| 私の失敗施術 | 癌が消えていく | ||
私の失敗施術
今から10年前、患者は50歳過ぎの女性。過去10年6ヶ月の間に3回の脳内出血を経験していた。身体は1回目の発作の時から半身が麻痺して寝たきりの状態で過ごしていた。
私が彼女の存在を知ったのは発病後、7年以上経ってからであった。しかし、その時は病気で寝ている状態であることは知らなかった。
しばらくして、息子との会話の中で長い経過があったことがわかって、私が自由になるその日だけの暇で自宅に治しに走った。息子の方は私の説明が十分に飲み込めているとは言えない状態であったが、母親が少しでも快復できるならとの思いで車に乗せていった。発病以来の長い年月の経過で、殆ど快復の望みを持っていない会話が続いたが、身体の不思議な能力に任せればよいとして、私はその姿勢に対しては一切触れなかった。
患者の家に着くと、家族たちが集まっていた。
患者を診ると骨の上に皮が巻いているだけで、筋肉といえる感触は全く感じられなかった。見慣れた骨格模型を皮で刳るんである感じであったので、こんな状態になっても生存が可能なのかと人間の生きる仕組みに感激した。
触ってみると、あまりにも簡単に動かせるので、用心をして施術を途中で打ち切って患者を寝かせて、出された茶を飲むことにした。茶を飲みながら、これから起きることについて説明を始めた。
「今は体を動かせる筋肉が干涸らびて、力がない状態にあるが、これから1週間立った頃には寝起きが出来るようになるでしょう。それから、ハイハイをさせて、20日くらい経つ頃には伝い歩きが出来るようになり、1ヶ月が経ったら杖をついて外が歩けるくらいになると思います。歩けるようになるためには、ハイハイの訓練がいるでしょう。そうしないと起立する能力がないと思います。筋肉も骨も地球の引力に耐える能力を失っていることを重要なこととして階段を上るような気持ちで訓練して下さい。」
と言って、話を進めた。この間、質問もあり、それらに答えて、血液の流れが快復した身体は、ものすごいスピードで快復するから、後は快復の状態にあわせて進めましょうということにした。
その時、患者が、
「ちょっと、トイレに行って来ていいですか。」と言ったので、
「はい、いいですよ。」と答えて、
「えーーーっ」と言って振り返った。
患者の声は頭の上から聞こえたのである。同席していた7人全員が後ろを振り向いた。
患者は立っていた。
「いつ立ちましたか。」
「今立ちました。」
立つ気配は全くなかったので、簡単に立てたことが明白であった。その立った姿を見て2人の眷族が熱い茶の入った湯飲み茶碗を取り落としていた。一人はテーブルに完全に落とし、一人は口に付けたまま胸に被ってしまった。また、もう一人は驚いて立ち上がっていた。私自身も
「壁を伝って歩いていって下さい。」と言うのがやっとであった。
「ハーイ。」と返事した患者は、壁など気にせず、すたすたと真ん中を歩いていった。
部屋の口で手を息子が差し伸べた手を拒否し、廊下で嫁が
「行きましょう。」と出した手に縋って歩いていった。困惑している息子を
「奥さんの勝ちだね。」と笑うしかなかった。
「失敗だなあ、これは。」と私は頭を抱えた。
「どうしてですか。歩くまでに回復したのが喜んではいけないことなんですか。」
「骨折しますよ。本人は歩けるようになって有頂天になっていますが、その時は動作を制限する言葉は耳に入りません。昼間は嫁、姑の二人になりますから、制止できる人が居ない。嫁さんが言う制止の言葉は聞きません。しまったなあ。加減したのだけど簡単に動いたものなあ。」
『身体を動かす命令を出せなかった小脳に血液が流れ込み、命令を出す機能が回復するのに掛かる時間は僅かで良いのか、動かせなかった身体の隅々に小脳の命令が届くようになり、単純な動作だけではなく立って歩くという複雑な動作まで可能になる、その動作能力が快復するスピードから見ると、脳内出血の結果破壊され、死んでしまったはずの脳細胞は死んでいるのではなく、新鮮な血液が供給されるまでの間、休眠しているのではないか。脳細胞が死んでいるのであれば機能を代替する脳細胞に学習の期間が必要であるのに、施術後20分の経過で立っていったから学習の時間を必要としなかった。そうであれば、植物状態に陥った人体も快復できるのでは。脳が脳波を出していない状態は脳死ではなく、休眠の状態なのだ。機能を停止して消費を止めているのでなければ、現実に起きたことを説明できない。もし、そうであれば、たくさんの人が助かることになる。脳波とは脳細胞に酸素が届かなくなった状態に対する脳細胞の絶叫なんだ。脳細胞の混乱の程度が脳波として計られている。』こんな事を話していた。
話している間に患者は帰ってきた。
患者の身体の変化を調べるために立ち止まらせて、足の筋肉の増加具合を調べてみると、最初の触診では全く筋肉の存在が消えていた脛骨と腓骨の間に筋肉があるようになり、腹や背中の筋群にも血液が入って状態の動きを支えられるようになっていた。
患者は自力でトイレに行けたことの喜びを涙を流して語った。みんなは鼻を啜った。
そこで、患者に現在の自分の身体が、いかに脆く、わずかの衝撃でも骨が壊れやすい状態にあるのかと言うことと、その状態を抜け出て普通の状態に戻るのには、立ち居振る舞いをゆっくりとする根気のいる日常生活を経なければならないことを話した。非常に軽い返事が返ってきたので骨折をする事態があることを予想した。
1ヶ月間は外にでてはいけないといったが、患者はそれを守らなかった。
20日後、患者は転んで骨折した。患者の家の周りは10年間の間に激変していた。家の周りの道路を歩いていて、対向して走ってきた軽トラックに用心して路肩によりすぎて、草に足を引っかけて転んだ衝撃で大腿骨を骨折したのである。ゆったりした道路なのに、10年前のイメージで身がすくんだのだろう。
運転者が元気になっている様子に驚いて、行き過ぎてからもミラーで見ていたので転んで起きられない姿を見て、引き返し、動けない様子を自宅にいた嫁に知らせてきたという。
動けなくなると惚けると言った私の言葉通り、惚けが起きた。息子の気の毒な苦難が続いた。
6年前から来ていた患者がいる。彼が最初に来た時、肌の手触りに癌患者に特有の手触りがあるので、早く検診を受けて癌の有無を確認して貰うように勧めた。
しかし、警告を聞かず、時々施術を受ける形で過ぎた。施術を更新するたびに癌の存在を推定出来る感触は増加した。
昨年6月にきた時、その感触はもう全身の癌状態を感じさせた。「末期状態だと思うよ。奥さんのために保険だけは掛けろ。」と勧めた。
昨年は後半、奥さんだけが施術を受けて、本人は今年2月までブランクになった。
3月4月に1回づつの施術を受けたが、その時、此れ迄と違う経過をたどった。皮下にある癌の感触が微妙に変わった。
感触の変化の原因は施術のたびに本人が抵抗していたのが、抵抗を弱めたので癌の治療にとって大きな意味を持つリンパ液の流れを妨害していた胸鎖関節のズレを大きく矯正出来たのである。
癌がある場合の感触が明らかに変化した。「これで、癌の細胞がリンパ液に覆われていたのがリンパ液が引いて丸裸になって、痛くなるよ。出来るだけ早く検査を受けろよ。1週間から2週間の間に起きるぞ。誤魔化しは効かないのだよ。」と念を押した。
はたして、1週間後、痛みは始まった。
我慢出来ない痛さであると電話が掛かってきた。「何をしているか。早く医者に行け。俺は肉体の変化を推測する事までしか出来ないんだ。お前の肉体の臨終を宣告するのは医者の仕事だ。」と逡巡を諌めた。
更に1週間後、彼の妻から電話が掛かってきた。「スキルス癌で、余命3ヶ月の末期である。」という。泣き声である。今の私は受け付けられない訴えである。6年前から言明してある事と、最近の2回の変化が癌を露にするだろうと話してあったから、本人は分かっている事だと告げた。
施術を懇願されて日曜日に行った。一切の抵抗を止めた身体は思い通りの矯正が出来た。「馬鹿目が、死ぬ時になってから抵抗を止めやがって、6年前に今のようにしていれば、何事もなくて済んだものを。」と、悔しい思いを本人にあからさまに言いながら施術した。
癌に対する抵抗能力が全て発現するように、脳下垂体・甲状腺・胸腺は当然の事として、大腿骨などの全ての骨体の血流と内臓の血流が最高の状態で維持されるように施術した。全てが良い状態に出来たので、本人に喜びを与える事にした。
「お前は、未だ生きているのだ。痛みを止めるためという事で、リンパ液を抜いてしまっているので、癌細胞を攻撃する機関銃の玉は不足している。だから、100%の攻撃能力はない。しかし、今日の施術でリンパ液の回転スピードは120%の回転力になっている筈。この回転力を支える事が出きるエネルギーは口から食料を取り込めるかどうかに掛かっている。
病院から出された食べ物は流動食になっているけど、それを3倍に薄めて食べろ。そうすれば助かる。食わなければ、スケジュール通り知ぬだろう。後は自分で決めろ。肉体は癌の苦しみから楽になりたがっているかもしれない。世のしがらみともう少し付き合うために、魂の力を借りて生き返れるかもしれないぞ。
これからの1週間後から2週間の間にドラマが起きるだろう。肌の下にあったリンパの粒々のネットが消えているから、体にある色々な傷口から黒いものが出てくる。それは癌細胞がリンパ球で殺された細胞残骸だ。そうしたら病院が頭を抱える事態が始まる。何といっても食う事だ。点滴は体に溜めてあった全てのエネルギーを使い尽くして死なせる事しか出来ない。
生きるエネルギーは口から取るしかないのだぞ。俺に来てくれるように頼んだのだから生きたいんだろう。したい放題の事をしてきたのを変えて、魂が輝くためにも、もう少し生きてみればどうかな。俺はその選択を勧めたいけど。」
何時も色々言っていたのが、素直に肯いた。 私は、遅い時間であったので、そのまま出口に向かったが、部屋に連れてかえった弟子は変化を嬉しげに語った。
2週間の間に、予告通りの癌細胞の残骸の排出が2日後から始まり、なお続いているという。
そして、血液検査の結果、血液中に検出されていた癌の反応がなくなっているという。
5月9日、再び、大隅町の医師会病院に行った。この日に行ったのは、下旬は東京に行くので、帰ってきてからでは彼が亡くなっているだろうから、亡くなる前の時期を少しでも楽な状態で過ごさせてやることが、私に出来る最後の手助けと思ったからである。末期癌の患者が寂動正体療法の施術を受けると、その前まで痛みで苦しみ続けていた人が、施術後は痛み止めのモルヒネを求めなくなる事が全ての患者で確認されていたからである。私が彼にしてやれる事はそれしか残っていないと思った。
病院に着くと、看護婦さんが気持ち良く迎えてくれた。彼の部屋に案内してくれ、来て頂けて良かったねと告げてくれた。
南九州を廻って、鹿児島まで帰っていたのを、体力が持ちそうであったので大隅まで引き返したのであったが、この一言で来てよかったと思った。
一見しただけで体力が残っていない事を感じた。
全ての痛みを消して、安らぎの表情を見せるようになったのを確かめて、食べないと癌には勝てないんだよ。舐めるだけでもいいから口にしなさいよと語って戻った。もう会える日はないだろう、鹿児島に移住した人生の意味を考えながら大隅の起伏を薩摩半島の果てに向かって急いだ。
予想通り、東京に行っている間に亡くなった。
寂動正体療法の価値を知りながら、全てを委ねる事が出来なかった人生であった。矯正の最後の痛みを我慢出来なかった結果であった。たくさんの癌に関する本を読んでいたと言う。一昨年から去年までの施術の空白がなかったら、あるいはと言う思いがかすめる。癌保険だけでも実行してくれたのかなあ。
冥福を祈りたい。