| 人間の目の形 | 八頭身 | ||||||||
人体 なぜ
当たり前と思いこんでいる人体の、変化の意味。
人の身体は年齢とともに大きく変化する。その変化をすべて年を取るから起こる現象だと思いこんでいる。
ところが、寂動正体療法の施術を受けると、全く違う身体の姿に変化する。その事を通して変化している姿が示す危険な兆候を読みとることが出来ることが分かってきた。
この一部は、寂動正体療法で何が起きるかという事で、患者が自覚できる症状として列挙する形で示してあるが、ここでは、もっと踏み込んで自覚症状として、あるいは他覚的現象として観察できる姿について、述べてみます。
人間は、なぜ、八頭身が少ないのか。
人間が八頭身でない理由、すなはち人間の頭は何故大きいのか。
他の動物に比べて頭が大きく見えるのは、頭脳が発達しているからだと信じ込まれているが、果たしてそうであろうか。
私が、亡くなった人の火葬に立ち会った数は、40人を越えるが、それらの方々の頭は生前の大きさと、あまりに違い過ぎる小ささであった。それが何を意味しているのかを長い間考えていた。
寂動正体療法の施術を行うと、患者の身体に刻まれていた症状が消えていくのに併せて、頭の大きさが小さくなっていくのである。特に脳に障害を持っていた人が、頭の大きさが縮んでいくのに比例して、生まれつきの障害だと思われていた症状が消えて、正常な能力が戻っている。つまり、失っていた脳の機能が復活してくるのである。だから、脳の障害で正常な能力がないと考えられているのは、単なる思いこみであり、事実ではない事が明らかになってきた。能力が機能していないのは生まれつきだと思っていたものが、単なる血流傷害の結果であり、脳の血流を正常に復活させると障害が無くなってしまうのである。脳に機能障害がある人の相貌を見ると、頭でっかちであり、殆どの場合、首はその頭を支えることが出来ていないため、グラグラ状態である。そこから共通する姿勢が出てきているのである。しかし、寂動正体で施術が終わると頭に溜まっていた血液がなくなり、首は軽くなった頭を真っ直ぐに安定して支えるようになる。正しい姿勢を継続して維持することが出来ているのである。
その時、八頭身が現れてくる。八頭身というのは頭とそれ以下の部分の比率であるので、身長が高くなる訳ではない。頭が小さくなっているのである。『大きな脳味噌が、こんなに小さくなって良いのですか。』と、患者さんは困惑顔になる。「小さくなって頭がおかしくなっていますか。」と聞くと、『イヤ、爽やかです。』と答える。この時、患者さんは必ず頭を撫でる動作をする。そして、肩より前にあった頭が、両肩の線上か後ろにある。顔の面は胸の延長線よりも後方になっている。頭が重たくなくなって、前に下がる頭を背中で支え持つ必要がなくなっているのである。小さくなった頭は、動作も軽快になって、転ぶことがなくなる。よく転ぶのは、頭が重いために、首は前に移動しないように首の位置を支えているが、常に重心が前に行っているために、ちょっとした弾みでも、重心が身体の前方に移動することから、転びやすくなっているのである。この現象は、多くの患者で確認している。しかし、治してあった患者でも頭や首に大きな衝撃を受けると、転びやすくなることを経験してくる。頸椎にズレが生じて頭の血流が阻害されるようになり、滞血で頭の容積が増加するためである。頭
の滞血が姿勢の形に正確に現れることが判る。頭の位置をいかに正しく保つかを、小脳は頭の重さの変化に合わせて微調整し続けているのである。それが、首の疲労として感知されている分に現れるのである。
ところで、脳の機能障害と言っても、五感の能力もあるし、知能から、言語から、意識能力から、呼吸や、目の見え方、言葉のしゃべり方、その速度、一音一音の明瞭度、言葉の配列、五感で感じた情報をどのように再構成して、つまり周囲の状況をどうイメージするかと言ったことなども、含めて、身体が外界をどう感じて、それにどの様に反応していくと安全かなど、大脳が判断し、その結果を出力器官にどう伝え、どう動作して、表現するか、制御するか等々、様々のことが頭によってコントロールされている。そのコントロールのされ方は、感じた情報に対して脳のどの部分がどの程度関わったかによって、いろいろに変化している。その姿は、血液が流れている程度によって大きく変化するのである。
血液の流れが少ない部分の脳組織は、全体的な脳の血液の流れ具合の平均で四捨五入され、出力されるために、例えば言語であれば、会話としてのやりとりの相手方が存在し、相手の問いかけの言葉に対して、問いかけられた言葉に対する反応としての言葉が自分自身の脳の中で処理されて、言葉の配列としての音素の配列や発声の時間・抑揚などを声帯をコントロールし、舌の形状を決定し、口を開け具合を変え、呼吸を整えることで行う。
しかし、その発すべき言葉の列を作るのに掛かり時間が、聞き手である問いかけを発した側の待機している許容待ち時間を超えた場合、問いかけ人は、答が処理されている途中で、返事の言葉が発せられるように要求を出してしまう。すると、言葉を発すべき披問いかけ人は、答の準備をしている最中であった処理を中断して、後からの問いかけに応答しようとする処理が発生して、再び思考の処理が行われる。披問いかけ人は、一言も言葉を発することなく、思考処理を続けている。問いかけ人は苛立ちの問いかけを繰り返して、自分自身を苛立ちの世界に貶めている自分自身に気づかないのである。そして、偽善者の振りをする。披問いかけ人は、その人に対して、会話の拒絶を沈黙という手段で表現するのである。
何故、このようなことが起きるのか。
それが、脳の中での言葉の処理速度の違いで起きる現象なのである。言語の領域の血液の流れが少なくなっている時、問いかけの会話をしたときは、披問いかけ人に対して、処理に時間が終わって回答が帰ってくるまで、待ち時間を与えなくてはいけないのである。その時間は、0.1秒域の時もあれば、40秒以上が必要な人もある。コンピューターで言う処理時間のマッチングが、人間でも必要なのである。
それを配慮しない時、暴力が発生しているのだ。『苛め』である。マッチングのための待ちの能力を持っていない人間が、その現象を作るのだ。『苛め』というのは、欠陥人間同士で起きるものである。通常の会話が出来ると思いこんでいる人間関係では、会話に「待ち」が必要であることは、殆どの人が理解していない。普通は意識しないで済む程度の僅かの待ち時間で脳の言語処理が行われているために、「とろい奴」という程度の意識しか起きないのである。それでも苛立ちは起きている。しかし、同じ苛立ちを持つ状態の人でも、老人と対する時は、若干の待ち時間をおくことは出来る。老人は会話がゆっくりとしか出来ないと思っているからである。人間としての優しさを発揮しているのである。
よく考えてみると、脳の中の処理能力は、老人だから低下しているのではなく、脳の言語処理領域の血液の流れが少なくなっていることが原因なのである。老人でも、会話能力が高い人がいる。こういうレベルの人に共通していることは何か。その観点で観察してみると、頭が大きいか小さいかが、明瞭に関わっていることが判る。
それを見分けるのは、口ごもりがあるかどうかを見れば判る。口ごもりが、脳の言語処理領域の血液の流れの程度を示している。言語処理は、処理すべき課題を順番に一つずつやっているのではなく、分解されて、別々に処理されているので、早く結果が出たものと、後から出てくるものとを整理してから、言語としての整合性を整えてから声として発声するので、早く答が出た部分を発声しそうになるのを止めているのが、口ごもり現象なのである。
この時に頭の中で行われている処理の大半は、過去の記憶との照合である。過去の経験と照らし合わせることで、状況に適合する答を出そうとする。従って、記憶を呼び出すために、声が出るまでに要する時間の殆どを使う。この事が、どれほどの時間を使うかは、全ての人が経験している試験の時に、どうしても答を出せなかったものが、数日とか、1週間以上経過してから、突然出てくることがある。また、あの時はこう言えばよかったんだ。などと後悔することがある。この現象こそが、頭の中では延々と処理が続いていた処理領域が、答を出してきた瞬間なのである。何故、あの時に考えつかなかったのだろうと思うが、その事に関する脳の処理系が、その記憶をおいた部分について、血液の流れが悪いために、処理能力が非常に低くなっていて、所用の時間に間に合わなかっただけのことである。そこの処理能力に合わせて結論を出せばいいものを、能力を超えて、早く結論を出そうとするために勘違いや、思い違いが起きるのである。そのを防ぐためには、思考のシミュレーションを繰り返して、記憶の領域の知識を処理の高速に処理が出来る脳の領域に何カ所かに転写して、処理の高速化を図る
ことで対処できるであろう。
過去の患者で最長の待ち時間を要したのは、36秒。声を発することが出来ずに、動作で表現した患者は32秒である。その時、その光景を見ていた患者の家族の反応は、「お父さんは喋ることが出来ていたのね。私達がせっかちで待ち方が足りなかったのか。30年の長い間悔しい思いをさせてしまったのだ。御免ね。お父さん。」という呻きと共に出た言葉であった。
家族の介入行動を一切禁止して、質問をして沈黙の間、最初の発声が起こるまで、私は指を折り、時間を数えていた。それで、脳の処理に要する時間を計った後、施術を進めて、処理能力がどの様に変化するかを確かめてみた。学習効果によって応答能力がダブってこないように質問の内容や、回答の仕方が違うように配慮をして、応答時間の変化を計っていた。また、血液の流れの快復に伴って、皮膚の色や瞼の形・瞳孔の開き具合・呼吸の要領や呼吸量など身体の要素がどの様に変化していくかも観察した。
その全てが血液の流れを正常にするだけで、変化して、全く違う外観に変わったとき、自動的にパーフェクトな能力を回復していた。当然、頭の形はこぢんまりとした姿に変わっていた。聡明になった感じで、応答能力は0.1秒以下の待ち時間になっていたのである。別な患者は、施術の最後の痛みを拒否して、「痛いっ。俺は帰る。」と叫んで出ていった。「喋った。」と言って残った家族と大笑いした。次回、自ら「お願いします。」と挨拶してから施術を始める事が出来た。
そして、この記憶との照合を行うことが出来る脳のページが何ページ取れる状態にあるかによって、処理の速さが左右されるのである。高性能の頭の状態にあるときは、普通8ページ程度が取れるが、能力が落ちているときは、1ページしかない脳をやりくりして使っている。そのため、昔のマイコンのように、出た答の切れ端を記憶のページに押し込み、別の処理のためにリフレッシュして、次の処理を行い、それが終わると、また、別の記憶場所に答を一時保管して、次の処理を行うことを繰り返していき、それらを統合して答を出そうとするが、処理能力を超えたことを処理しようとすると、脳の記憶だけではどうしても答が出せないことが判り、何回目かの思考の後に、処理した記憶を紙に書きとめて思考を進めないと結論が出せない状態であることを知るようになる。
そのため、書いておかないと思考が進まない現象を経験している事を訴えるのである。この状態では、B5一枚分の文章を書いてみると、それに掛かる時間が半日を要する状態にある。紙をおいて文章を書こうとしても、文章が出てこないのである。横から見ていると、ただ、罫紙の線を見つめ続けているだけの状態に見え、鉛筆は動かない時間が長いのである。この場合も、頭の血液の流れが回復する状況の程度に比例して思考の連鎖の処理能力が拡大する様子を冷静に実感できることを話してくれる。その様子は、罫紙を見ると、文章は自動的に湧いてきて、手はそれを書き取るだけという感じで表現される。
この様子から、マルチタスクが出来ていく様子として模式化し、タスク能力が1ページから8ページ位を目安として、患者の能力を測るようにしている。タスク能力が16ページくらいになると、私の能力では追いつかなくなる。この時の大学入学模擬試験の回答能力は、解答書き込み所要時間で、終わるのに試験時間の3分の1以下の時間しか掛からなかったという。全て、答は問題を見て読み終わった時、前の問題を書き終わる前に出ている状態であったとのことであった。前の年、半分も回答出来なかった同じ人間である。
また、ここに示していく文章を書いている私自身は、6ページ程度の脳能力であると見ているが、ここに書いている内容を1回で読んでいる人は16ページ開いている人であり、何回も行きつ戻りつ、いらいらしながら見ている人は、6ページ以下の状態にある人なのである。ページの捲り方も、EMS方式の人もいれば、IOバンク方式の人もいる。記憶のページ捲りが大きいブロックで入れ替えが出来る人と、小さいブロックで小分けに捲っている人の差である。小さい捲りの人は、スケールの大きい物事を考えるのが苦手であり、また、細かい時間経過を記憶して物事を処理することが出来ない特徴がある。このタイプの人をEMS方式型の記憶方式を持っている人として見分けている。
余談であるが、パソコンの記憶方式はRAMという記憶容量で処理能力が決まるが、このRAMに番地を打って、どの番地の所にどの記憶がおいてあるかを全部記録しておいて、どこに何が納めてあるかをパソコンの中央制御装置で見張っている。その中央制御装置は、非常に能率のよい見張り方式があったが、シェアー争いで負けて、効率の悪い方式が圧倒的シェアーを占めて使われている。悪貨が良貨を駆逐してしまった。インテル方式とモトロラ方式の違いである。インテル方式は、スピードを上げることで処理能力を早くして、市場を席巻しているが、この選択の誤りは、いずれ人間の文明の行く末を決めるときが来ることになると思う。
では、頭が正常な能力を持てる大きさとは、どれくらいの頭の大きさであれば正常といえるものなのか。
これに対する答えは、実に複雑な要素が絡んでいて、簡単に表現できないのである。それでも、およその目安を示すことは可能である。
目と目の間の鼻筋が、顔面で最も前面に位置する状態になっているかどうかである。鼻先を除いても、鼻の位置は顔で最も前にある状態にある。ところが多くの人は目と目の間の鼻の線は、額よりも低く、眼球よりも低い場合が多い。酷い場合は、頬が鼻の高さよりも高いのである。そして、鼻の長さが長くなっている。
顔の寸法として表すと、顎と口の中心線まで、口の中心と鼻の下端までの線、鼻の下端と目の中心を結ぶ線、目の中心線と眉まで、眉から髪の生え際まで、すべて一寸(3.3cm)で仕切ることが出来る。しかも髪の生え際は頭のトップと殆ど同じ高さが正しい状態である。これが全く血行障害を感じない頭の形である。
また、頭の横面は耳の付け根の面から出ているところがあれば、頭側にしても、顎側にしても腫れを含んでいる。後頭部には首の線から後ろに突き出している部分があれば、全部腫れているものである。ここで腫れと表現しているものは長い年月の間に降り積もって感じの滞留した血液成分である。この状態に関する表現は様々で、肥満というもの、体型というもの、鬱血というもの、悪血というものなど、いろいろの形態表現がある。
こうしたものが降り積もって形成された頭部を、個性という表現で形作られた顔あるいは頭部として理解し、受け入れているのである。その結果、頭は八頭身でなくても不思議ではなくなってしまっている。
しかし、私達は美男、美女を求める感情を持ち続ける。それは、魂が完全に健康な人を求め合う姿なのである。それ故、美男美女を見ると魂が騒ぐのである。それを胸のさざめきとして意識するのである。年齢は関係がない。それを押さえるのは、諦めの境地である。
だが、八頭身でない頭は、既に触れたことでも分かるように、障害を持っている。以下に様々の変化が現れ、形成されていった過程を、体に起こっていた歪みを解消した事で起こる変化を通して提示してみようと思う。
人間の目は、なぜ生まれた時は丸いのに、年を重ねるに連れて横長になっていくのか。
こどもの瞳を見たとき、すべてを見透すまん丸い形状に感激するのは、誰もが経験する感激であると思う。邪念を経験した人は、邪念のない顔の象徴として実感するであろうし、現世に失望している人は、未来を見つめる希望の瞳として、その瞳が持っている姿に期待を込めるであろう。
そうした、意味づけを連想させる大きな瞳が、何故年と共に開かなくなり、細い目になっていくのであろうか。ほ乳類である虎やライオンなどの猫科の動物だけでなく、牛などの偶蹄類にしても、犬たちにしても、成獣になっても丸い目は変わることはない。人間だけが何故細くなっていくのか。これは、私にとって解けない疑問であった。
今、その謎が解けてきた。
人は、ある瞬間、物を見つめようとするとき、一瞬、目を見開く。しかし、次の瞬間には、元の大きさに戻っている。この時の、一連の動きの意味は何であるのか。
いつも、身体を治していて、気になっていた。
体が良くなってみると、目を見開く動作が無くなっていた。見開く動作が無くなったのではない。目が最初から見開く動作に相当する状態に開いているのである。上瞼の形が上向きカーブになっている。
そして、一番酷い状態から変わった者では、瞼が一重であった者が、二重になっている。そして、瞼の動き方が違う。身体が悪かったときは、ガラパコス諸島のイグアナのような瞼の動きが特徴である。二重開きのシャッターのような動きをする。まず、眼瞼の部分が真ん中付近にある皺の位置まで開き、そこから全体が上に上がっていく。瞼を開くことを意識していないときは、途中まで明いて、全開までは開かない。
この状態になる人と、眠たいような目の状態の形をする人とがある。この場合は、瞼が全開できないで、瞼の外側半分が垂れているのである。その垂れた瞼の位置は、症状によって差があり、重症であれば、瞼全体が眼球の上に被さっているし、軽症であれば、少し瞼が腫れぼったい感じで止まっているし、自覚がない状態でいる人もある。
イグアナ状態のレベルにある人は、横から見ると、眼球が鼻よりも前に出ている。さらに、額のある前頭部が、鼻骨よりも前にある。いわゆる、眉根が高い状態で、眉全体が隆起していることが多い。コサックの兵士を讃える歌としては恰好良いのであるが、正常な人間の姿を追求する目で見ると、いくつもの欠陥を持った人間の姿である。
さらに、額の角度は、眉から前方に張り出すように膨れており、髪の生え際は眉から5・6cm以上の寸法があり、10cmを越えている場合もある。大きく出た額の持ち主に馬鹿はいないと讃えられるが、錯覚である。彼らは、頭脳活動だけでなく、運動面においても多大の苦労を強いられているのである。これは、この状態から解放されてみて、初めて実感できる障害である。
額の髪の生え際から頭頂部に至る曲線は、5cm程度の高低差がある。そして、頭頂部から後頭骨に至る線は、首の線よりも大きく後ろにせり出して曲がっているカーブになっている。私の様に毛を失っている場合は、皺が出来ないところが前髪が生えていたであろう頭部前縁であり、後頭部が描く曲線はさらに雄大に後部に張り出している。
ただ、ここで留意しなければならないのは、額委の線がこめかみの所でM型に禿げ上がったように見えるのは、別の原因が組合わさっているものであり、本当に禿げているのではない。この場合は、後頭部に激しい凸凹があり、髪の毛の生えている方向が一様でなく、髪も縮れた状態になっているので見分けられる。癖毛として自覚されている。眉の形も吊り上がったような形である。
瞼の形は、眉との間にくびれが存在せず、横から見たときに、眉の面と瞼の面に境がなく、距離も短くなっている。