自転車旅行

小樽の石造り倉庫群の保存 グリーンアスパラガス


「我が青春の里程標として自転車で日本一周をする」
それは私の果たしたい夢であった。高校時代に描き始めたものであった。出発の時、二十六歳になっていた9月である。
記録を失っているので、思い出のままに書いてみたい。


@ 小樽の倉庫群について
自転車は、長万部を過ぎて山道に差し掛かっていた時、スポークが二本折れて予備のスポークも使い切っていたので、途方に暮れてしまった。押して歩いていると、500kg積みの自動車が止まった。自転車の状態を見て、小樽まで行かないと直せる自転車屋はない。俺達も小樽だから乗せてやると言った。
有り難い言葉と思い、好意に甘える事にした。積んだ自転車と一緒に後ろに乗ろうとすると、前に乗れと言う。いろいろ語りながら、行く事になった。途中のニセコアンヌプリの全山紅葉は圧巻であった。頂上から麓まで真っ黄色に輝いていた。写真でいう順光線の中だ、北海道にいる俺達も始めてみる豪華な景色だと言って、一番良い所で道のど真ん中で止まってくれた。写真を撮ればと言われたが、止めた。心の中に記録したかった。

その後の話題になったのは、小樽の役をなさなくなった石造りの倉庫群と運河と鰊御殿の事であった。
乗せてくれた運転者の会社の社長が小樽市の観光協会の会長で、石造りの倉庫が観光発展の邪魔物になっていて、解体するのには莫大な費用が掛かる為、対策に頭を抱えていると言う事であった。
私は、この話を週刊誌に載った「ごみ箱に入らない粗大ゴミ」の記事を読んで、小樽市長宛に坊津の二の舞いをするなと手紙を書いていたので、直接会って話したく思い、倉庫が壊されない内に行ければ良いがなあと思い、どういう伝手で話しを持っていけば良いものかと、思案しながら出発していたのであった。
それが、奇しくもダイレクトに繋がった会話になったのである。

私の町は、かつて遣唐使船や遣明船の時代には、南島航路の出発港として栄えた記録があるが、それを証拠付ける物は何もない。旅人に納得の行く旅愁を感じさせる、往時を忍ばせるものは無い町なんです。
小樽市が石造りの倉庫群や鰊御殿が粗大ゴミとして疎まれているのは、観光開発の観点に、歴史の視点が欠けているからで、今、それら倉庫群と運河を解体してなくしてしまったら、これから10年,20年経った時、鰊漁で賑わった時代を忍ばせるものは語りと民謡だけになってしまう。それでは、小樽の町は継続的な観光客を呼べるもののない話だけの町坊津と同じ事が起こる。
・  石の倉というのは、置いといて邪魔にはなりませんよ。人が何もしなければ何も起こらないのです。造る時には大変な苦労をして石を切り出しているのです。それを積んでいく時だって、石工が知恵を使って組み合わせてあるんです。しかも、寒冷地だから、土の中にも仕掛けがあって、凍上にも耐えるように深く掘って工事をしたか、逆に海水が中に入るようにしたか、そういう工夫が入って100年経っても狂いが出ないようになっている筈です。建物ごとに工夫も違っている筈です。
・  20年,30年後に再建するとしたら、どれだけ経費が掛かると思いますか。当時だったから建てる事が出来たんですよ。壊す経費が無いほどに小樽の経済が疲弊していたのは返ってよかったんです。それによって壊されずに保存されていたんですから。もう一度再建と言う時は、群として同じ物を造る事は出来ないですよ。莫大な資本が要ります。
今、役に立たないのは、倉庫として使う事だけを考えているからですよ。気密性の高い音楽ホールやカラオケホールとしてとして使えば最高でしょうね。外気が入らない工夫がされている筈です。音が漏れませんからね。使い道は、小樽市だけでなく、日本中を相手にした決めさせてみれば良いのではありませんか。いろんな使い方があると思いますよ。
・  倉庫の所有権をゴミとしてのまま小樽市に移してもらえば良いじゃないですか。先ずね、倉庫の税を滞納させて、その代わりに小樽市がそれを差し押さえて取得するのですよ。そして、それから倉庫に命を吹き込むんですよ。蘇らせるのは誰かに貸して、ただでやってもらう。倉庫の中の整理と内装はそこを借りる人にやらせる。10年とか年限を限って、ただで貸して、10年経ったら今度は入札で貸す金額を決めさせる。10年したらまた入札と言う制度にすると良い。
それから、運河は必ず残すんですよ。汚れている運河には水を通せば奇麗になります。汚れて悪臭がするドブ川になっているのは水の流れを止めたからです。水の浄化能力いとうのは人間が川浚えをしているのとは比べ物にならない力があります。悪臭があるのは水の流れを止めている証拠です。
・  人は奇麗な川には物を捨てませんが、汚い川には捨てるんです。何故なんでしょうねえ。私だってそうしますよ。人間は奇麗なものは奇麗なままに守ろうとし、汚い物はどんどん汚く汚していく。人間は差別化の本性を持っているのでしょうかねえ。その本性に歯止めを掛けるのが神の名を借りた神聖化の領域区分かなのか。そうすると他の領域は汚くしても平気と言う事になっちゃうかなあ。川の神様が怒っているといえば、ます、汚くする事に躊躇が起きる。躊躇する様になれば、自然と奇麗になります。川の神様が怒っていると私が言っていたと言えば良い。
・  倉庫は、今すぐに活用を考えるのではなく、将来の為に情景を凍結して保存するんです。倉庫と運河は一体なんですよ。日本に運河のある街はなくなっているんです。20年して、生活が落ち着いて、人々が住んでいる所の外側を見回し始めた時、「石造りの倉と運河の街」と言うのが凄い魅力になる時がきます。黙っていても、人が来るんです。古いキャッチフレーズのある街に来た人は、思わず金を使ってくれます。そうなれば、外の景気は響かない世界になります。東京の人が手ごろな所としてきてくれます。江刺・積丹・小樽ラインを造るんです。
・  それとね、倉庫を壊して施設を造りたかった人には、別な場所を埋めるなりして造った土地に移動してもらえば良い。それらが動けば、小樽市民はその分だけ金が動いてちっとは分け前を受け取れる。
市の区画をちょっと広げるだけでいいのだから。石ころだらけの海岸に土を乗せて、波に削られないようにセメントの囲いをして、保全すれば良い。大事な魚族を守る海岸と区分けするんです。海岸線と厳しく分ければ良いんですよ。漁民の為には、風に強い港を作ってやって、納得してもらう。そうすれば、建設会社も仕事が増えるから、喜びます。後は建設会社が肥大化しないようにコントロールする事です。

・  車の中は、暑い日でもあったので、話で熱気ムンムンであった。運転している人もつい夢中になってヒヤヒヤであった。小樽の事をこんなにまで意識して見つめてくれている人が、北海道初代の高橋県令の時代だけではなく、現在の鹿児島にもいた事を発見して嬉しくてならないと言った。
・  社長と会ってくれと言われたが、雪との競争であったので話を社長に必ず繋いで、坊津の二の舞いをしないで、小樽の叡智を日本中に示して欲しい。大事にした歴史は必ず後世を生きる人々に飯を食わしてくれる筈。歴史はそれを大事にした人を裏切らないと信じると頼んで自転車屋で下ろしてもらった。


 1963年、坊津の歴史記録 「坊津拾遺」 を鹿児島県立図書館で見つけ、読んでいく内に出会った坊津を尋ねた人が詠んだ、
 「 頼めども  蟹の子だにも  見えぬかな 如何はすべき 唐の湊に  」と、言う句を読んだ時、込み上げる涙を止める事は出来なかった。貴重な文書が涙に濡れないように気遣うのが精いっぱいであったが、避けきれなかった。
如何に繁栄の日々があったとしても、私たちの生活が歴史となった日、生活者の記録は残る事はない。権力者の記録だけが残っていくだけなのだ。生活者の記録は生きている人間が残す気迫を持たなくてはいけないのだ。残す気迫の継続によって、光が増し、価値が生まれるのだと思った。坊津にはそれがなかったのだ。
 破壊が進む今、遺された物を生かしていく文化を造らなくてはいけないのだ。今日、創造と破壊が相対立する構図で語られているが歴史を生かす文化的視点の構築が必要なのだ。私には何の能力もないけれども、歴史の中に語られているものが何もない坊津に住む事をバネにして、今持っているものを破壊しようとする人々に存続を説得する事は出来るのだ。それを続けようと決心した。
  小樽市の倉庫群と運河が粗大ゴミとして「朝日ジャーナル」で紹介されているのを読んだ時、小樽市長宛に倉庫は粗大ゴミではありませんよ。今は価値がなくなっているが、光が当たる日がきます。やがてそれらが大きな価値を持つ日が来ます。破壊しないで、今は放っておける環境だけを作って静かにおかれるようにと手紙を書いた。

 昨年、1997年4月、倉庫群と運河が残された小樽市を訪れた。これらを残す為に心血を注がれた人々の苦闘を思った。破壊されないで生きる時を得た倉庫群と運河と鰊御殿のたたずまいを見た。それらがあるだけで、歴史は語られていた。
 もはや、彼らを損なわしめる者はないであろう。遺す事の大事さを彼らは語っている。歴史記録ではなく、生活者の息吹こそが遺すべき物なのである。

A グリーン アスパラ

 この言葉は、1967年11月18日に農家との会話の中で作った物である。私はサイクリングの途次、北見市農民同盟の事務所を訪ねた。鹿児島から来た青年であると言う事で、ジンギスカン料理で歓待してもらった。この時、焼き肉のツマとして、同席した農家からアスパラガスが提供されていた。
『もう、収穫期が終わって、何も提供できるものがなくなっているので、冷蔵庫の隅にあったものを持ってきた。』と言って、恐縮しながら出されたものであった。
「何というものですか。」と聞くと、商品として売っているものではなく、緑がない冬の北海道で、商品にならなかったアスパラガスの屑を刈り取って、冷蔵庫や地下室に貯蔵して、野菜代わりに使っているという。
 「アスパラガスって白い物じゃないですか。」と、言った途端に、予想していた答えだった様に同席していたみんなが大きな声で笑った。余りに笑うので私もつられて笑ってしまった。笑いながら、
「なぜ、笑うのですか。」と、聞き直した。
『確かに、売っているアスパラガスは白いんです。しかし、あれは農家が午前2時から起き出して太陽が昇るまでに収穫できた物を、日に当てない様にして、缶詰工場に運んだ物を缶詰にした物なのです。遅れて太陽が昇ってから芽を出してきた物はゴミなのです。』と説明した。
「私たちの鹿児島でも作れる物ですか。」
『日本中どこでも栽培は可能だと思いますが、柔らかい歯触りの物は、北海道でないと作れないのです。』
「それは、この厳しい自然の中でしか作れない特産物としては良い事だと思いますが、しかし、人間的でない状況でしか作れていないと言う事は、将来に向けての生産継続すら望めないではないですか。」
『そうなんです。しかし、高く売れる缶詰に出来ない以上仕方がないと諦めて、大変な状況で生産しているのです。』
「それは、非人間的生産状況の中で、何も変わらない。それを変えなければ。」
『何を変えるのですか。』
「いや、現在の生産状況を変えるのです。今の話では農家は、缶詰工場に原料を供給するだけの、いわば、缶詰工場の奴隷ではないですか。」
『何を変えるのですか。』
「では、まず整理して話をしましょう。太陽に当たった緑のアスパラガスと、夜中に伸びた白いアスパラガスは、栄養価はどっちが高いのですか。分析した事がありますかねえ。」
『あります。10倍の差があります。緑のアスパラガスの方が高いのです。』
「ならば、白いアスパラガスしか食べていない私たちは、アスパラガスという物は、そんな物だと思いこんでいるのです。その栄養価が、本当にそうであるならば、何も知らない私たちは幻想を買っている事になります。缶詰会社から騙されている事になります。」
『そうですねえ。』
「なぜ、白いアスパラガスが当たり前だと言う事になったのですか。」
『それは、日本に入ってきたアスパラガスは、缶詰で輸入された物が最初で、緑の物は、苦みがある事もあって缶詰には出来なかったのです。』
「その消費形態ですよ。アスパラガスは、缶詰でしか食べられない事で、生産が頭打ちになる筈です。缶詰工場の生産体制では追いつかない事がある筈です。年による出来不出来があるのですからね。」
『そうなんです。その事で喧嘩の多かった。大勢の家族がいるところが出荷数が多くなり、収穫人員を持たない所は折角作っても出荷が出来ない物が多くなってしまうんです。今は、パートの配分を平等にする事を農民同盟が中心になってやっています。』
「良い事ですね。しかし、缶詰に頼った出荷をしている限り、基本的な状況は変わりませんよね。」
『何でですか。』
「生産する農家と、消費者の間に繋がりがない。生産する側が消費者にこんな旨い物があると言う事を伝えていない。それをしない限り何も変わらない。」
『どうするのですか。意味が分からなくなりました。』
「あなたは、農協の理事をされているのでしょう。生産者自身ですよね。自分たちが作っている物が、缶詰でしか消費されていかない事を悔しいとは思いませんか。缶詰に成れなかったアスパラガスは、貴方に残念ですと語りかけませんか。胸が痛む事はありませんか。」
『あります。しかし、どうにも出来ません。』
「そう。今のままでは、何も出来る物はない。デモね、緑のアスパラガスを売る事を考えて見てください。そうすれば、缶詰の原料ではなく、緑豊かな野菜を消費者に提供する事になりますから、消費者と繋がりあえるのです。」
『理屈で行けばね。しかし、アスパラガスは苦いから野菜としてはどうでしょうか。』
「苦い。それは最大の長所ではないですかねえ。」
『ええっ、苦いのが長所ですか。』
「そうですよ。苦いと言う事は、大地の微量要素を沢山含んでいると言う事でしょう。ほうれん草の蓚酸の様な多量に摂ってはいけない成分が含まれていますか。アスパラガスには、」
『いいえ、それは緑のアスパラでもない事が分析で分かっています。』
「ならば、後は苦みを生かす料理方法を作り出せば良いではありませんか。北海道では、札幌の雪祭りがあるの特に、今食べた物ではラーメンと合う事ははっきりしている。ですから、その他にも、苦みを弱くする調理法たとえば、苦い物は乾熱処理をすれば水溶性の物が不溶性に変わるとか、変化して苦みが弱くなりますよね。簡単に言えば、焼くだけですよ。ちょっとぶっきら棒だけど、そういった調理法で味覚が変わるから、アスパラガスの缶詰を食べた時、甘みを感じる時がありますよね。あれは、調理の味付けによる物ではなく、アスパラガス自体が持っている特性だと思って、弟と語る事があるのですが、もしそうであるならば、もっと、深みのある調理法が考えられるのかも知れないですが、素人の詮索ですから、札幌大学の農学部に相談を持ち込んで、名産品を作る意気込みで取り組んでみたらどうですか。」
『凄い事になったよ。鹿児島の人がこんなにも考えて呉れていたのか。もっと聞きたいね。』
「調子に乗りついでですから、そうして調理法を見つけだしたら、北海道でしか食べられない物として、雪祭り会場での限定として売るのです。東京から雪祭りに集まる人は相当な数ですから、その人たちに味を覚えてもらったら、今度は東京に出荷するのです。出荷する前にテレビ局に北海道の特産品の料理の材料を提供すると言って、料理番組を作らせるのです。」
『そこまでしないといけませんか。』
「そうですよ。北海道の農協経済連をバックにすれば良いじゃないですか。」
『親父、出番がくるよ。』
「そうなったら、名前が要りますよね。グリーンアスパラガス。ちょっと長いですね。グリーンアスパラ。ガスはとっても意味は通じますよね。語呂もない方が通りやすいかな。」
『そうですね。これは頂いて良いですかねえ。』
「使ってください。お世話になった北海道の農家の方々の生活が、向上するための商標になるなら、どうか使ってください。出荷する前に商標登録はやってくださいね。グリーンアスパラとグリーンアスパラガス、両方とも登録して措いた方がいいですよ。マスコミも最初は緑のアスパラガスとか言って行くでしょうが、グリーンアスパラが使われる様になりますよ。」
『手取、足取りの指南、ありがとうございます。』
「何年か後には、グリーンアスパラガスを食べられる様になりますね。その日が一時でも早い事を期待します。立ち入った事を言い過ぎたと思いますが、許してください。」
『いいえ、明治時代に、苦難に満ちた屯田兵たち、私たちの祖先を心底思って手助けをしてくれたのは、鹿児島の出身の県令でした。それは、今も語り継いで感謝しています。今、ありがたい話が出来た事、本当にうれしく思います。今日は、北見地区農民同盟が中心になって、農家と農協の人にも加わってもらって交流が出来た事は、本当に良かった。声を掛けてくれた農民同盟の方にも感謝します。』
「そうですね。これもNHK札幌の農事番組ディレクター 及川喜一さんの御陰です。及川さんに教えてもらえたから今日の出会いを頂けたのです。」
『及川さんには、私達もお世話になっています。冷害で崩壊していく農家を何とか激励しようと特別番組も作ってもらい、我々の窮状を全国に伝えてもらえました。御陰で、多数の救援物資と励ましの手紙を頂き、どれ程励まされました事か。』
「良い料理が出来た時は、まず、北海道の農業祭りで公開して、及川さんにも食べてもらえばどうですか。」
『そうだね。そうしよう。』
「辛口の評価をして貰って、さらに改良して、雪祭りに出す様にすれば、良い物に発展して、やがて全国の食卓に載る様になれば、一大特産物になる。」
『良いねえ。想像しただけでも嬉しくなってしまう。』これには、一同爆笑であった。
「まあ、良くなると全国で真似をする様になるでしょう。その時、グリーンアスパラと出荷する箱に書けるのは北海道産だけという権益を守るか、みんなにも使わせるか、それは、また考えてください。」

 これから
2年後、NHKの料理番組で初めてグリーンアスパラという名前で北海道産の緑のアスパラガスが使われた。『グリーンアスパラというのは商品名なのですが、』と前置きして紹介された。炒め物であった。この前に、北海道に行かれた方は、雪祭りで食べられたと思いますがと言うのを聞いて、感無量の思いであった。



 坊津町の歴史民族資料館を造るように坊津の町長であった長井 正維氏に提起したのも、この視点からの物であった。長井 正維氏はこの心を汲んで下さったと信じる。歴史を語る縁が何もない坊津を思う時、共通の無念を感じておられた筈、「松籟」について語った時、目に涙を溜めておられた。