坊の岬の海
坊の岬に至る道は昔は馬が通れるだけの尾根道であった。まさしく踏み分けて踏み分けて道になっているだけで、人の通りが少ない季節は草が生え放題であった。
灯台には二人の灯台守が家族とともに暮らしていた。灯台と人家との間は一番近い所でも最低一里歩かなければならなかった。小学生を持っておられる方の時は、夕方、人家の所まで迎えに来て居られる事が多かった。私が中学生の頃は大内田という家族が居られ、悪餓鬼たちに「おっちら」と呼ばれて引き回されていた。
私は彼たちが気の毒で悪餓鬼たちに捕まらないように上中坊から我が家に連れて行った。
その頃は唐芋しかなかったが、しばしばそれで歓待した事にして、一時を過ごした。私の家は上之坊であるので、帰りは近くの山から帰るようにして山の上まで送るようにしていた。今の岬の道である。
私たちが岬に行くのは、12月から2月の頃に馬草を切りに行く時の週1回と春4月3日の三月の節句の日、後は9月から10月に十五夜に使う綱練り用の茅を引きに三回くらい行った。それでも行く回数は町全体の子供に比べると多かった。他の地域の子供は遠足の時ぐらいであったから幾つもの尾根を越えていく道の悪さと遠い事に音を上げた。行きをはしゃいだ者は帰り道は棒のようになった足を引き摺り、網代から坊の浜に降りる「寺の坂道」を横になってズリ降りた。それほどの悪路であった。
灯台守の子供たちはその道を毎日歩いて通っていた。それでも坊の岬はいい方なのだよと大内田君は語った。また、最初はいつも坊の浜から行き来していたのが、我が家に遊びに来た後は親たちも上之坊から行き来するようになった。上之坊からの道が早い事を知ったらしい。
上之坊からは中学校の早く行ける近道があった事と苛めていた悪餓鬼に苛めを止めるように言ったのが効いたらしい。
上之坊からの道は人の行き来が夕暮れまであり、目が届いていた事もあった。御苦労が多かったのである。
今は上之坊に入る手前から、四輪駆動の車なら登れる道がある。潰れた牧場が残してくれた貴重な悪路である。現在は町道として寄付されて、整備されるようになった。上之坊に住む者たちが夢に見た道路ではあったが、牧場の跡地は横浜のブローカーに買われてタヌキと兎の運動場になっている。
ともあれ、岬に行ける道は多くの農民の夢は果たされぬまま潰れた牧場の遺産として残されて、牧場の開設の時に反対して参加しなかった周辺の山を持っている人々にとって、車で山に行ける生活の道となってしまった。同時に秘境であった坊の岬が簡単に行ける最果ての道ともなった。瀬釣りを楽しむ人にとっては、海岸に出る恰好の道にもなっている。
坊の岬の一帯は暖帯照葉樹林で覆われている。岬周辺はウバメガシと丸葉肉桂が多く、ヘクラやトベラが多い。風が強いため大きい木は育たない。松は塩害を受けて海側は伸びが悪く、崩れ続ける山肌に押されて海側に倒れながら伸び続けている。
岬から少し手前は網代付近まで椿の林が続いている。この付近は木が低く密に生えているで通り抜けることができない。風が吹く日は山全体が一塊の状態で揺れ動くので、木が根元から動き、木に寄り掛かっても
立っている事も難しい程である。
子どもの頃はこの辺りに草切りに行くと、椿の木に下がって蜜を吸うのが楽しみなもので時間の経つのを忘れて叱られたものであった。
椿林が過ぎると味噌付木の山になる。味噌付きとは当て字なのだが、味噌といっている物は、木の果実である。10mを超える大木になるが里山に近いので薪炭林になっているところで、木が10年になる頃には
伐採されてひこばえする。その木は2m以下でも花が咲き、花のほとんどは結実するので3mmから7mm位の色の黒い実になる。味は甘酸っぱく、木によって甘みを感じるものもある。小さいほど甘いものが多いが、小粒で酸っぱくて身震いするものもある。しかも年によって味が違う。毎年甘い木はいち早く誰かに食べられちゃってがっかりするする年もあった。それかといって熟れ頃よりも早かった時は、苦く、何日も渋味として舌に残って苦しめられた。その間、葉で舌をしごく動作を繰り返すので笑われた。4月頃の光景でした。
この付近にはムベやアケビが多く、12月から3月までの楽しみだった。
出来る丈熟すまで待って、人に気づかれる前に採る難しさがあった。更に人家に近くなると桜や松などの大木が多くなり、その下草として味噌付きの木が生えていた。
坊津の3月の山々は桜の花で覆われる。坊津は昭和25年頃から桜の木を切らずに残す運動をしたので、薪炭林として伐採する時、桜を残してきた。ただの山桜であるが暖かい年は早い木は3月5日前後、遅い年は4月3日頃に開花する。しかも山の斜面の向きによって花の時期が違い、長い間、楽しめる。
以下 続く