変わる坊岬周辺
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行政区画としての川辺郡坊津町は11月6日に廃止されなくなった。平成17年11月7日から市町合併により南さつま市坊津町となった。合併したのは、旧加世田市、川辺郡坊津町、笠沙町、大浦町、旧日置郡金峰町の1市4町の合併によるものである。このホームページでは従来の坊津町の呼称はそのまま使われるので、そのままに表示します。
トンネル完成
1999.8.11
定期バスが我が家の上のバス停に止まっている。その後ろには、十数台の自家用車両が止まっているのが見える。バスの運転手は、上之坊の運動広場に到達する前に、後続の車両を先に行かせるようにしているが、それでもずらりと繋がってしまう。
停留所に停まっている間は行き来不能。
この様子も、トンネル工事が完成するまでの今年いっぱいの光景。上之坊に関係のない車はバイパスのトンネルを通るようになるだろう。勿論観光バスもスイスイ。
上之坊の空気のきれいになりそう。
Bバリアフリーの町坊津
2000年の今、バリアフリー法案が言われているが、坊津では、遙かな以前から、バリアフリーの町になっている。
1964年の6月、当時の坊津町長、長井正維氏と鹿児島市の市町村共済の保養所「城山荘=現在の城山会館の全身」でいつものように話していたときのことであった。この日は、事務所が共済組合の下にある町村会の決算総会が終わって、
この町村会総会で、長井町長は長い間続けていた鹿児島県町村会の会長の職を解かれ、川内市の横山市長と交代していた。それは、二十数年続けてきた全国町村会の副会長の職を解かれることを意味していた。
この慰労会の後、長井町長は共済組合の時」局に上がってこられた。そして、夜は、宿泊先の「城山荘」に遊びに来るように言って行かれた。夜、私は町長長井正維氏を長い間のご苦労を慰りながら、宿泊する部屋に上がった。最初、酔いが回っていた様子であったが、部屋で、3杯ほどの茶を出して、飲み干されると、酔いが醒めていく感じであった。遠慮して、退室しようとすると、
「今日は、未だ、早いから、心配しないで、話をして帰れよ。」と止められた。理事長を終わった寂しさがあるように見えたので、 それで、しばらく、話をすることになった。
「自転車で坊迄帰るそうだが、無理するなよ。若い時に無理したことは、年を取ってから、いけなかったという事を気づくけど、その時は、もう遅いんだよ。身体は苛めてはいけないよ。大事にしないとね。若い時は、年寄りがいう事だと思って、忠告が耳にはいらんのだけど。」というような話から始まった。
当時の私は、上之坊の「仲良し会=子供会」をどうして指導していくかで頭が一杯であった。子供会の指導に熱心だった公民館長が失脚して、仲良し会の指導体制も支柱を失い、かろうじて、自力で運営していた。指導者がいなくなった仲良し会は、烏合の衆化していた。見守ってくれる大人がいないことがこんなにも、組織の集合力を失い、会合の意義を見失って質を落としていくのが、座視できなかった。そうかと言って、毎週土曜日に帰って日曜日の夕方戻る、鹿児島・坊津間のバス代は薄給の身では、とても捻出できない状態であった。そこから、自転車で坊津・鹿児島間を往復する方法を選んだのであった。
当時は、坊津・鹿児島間に直行バスがあり、そのバスと競争をする形で走っていたので、いつしか、バスの後ろから追いついた私に、バスが道を譲ってくれて、先に行かせるようになっていた。そうしたことが重なるに連れて、町長の耳にも入っていたのであろう。バスを自転車が追い越していくのだから。そして、最後の耳取峠で追いつかれることがあったから、坊津の者であることは、自然に知れ渡っていたのだろう。バスで鹿児島に行く私を見て、「今日はバスですか。」と、運転手や車掌から挨拶を受けることがあったから。
しばらく、事の次第を語った後、長井町長が、
「巌君は、里道の改良について、どう思うかい。」と、聞かれた。
「大賛成です。」と、答えた。
「それはいいんだが、何故かだ。」
「その理由付けは、いろいろ出来ますけど、私は、多々分他の人とは違うと思います。」
「そうかな。」その時、長井町長はタバコが切れていた。バッグの中を探して、諦めた様子で言われた。
「何が違うのかい。」と、話を続けるように催促された。
「はい。この間、高校の跡地に老人ホームを造った方がいいと言うことは話したのですが、あの話をした動機は、各家庭の出口にある階段で足が竦んで屋敷から出ることが出来ない老人の姿を見ることが多いことにありました。家の周りを当てもなく、ぐるりと何回も回っている老人を見たとき、何をしているかと聞いてみました。当然の答えが返ってきました。『何もすることがない』とこの人は、入り口の高い階段から出られないのであることを知っていましたので、ゆっくりとなら歩けるのになあと思いました。」
「うん、」
「自転車で坊津町内を見て回りました。殆ど、県道から行けるところはありません。久志迄は同じです。全部階段になっています。」
「確かに階段が、県道の繋ぎになっている所が多いねえ。」
「繋ぎだけではありません。県道と里道の間に掛かっている側溝の蓋も県道より10cm位高い物になっています。里道側も段があるのです。」
「うん。そうだな。」
「つまり、老人は、外に出て、隣のブロックに行くことすらも出来ないのです。」
「どうすればいいかなあ。」
「簡単です。里道を段差なしで舗装すればいいのです。」
「それはねえ、言うのは簡単だが、予算がねえ。」
「いやぁ、坊津町では、里道改良を幅を2m以上に広げないと補助を出さないと言っているでしょう。あれが、どれほど、町民の居住環境改善の意欲を殺いでいるか。例えば、上之坊では住み良い環境を作るためにどうしたらいいかを話し合ったときに、この道幅の改良の制限で諦めたんです。」
「それは、制約のある予算の中だからねえ。」
「発想を代えるんですよ。」
「どういう風にかい。」
「町は、資材費だけを出すのです。後は町民に任せる。実現不可能な里道改良の制限条件を捨てて、老人が階段のために、屋敷に閉じこめられていた状態を打ち破って、自由に隣の家に行き合える町を作るのです。そういう里道改良にするのです。そうすれば、坊津に観光に来た老人達も、自由に町を見物が出来るようになります。予想外の効果があると思いますが。」
「それは期待できるね。」
「老人が安心して散策できる町は、幼児も安心して遊べる町なんです。」
「うん。」
「人間が段差を意識せずに歩けるようになると、真っ先に通るのは、段差で阻まれているバイクでしょうけど、それは、一頻りのことで、一時すると誰かが転んで、無茶苦茶には走らなくなりますよ。元々、人用に改善しただけの道をバイクが通るのですから。」
「町は、資材費だけを補助して、後は、町民の自発的な行動でやって頂くとすれば、どんどん、やるんじないですか。」
「平崎とか、今岳とかの、老齢化が進んでいるところが残ってしまうなあ。」
「そうした所は、自力で改善が出来る所が終わる頃合いを見計らって、町道改良としてやってしまえばいいでしょうよ。」
「改善を済ませた所を見れば、雨の日や夜も足下を心配しないで歩けることが、どれ程大切なことであるかが分かりますよ。安全に行動は、心の余裕になって行くんです。」
「坊の事をよく見ているねえ。そういう若者がもっといてくれれば、坊津も変わるんだが。」
「坊津を後にした者は、みんな、考えているんですよ。ただ、こうして語るチャンスを持たないために表現できないだけだと思います。坊津の人間は厚い愛郷心を持っていると思います。」
「そうであってほしいなあ。」
「町長には、そうした声が届きにくくなっているのでしょうねえ。」
「これからも、私がここに泊まるときは、連絡しておくから、遠慮しないで、来なさいよ。」
「はい、今日は出過ぎたことを言いました。」
「いや、いや、参考になる話だった。」
この後、坊津町は、里道改良に関する条件を無くしていった。
そして、資材費を全部、町が負担するようになった。
バリアフリーの町が住民の手で実現していった。
A下水処理工事
一昨年以来、坊津町坊の内、上之坊・坊ノ浜・下浜の屎尿及び下水排水が環境整備事業として管理処理されることになった。その配管工事で海辺に近い集落で掘り起こしの工事が続いているのである。坊ノ浜地区では既に水洗化されている家庭もある。
昨年度は、上之坊全域の配管工事が行われて、あらゆる場所で掘り起こしが行われた。毎日、どこかで削岩機の音が続いていた。当然狭い道は工事のため、通行できない状態が断続的に続いた。
地表では配管工事が、地下では国道のトンネル工事が発破を伴う規模で行われて、上之坊の地質が形成されて以来最も大規模な岩盤の変更が行われたことになるであろう。
ともあれ、16年前に審議会で観光立町を標榜する坊津町が、水洗化に取り組まないのはおかしい、早く水洗化の計画を立てろと言ったとき、町職員は不可能ですと言ったが、実現したのである。


@坊トンネルの工事中
交通の難所になってしまった、226号線の上之坊から中坊までの間を霧島の山ノ下を通るトンネルで貫く事になって、現在トンネル工事中である。
現地
この画像は鹿児島県の管轄土木事務所から提供を受けた物を使いました。
空から見たトンネル現場
この画像は鹿児島県の管轄土木事務所から提供を受けた物を使いました。
完成想像イラスト

この画像は鹿児島県の管轄土木事務所から提供を受けた物を使いました。
中坊側工事(鳥越坂の分岐点)
このトンネルが開通すれば、上之坊の運動広場から横道附近の離合困難がなくなり、スムーズな交通が出来るようになる。譲り合う頃は何でもない所であったが、我先に行こうとする運転者が増えて、渋滞する様になっていた。