません。梅雨の中休みの晴れた日にする必要があります。この時にマダラカミキリが羽化して飛び回ります。この日だけ薬剤に対する抵抗が弱いのです。その後日に日に薬剤の効きが悪くなります。防除をしたら、雨が降らないうちに付近の落葉をかき集めて、焼却するのです。そうすれば、地上に落下した防除薬は焼却で高温の熱処理をしますから分解してしまいます。  焼却する人は、毒が出ますから、必ず防毒マスクはさせてください。煙を吸ったらいけないのです。夕方燃やすのが一番良いと思います。」と答えた。
 「よし分かった。」と言われた町長の目が、突然燃えた事の意味が分らなかった。
 後で役場職員に聞くと、坊津に帰られるなり、議会が反対して実行できなかった防除を、町長専決で実施させたとの事であった。
 議会が2回も提案を否決していたので、担当だった職員が尻込みするのを叱咤して、責任はわしが取ると言って、即日、防除の手配をさせ、その後の議会で、専決処分に反対するなら議会を解散すると怒って、専決処分を認めさせたそうである。

 この町長が2回、全国町村会副会長と、鹿児島県市町村職員共済組合の理事長という大きい役目を解かれた夜、夜更けまで涙を流しながらさみしさを語られた事を忘れる事は出来ない。
 古里坊津が弱くなっていく足音に、胸が締め付けられた。
 しかも、3回目は、私自身が第1の命題により、その当事者となる予告が、町長の掌の手相にあったからである。つらかった。

自転車日本一周
鹿児島の職場を1967年に退職し、坊津に帰るに当たって、北海道まで自転車で行き、函館・小樽を経て1周した日に苫小牧で大雪に埋まり、零下20度の日高山脈中で完全な結晶の雪を見て、中谷宇吉郎博士の『雪は天からの手紙』という言葉を思い出し、僅か1日の天気を得て苫小牧札幌間を自転車で走り、島松沢のクラーク碑の前に立ち『少年よ、大志を抱け』という言葉の辛い別れに込められた万感の思いを実感し、まだ見えぬ人生に胸を膨らましながら札幌に到達して、北海道1周で日本1周は未完となった。しかし、この時北見市で農家の方たちと夕食会をした際、当時゛子供を売ったり、農家の主人が自殺をされる事件が毎週の事として報道されていた。農家の収入が不安定なために起きている問題として何か収入が高くなる作物はないものだろうかと思いながら自転車旅行をしていた私だった。この夕食会でマトンで焼肉をして食べようと集まった農家の人が青い物がないからと、缶詰に白い間に出荷できなかったゴミだと言ってアスパラガスの青い物を提供してくださった。当時は、アスパラガスは白いものだけが缶詰の材料として缶詰会社に買い取られ、太陽光線が当たってから延びてきたものは青くなり缶詰に適さない不合格品として捨てられていた。それを冬場青野菜が無くなった時の家庭用代用野菜として貯蔵していたという事で、ゴミをお客様にお出しする無礼を言われた。私はゴミではなく、金を食べさせて頂いているのかも知れませんよ。と、返事した。直感で是こそ、農家の貧困を救う作物になると感じ、栽培の様子や苦労話を聞いた。そして、指導者になっている方々に、貴方達は何を考えて農業を見ていたのか。毎週自殺する人が後を絶たない悲惨な状況に答を捜そうともせずにやって来たんだ。怠慢です。人間の食事、嗜好は時と共に変わる。今、肉食の時代に差し掛かっている。この今を掴まえて北海道が提案できる食材として、このアスパラガスを出すのです。苦いもの、それはアルカリ分が多く含まれた貴重な食品、肉食の時代が求める最高の食材です。これを白い物でしか出していないということは缶詰会社にゴミを出荷して最高の食材は捨てている実態ですよ。この本末転倒の状況を変える。つまり、今までの常識に挑戦しなくてはなりません。今迄無かった物を市場に出荷する為には消費者側にそれが欲しいというニーズを作らなくてはいけない。食材にアスパラガスの歴史を新しく作るのです。それをやり遂げたら貴方達は北海道農業のパイオニアになれる。ニーズを作るのは、北海道では簡単にできます。どうしてですか。北海道の人間の言うことなんか内地の人は耳を傾けてくれませんよ。そうではない。耳を傾けるほどの物を出していないからです。北海道で埋没する程度の事しか言っていないのです。アスパラを出すのは、3年後、最初の年は、どういう調理法をすれば苦味が有効な食材と感じてもらえるか、農業試験場や大学の料理に講座で試験してもらう。材料はただで提供する。そして、その年の札幌の雪祭りに集まる客にラーメンや麺類の具としてただで提供する。その時のキャッチフレーズは北海道でしか食べられない食材と店主に言わせる。雪祭りの客の大半は東京の人だから彼等にアスパラガスの素晴らしさを頭に叩き込んで帰すのです。2年やるとそれが食べたくて雪祭りにいくという風潮が出てくる。3年目の初夏から東京の大田市場に限定して出荷をする。その時、全ての放送局にアスパラガスの提供を言って。加熱の要領を教えるのです。そうすれば、北海道に行かないと食べられ無かった食材が家に居て食べられるという事で人気が出てきます。それから、正式に出荷ですよ。それまでは収入にはならない。頑張って欲しい。今迄沢山の人が亡くなってしまった罪滅ぼしとして取り組んで欲しい。と話しました。その提案は取り入れられ、話した通りの手順で進められ、今ではアスパラガスは普通の食材になっています。この後、大雪となり旅行継続を断念して帰ってきた。この時から坊津に住み始めた。


 そして、子供会の指導に打ち込んだ。当時『若い者は外に出て行けば良い』と言う町長に向かって「町長は間違っています。若者を粗末にする町は滅びますよ。役場は町長の好きな者だけを採用していると聞くが、町長の前で手揉みしながら平身低頭する者が町の未来を拓く事は有り得ない。坊津町=坊津株式会社の積もりで若い青年を雇うべきである。坊津の将来は新鮮な頭脳の青年の発想に委ねるべきです。子供の笑い声が山々に谺する坊津にするべきです。」と提起した。1968年から職員採用試験制度が出来て、若い青年が坊津町役場に採用される様になった。

坊津町青年団の復活
 この頃私の活動の重点は、坊津全体にあったビクビクしながらものをいう民主主義社会にあっては考えられない風潮の打破と言う第1命題にあった。青年活動を通して、自由にものが言える坊津を創ろうと目指した。消滅していた青年団組織を作り直す事に熱中していた。

坊泊漁協破綻
 この時、坊泊漁協が困っている事が明らかになった。お金がなくてはどうにもならない事態になったので、私がお金が出る方法を考えますから町長は辞めて下さいと説得した。会議の中で、先頭に立って発言を続け、話し合いを通して坊津が変わっていくのを実感した。働く町民が胸を張って歩ける坊津になってほしいという中学時代の夢が実現したと思う。しかし命が怖かった。立派な事も沢山された方を責めなければならなかったのは辛かった。漁協を続けたいという漁民の方々の為に、金を見つける事が出来、立ち往生しておられた最後の日、目と目を合わせ「ちゃんとしましたから」と話し、 役目を終えさせた事で恩を返せたと信じている。当時の農林忠勤の橋本という団体課長は坊泊漁協に出せる金はびた一文ないと言ったので、「課長、今日の言葉を忘れないでいなさい。一寸の虫にも五分の魂がある。俺は五尺七寸はあるから二尺八寸余りだ。貴方の首を絞めて見せるぞ。金は貴方の懐から引き出すぞ。必ず参ったと言わせるからな。」と言ったが、「参った。一体どこから出たんだ。この金は「」と唸った。この金は裏金無しで正々堂々と勝ち取ったものであり、その後の漁協活動で返済も終わっている。

坊津町子供大会の提案
中崎教育長の時、栗野から秋目までの子供が一堂に集う場を作る様に教育長に提案して坊津町子供大会が丸木浜で行われる様になり、町民としての連帯感を感じられる環境としての総仕上げの行事として提起した。

鑑真祭りの提案
 新しい町長になった時、細長い町が一つになる祭が必要だと感じていたので坊津町民全員が参加する鑑真祭と自前の花火大会と海の祭と慰霊祭を合わせたものを提案した。多くの方が同じ様な考えであったと思う。
この時は長い一人の町長から替わった時であったので、大胆な提案をしてみた。馬庭地区を農地の改良して、鹿児島の人達にも家庭菜園を有機農法でする農業の場所として、貸し出す農業後者を作ってはどうかと提起した。霜が降りない完全無霜地帯なのである。

現在の私は第3の命題の中にいる。1983年,私が開発した病気をなくする治療法に目を止めて下さった大分市の病院の先生のお陰で、人類の歴史の中で誰も知らなかった人間の身体の仕組みを発見し、現代医学が治療出来ない病気も解決出来る治療法を組み立てる事が出来た。 その結果、37年前6か月間治したいと思い続けていた美空ひばりさんが治療不能の病気になっていた時、歩ける様に治してやる事が出来、諦めていた東京ドームでの公演を実現させて上げる事が出来た。現在は1週間置きに大分の病院で治療活動をしている。

治療法がほぼ完成したので、今年中に、この治療法の本を出したいと考えている。それは勢至菩薩に対して立てた誓の解答書である積もりである。この本を出版すると忙しくなるであろう。現在でも大分にずっと居てくれれば良いのにとか、東京で治療所を開いてくれれば良いのにとかの希望が寄せられているが、私の古里は坊津であり、私は古里に住み続ける積もりだと宣言している。

また同時に20年掛かりで資料を集め、15年前にガリ版刷りで作った『上之坊の十五夜の資料集』(学校図書室にも寄贈品あり)を作り直す作業を続けているが、音符も完全に作って完成させたいと思っている。上之坊の十五夜は、全家庭が参加して実行する様になって来たので、私1人の犠牲は必要としなくなった。毎年の高校生の為にと、この資料集を手引書として差し上げているが判りやすいものが必要になっていると思う。

古里坊津に住み続ける私は、百姓である。完全無農薬栽培でポンカンを生産し続けていくつもりである。なかなか暇がないが、坊津にふさわしい農業の姿を見つけ出したいという夢を持っている。その日まで常に青春でありたい。