| キノホルム製剤(スモン病の原因薬)排除の戦い | |
| スモン病患者を治す |
スモン病は原因物質がキノホルムとされながら、裁判の過程では、決着が付けられないままになったものです。私は、この製剤排除の為に職場で取り組み、後では後遺症を直す事に取り組む事となった。
私は1963年から1967年まで鹿児島県市町村共済組合に勤務していた。最初の担当業務は庶務課企画係兼福祉係であった。入ったばかりで何も分からないままに、河野課長におんぶに抱っこで業務をやっていた。保養所「城山荘」の事務管理と「共済たより」の編集が最大の仕事で、これだけは事務局長が書いた原稿を紙面に配置して、印刷し、市町村への配布であったので、意外にも過去の自分の知識の蓄積が役立った。
そうして1964年になり、河野課長から組合員への家庭常備薬の配布の準備を始めるように言われた。意味が分からないままに以前の資料を見つけ出して、要領を調べてみると、業者を指名して見積もりを取り、その金額が最も安い業者に発注して、市町村役場の職員に家庭常備薬として配布するようになっていた。そして、その業者は大阪の製薬業者が取り付けのようになっている事が分かった。
入札による競争原理をとって、業務の公正さを追求すべき事と、地元鹿児島県の製薬販売業にも入札経験を積んでもらって、仕入れの段階で大阪の業者に負けない能力を持てる機会を提供すべきだと考えて、課長と事務局長に提案した。やれるか、やってみろという事であったので、今までの納入業者と鹿児島県内の4製薬販売業者に見積もりを依頼してみた。
見積もりに応じてくれたのは大阪の業者と鹿児島が3業者であった。見積もり依頼に応じなかった業者は仕入れルートが大阪の業者と重なっている為、仕入れ量が圧倒的に違い、単価で勝負にならないという事であった。それでも再依頼をして見積もりをくれた。入札の日取りを決めて、入札をしてくれたのは、3業者であった。
その前に河野課長に「整腸剤に『キノホルム製剤』を入れていない事を確かめて下さい。それは『スモン病の原因薬』という疑いが掛かっています。キノホルムが入っていた時は、発注文書は起案出来ません。」と言明していた。
「入札に先立って行う課長会議で確認しておいて下さい。」と付け加えた。
入札が終わって、大阪の業者が落札したので、発注文書を起案するように河野課長が私に指示された。そこで落札業者が配備薬として組み合わせた薬の内容を確認させてくれるように求めた。整腸剤について確認を行って見ると、矢張りキノホルム製剤が入っていた。
「河野課長、この配備薬の内容では、私には発注文書の起案は出来ません。組合員とその家族がスモン病に掛かる可能性が否定出来ない薬物を、家庭常備薬として配布する事は、人の道に背く事です。共済組合が背信行為をする事を業務命令として指示されても、私は発注文書の起案行為について執行を拒否します。もし、どうしても此の侭で発注をしたいと思われます時は、課長職権でなさって下さい。スモンとキノホルムの関連を知らなければ、責任を免れる事は出来るでしょう。しかし、私は、昭和35年以来今日まで、数種類の科学雑誌と共済組合が取っている全新聞の切り抜きで、スモンに関する大量の資料を集めて持っています。共済組合に入った時から、私が大量の記事の切り抜きをしていたのは知っていらっしゃるでしょう。それがスモンの関連記事だったのです。スモンの原因はウィルス説と薬剤節がありましたが、私が集めている資料ではキノホルムが原因である可能性が一番高い事を裏付ける資料ばかりになってきました。ウィルスによる説は、メーカーの謀略が入って、真相究明を撹乱している印象が強く感じられるものばかりです。これは記事としては書かれていませんが、多く
の資料を突き合わせて得た結論です。原薬製造メーカーであるチバガイギーは一年でも販売出来る期間を引き延ばして利益を得ようと企んでいるのでしょう。キノホルムがスモンの原因薬剤である可能性が否定出来ない以上、私は組合員への薬剤配布の発注行為は出来ません。私は首になってもいいです。ただ、将来組合員とその家族からスモン病が発生した時は、告発しますよ。」一気にこう言い切った。
私の長い発言を聞いた河野課長は、顔を真っ赤にして、うろたえた。当然であろう。忠実な上下関係であり、私が共済組合に入った時から、算盤もろくろく出来ず、簿記は全く知らないで、正に手取り足取り、仕事のノウハウ一切を教えて下さり、ようやく、少し仕事が出来るようになって、楽になってきた途端の反逆行為である。
しばらく沈黙されて、キノホルムというのはどんな薬剤であるのかを私に聞き直された。そこで、キノホルムは日本と外国では使用について、毒性に関する、医者の認識がなく、外国では2週間以上の連続投与は行われないが、日本では長期間、大量投与が無抵抗で行われている事、配布薬としては前回の配布薬の中にも入っていたので、今回の配布薬を許すと最低発病摂取量の3倍くらいになる事、等を説明した。河野課長も私が最初に確認を求めた意味が飲み込めてきたようで、大倉野事務局長の所に発注業務を拒否した事を報告に行かれた。
大倉野事務局長も事態が余り良く飲み込めていない為、上気した顔で私を呼びに来られた。事務局長席の前には矢張りハゲ頭を真っ赤にした製薬会社の専務が呆然とした状態で座っていた。直前まで楽しげに語っていた経理課長が出て行き、話は事務局全体が知って緊張した。業務拒否は恐らく始めてであったろう。いや、前代未聞の話であった筈。
私は、河野課長に話した事を、もう一度大倉野事務局長にも話した。話の内容は製薬会社の専務も聞いていた。事務局長が専務に対して感想を聞かれると、即座に当然の様に
「絶対に安全です。厚生省の医薬品として認めている安全に対する保証があります。絶対に心配はいりません。」と答えた。
事務局長は、私に発言を促す動作をされたので、
「薬として売っておられる立場としては、すごく当然なお言葉であるのですが、おっしゃる言葉は絶対善でもないのですよ。厚生省だって過ちを犯します。かつてサリドマイドを売っていた大日本製薬の経営の為に、サリドマイドの販売を毒性に気付いた時に、すぐ販売停止にせずに6ヶ月も売り続けさせた。その6ヶ月でどれだけの規制が増えたか知っていますか。厚生省は国民の健康の為ではなく、製薬会社の経営の為に厚生行政をやっているのですよ。国民の健康を損なう事態が進行している疑いが出たら、先ず、疑わしい薬剤の販売を停止して、その薬剤の毒性を見直すべきです。国民を使って薬剤の毒性試験をやっているのは日本だけです。キノホルムだって、ヨーロッパの諸国では、販売停止になっているでしょう。」と決め付けた。
製薬会社の専務は更に真っ赤になって、
「そのような報告は、聞いた事もありません。有り得ない事です。」と反論した。
「今言った事を知らないとしたら、貴方は職務怠慢ですよ。販売する薬剤に関する情報を知らないで業務を行っている事になる。それは、お客に対する背信行為だと思いますよ。販売する薬剤に関する情報は全て消費の中間介在者である医師・薬剤師に伝えるべきですよ。受け手は教えられたリスクと薬剤の主作用のどっちを取るべきかを判断して投与の是非を考える筈です。情報を隠して薬剤を売るのは人倫に対する背徳です。」とむきになって捲くし立てた。
私の何時もと違う感情を露にした言葉に、事務局長は冷静になるように宥められた。・
「いや、申しておられます事、もっともです。思わず自分の若い頃を思い出してしまいました。尊い情熱と受け止めます。ただ、言われるような毒性の資料を見た事が無いのは確かなんです。」と専務が語った。
「本当に見られていないとすれば、重大な事です。帰って、会社内を探してみなさい。重要マル秘文書として保管されている筈です。私達の共済組合を仕入れた薬剤の投棄場所とされる事は許しません。一番下っ端の首ですが、私は首になる覚悟でいます。」と言って、自分の席に戻った。
下宿に戻ると、今まで集めていたキノホルムに関する資料を整理し、科学雑誌も資料のページを抜いて纏めて、河野課長経由で事務局長に渡した。事務局長は物凄い時間を割いて読み通された。事態が深刻なものであるらしい事を感じられた様に思えた。
その日から、専務は毎朝私の所に来て、考えを変えてもらえませんかと言い続けた。
私は、早く帰って、差し替えを検討される様にと言い続けた。
水曜日、専務の言葉は私を激昂させた。
「昨日はね、3つの病院からお呼びを頂きまして、参りました。大学の先生がおっしゃって下さいましたよ。キノホルムは本当に良い薬だ。1日に200g投与しても異常が出ないんだから安心して投与出来ますよ。今日は80Kg買います。と注文を頂きました。お医者さんがこれだけ使って下さるのですから安全ですよ。」と
「貴方、200gという量はどんな量か分かっていますか。キノホルムは粉剤として投与されている事になる。200gというのは飯茶碗一杯になりますよ。それだけの量をやると言う事は、その薬は効かないという事を示している事が分からんのですか。その医者は馬鹿だ。その薬を飲む患者がいるもんですか。捨てている筈です。それを飲んでいると思っている医者は大馬鹿だ。貴方はそんな馬鹿医者の言った言葉で私が納得すると思ったのか。馬鹿にするんじゃない。鹿児島県人に対する冒涜行為だ。許るせん。」と大声で怒鳴った。内心、これで決まるなと笑ってしまった。
「いや、決してそんな積もりはありません。納得して頂けると思ったんですが。」と専務の頭は本当に湯気が上がっていた。
「早くしないと納期がなくなりますよ。違約金を払わされる事になりますからね。これについては容赦はありませんよ。首になる私の共済組合への最後の御奉公ですよ。」と言うと、専務は私の前を急いで離れた。
会計課長が、「もうぼつぼつ折り合わんかよ。」と言いながら肩を叩きに来た。
「組合員の健康の事で妥協の余地はありません。キノホルムで悪くなった身体は医学では治す事が出来ない状態になり、保険給付がずっと続く事にもなるのですよ。それは組合の負担が重くなる事に繋がります。これを妥協する余地がありますか。」と反論。以来寄り付かなかった。
中堅の先輩は「上村、課長会議で入札結果が決まったものを、平のお前がひっくり返していいと思うのか。ヨカ加減にせんか。引き時と言うものがあっど。職員全員を敵に回す事になるよ。」と言った。
「私は一人になる事は恐くはない。配布薬で一人のキノホルムでスモン患者が出る事が恐い。大事な事は組合員からスモン患者を出してはならん事です。今は私が言っている事は分からんでしょう。しかし、後5年したら、今私が言っている意味が分かる。その時では遅いのです。課長会議では、配布薬とスモンとの関連を知らないで決めたけども重大な錯誤を持った決定であった事が分かったら、しかるべき方向に決定を変更するのが筋ではないのかなあ。先輩からそうする様に働きかけて欲しい。」
「それは言えるけどよお。下がらんか。お前は十分言う事を言うた。そこまでにした方が良いと思うがねえ。」と言った。
事務局全体を見ると、傍を通りながら「頑張れ」と身振りで無言の支持を示して行く職員もいた。
金曜日、専務は箱詰めの段取りが進んでいるか見てくると言って大阪に帰った。
「ちゃんと薬剤を差し替えてくるんですよ。」と言葉を送って絶対に譲らないことを示しておいた。
火曜日になって、専務が来た。一応、私が考えを変えてくれたかと言ってきたので、金曜日の線でちゃんと纏めてくれたんでしょうね。毒性資料もあったでしょう。というと、無かったのでチバガイギーと田辺製薬に問い合わせ中と答えた。
事務局長の所へ行き、話をしていた。
課長が呼ばれ、その後、事務局長がやって来られた。
「薬剤の差し替えをさせる。入札をやり直すかなあ。」と聞かれたので、
「キノホルムが一番やすい原料ですから、差し替えると差額を払わないといけなくなると思いますが、差額が2位の入札価格より遥かに少なければ、そのままで良いのではないでしょうか。課長会議で決めて下されば、私は異論はありません。」と答えた。大倉野事務局長は晴れ渡った笑顔になられた。
そして、直ちに課長会議が開かれ、キノホルムの製剤を含まない整腸剤に差し替え決定がされ、即日、発注文書を作成し、持ち回りで各課長の決済を受けて、事務局長に発注をお願いした。
書類の提出を済ませた後、河野課長に我を通した事のお詫びを言った。河野課長は、組合員の健康の為の薬剤配布の意義の原点に関わる問題だったが、途中でよく折れずに頑張ったねと言って頂いて、ぐっと来てしまった。
長い1週間であった。
キノホルムの排除に成功して、組合員からスモン患者を出さずに済むと思うとほっとしたが、前回までの配布薬の中にある整腸剤を廃棄するように繰り返して「共済だより」で呼びかけた。また、他県の共済組合に出張した時は、この顛末を語って、廃棄するように働きかけた。
キノホルムとスモン病の関連を製薬会社は認めようとしなかったが、キノホルムの販売が停止になると、スモン患者の発生は激減した。
スモン病は治せる傷害である。
@の経過で、キノホルムによるスモン病の悲惨さを知るに付け、この病気を医学の様な薬剤によらない方法で治せる方法はないものだろうかと考え続けていた。医者でない私がその治療法の事を考える事など、無謀な事であった。
しかし、何とかして治したかった。身体の中に取り込まれた物質が体外へ排除出来ない状態になっている原因がある筈である。その仕組みを見つけ出す事が出来れば、取り込んだ化学物質を再び排出出来る筈である。
私は、1958年に気付いた人体の拘縮の仕組みにその可能性が隠されているのではないかと考えていた。1962年にこの人体の拘縮が解除出来る現象を消去出来る方法を展開する入口までは来ていた。つまり、猫を使った実験により、拘縮を解放出来る事までは分かったのである。
ただ、人体に適用するには、何故拘縮を起こすのか、原因となるシステムが分からなかった。その中で、1967年に自転車によるサイクリング日本一周の途中、札幌で世話になった方で始めて自分が組み立てた方法を使う事になった。
寒さに震え、電気ストーブを抱え込む姿を見て、説得して、使ってみたのである。やがて、黒い肌色が白さを感じる程度まで変わり、手足が温かくなってきた。それは、血流の変化を意味した。
その後、1969年に自分自身が交通事故にあい、その変化が血液の流れの変化を変える事、其の物が拘縮の変化であり、拘縮が解けた時、苦しみが消え、痛みが消える事を体験した。自分が研究し、開発して持っている技術が痛みで行動能力を失っている人間を、行動出来る人間に戻せる事を実例の積み重ねで確認し、姿さえね変わる事を確認した。一つの切っ掛けで病院の医師が検証する中で実証出来る事となった。
そうした経過の中で、人間の身体の中に、現代医学では知られていない仕組みが存在する事を発見し、更に、自分自身が事故で負傷した時に起こった現象がもう一つの仕組みとして、人体を苦しめている事が明らかになった。
ここで、初めてスモン病が治せるかもしれない苦しみとして、私の関心の射程に入ってきたのである。
スモン病が治せるかもしれない手応えを感じていた時、福岡県で最も重症の患者と言われる人がやってきた。車椅子に座ったままで来て、御主人が抱えて施術室に下ろしたが、その全ての動作の間中痛みであがき、泣き喚いた。スモン病がどれほど悲惨であるかを知らされた。
しかし、その動作の全ての瞬間に亘って、私が関与しうる痛みの領域が含まれている事を知らせていた。
「貴方は、完全に良くなってしまっても良いですか。ここまでの状態になるのには、相当の年月が経っていると思いますが、補償問題は支障はありませんか。」
「はあ。」
「現在ある障害は、全部消せるかもしれないのです。そうすると、補償を受けられなくなる可能性があります。」
「元気が回復する方が良いです。元気になれたら何も要りません。」
「本当ですね。補償は打ち切り難になる方向でしたよね。」
「ハイ。そうです。どうして、そんな事まで知っていらっしゃるんですか。」
「ずーっと、スモン病を見ていたからですよ。スモン病が始まった時から治せる方法を考えてきたのです。私はささやかながら、スモン病を阻止する為に戦いましたよ。鹿児島だけのそれも市町村職員共済組合という組織の中だけの事ですけどね。」
という事で、第1回目の施術を始めた。
スモン病の患者を触るのは初めてであった。患者は、私が触る全ての過程において、反発するような動作をし、全過程において恐怖からの防衛動作をし、そのために筋肉に起こる痛みで苦しんだ。最初の10分間、わざと無視したままで施術動作をした。10分経過しても庇い動作が止まらない事を確認して、
「こらーーーっ、お前は何をしているのか。ここに何をしに来たんだ。同情をして貰って、機嫌を取られたいのか。その積もりだったら帰れ。俺は機嫌は取らんぞ。ここは戦いの場だ。現在あんたの身体にある病気と闘うんだ。それが出来ないのなら帰れっ。あんたは口では直りたいと言いながら、旦那さんの優しい心に胡座を掻いているんだ。真剣に病気と向き合って直す気がないのだったら、さっさと帰れっ。直るより、悪いままの方がラクチンなんだから、そうすれば。」と怒鳴った。
怒鳴られた患者はびくっとして、我に帰った。
「いいえ、は、はいっ。私は甘えているのですね。帰りません。弱音は言いません。頑張ります。お願いします。」
「頑張るのは迷惑です。何にもしないで寝ている事だけが、本当の協力です。全身の力を抜く。息を詰めない。力を入れようとする身体に言い聞かすのだ。力が入らない。痛いのではない。肉体よ、私(魂)の意思に従え。今身体に受けている痛みは苦しみからの解放の為の痛みだ。今までの様に破壊される痛みではないと言い聞かせなさい。魂から肉体に呼びかけるんです。」と強い語気のままで言った。
患者は無言で目を剥いていたので、
・ 「無言で言わずに口に出して言って。無言で考えているのは肉体には伝わらん。肉体に言い聞かせるんです。はっきりと。」
患者は、声を出して呪文を唱えるように言った。私は、わざと
「声が小さい。もっと大きな声で言わんと、肉体には届かん。繰り返して。」
と、声を上げさせた。
患者は震えながら、大声を上げて言った。
それから、再び鎖骨の矯正を再開した。
最初は出来なかった矯正が、抵抗が少ない状態で可能になった。鎖骨が動くのに比例して腸が動き出したのが、蠕動音の発生で確認出来た。その内、屁が出て顔を真っ赤にした。笑うと、
「今まで出た事がなかったもので、我慢出来なかった。」と詫びた。
「なーんも詫びる事はありません。健康な腸の状態になっただけの事。次はトイレですよ。」と、言った。
まもなく、「お父さん、トイレに連れて行って。」と哀願した。
車椅子に乗って行ったが、帰ってくる時は、車椅子を押してきた。
「貴方は、自分がしている事は分かっているんでしょうねえ。」と念を押した。
「煩わしくなったものですから。いけませんでしたか。」と聞く。
「いえ、結構ですよ。ただ、急激にやって欲しくありません。骨折の元です。18年も使っていなかった骨に急に力を掛けると折れますよ。」
「ほんとですね。気を付けます。」
「どれだけ守れるか。今日出来た事は、まだ多くありません。10分の1以下でしょう。ですから、今までと変わらない注意が必要です。動作のスピード、テンポ、大きさ、これらは2倍になると骨には4倍の力が掛かるんです。動作の時は全部掛け算ですよ。特にスピードが変わっていますからね。過去の健康であった時期の歩行能力のイメージで歩かないんですよ。ゆっくりと歩くんです。」
と念を押して言った。この日は、また伝い歩き程度の状態であった。
2回目の施術を完了して、患者に立つ事を命じた。ふら付いたらいつでも支えられる体勢で構えていた。
しかし、患者は何事もなかったかの様に立った。そして歩いた。その歩き方は、今までもずっと歩いていたかの様な歩きぶりだった。人間の能力はいかなる事態の中でも失われていない事を示していた。本人が絶望しない限り、肉体は能力を復活する力を秘めているのである。それは、私の心情であったが、目の前を歩く患者がその事実を物語っていた。
「良いですか。今から言う事を守って下さい。貴方の身体はガラス細工の様になっています。本当は今日、そんなに歩けてはいけなかったのです。貴方は有頂天でしょうが家から出てはいけません。二階に上がる事は禁止します。1ヶ月間は家から出ないで下さい。出たら壊れますよ。禁止ですよ。」
「はい。」
「返事が不満を表していますが、禁止です。」
「ハイ。守ります。1ヶ月ですね。」
「そうです。」
と言ったが約束は守られなかった。
家から外に出ない事は守られたのであるが、住んでいたのは福岡市の大きな市営アパートであった。自分達は1階に住み、後見する長男が結婚して5階に住む事になったという。丁度、衣更えの季節で、一人で沢山の寝具を夏物に入れ替えて布団を持って何度も会談を上り下りして、最後の一つを持って下りる時に事故が起きた。
布団を抱えて、最上階から、毬の様に転がって落ちて一番下まで止まらなかったと言う。
3回目の施術の為にきた時、実は今度で終われると思っていたのだ。しかし、目の前にいる患者の姿は余りにも違っていた。X線写真を取って貰うように指示して、順番を入れ替えて、病院から貸して頂いた患者のX線写真を見たが、余りにも異様で、骨格構造がどう変わっているのかを理解出来なかった。X線写真から骨格状況を読み取れないのである。写真から患者に起きている事態が読み取れないと言う事は、その異常部分に手が出せない事を意味した。
それからの1年半は激しい痙攣で手の施しようがなかった。ただ、異常事態を軽減する為の鎖骨の矯正だけを進めた。その患者の身体で起きている事態が理解で来たのは、6ヶ月後の事であった。
脊椎の腰の部分が3番と4番の間で90゜捩じれ、そのズレた骨が僅か1Cmだけ重なっている状態だったのである。
そのため、脊髄が圧迫されて異常反応している姿でいたのだ。
12月24日に来た時、補助をしてくれる看護婦に、
「今日はクリスマス・イブだ。気絶しても治すぞ。ギャア、ギャア言っても手を緩めるなよ。大きいプレゼントを遣りたいからな。」と指を鳴らしながら言った。
患者はただならぬ雰囲気に、尻込みした。
「逃げるか。許さんぞ。車椅子は外に出せ。」と退路を断った状態にした。
「さあ、これで逃げられまい。這って逃げる時は、足を取って引き戻すからな。覚悟は出来たかあ。」と大袈裟に迫った。
患者は、深呼吸して、目を見開き、決意を言った。施術を始めると、矢張りうまく行かなかった。
その時、看護婦達が固まって話をしていた。
「貴方達は、何をしているの。」と聞くと、
「帰るのだけど、院長先生が、来客の方と話しているので暇つぶし。」と言う。
「じゃあ、5分だけ、こちらに来て、手を貸して欲しい。手が10本ほど欲しいのよ。キャッと言わせれば終わりなんだ。」
「先生、ギャッと言ったらどうなるの。」
「多分、冷たくなるな。」
「いいのお。刑務所よお。」
「良いのよ。手を貸した皆も幇助の疑い濃厚だね。関節の腫れが取れて熱が下がったので刑務所に行かせるのには、裁判官も首が葱切れる位の臍の捩じれが必要だろうよ。」
「先生、患者さんは震えているよ。」
「震えていたっていいよ。苦しみから解放される感激で武者震いしてんだ。本当は寒いかな。」
「暖房は効いてるよ。」
「じゃあ、恐いんだ。」
「チョット言い過ぎよ。」
「本人に聞いてみよう。今の会話は恐いですか。」
「いいえ、恐い事を言っている時は、何か良い事が起きる前だと言う事は、此れ迄の経験で知っています。」
「今の答え、無理していないかなあ。」
「言わせるからよ。腹這いの人には少し寒いのではありませんか。」
「大丈夫です。頑張ります。」
「頑張るなって。ダラーンとしていると寒い筈。」
と、ワイワイ言いながら、暖房温度を高めて、各人の支える順番を番号を付けて確認し、8人掛かりで矯正の補助をして貰った。
ボキッと反応があった。
看護婦の一人が、「折れたんじゃない。」と言うと
患者本人が「いいえ、大丈夫です。痛みがありません。」といった。
「イヤ、折れてしまったかも知れない。神経が切断されて感覚がなくなったんだ。」と言うと
「大丈夫です。ホラ、足が自由に動かせますよ。」と患者が騒ぎを楽しんでいるのが分かった。
「2年も付き合うと、ここの言葉の呼吸も飲み込めてるわい。腹がすっとしているんでしょう。」と聞くと、
「ハイ、それで良くなっている事が分かりました。ガスが出そうです。」
「どうぞ。出物、腫れ物、所嫌わず。時も選ばずだわさ。」
「アーァ、患者のプロだわ。心得ている。」と大笑いした。看護婦達は診察室の方へ行った。
やり取りを心配げに見ていた御主人も、初めて大笑いした。
それから20分間、患者はそのままの姿勢を維持させてから、立ち上がるように指示した。
「ああ、嘘のよう。軽い。ほら。」と御主人に話し掛けて、歩き出した。
御主人の目には涙が溢れていた。優しい涙であった。
正しく、大きなクリスマス・プレゼントであった。
「良いですか。イエスが呉れたプレゼントを大事にするんですよ。今度壊した時は、もう元には戻せないんですよ。大事に使うんですよ。」
「ハイ。大事にします。」
「貴方は、するべき事があります。分かりますか。」
「何でしょうか。」
「貴方の御主人に対して取っている態度は、腹に据え兼ねる態度が多いです。私だったら叩き飛ばすでしょう。御主人は優しいから笑っていました。でも、人間としての許容限度を超えています。今でなくていい。二人になった時に21年間のご苦労に感謝の言葉を言うのです。そして、感謝し続けて暮らすのです。」
「ハイ、わかりました。私は我侭で傲慢でした。仰ったことは悪かったと思います。そうします。」
「言わんでも良い事だけど、ここに来てからの3年間、私も見ていて我慢していたのです。旦那さんは偉い方だと思います。あなたは優しさに、感謝で応えるべきだと思います。元気になったら尚です。」
「思います。」
患者はこれで本当に正常になった。一切の機能を取り戻したのであった。
スモン病は治せる事を確認した。腎臓の透過能力を高めれば良かったのである。
実際に施術したのは、この患者だけであるが、書いたような事故がなければ、3回程度で苦しみから解放出来るようである。それは、鎖骨を徹底的に矯正する事によって成しうるものである。
スモン病は、既に過去の病気になっているが、スモンの傷害を受けた人にとっては、終わる事のない苦しみが続いている筈である。この経験が、これらの人々に届けばいいのであるが。患者の一人一人は、諦めの中で、孤立しているのである。
スモンは、治せる病気である。