脳梗塞になって(回復の記録)

NIFTYで公開のもの 発病後最後のファックス
その2年後

脳梗塞が発症して東京の患者へ最後のファックス通信ログ

1997年10月16日発信
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(送信本文)原文のまま

身体か適わない感じで、このつきのせいたいはかのうかとうか不明

きいか打てないのてくわしいことは。あとて知らせる。

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濁点は何回やっても別のキーを押したので、出来なかった。また、変換もだんだん正確に出来なくなった。
発信者名も日付も入れる能力を失っていた。濁点をうとうとするが何回やっても出来なかった。
キーボーとー乃全体を見渡すことが出来なくなっていた。
たったこれだけの文を作成するのが出来なくて、何度も何度もやり直して、これだけ出来た。何度やっても修正できなかったので、修正を諦めて、このまま送ることにした。発信まで3日を要した。
10前まで出来ていたことが出来ない自分に絶望し、無念の涙を流しながら、医学部に入る希望を持って福岡の予備校で勉強している吉生を思い、進学が出来なくなるのではないかと、悔しさでキーボードを何度も拳で叩いた。
口で自分の事態を笑子にも説明することが出来ず、東京での正体の世話をしてくれる大竹氏達への連絡をするように話せない自分が悲しかった。
パソコンの前で、笑子に、どうして説明すればいいか、どうすれば、声が出せるか、試してみるが、次第に口が渇き、声を出すことも、唾を飲み込む事も出来なくなっていった。小脳が破綻し始めているのだと思った。正体の技術でなら治せるものであるが、正体の技術を開発しながら、子供に体得させて技術を受け渡すことが出来なかった私の当然の帰結であると観念した。


ニィフティの記録

これは、1997年10月15日、脳血栓になってNIFTYにソフトの操作や入力が出来ず、 全く発言が出来なくなっていたものが、次第にキー入力が可能になっていった時の物である。 10月30日退院後、毎日、何度も挑戦して、ソフトが動き出し、発言が出来たのであった。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー <p> 脳血栓になって発言もコメントも出せなくて キーも使えなくて、つなかるだけで前に進まぬまま</p> <p> ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー </p> <p>今日やっとキーが打てた。 すみません。皆さん。</p> <p> jbc02555 かみむら</p> <p> ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー </p> <p>ここ何日かの間に腕の動きか不随意感が減り、キーボードが全体を見れる様になって来ました。 もじがどこにあるのか見えなくて、訂正が出来なくて困りました。 2ストローク文字がうてなくて、如何にもならないで居ましたが、 よたよたながら入力が可能になって来ました。 その内に前駆症状について書けると思います。 JBC02555 上村  巌 </p> <p> ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー</p> <p> 脳血栓が始まる待て 脳血栓が始まるまでの間に感じていた症状の最も大きい症状は コメントを付けようとする時に、その動作全体が不可能な事てした。 コメントしたい書き込みが沢山書き込まれているのに、 コメントを付ける操作に入ると、何かが邪魔をしている感じで 結局コメント出来ないままに日が過ぎていました。 この期間は考えると随分早くからあったものてす。 何かおかしいと考え始めたのは4月以前のことであるようです。 一昨年(1996年)の暮れ頃から症状は始まっていたといえます。 最も明確な自覚症状は(スーパーで)支払いをする時に、小銭を出す際に、 硬貨の繰り出しが面倒臭くなり、小銭入れからの出し入れをやめ、 小銭をポケットに入れて、ジャラ、ジャラと出して必要額を受け 取ってもらう様になっていました。 これは自分自身にこだわりがあって、中村メイコさんだったと思いますが、 子供の頃、自分の前で切符を買った人がジャラ、ジャラと小銭を出したのが かっこ良かったのを覚えている。自分もいつか金をいっぱい儲けて ジャラ、ジャラと払ってみたいと語っておられた事が記憶にありました。 これを自分がする様になっている事が可笑しくありました。 また、患者さんに動作の指示をする時に言い直しをする事が 良くありました。 しかし、これは単純な動作の指示でありますので、動作の修正が直ちに 為されていました。 症状かはっきりと現れた時、先ず会話の能力か落ち、説明する事を制限して、 治療だけを行いました。 それはこの患者は何としても治しておきたい人であったためです。 それをお得る(終わる)事が出来た時は、本当にほっとしました。 その夜、家族に自分に起きている事態を話したのでした。(出来るものなら、 この日は母の誕生日で、伏せて、日を待ちたかったのだが、祝いの食事をし ている最中に立った私は体の自由を保つ事が出来ず、障子に倒れた。) 1997年10月15日の事             JBC02555             上村  巌 </p> <p>ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー</p> <p> 脳梗塞になっていく時自覚した症状 2 感情の事 脳梗塞が始まる時、顕著に現れていたのは感情の起伏が激しくなって 後で考えるともう少し冷静に会話しても良かった筈の事でも、感情が 先立って激しい口調て喋って激情を押さえられなくなっている。 この事は早い段階で始まっていた事を自覚していた。 「あの時、もっと穏やかな物言いが出来る筈なのにどうした事だろう。 ちょっと感情的過ぎるなあ。」と困惑しながら、振り替える事が多く なって戸惑いを感じていました。 始まった時期は少なくとも3年以上前に遡れる様に思う。 記憶の事 それと並行して起きていた事かある。 自分の一番古い記憶だと思うが、1歳半くらいの時のまだよちよち 歩きで完全に腰が立っていない時期に母にせがんで卓袱台を出して もらい、その上に乗って窓の外の景色を見ていた記憶がある。 その卓袱台の上に乗っていて何度もころんで落ちた事を覚えている。 そこにいた時期は短かったそうであるので、限定できる。 勿論、窓の外の景色は大阪市此花区の造船所か見えていたのであり、 ドッガークレーンが一日中動いている独特の景色で、10歳の時に 坊津の景色の中で似たような景色に出くわして、ここの景色のもの は動いていない。自分の記憶の中の景色は一日中動いていたと母に 確かめた。 記憶の一番古い所は何歳まで遡れるものなのかというのは、いつも 考えている事であったので56歳になって1歳から少し経った時期 の記憶が出て来たら、脳梗塞の発病だったのは皮肉である。       JBC02555        上村  巌 </p> <p> ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー</p> <p> 脳血栓が始まる待て 脳血栓が始まるまでの間に感じていた症状の最も大きい症状は (niftyの発言に対して)コメントを付けようとする時に、 その動作全体が不可能な事てした。 コメントしたい書き込みが沢山書き込まれているのに、 コメントを付ける操作に入ると、何かが邪魔をしている感じで 結局コメント出来ないままに日が過ぎていました。 この期間は考えると随分早くからあったものてす。 何かおかしいと考え始めたのは4月以前のことであるようです。 一昨年の暮れ頃から症状は始まっていたといえます。 最も明確な自覚症状は支払いをする時に、小銭を出す際に、 硬貨の繰り出しが面倒臭くなり、小銭入れからの出し入れをやめ、 小銭をポケットに入れて、ジャラ、ジャラと出して必要額を受け 取ってもらう様になっていました。 これは自分自身にこだわりがあって、中村メイコさんだったと思いますが、 子供の頃、自分の前で切符を買った人がジャラ、ジャラと小銭を出したのが かっこ良かったのを覚えている。自分もいつか金をいっぱい儲けて ジャラ、ジャラと払ってみたいと語っておられた事が記憶にありました。 これを自分がする様になっている事が可笑しくありました。 また、患者さんに動作の指示をする時に言い直しをする事が 良くありました。 しかし、これは単純な動作の指示でありますので、動作の修正が直ちに 為されていました。 症状かはっきりと現れた時、先ず会話の能力か落ち、説明する事を制限して、 治療だけを行いました。 それはこの患者は何としても治しておきたい人であったためです。 それをお得る事が出来た時は、本当にほっとしました。 その夜、家族に自分に起きている事態を話したのでした。</p> <p>             JBC02555             上村  巌</p> <p> ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー</p> <p> 脳血栓になって 3 病気である事か分かって3日目、脳外科に行って脳のCT画像を 見ることが先だと思って娘がいる鹿児島市内の脳外科病院に行きました。 診察の結果は即入院でした。左上部に脳梗塞の影がありました。 後はお決まりの圧力釜(高圧酸素タンク)に入ったのですが、 第一日目は失敗。タンクに入る1時間の尿の我慢が難しいと思って、 水を飲むのを控えたため、唾の飲み込みが出来ず、鼓膜の内耳に掛か る圧力の調節が出来なかった。そのため耳か痛くて7分でアウトでした。 嚥下動作がスムーズに出来ない状態であったので、これをクリアーする 工夫が要ることを感じました。 そのために次の日は先ず水を十分にとり、しかも処置時間の間、尿意が我慢でき ることという制約にも堪えなければなりませんでした。 効果は第一日目の僅か7分の処置でも症状が減って失っていたいろいろの能力が 回復している事がはっきりと分かっていましたので 7回の処置で見違えように回復しました。 リハビリの先生が想定したカリキュラムが適合しなくなっていくスピードに 困惑していました。 2週間で退院して家に帰ってみると、感覚が違うことが分かって きました。動作の一つ一つに違和感があります。 何よりもパソコンのキーボードが使えないことかショックでした。 発病前からキーボードに向かえないことは、何故なのかと意味が分から ないでいたのですが、この為だったと分かってみると絶望でした。 キーボードの位置が分からないのです。フェザータッチではないに しても3本指くらいでは打てていました。なのにどこにどの文字が あるのか見えなかった。視野の欠落があるようなのです。 (退院して帰って)3日間、全然文字を打てませんでした。本当に絶望でした。 NIFTYの世界は健康な人の世界だったのです。 今、私は一文字づつなぞって打ち込み送っています。 しかし、紙に文字を書くことは出来ません。 キーボードでだけ意志表示が出きる幸せを持っています。 有り難く思います。 JBC02555 上村 巌</p> <p> ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー </p> <p>脳血栓になって  4 退院して、4日目何とかメッセージの文章が書けた。 だが、送信が出来ない。 もどかしい思いで諦めた。 どうにもならない手のかんかくにタイプする事を諦めて 車に乗ってみると運転には支障はなかった。 地震エネルギーを計りに行ってみた。 家から60km範囲のデーターを知りたかった。 家の付近が一番高い。れべるは高くないので一安心。 夜、テレビを見ると「ひばり特集」。 今まではじっと堪えて通せたものが込み上げてくる無念で嗚咽が漏れる。 どうする事も出来ない。 感情が暴走している。 家内がティッシュペーパーを手渡す。受け取って涙をふく。 如何にも出来ない感情の高ぶりが三日ほど続いた。 現在は以前ほどではない。 穏やかさが優勢になっている。 後日、運転能力を確かめるため、家内を乗せて100kmまで走ってみた。 交代する事なく往復200kmの川内原発周辺の山道も走れた。 発病前から患者数を減らしていたが、どうしても施術したい患者かあったので 施術を再開した。肝硬変から肝臓癌に進行している患者である。 溜まっていた腹水が無くなっている事が大分医科だ井出(医科大)の検査で 確認される所までは回復していたので、何としても施術中断の期間を 長く出来ない患者であった。患者の容体は少し後退していた。 しかし、2回間隔を詰めた事で回復した。 もう一人11月の内にする約束の患者があった。 何とか約束を果たした。結果がどう出るか楽しみである。</p> <p>       JBC02555</p> <p> ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー </p> <p> 脳血栓になって  5 昨日、(施術技術を教えてあった弟子に)寂動正体療法に基づく施術を受けた。 結果は良好である。 自らが開発した施術法を伝授してあった事で自らが 救われる事になろうとは思いもしない事であった。 非常に簡単であるがゆえに既成観念に囚われていると 理解できない様であるが、幸いにもその要点をしっかりと 飲み込んでいる要領で施術で進んでいった。 脳梗塞の原因になっている関節は頸椎一番につきているので あるが、それを矯正するためには頸椎から頸椎全部を矯正し なければならない。 仰臥位で胸椎の上部から触診をしながら矯正していくのは 椎体の位置関係をイメージ化して保持して 関節面にミクロの回転運動が起こるのを見極めて止める事が 出来なければならない。 回転運動から直線運動に移るタイミングが飲み込めれば、 矯正するのに力はいらない。移動が起きるのを受け止めるだ けで良い。 昨日の矯正では、不完全な部分もあるが、一番苦痛であった 涎下障害が相当に軽減されている。 それと同時に右手の運動能力に向上がみられる。 いえのひきどをうしろてでしめるのうりょくを失っていたが 出来る様になっている。 また、薬瓶に使われている密封用のプラスティック栓は(粘着テープの 接着力が強すぎて)開けられなかったのが出来る様になっている。 やはり、何よりも良いのは喋りやすくなっている事である。 施術の効果について説明しながらやれる事は、初めて施術す る場合、不可欠であるが、患者さんに説明する事がすらすら と出来る様になって来た。</p> <p>            JBC02555              上村  巌 </p> <p> ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー</p> <p> 脳梗塞になって  6 脳梗塞になって、一番恐ろしかったのは記憶を失う事でした。 私は幸いにも今の所失っている記憶の明瞭な意識はない。 失った記憶は意識することすらできなくなるのか、明らかではない。 古い記憶が思い出される代償として、新しい記憶が失われている 可能性はありそうにもある。ただ今は意識できていない。 今出来る事は、古い記憶を呼び戻してみることかできるかどうかの 方がしやすいから古い記憶を辿っている。 古い記憶を辿って追求したい理由は、私と弟にとっての共通の記憶 たるべき父についての記憶である。 母に教えられた父の記憶は存在するが、肉感を伴わない幻想の世界 である。 父は私が2歳8ヶ月の時に召集されて戦争に行ったまま帰 らなかった。その時に吹田から鹿児島県坊津に戻ってタクシーから 降りる瞬間の情景と父が応召のため枕崎駅から汽車に乗る時、泣い て離れず、結局一駅乗って行った事は記憶している。 なのに記憶の中に父かいないのである。 微かに1歳半の頃の記憶の中にある情景で、大阪の二階の部屋に 住んでいたとき卓袱台に乗って景色を見ようとしてひっくり返る 私を抱き上げて窓際に連れていっていたのが父であった様に思う。 額縁の情景がズームアップする形で大きくなっていくのが楽しみ であった。 そこまでが明らかになっている記憶である。 この後がどこまで思い出せるのか。</p> <p>       JBC02555         上村  巌 </p> <p>ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー </p> <p>脳血栓になって  7 姿さん お久し振りです。 現在、一日二人から三人以内で、ぼつぼつやっています。 患者の病気の都合で、してやらないと死と面しているのがありまして。 脳血栓が進んでいる感じがする時、最も意識したことは死であった。 死を意識した時、真っ先に意識した事に死の儀式に関する洋式(様式)の変化がある。 私の記憶にある死の儀式は現在行われているものと異なっている。 死んだ者は死後硬直が始まる前に座った姿勢にされ、手を合わせて、樽に入 れられ、通夜が営まれた。 霊家(たまいえ)が造られ、前飾(まえじょく)が集落の世話方の手で造ら れた。 葬儀の時は樽は船に乗せられ、その上に霊家が被せられその四方に前飾が飾 られていた。船は大きな物であり、八人掛かりで担がれた。 野辺の送りの式が行われた後、前もって掘られた穴にうめられ、その上に霊 家が置かれた。死後もちゃんと家を持っていた。 1969年、公民館を白蟻の被害で立て直す時に船の置き場がなかった事も あって焼き捨てられた。船を持っていたのは僅か二集落だけであったのに、 文化財としての意義はあったか、保管場所がなかった。 痛恨であった。4年後に町内の生活用具を集め始めたが、既に他の集落には 無くなっていた。 12月14日、「毛利元就」の最終回があったか、終わり間際の部分で、あ れは劇作者の言葉か、出演者のアドリブか、「いじめ」についての下りが あった。 それらを含めて、いつも同じ言葉 「同じ時代を生きる者がいじめあってはならない」 という言葉から後を聞いていて、詰まってしまった。 嗚咽と涙を堪える事が出来ない。我々の幼い時代はいじめに満ちていた。 弱い者はいじめを堪えて生きた時代であった。同じ時代を生きる者同士が いじめ合ってはならない。それは私が胸に秘めて実践してきた事でもあった。 この部分はまだ治まっていない様である。</p> <p>         BJC02555           上村   巌 <p> 2年後の状況 このホームページを開いたのが、脳梗塞で入院した直後の事であった。  あれから、2年が経過した。  果たして、皆さんの目に耐えるホームページが作れるかと心配したが、 何とか、毎日の地震エネルギー状況を始め、自分では整理できないほ どのファイル状況になってきた。  過去に書き溜めてあったファイルに、病気の回復状況を見るために書 き込みを続けたものも多くなっている。あれもこれもの欲張りで、と れもこれも途中までしか書いてない状態で、書いたものを読んでいた だけることは、恐縮である。 脳梗塞で、自分が何もできなくなってしまった中で、何が出来るように なったかを確かめながら、生きてきた2年間の時間は、何時起きるか知 れない再発作との競争であった。何で失った機能を回復させるか。何時 になれば、どれだけ回復できるか、全く物差しがない中で、私は、病院 で貰う薬だけに依存せず、薬と合わせて、良いと言われている健康食品 を飲み捲った。銀杏の葉エキス・田七人参・冠元顆粒・その他、手当た り次第の感じである。  最も重視したのは、環椎周辺の関節のズレの矯正である。これを行わ ずに脳梗塞の障害を回復することは不可能である。特に、燕下障害に 代表される、脳の障害は、小脳への血液障害によって起きているもの であり、医薬品に依存する方法では、回復の見通しを付けることは出来ない。  環椎(第一頸椎)の周りの状態の腫れが取れることで、各種の障害は 消えることを体現してみて、はっきりと証明できる。同時に、自分自 身が脳梗塞が回復し始めた時期に発病して危篤状態にあった患者を 触っていく経過で、機能が回復する経過を見ると、この確信が強くなる。</p> <p> 2002年1月、脳梗塞から、更に年が経って、思い返すと、絶望した 日々を支えてくれた人にも感謝をしければならない。絶望していた私を 支えてくれたのは、妻もそうであったが、東京に行った時、身体の自由 度に自信がない私のために、羽田に着いた時、羽田から帰る時、青梅に 行く時、長野に行く時、必ず仕事を休んで送り迎えをし、全身の生姜湿 布をしてくれたM.Mのことを書かなくてはならない。あの献身的な世 話に支えられた御陰で、今の後遺症を感じない程の回復を味わえる体調 になったと言える。あの絶望の日々を支えてくれた献身に対する感謝の 気持ちは、私の一生を通じて絶やしてはならないものと思っている。対 価を求めるのでなく、当然のことのように尽くして貰った。感謝の気持 ちも言葉にして表せない日々であったが、何時、如何なる時もこの恩に 報いて行かなくてはならないものと肝に銘じている。 </p> <p> 2005年、長い時は過ぎ、施術の動作は不自由無くこなせる幅が 広がってきた。まばらな予約の中で余裕を持って、来る患者さん の身体を治す手順に付いて的確な動作手順を組み立てて待つ 事が出来るようになり、正確さを上げていった。 少ない数の患者さんの持っている病気が、何故、起きているか。 その事の追求は続いていた。様々の病気の根源的な原因は何か。 その命題を突き詰めていくと、頭の状態に行き当たり、それは、足 の状態と比例している事がはっきりとしてきた。その頃、病院では 治せないまま、苦しんでいる患者さん達を私の所に行けば治せる よと、繋いで下さる方があり、大体、5回位で全快して復職出来て いた。 更に、障害を負った子供が来るようになり、障害児の殆 どに共通する大きな頭の原因が足にある事が明確になってきた。 足を治す事で障害が軽くなり、解決され始めていた。</p> こうした時、 <p>私の脳梗塞の検査をすることが決まり、この時点での梗塞の 原因である脳動脈の検査も併せてする事になった。私は脳梗塞 の原因も足の関節が原因だろうと考えていたので、検査の前に 自らの足を治そうと考えた。実は、2005年3月半ば、警戒してい た肉食を続けた後に、寒風が吹き付ける中で外に立っていなけ ればならなくなった夜があり、2日後に軽い脳梗塞の感じに陥っ ていた。これによって、症状としては、重くなった実感があった。 それで、足を治した上での検査を思い付いたのである。</bp> <p>足を治す。 それは、激痛であった。家内に指示してやっているのだから、家 内は看護婦とはいえ、関節の事など何も知らない。ただ、言われ た通り踏みつけていた。患者さん達が敷いてある茣蓙を掻き毟っ て逃れようとする激痛。 </p> <p>2006年1月の検査が済み、結果を聞くと、左脳動脈の流れ は正常になっているという説明。その時、数日前まではあった麻 痺感がなくなっており、言語障害も消えていた。その事を話しても 医師は理解しなかった。 そして、2007年1月定期検査では更に良い結果であった。 今、前縦靱帯硬化症が同じ要領で治ることが分った。同 じ地域に住む方達の背中に、前縦靱帯硬化症の体型を持った方 が多い事が分った。これは、地域の特性から来ている。スキーや スケートが原因であろうと思った。 スキーやボードをする人口が増えているが、その人達は、やがて、 大きな保険負担の原因となって圧し掛かることであろう。 </p></p></p></p></p></p></p></p></p></p> </BODY> </HTML>