美空ひばりさんの鎮魂の願いを込めて
寂動正体療法
創始者 上村 巖
(文書の編集が1024*768でしてあります)
『せんせい・・・、たすけて・・・・、』
6月24日午前0時を過ぎたばかりの時、肺に僅かに残った息を絞り出して声にした様な、甘えを少しにじませた途切れ途切れの必死の声に、布団の上でパソコン雑誌を見ていた私は跳ね起きた。
「あっ、ひばりさんのための祈りが足りない。急がないと間に合わないっ。」
そう思って、寝泊まりしている部屋にある松山院長宅の神棚の前に跪き、祈った。
「神よ、病院にいる美空ひばりの命を燃えさせ給え。私がもう一度施術出来るところまで復活させ給え。」と、そして、
「弁財天よ、勢至菩薩に取り次ぎ給え。願わくば今消えんとする美空ひばりの命を今一度燃え盛らせ給え。そして、再復活の施術の機会を我に与え給えと。」と。
胸が高鳴り、眠れないままに空が白み、9時からの施術が出来なくなると心配して6時過ぎ、ようやく眠りに落ちた。
7時過ぎ、居間のテレビから聞こえるひばりさんの唄声で目が覚め、愕然とした。あの全身を振り絞ってやっと出したようなひばりさんの声を聞いた瞬間が、臨終の時であった事をテレビは伝えていた。
『どうして、何故、息のある内に声を掛けてくれなかったんだ。息が吸えず、苦悶した事だろうに、1声掛けてくれれば、この1年間に喘息や呼吸困難は完璧に治せる様になっていたのに。東京に行くのがいやだと言った私に、最後迄気を使ってしまったのか。』
東京は地震が怖いから行きたくないと、治せるものを突き放した事への悔恨の思いが胸を締め付けて、晴れる事がない。鹿児島県坊津の家から大分市の松山医院での施術の為の行き帰りの車の中で、無念の涙を堪えられない日々である。
本葬の日、私が施術する日々、常に一緒に施術を見守り続けた高木社長の手を取り、無念の気持ちを語ると、社長は手を強く握り返し、
『先生の施術法が最高だった事を、今でも私は確信しています。でも離れてしまったので、繋げなかった。残念ですけど、諦めなくてはいけません。』と、本葬の席へ案内してくれた。この言葉が、全霊を傾けて施術した時への涙も失った晴れぬ思いを鎮めてくれるものとなった。
今は、ひばりさんに付いて、世に広く残っている誤解を解く鍵で、私にしか出来ない部分を明らかにして、供養となることを念じ、この一文を送りたい。
寂動正体療法は、施術法として患者の苦しみに応えていく過程で、美空ひばりに最後のきらめきを与え、その施術の過程で、人類が超える事の出来ない病いとしての課題であった、癌の施術法の決定的ポイントを解明する鍵を与えられ、癌だけではなく医学が難病としていた病気の施術法として完成させる事が出来た。
彼女のための施術が未完成になってしまった悔恨の思いをバネとして病いに苦しむ人々を開放する努力を続ける積もりである。
美空ひばりさんの施術は、1987年10月17日から11月29日迄1週間置きの土曜日、私が大分市の松山医院での施術予定を終わって帰る脚で、朝東京に飛び、夕方鹿児島へ帰るスケジュールで行った。このほかに11月3,4日に泊まり込みの施術を行った。
従って、施術した日は、10月17日の夜,31日の昼,11月3日の夜と4日の朝,14日の昼,28日の昼の6回の施術をしたのであった。
ひばりさんの施術の切っ掛けは、4月・8月に頼みに来た、千葉県習志野市の田所宏章氏の説得で、施術する事を引受たのであるが、10月17日は劇的な夜であった。
飛行機は、17日朝、東海北陸を襲った台風で欠航し、東京地方は台風に吹き払われ、夕方強風が続く羽田に着いた。東京行きの目的は、18日に、東興ホテルで開催中の国際PIA療法学会で寂動正体療法についての特別講演をするためであったので、東興ホテルに着いた私を待ちかねた様に、高木プロダクションの社長・高木浩次氏が尋ねて来られ、施術法について、手紙では書き切れなかった細かい話をした。
施術費は要らない、求める見返りは必要としないという私の話を驚きながら、ひばり宅に電話された。ところが、答えは今調子が良いので、新しい施術はしたくないという事であった。東京に出て来る事のない私が施術出来る、貴重なチャンスを逃す事だが、本人の選択であるのならば仕方はなかろうという事で、社長と5時50分に分かれた。
部屋に上がり、夕食に付いてホテルのガイドを調べていると、プロダクションから電話があり、ひばり宅から施術を御願いしたいという電話があって、施術の相談をしたいのだが、高木社長はいないかと言う事であった。ホテルの玄関迄見送った後であったので、7時に迎えに来る様に返事して夕食を急いだ。
午後6時5分であった。15分間の間に何があったのか不思議であった。
7時10分前に迎えに来た車でひばり宅に向かった。施術に当たり、ひばりさんに役負けしないだろうかと心配であった。施術の成果に付いては確信があったので、事実で示せば良いと心にきめた。小学2年生の時、母にねだって1回だけ見たひばりの映画で脚が悪い事を発見し、6か月位の間、何とか治して上げたいと幼い胸を傷め続けていた事が、久しぶりに見たひばり映画『花笠道中』でも悪いままの脚を確認し、37年目に現実のものになるとは。
日本の果ての坊津から、独学で組み立てた施術法が、大スターの施術をする事になる意味は大きかった。歴史上のいかなる施術法も発見出来なかった、人体に隠された恐ろしい関節の秘密を発見した事が、寂動正体療法の極意であった。いかなる人間でも、命ある内ならば必ず元気になれる事は、今迄の施術実績が証明済であった。従って、失敗や不成功の不安はなかった。
ひばり宅に着くと、やはり緊張は極限に達した。
私の緊張を察しておられたのであろう、化粧を一切落とした素顔にする等、ひばりさんは細かい処に気を配って下さり、拘りなく施術する事が出来た。
応接室で待っていたが、
『先生、ひばりを歩ける様に治して。御願い。東京ドームでなんとしても唄いたいの。』挨拶に続く言葉であった。
『東京ドームで4月11日に唄う夢が、夢に終わらないで現実になるならば、後は、もう何も出来なくても良いです。私が生まれた年に出来た後楽園が、50年経って生まれ変わった東京ドームで、私が一番最初のコンサートをする事が出来るならば、もうそれ以上は望みません。ひばりはそれで死んでも良いです。それ以上望むと罰が当たります。神様も許されないでしょう。ですから、4月11日だけ、東京ドームで唄える様にするだけでも構いません。御願いします。』一切を捨てて、無欲の表情は、恐ろしくもあった。
「それで良いのですか。大いなる存在はその通りにされますよ。私があなたを見て、あなたを何とかして治して上げたいと、思い続けたのは37年も前の事です。私が歩いて来た経過からは考えられない事でしたが、現実に、今私はここに来て、生まれた時から苦しんでいたあなたを治そうとしています。少しは欲を出して、残して置いた方が良いと思いますけどねえ。」余りの無欲の姿に圧倒されながら言った。
『いえ、私は沢山の事をさせて頂きました。あれもこれもと言えば、神様は許して下さらないと思います。思いも掛けない先生が、日本の一番遠い処から、住んでいらっしゃる先生から見れば東京だって遠い田舎なんでしょうけれども、自分中心に考えてしまって失礼なのですけれども、学会の講演に御出の機会を私のために割いて頂けるだけでも有り難いと思います。ですから、それだけでも有り難い事です。一人で居ますとね、湿っぽくなって、私はこのまま駄目になってしまうんだなあ。東京ドームで唄うのも夢に終わってしまうんだなあと、メソメソしたりしましてね。諦め掛けていたものがやれるかもしれない。ごめんなさい。かも知れないなんて失礼な事言って。今迄こんなに一杯させて頂いた私に、後一つ何かを選べって神様がおっしゃっているみたいで、東京ドームで唄わせて頂けたら、それだけで命が終わっても満足です。』噛み締める様に話しながら、純粋になっていかれる姿が美しかった。
病気としてクローズアップされていた大腿骨頭壊死症は、原因が胸鎖関節のズレによって起きており、これを矯正するだけで痛みを解消出来るものであった。10分ほど左胸鎖関節の矯正だけをして、その施術効果を確認するために起きてもらった。
ひばりさんは直ぐに正座した。丁度、そのタイミングで、付人ののり子さんが居間に入って来て、正座しているひばりさんの姿に驚き、
『あーっ、大丈夫ですか。痛くないのですか。』と、両手を胸の前にあげて身を縮めて聞いた。
『あら、痛くないわね。』と、ひばりさんが今さらの様に自分のしている姿勢に驚いた様に自分の正座の姿を見直して言った。そして腹を抱えて笑い出した。
「正座は出来なかったのですか。」私も、思いがけないやり取りに驚きながら聞いた。
『えーぇ、身体を起こすだけでも痛がって長続きしなかったのです。それがこうして御座りになって。』、のり子さんが答えながら声を湿らせた。
「それでは立って歩いて見て下さいますか。ゆっくり立って下さいね。」念を押して立って貰った。注意に対して頷いたひばりさんであったが、すいっと立ってしまった。
『大丈夫ですか。』のり子さんは、上体を前傾にしてこわごわと聞いた。
『えーぇ、大丈夫よ。』弾んだ声でひばりさんは答えて歩き出した。
のり子さんは、手を胸の前に上げたまま、おろおろという感じで、全く普通に歩くひばりさんの姿に従って、金縛りの身体を必死で動かす様に向きを変えた。
『のんちゃん、あなたお目めどうしたの。そんなに水を出したらいけないわ。私だって堪えているのよ。』ひばりさんは賢明に飲み込み、何かを堪える様に、しかし、優しく、言った。
『本当に痛くないんですか。』のり子さんは堪え切れなくなったのか服を掴んでいた。
『大丈夫。痛くない。夢みたいよ。ほら。』ひばりさんは声を弾ませながら、左足を軸にして、右脚で蹴り、ターンをして見せた。
『あーぅ、あーあっ、うわーっ。』のり子さんは案じる声の後、一瞬声を上げて、顔を覆って部屋を飛び出してしまった。
『のんちゃんたら、私だって堪え切れない位、胸が一杯なのに。病気になってから、私より弱くなってしまって、先生ごめんなさい。』ひばりさんの声も潤んでいた。
私は横を向いて
「これで、あなたの脚が痛い原因は、胸鎖関節のズレによって起きる事がはっきりしましたね。これは、アルコールの所為では無く、子供の時から悪かったと見ていたのが間違いでは無い事が分かった訳ですね。後、他も含めてもっと克明に矯正をしましょう。」と、再び腹這いになって貰い施術を継続した。
この時、背中を調べながら、私は思わず落涙した。ひばりさんには気づかれない様に隠したが、身体はぼろぼろであった。何よりも、生エネルギーが空っぽであり、良く生きているものだなあと感じる状態であった。それだけに、私自身がひばりさんに生エネルギーの全てを吸収されて倒れるのではないかと恐怖を感じた。事実、帰途の飛行機の中で、駿河湾上空通過時にエネルギーのチャージングを確認して見ると、凄まじい量のチャージが起きた。ひばりさんの施術中に、大量のエネルギー放出を起こしていた事を実感した。ファンに応えるためとは言いながら、自分一人の事ではなく、プロダクションの職員家族の生計を支えるために身を磨り減らして、ひたすら唄い続けた燃えかすを見る様であった。
1時間余りの施術は、ひばりさん自身の回復の実感は大きいようであったが、気の遠くなる様な、施術努力が必要な事を感じさせる身体の状態であった。しかし、確実に治る手応えがあった。
施術を終わった時、
『のんちゃん、31日の事御願いして。』と、声を掛けられた。
「31日って、何ですか。」、私はその日付の意味が分からなかった。
『この次施術して頂けるのは、2週間後の土曜日という事になると思いまして言っていますのですが。』と、のり子さんが説明した。
「この次の施術は、今日の施術の結果はこれから1週間掛かって身体が変化し終わった段階で分かりますから、継続するかどうかはそれから決められていいのですよ。今日、今の段階で続けると決める必要はありません。気は使わなくていいのです。」嬉しい気持ちを押さえながら答えた。
『いいえ、納得しております。寂動正体療法の施術間隔は2週間に1回の間隔なのでしょう。御忙しい御身体でいらっしゃると思いますが、ひばりを見捨てないで下さい。先生に全てを御任せします。元気にはなれないのだと諦めていましたけれども、良くなれる実感をはっきりと持っています。こんな実感は初めてなのです。ここで手を離さないで下さい。御願いします。』ひばりさんは、目尻を押さえながら噛みしめる様に話された。
入院する迄の間に、様々に施術を受けていたことを感じさせる言葉であった。大分市の松山医院で施術する患者が、松山医院に辿り着く迄に、様々の治療を受け、絶望しながらも一縷の望みを持って来て、1回目の施術が終わり、良くなっている事を実感した時、泣きながら感激を語る患者達の言葉が重なって聞こえる様であった。
そして、8月から送った3通の手紙を、間違いなく読んで貰っていたことの嬉しさを噛みしめた。
「後で語る事だと思っていましたけれども、試験は合格した訳ですね。」
『えーっ。』
「いつの時でも、患者さんは試験官ですよ。病気の施術は3回施術していい兆しがない施術法は、駄目なのだと思え。自分に合う施術法は、自分で探し回らなくてはいけない。患者はその権利があるのだから、いま受けている施術が3回、譲っても5回迄の施術で好転の兆しがなかったら見限る事。遠慮は要りません。はっきり宣言して他の施術法を探しなさい。探し歩いて行き合えない時は、命のある内に戻って来なさい。寂動正体療法は、今施術の方法が不完全なものも、3か月のリズムで解決しているから、戻って来た時、あなたの病気の施術に対する答えが出ているかも知れないからと言うんです。」
『そんな勿体ない事をおっしゃって、素晴らしい方に巡り会わせて頂いた仏様に感謝しております。本当です。地獄に落ちていたひばりをこうして拾い上げて下さる方を御連れして頂けるなんて、ひばりは幸せです。」
ひばりさんは仏前の椅子に掛け、手を合わせ、
『お母さん、お父さん、みんな、喜んで、私良くなれるわよ。今迄とは違うわよ。本当よ。東京ドームで唄えるのは夢ではなくなったわよ。』と、語り掛ける様に言われた。
宵の口、あの不思議な15分間の意味はここにあったなと思った。
そして、8月中旬、習志野市の田所宏章さんがひばりさんを治してくれと2度目の説得に来られた時、
『巌、治せる時に治してやらんか。後になってから治せたのにと悔やんでも間に合わないぞ。折角頼みに来ているのだから、美空ひばりを治してやらんか。』と、亡くなられたばかりの上野先生の声。中学3年の時の担任の先生で、呼吸障害のために何度も倒れ、その原因と施術法を組み立てて、施術して症状は消えたが、2回目の施術を考えていた7月23日に、衰弱のため亡くなられ、痛恨の思いでいたのであるが、その上野泉先生の声に諭されて、施術を引受る事にした。
それを決める前にも不思議な事があった。
田所氏が1回目の説得に来たのは5月の上旬であった。その時、
「男をコケにした女など何で俺が施術しなきゃいかんのですか。そりゃーー、私だって子供の時、挫けないで済んだのは、美空ひばりの唄った『雨の降る日も風の日も悲しい時にも唄えランラランラランラランラ唄え』と言う唄のお陰だと言う事は、充分自覚しているから、御返しをできればと思っている。私の母など、今ひばりの姿がテレビに出る度に、大阪で働いている時、私の苦しい時代の支えは、ひばりちゃんの唄だった。治してやってくれれば良いのにと、泣きながら言い続けています。だからしてやりたい。恐らく言わないでしょうけど、小林旭がひばりを許すと言ったら、喜んで施術します。しかし、それがない限りいやです。」と撥ねつけた。
その小林旭が、7月に放送された芸能生活の記念公演で
『もう時効だから、話しても良いと思いますが、私達は憎しみを持って別れたのではありません。いつの間にか別れてしまったのです。ですから、今でも会った時は良く語れる間柄です。憎しみはありません。』と、語ったと、大分から帰ったばかりの私に、母が鬼の首を取ったかの様な喜びの調子で、何度も何度も言ったのでした。
「小林旭がそう言ったのなら、治さんという理由は無くなった訳だ。後はひばりがしてくれと言うかどうか。ひばりに付きがあるかどうかと言う事だけだ。」と答えたのでしたが、まるで私の話しを聞いていた様な感じで、何かが動いているなと感じていました。
ひばりさんの手を合わせる姿を見ながら、『ひばりさんの祖先が私をここに連れて来たのだなあ。やはり祖先は私達を守ってくれているのだなあ。』と、噛み締めていました。全てをこの時の為に組み上げて来た、偉大な力の存在は、疑うべくも無かった。私が施術する事になる人は、祖先の供養等をきっかけとしている例が沢山あることを確認していたので本人は感じる事のない、祖先の力がひばりさんにも働いていた。
施術が終わって、応接間に戻って語り始めた時、
『私の施術をさせる様にして下さったお母様に、お礼の気持ちを込めて色紙だけでも差し上げたいと思います。持って行って頂きたいのですが、よろしいでしょうか。のんちゃん筆と色紙御持ちして。これだけ精魂込めて施術して頂いて、先生は施術代も要らないとおっしゃるけど、それでいいのかしらねえ。無理にと申し上げるのも、失礼に当たるわね。この嬉しい気持ち、何とか現したいわ。先生、小学校も満足に行かなかった者が書く色紙ですので粗末ですけど、ひばりは感謝していますと御伝え下さいね。』のり子さんが墨を擦り上げるのを待って、サラサラと書き上げられた。
「ところで、ちょっと確認したいのですが、息のし易さと左の耳の聞こえる感じはどうなっていますか。私は、さっきより声の大きさを下げて話をしていますが、充分聞こえていますよね。」
『えっ、息は凄く楽です。うわーぁ、恥ずかしい。先生は耳の事気づいていらしたのですか。さっきはね。先生の御話が良く聞こえなくて、一生懸命合わせる努力をしていたのですけれど、いま凄く良く聞こえると思っていました。聞き直すのは失礼だと思って頑張っていたのですけれど、先生は見通していらしたのですね。恥ずかしい。』
「9月のレコーディングの時に、映っているあなたの唄い方を見ていて、非常に重症の呼吸障害で、唄のフレーズの長さに対して、肺にある息では唄い切れない分を、血液の中に溶けているガスを絞り出して、それを息にして発声していると見ていたんです。凄まじい事をするなあと語っていたんです。」
『息はね、プロになれば、どんな事をしてでも声を出さなければいけませんから。テレビを通しても見えているんですのね。あら、自分の声がよく聞こえる感じだわね。不思議。』
のり子さんが言葉を継いで
『最初ね、先生が御話になっておられる事と違う返事を、お嬢さんがなさるのでね、はらはらしながら聞いておりましたけど、先生が話を合わせて下さっているので、気が気ではなかったのです。いつも、打合せの時には、お嬢さんがとんちんかんな事を言い出して、話が纒まらなくなっていたのですけれど、いま聞いていますと、正確なやり取りをなさるから、不思議だなあと思っていました。本当に耳が遠かったのですねえ。』と驚いていた。
『あら、私そんなにとんちんかんな事を言っていたの。のんちゃん。』
『えーぇ、その時は、みんな顔を見あわせて、まただっと合図をし合って話をやり直していたんですよ。』
『あら、それでは知らないのは私だけだったの。』
「話の流れとして、そういう事になりますね。これからは、地獄耳のひばりさんになりますから、左側であっても、良く聞こえますから、内緒話は出来ないと思って下さい。他の方にも教えて置いた方が良いですね。それから、耳の綿栓は要らなくなります。どんな重症の中耳炎も治りますから。」
『うっかり内緒話をしないように、気を付けないといけませんわね。』
『のんちゃん、少し乗り過ぎじゃないの。私を傍に置いて内緒話をしていた事になるわね。』
『えっ。まあ、名前がのり子ですからねえ。』と詰まったところで3人が顔を見合わせて大爆笑となった。
『先生、施術費を取って下さらないと言う事ですが、それでは次を御願いしにくいのですけど、気持ちだけでも受け取って頂けないでしょうか。』
「私は、自分の納得のいかない事はしません。納得のいく事なら代価をほしいとは思いません。もし、どうしてもと言われますならば、東京ドームの収益金を半分下さい。それでなければ0です。旅費だけ弁償して貰えば充分です。」
『それでは、御言葉に甘えさせて頂きます。後で考えさせて下さい。』と語ってひばりさんは部屋に上がられた。
10月31日の施術を約束して、ホテルに戻った。18日の国際PIA療法学会での特別講演は、大きな仕事を済ませた充足感の中で、充実した話が出来た。
10月31日行くと、羽田で高木社長が出迎えてくれた。ひばり宅に着くと、すぐに
『先生、きょうは1人是非診て頂きたい女の子があって、呼んでいるんです。伸子と言います。凄く痩せていて、このまま死ぬんじゃないかと心配しているんですの。後で来ると思いますので、施術出来なくても、診るだけでもいいんですが、診て頂けませんでしょうか。あの子を助けると思って、御願いします。』
「私は、診たら手を出す性格だという事は知っているのでしょう。まあ、時間が余るから良いですよ。しかし、伸子って知りませんねえ。」
『会って御覧になってください。御存知かもしれないと思うのですけど。』
そんなやり取りをしながら施術していると、のり子さんが入って来て、
『お嬢さん、伸子さんが御見えになりました。どうしましょうか。』と尋ねると、ひばりさんは飛び起きて、正座し、
『先生、ごめんなさい。伸子と言うのは、浅丘ルリ子なんです。最初から言うと先生が嫌いだとおっしゃるかもしれないと思って、どうして言えなかったのです。ごめんなさい。診て頂いて、出来ないとおっしゃっても結構です。どんどん痩せていくのです。あのままでは、あの子が死んでしまいます。どうか診てやって下さい。』頭を深々と下げて頼まれた。
「分かりました。痩せるポイントは解明しています。あなたののと逆になっているんです。あなたはスマートになります。」
『あぁ、それではあの子は治るのですね。太れるのですね。良かった。有り難いわ。』自分の事の様に喜んでいた。
ひばりさんの施術が終わった後、浅丘ルリ子さんの施術をした。施術時の体重は、31sという事であった。3回の施術で肌の汚さが消え、美しい桜色の肌が現れた。それは体調が正常に転換した事を現していた。その後確認の機会はなかったが、3月のステージのインタビューで36sになっている事を話していた。
施術の後語った時、「これで旦那さんは、今迄以上にあなたに夢中になりますね。今迄は相当我慢していたでしょうねえ。凄く優しくなるから、すぐ分かりますよ。お楽しみに。」と、言ったのでした。
その後、ひばり家と石坂浩二、浅丘ルリ子夫婦が夕食会をした時、その夜の話題は、2人の女性が美しく若返った話で持ちきりであったとの事であった。
ひばりさんの施術の期間に、妹の勢津子さんの肩凝りの事を『ここに来て治して頂くと良いのだけどねえ。』と自分が良くなっていく実感に付けて語っておられた。また、萬屋錦之助さんの病気の施術の可能性や大原麗子さんの頭痛の施術の事のことでは、本人達のスケジュールの都合で実現しなかったが、一生懸命であった。最初の時、寂動正体療法の施術の限界を示す為、国際PIA療法学会での特別講演の資料の禿げ頭が1年間に7回の施術で完全に生える揃っている写真集を見て、『ジュンちゃんも治して頂くと良いのにねえ。』と言われた時、私はレッツゴー3匹のメンバーと分かる迄時間が掛かってしまった。
10月31日の施術の後、どうしても痛みが残るものを残してあるから、もし痛みが強い時は電話してくれといって鹿児島に帰ったのであったが、11月3日電話があり、急遽、東京に行く事にした。その日の日程では、東京行きは不可能の筈であったが、全ては行ける方向で進んでいった。切符もぎりぎり残っていた
鹿児島発18時20分発の最終便で東京に着き、9時過ぎから施術した。その最中にのり子さんが走り込んで来て、
『お嬢さん、川口浩さんが亡くなられたそうです。今連絡がありました。』と知らせた。
『他人事ではないわねえ。私だって上村先生に御会い出来なかったら、駄目になっていたかも知れないのよ。今はこんなありさまで行き届かないけど、ちゃんと失礼のない様に御挨拶をして差し上げてね。』と指示しておられた時、
身体の状態が非常に悪い事は、ひばりさん本人には語ってないのであったが、自分の状態に付いて、ほぼ正確に自覚している様子に驚いた。最初の夜語った事は自分の体力が限界にある事を、自覚してのものである事に冷やりとした。
その夜、私が子供の頃、父は戦死し、母は大阪に働きに出て、祖父母に育てられる寂しさの中で、挫けそうな時唄っていた唄が、『ひばりが唄えば』という唄である事を、のり子さんがひばりさんの歌詞ブックの中から見つけ出してくれ、その唄が唄われている映画『東京キッド』のビデオを見せて貰った。
それは、小学2年の時、母にねだって1回だけの条件で見に行った映画そのものであり、ひばりさんの脚が悪い事を発見し、それから6か月位の間、治してやりたいと思い続けていたその映画であった。その夜、2階に休ませて貰った。
11月4日の朝、ひばりさんは施術の前に冗談のように、
『先生、私NHKの紅白に呼んで頂けませんでした。もう私の事はいらないみたいですわね。残念ですけど。』
「ひばりさんがNHKに肘鉄を食わしているんじゃないんですか。私は、元気になったあなたの姿を日本中の母と同じ思いの人達に見せてやりたいんです。出て下さいよ。」
『先生に言われてね、もし紅白の声が掛かったらどうしようかな、なんて事もちらりと考えていた事もあるのですよ。心の奥底に皆様に励まして頂いた事に御答えしたいと言う思いがあるものですから、NHKの方にとっては、私はもう過ぎ去った人としての価値しかないだろうと思いますから、あり得ない事だとは考えているんですが、やはり、もしかしてと言う気持ちは吹き切れませんのね。単純なんですのね。私は、』
「いいえ、日本人の半分は私と同じ様にあなたを誤解していました。しかし、その原因が取れた今は、威張っている様に見えたものが消えてしまいましたから、違ったイメージがあります。誤解していた人たちにも分かって貰える様になると思いますよ。私の知人の中にも、同じ考えであなたに反発していた人が何人かいた事がはっきりしています。」と語ったが、複雑な思いであった。
施術の後、ひばりさんは相談したい事があると語り始めた。
『私は、もうすぐ塩屋崎の方に行ってビデオ取りをするスケジュールになっています。この事に付いて、先生の御考えを聞かせて頂きたいのです。行ってもいいかどうかと言う事です。このスケジュールは、上村先生に施術して頂く事が決まります前に、私は、もう良くなる事はないだろうから、それならば、最後のビデオ取りとして、塩屋崎に行って、それで引退しようとやぶれかぶれで決めたものなのです。向こうの磐城市の方では、市長さんが会見の予定迄準備して待っていて下さるそうなのですが、私は、今、先生の施術に全てを掛けたい気持ちになっています。先生が行くなとおっしゃれば、行くのは止めます。止めたら、ひばりの復帰は絶望とか、色々と書かれるんでしょうけれども、それでもいいと思っています。下見をして来た者が、足元の平坦な場所だけにする様、段取りして来てくれたと言っておりますが、施術する厳しい目でごらんになった先生の御考えを、遠慮なさらずに、教えて頂きたいのです。私はそれに従う積もりです。どんなものでしょうか。』と
「そのスケジュールに付いては、最初の施術の時におおよそのステップとして教えて頂いた時から、良い事ではないが、止められないのだろうなあと心配していました。浜辺の岩場というのは、道等の人工の平地と違って、見た目には平坦に見えても細かい凸凹があります。ですから、健康な人間でも、次の日は脚の疲労感があります。それだけ、脚を踏ん張っていると言う事です。不完全な身体で岬の岩場を歩くという事ははっきり言って無謀です。
今朝からテレビを見ていたのですが、さっき、北緯39度線を東から西に1週間掛けて歩く番組をやっていましたが、北緯39度というのは磐城市よりもちょっと北よりでしょうが、雪が降っていました。雪が降る中で歩くという事は、肉体的にどういう意味を持つかというと、低温にあった筋肉は、収縮する訳です。筋肉が収縮した場合、筋肉の付き方というのは、骨の上端近くに付いている筋肉の末梢側の端は次の骨の上端近くに付いています。その筋肉が縮むのですから、上下の骨の間隔も圧縮される事になります。あなたの場合であれば、傷んでいる大転子に強い圧力が掛かってしまうという事です。その状態で、岩場を歩くという事は、壊す努力をしている様なものですよね。施術を開始したのは10月17日です。その時迄骨折していたのと同じだと思って下さい。骨折したものが充分に使える様になるのは3か月位経った時からです。最低でも1か月は必要です。その最低限の期間にも満たない間に不安定な岩場を歩くのは勧められません。中止出来るなら中止してほしいと思いますよ。ファンだって集まるでしょうし。」
重大な相談を受けている事に、圧迫を感じながら、完全な元気な身体になる事を標的として、説明した。
『無理な事をしようとしているというよりは、無謀だという事ですね。脚が弱くなってからね、ファンの方を見ると恐怖なんです。集まって頂ける事を有り難いと思わなくてはいけないのですが、もし、転んだら押し潰されてしまうと思うと、脚が竦んで動けなくなって、プロダクションの方から、早く車に乗ってと急かされる事があるのです。でも、足が動かなくなってしまいますのね。ですから磐城市の市役所で市長さんと御会いした後、どうして車に乗れば良いのか心配しているのです。塩屋崎で取り囲まれたらもう動けませんわね。上村先生の御考えでは、行くべきでないという結論になりますわね。』
「そうです。これが3ヵ月後の予定だったら反対はしません。それに、骨盤に怖いズレがあります。脚が利かない事態を考えないといけません。計画を中止するという事は、マスコミ好みの美空ひばり再起不能という見出しが踊ることになるでしょうが、良いじゃないですか。それで書いて貰って、稼いで頂けば。どっちにしても何かを書く訳だから、最悪の表現をして貰っても、4月11日にちゃんとやって見せれば、書いた事の無意味をみんなが理解してくれますよ。満を持して、不死鳥美空ひばりは飛び立ったなんて見出し、いいんじゃないですか。美空ひばりが美空フェニックスになるのかな。飛び立ってはいけないか。帰って来なくてはいけないな。」
『実は、きょうの午後2時からひばりと高木の両プロダクションの社長達を集めてこの件に付いての検討会をする予定なのです。先生もこの会に出て頂いて、先生のお考えを御話頂けませんでしょうか。やぶれかぶれの感じで決めてしまっていた事なのですが、4月11日の東京ドームの公演の為ならば、捨てるものは捨てて、取り組みたいと思っています。いま、私は先生の施術に全てを掛けています。他には受けている施術はありません。ですから、先生の御指示に従いますので、ありのままを御話下さって結構です。御願い出来ますか。』
「まるで、詰将棋ですね。そんな重要な会議に、私が出席して良いのかなー。ちょっと怖いけど、大事な事ですものね。私が喋るべきタイミングはひばりさんが指定して下さい。それによって話ましょう。最近は話し合いに慣れていませんので。間髪を入れずといかないから。」という事で昼の会議になった。
ひばりさんに両社長、ひばりプロダクションの森専務、ひばりプロの会計主任と和也君とのり子さんに私も加わり応接間で会議は開かれた。
色々と話し合われた後、ひばりさんは私の意見を求められた。
脚の為に計画を中止する方が良いと意見を述べた。
私の意見に継ぐ形で、ひばりさんは、
『私は、上村先生の御意見に従いたいの。私は本当に良くなって来たと思うのね。折角ここ迄来たものを、2度と失いたくない気持ちなの。大目標は4月11日の東京ドームに置いて、全てを考えたいと思うのね。その為に、それから外れる様な事は整理して進めていった方が良いと思っているの。計画を中止するとなると色々あるし、磐城市の方々にも御迷惑を御掛けする事になるけど、良く礼を尽くして御詫びしてほしいの。マスコミの方々には、良くなる為の中止だという事を充分に説明してほしいわね。やっぱり駄目なのかと言われるだろうけど。そうではない事を何とか話して見て。信じて下さらない方には想像のままに御任せするしかないわね。とにかくやって見て。御苦労を御掛けしますけど、よろしく御願いしますね。』
この時、ずっと沈黙して話の成り行きを聞くだけで、口を挟まなかった和也君が口を挟んだ。
『母さん、今、金の繰りに困っているわけではないんだろ。だったら、足の調子が大分良くなっている事が目に見える今を大切にしてほしいよ。今、無理をする事は折角良くするために積み上げてきているもののすぺてを失う事になるのじゃないの。大事にしなよ。』と。
「です。プロダクションの経営に困難がないのならばいわき市の市長さんには別の機会に埋め合わせをなさればいいと思いますけど。」とかたった。和也君の一言で方向づけは決まった。
『分かりました。さっそく手配します。まずコロンビアに連絡をしないといけませんね。』と、森専務が立ち上がった。コロンビアは電話の後、ひばりプロの社長が事情説明の為、挨拶にいく事になった。
『ここからでも良いけど、話を先に進めたいから、奥の方の電話を使って良いですよ。のんちゃん電話を用意して上げて。』
森専務は奥に入り連絡を取り、事務所に戻って計画の中止を発表する事になった。私は重大な事に関わったことに興奮を感じた。これだけ真剣に検討している事が、受け手のマスコミの段階では、別の見方になっているのがおかしくもあった。いつも見る側にある者が、発信者側に立った時の面白さでもあった。
そして、ひばりさんが4月11日の東京ドーム公演に向けて、己の存在の全てをさえ掛けている凄みを帯びた気迫と、施術の成果にその全てが掛かっている事に、責任の重大さをひしひしと感じた。
11月14日の施術は、ネックとなっている肝臓の為の施術と、重大な問題が隠されている呼吸困難症の原因の施術に精力を注いだ。この時は、たまたま、松山医院の透析室の職員、小野君と山村君の2人が研修会に出席の為、同じ飛行機で上京したので、ひばりさん宅に寄って貰い、高度の矯正施術動作をする為の助手を頼んだ。
その結果は、11月19日の血液検査によって、完全な成果を上げている事が確認され、肝臓に対する施術の為に絶対安静の制限があったものが開放され、歩行訓練の時間を多く取れる様になり、長時間の公演に絶える体力の復活に向けて踏み出す事となった。
11月28日、結果的に最後の施術となってしまったが、施術の後、12月以後の活動の計画に付いての確認がなされた。
9日の記者会見、自宅での録音によるラジオ出演、14日の京都公演の後、テレビ録画の予定があり、それに向けての注意事項の確認が行われた。
この時、記者会見で、私の施術を受けている事は伏せる様に求めた。その理由は、松山医院に患者が殺到した場合、個人病院であり、対応が不可能である事にあった。また、私の施術は、1人1人の施術に長時間を要するので、大量施術は不可能である事にあった。
マスコミと、コロンビアの関係者に手配して、質問の方向を施術の中身に進めない様にさせる事を確認した。
寂しくもあったが、最善の策であった。
12月14日、のり子さんから電話を頂き、京都の公演の行き帰りの状況や、公演の最中の状態に付いて非常に良い経過であったこと、新幹線の東京と京都のホームを端から端迄歩いて異常がなかった事、帰りの東京ホームで1回立ち止まった事が報告された。
12月23日に、26日の東京発の飛行機の切符が入手出来ず、施術の予定が立たなくなったことに伴い、このままでの見通しに付いて問合わせを受けた。
現在迄の施術では、未完成の部分が4ヵ所ある。それは、骨盤内の仙腸関節にあるズレ、胸骨柄結合部のズレ、鎖骨のズレ、脊椎の肝臓部のズレであるが、仙腸関節のズレは、下半身が麻痺する様になる人に共通したものであるが、大腿骨頭に強い力を掛けなければ矯正出来ない為、12月26日に初めて矯正を始める予定であったので手つかずである事。胸骨柄結合部は、呼吸が困難になるものであり、非常に大きいズレになっており、まだ4o以上のズレがあり、命取りになる可能性があるので、なんとしても機会を作って施術が必要である事、鎖骨は大きいズレであるので、施術回数が不足している事、肝臓部の脊椎は殆ど良く矯正しているが、なお不安が残っている事を説明した。最高保証期限を聞かれたのであるが、8月が限界期間であり、12月を超えると取り返しの付かない事になるので、盆過ぎの出来るだけ早い機会に施術しないと、生エネルギーの欠陥も発生する可能性がある事を絶対に忘れないで、九州方面の興業の途中でも良いから、連絡する様に念を押して話した。
スケジュールも、いま迄の3分の1位にして、活動を控え目にする事が絶対条件である事を繰り返した。
呼吸困難の症状が現れたら、薬では治せないものであるので、早く連絡する様に、そうしないと、取り返しの付かない事になると命を落とす危険性を教えた。
4月11日の東京ドームの様子は、鹿児島では6月になって放送され、痛みが強い事が明瞭であったので、身を切られる思いで見つめていた。すぐに手紙を書き、急いで仙腸関節の施術が必要である事、胸骨柄結合部の矯正方法が新しく見つかり、施術効率が高くなったので早く施術する必要がある事を知らせた。
しかし、無しのつぶてであった。当時、全国を回っていたのであった。
8月になり、保証出来る限界を超えている事を書き送った。
12月を過ぎ、命が危険である事を知らせた。施術に来る患者達も、話を知っていたので、このままで良いのかと尋ねる様になった。
私はいらだちながら、
「保証期限は過ぎてしまったから、ひばりは地に落ちて死ぬでしょうね。もう知りません。私の警告を聞かなかったのだから、もう、取り返しは付かないですよ。私はもう知りません。死んでも私の責任では無いです。ひばり自身が選択した事なのでしょう。おしまいですよ。もう聞きたく無い。」と答える様になりました。
3月中旬、『女一人旅』が放送され、その中で、取り返しの付かない事態になった事を、はっきりと確認した。
「どうして、脚の悪い人に砂丘を歩かせたんだ。息苦しさも極限に達して、呼吸を懸命に調節して話しているではないか。なんであの場所を。」と絶句してしまった。間もなく入院された。
実現する事は出来ないと思いつつも、励ましの思いを込めて口にした、
「NHKから元気になられた祈念として、別枠で紅白で歌っ欲しいといってくるかも知れませんよ。」と言った時、
『そうだったら嬉しい事ですわね。出演料は一切無しで出させて頂きますわ。実現しない夢と思って楽しみに待たせて頂きます。』と笑われた。紅白の出演者の発表があった時、
『先生、やっぱり呼んで頂けませんでしたよ。出られなくなる方に申し訳ない事ですものね。』と言われ、
「元気になられるタイミングが間に合わなかったのですね。来年になったら文句無しですね。」
『そうですわね。NHKの方もひばりが身を正して、清しく暮らして居ります事を分かって下さればと思います。来年はこのひばりの姿を分かって頂いて、待って下さっていました日本中の皆様のために歌わさせて頂きますわ。兄弟たちはホントニかわいそうだったんです。私が一人占めにしてしまって。でも、和也が私の手に残りましたから、あれは残してくれたんですね。来年ですよね。』と目を輝かせて笑われた。厳しさを知っておられた上での応答であったのだろう。「
現代医学は、あの病気に対して無力であるものを、それを頼りにして、彼女は最良の患者であり続け、臨終の際に大分にいる私に助けを求めた。だがその時、命は終わっていたのだった。残念で残念でたまらない。思う時、涙を止める事が出来ない。呼吸困難は治せる病気である。原因も明確に分かっている。しかし、現代医学はこの事実を認めることなく、次の患者の命を救えないであろう。
美空ひばりさんの施術を通じて、明らかにしなければならない事がある。
美空ひばりさんの病気に付いて、寂動正体療法の視点から見ると、現代医学が見ていたものとは結論が異なっていたのである。
美空ひばりさんの脚は言われている様にアルコール多飲でなったのではない。ひばりさんが出ていた映画東京キッドを私は小学校2年の時に見て、ひばりさんの脚が悪い事を見つけ、6か月位何とかして治したいものだと考え続けた経験があるのであり、昭和37・8年頃であったか、久しぶりに見た花笠道中で脚の悪いのがそのままであることにショックを受けた記憶もあるのである。
痛みを堪えるのにアルコールは効いたかと聞くと、最初は弱い酒でも良かったが、しだいに強い酒でないと効かなくなったと語った。痛みを減らす為の酒である事が分かる。因果関係の捕え方が逆になっている。これはひばりさんの例だけでなく、他の病気の患者の場合にもいえるものである。
大腿骨頭のX線写真像は、大腿骨頭が未完成のままになっている事を現していた。その原因の第一は、胸鎖関節のズレによって引き起こされる下肢の血行不良が起きた事によるものであり、仙腸関節が両方共に大きくズレていたことで加速されていた事にある。胸鎖関節のズレは、左側が激烈なズレを持っている事は、済生会病院で撮影された胸部X線写真においても明確であった。
仙腸関節のズレは、撮影の角度の問題もあり、写真での判定は不十分で、伏臥位で骨盤部を検査すると、左右腸骨が仙腸関節に対して前方に変移しており、それに伴う臀筋群の萎縮と弛緩が生じ、大腿部の大腿筋膜張筋の拘縮があった。この中には、仙骨の捩れによる大腿二頭筋の拘縮も存在していた。
ひばりさんは、最期迄この仙腸関節のズレを矯正しないまま、脚の痛みを引きずっていたのである。もし、お元気であられたならば、これらのズレの為に両足の麻痺が起きたであろうと考えられる。
それら以上に重大であったのは、胸骨柄結合部のズレであった。胸骨柄結合部のズレは、胸骨体に対して胸骨柄が胸腔内方向に陥没しているものである。これによってどの様な症状が発生するかという点は、次に述べる胸鎖関節と共に、人類が探し続けて来た慢性病の原因関節であり、その症状は、現在迄のいかなる施術法も発見出来なかったポイントであり、想像を超えた人体の秘密だったのであり、その症状は、全身に現れ、しかも激烈なものである。
喘息は、胸骨柄結合部の矯正をすると1回の施術で消えてしまう。喘息の症状にはならなくても、呼吸困難の障害に留まっているものも、非常に幅広い呼吸障害として起きている事を、施術を通じて確認している。
正座をすると脚が痺れるのは何故か、外反母指は、脹ら脛の痙攣は、膝の後ろの芯がいたむ原因は。それらの全てが胸骨柄結合部のズレによって起きるのである。逆にいうならば、脚が痺れる人は呼吸障害や土踏まずの痙攣ぐせや足の親指の痛みと曲がりを持っている。呼吸の仕方は、胸が前後左右の三次元的に膨らまない縦方向だけの二次元的横隔膜呼吸になっているが、胸骨柄結合部のズレを矯正すると数分後には胸が膨らむ動きが復活する。この時、正座に伴う足の甲・脹ら脛・膝の痛みが、全て消滅している。膝の痛みは、膝の裏の芯に起きるものに限る。それ以外は、原因は別である。
この胸骨柄結合部のズレは、私の中学3年の時の担任・上野泉先生の事例を語らなければならない。
上野先生は、1987年7月23日に亡くなられたが、その以前十数年肺が潰れる等呼吸器の障害で、何度も入院と退院を繰り返していた。1986年10月その病気の原因が胸骨柄結合部にある事が分かり、12月には何とか治せる様になって、上野先生の消息を聞くと、入院中であるとの事、機会が得られず、5月になってやっと施術する事が出来たが、呼吸は困難で、歩行も30mも歩けない状態であった。呼吸は、まるでトカゲが暑い最中に、喘ぎながら鰓を広げて呼吸する様であった。喉の奥が狭くなり、呼吸動作で通過する空気が大きな抵抗を受け、呼吸動作が大きいにも拘らず僅かの空気しか吸い込めない、呼気飢餓感が全身を苛んでいる姿でした。
他の矯正施術に先立って、とにかくその苦しみを取ろうと胸骨柄結合部のズレを矯正した時、上野先生は胸一杯の空気を吸い、感激の言葉を漏らされた。その時、鰓呼吸の動作は消えていた。その後全身の矯正を終わって歩いて貰ってみると、居間から仏間まで10m余りある距離を何往復された事だろうか。歩ける様になったばかりの子供の様に、繰り返し繰り返し感嘆の言葉を言いながら止めても止めても歩かれた。ズレはまだ半分以上残っていたが、全部が消えたかの様な錯覚を持った。7月23日朝、2回目の施術を急がないと体力が持たないかもしれないと、日程を調べていた最中に、先生が亡くなられた連絡を受けた。
この上野先生が霊魂として、ひばりさんの施術を引受る様、私を諭されたのである。
もう一人の例は、南こうせつ君である。
南こうせつ君は、1985年から施術をして、公演の2時間に3度も倒れる事はざらで、1時間余りで倒れたまま幕が上がらなかった事もあったという病弱のこうせつから、1985年の福岡でのサマーキャンプを終わって3日目の施術時の実感として、『吉田拓朗は倒れて救急車で運ばれたが、僕は6時間唄い続けてもまだ後2時間は充分唄い続けられる自信があった』という程の元気ばりばりのこうせつに変身させた。(立場が逆になったと、かぐや姫のメンバーが驚いたと言う。)
1986年4月、全身は完全になっており、喉のところの拘縮を施術する方法は分からないので、治せる施術師を探す様に言って施術を終わった。6月になって胸鎖関節のズレを発見し、10月に胸骨柄結合部の問題が解決した。
人伝ての、もう一度施術に来る様にしなさいという伝言がこうせつ君に届いていない様であったので、1988年11月3日、松山医院における施術の休み日を利用して、耶馬渓から国東半島までの紅葉狩の足を伸ばして杵築市の自宅を訪ねた。
夕刻、尋ね尋ねて、近くの方に案内され、門に辿り着いた時、こうせつ君達が海から帰って来て鉢合せした。家に上がって確かめてみると、この胸骨柄結合部のズレによる呼吸障害の呼吸困難や嚥下動作痛に苦しんで、癌なのではないかと心配していたとの事で、その原因のズレを矯正し終わった時、症状が消えている事に笑いころげ、台所にいた奥さんがびっくりしたほどであった。
施術の後、
「美空ひばりは同じ病気で、もっと重症なんだ。8月の保証期限を過ぎて、12月の取り返しのつかない刻限が迫っている。命が終わってからでは間に合わないから、会う事があったら、大至急来る様に言ったと伝えてほしい。」と、頼んだが、出会うスケジュールがないとの事であった。
今こうせつサマーコンサートの放送をみながらキーを打っているが、こうせつの喉にあった拘縮は完全に消滅している事が確認出来る。
同じ病気でありながら、明暗を分けたのである。家に居らなかった時は、1分も待たないで帰るぞと語りながら辿り着いた、その瞬間に浜遊びから帰り着いたこうせつの幸運であった。
その日、こうせつ夫婦はUFOがやって来るねと語っていたのだという。帰りに当たって、高説の予感を確かめる為に庭に出てUFOを探したが、空は薄雲に覆われてUFOは見つからなかったので、頭を光らせて地表を這って来たなと落ちを付けて笑ったが。(私は坊主頭)
最後に、ひばりさんの大腿骨頭の痛みの原因は、胸鎖関節のズレによるものであった。胸鎖関節のズレとは何であるかに付いて少し触れたい。
胸鎖関節のズレの意味は、美空ひばりさんを施術した時迄と、それ以後で、その位置づけは大きく変わった。
胸鎖関節にズレが起きると、右は右、左は左として、半身の筋肉が拘縮するのである。それは、どの様な現象であるかと言えば、子供は頭が痛い・腹が痛いと言い、年を取ると腰が曲がり・耳が遠くなり・足が弱くなる・ギックリ腰が起きる・股関節の障害・膝の障害・猫背が起きる。これらが施術が終わった瞬間に消えているのである。施術の始め、補聴器を着けないと聞こえなかった老人が、施術完了時、補聴器は畳の上にあるのに、全ての指示した動作を行い、畳の上にある補聴器を指差すと、腹を抱えて笑った例があった。
手足も歪んだリューマチでさえ、施術完了の瞬間に動作に伴う痛みは消滅して正常な動作が復活しているのである。
美空ひばりさんが、威張っていると言われていた姿勢は、この胸鎖関節のズレによって胸鎖乳突筋という頚の筋肉が縮んで起きる症状として顔面が上向きとなり、それを無理に顎を引くと顎の下に大きな弛みが出来、これが威張っている・天狗になっていると言われていた原因であった。
1986年6月、胸鎖関節のズレが恐ろしいものである事が明らかになって来て、松山家昌院長と語った時、「美空ひばりはいつも顔が上向きになっていたので、威張っていると考えていたが、あの姿勢こそ胸鎖関節が悪い者の特有の姿勢ですから、股関節は相当に悪くなっていると見て良いです。『柔』を唄った頃からステージでの動きが極端に少なくなっているのは可笑しいと見ていましたが、顔の上向き角が最近非常に大きくなっていますから、股関節は破綻寸前と考えた方が良いでしょうね。入院も秒読みかもしれません。」と、話したのであった。
その頃、双羽黒が横綱に推挙されたニュースを見ながら、「あの男は可哀想にね。大関のままで居れば40歳になる迄相撲が取れたのに、相撲協会の興業上の都合で横綱にされて、25歳にならない内に相撲取りを辞めないといけなくなるなあ。俺の処に来れば大横綱になれるのに、鎖骨のズレの為にぼろくそに言われて、辞めるなんてたまらんよなあ。江川ももう持たないし。」と、妻に言ったのでした。この事は、日本カイロプラクティック連盟の9月研修会で作製配付した資料に付記として書き残した。
1987年12月になっても双羽黒が辞めないのをみて、患者達が『先生、今年も終わりですが辞めなかったですね。』とからかい半分に言う様になった。
「うん、今年はね、12月は31日迄ある事になって居るから、まあゆっくり待って居れば。」と、やけっぱちで言う事にしていた。12月30日の夜、
「来年は言われるなあ。このまま治まれば双羽黒も良いのだがなあ。胸鎖関節の恐怖からは逃れられんとしても、時が来れば治せる機会があるかもしれん。」と、呟いたが、12月31日午後9時前のニュースは、双羽黒が相撲取りを辞めた事を伝えた。25歳にもなっていなかった。
江川卓の肩と腰は大学卒業の段階から悪かった。巨人が8000万円+1000万円で江川を取った時、5年しかもたないスクラップをよく買うよ。巨人は余分な金を持っているから出させるのも良いさと言ったが、さらに4年間凭せたのは、中国鍼の力であったろう。江川の釈明は、美空ひばりさんにこういう釈明の言葉になりますねと言った通りの言葉であった。ファンの治して繰れという依頼は繰り返しあったが、私は江川には借りはないとこの一件の故、断った。
ここ迄のがひばりさんの施術をした時の段階で分かっていた胸鎖関節のズレによる症状であった。
3回目11月3日の施術の時、ひばりさんは恐ろしい事に気づいていた事が分かった。病気になって以来、上腕部にあった、腕を横に上げた時袖の様に15pも垂れ下がる異常な弛みが、すっきりと消えている事であった。それ迄、お母さんにもあったから、親子だから体質も似ているのだなあと納得していたと言う。自分も危なかったのだなあと思ったと言う事であった。
それは、1回目の施術の為、ひばりさんの手首を持った時、私はひゃっとした感触の意味を裏づけるようなものであった。皮膚の下に感じるぬめりがただならぬものであったからである。
健康な身体では、皮膚と筋肉の距離は非常に近いものである。それが、癌の患者の皮膚の下には、夏のどぶ川に生えている苔のぬめりと同じ感触があり、2年前に松山院長に
「癌の患者を施術する時手首を持つと、必ず手を引っこめたくなる滑りがあります。もしあの皮膚の下の滑りと、息の臭さを消す事が出来れば、癌は防げるし、消えるのではなかろうか。」と話した事があったのである。
その滑りを感じた時、それをどう評価すべきか戸惑ったのであった。ただ、吐く息にどぶ臭さがない事と、大病院で検査していて問題になっていないから大丈夫であろうと考え、確認をするのをさけたのである。また、本人に隠されているかも知れない事を確かめる勇気はなかった。
しかし、この時、ひばりさん自身は癌で亡くなった母親と同じ癌である事を覚悟しただろうと思って絶句したのも事実であった。
胸鎖関節のズレの矯正は、激痛を伴う為、殆どの人が矯正動作の妨害となる抵抗行為をするのであるが、ひばりさんは完全に力を抜き、抵抗しなかった。こうなると、抵抗とのバランスで矯正をする工夫をしていた動作が、うまくやれない事になった。その為、手の動かし方に工夫が必要となり、いま迄とは違った矯正動作を加えた。それが驚くべき問題が隠されている事を明らかにする端緒になったのである。
いま迄、弛みが取れて、すっきりとした身体になる人と、全く効果のない人があり、その原因が何であるのか明らかに出来ないでいた。ひばりさんの場合は、矯正動作が明確であったので、病院で施術する患者にその時の動作を適用して見ると、ひばりさんの場合と全く同じ効果が得られた。
ひばりさんの皮膚の下にあったぬめりが消えて、張りのある美しい身体が現れて来た。「もう一度青春出来ますよ。これだけ美しくなると、ひばりさんが女として見つめられる様になりますね。マスコミのネタが一つ増える事になりますねえ。楽しみだ。ファンの人達はあなたの子供の頃の顔だちが現れている事にびっくりするでしょうねえ。」と言ったのでしたが、ほっそりと見える様になり、子供の時の顔になったのはこの施術効果の為でした。
この激変の意味は、生易しいものではなかったのです。1988年2月になってこの変化の意味に付いて検討をし始めたのでしたが、いま迄、医学に於いて脂肪の塊として考えられていたものが、実際は、矯正が効いたその瞬間に消滅する事から、固体ではなく、液体であると考えなければならない事に気づきました。
人体に、血液とは別に存在し得るものはリンパ液でした。胸鎖関節のズレの影響をリンパ液の循環が受けている可能性について調べて見ました。リンパ液の循環の最終管路が胸鎖関節の奥にあり、他のいかなる循環よりも強い影響を受けている事が明白でした。
『皮膚の下のぬめりが消える』、しかもその成分はリンパ液である。それは以前に直感していた癌の施術点となることが想像されたのである。4月の末になって、リンパ液の問題として明確になった時、癌に勝てる確信を持って1人の患者に適用した。その患者は、1987年9月の段階で舌下腺癌を5回手術し、癌の増殖は進行していたが手術不能として、1988年3月が生命の限界として宣告され、施術を求めて来た人であった。4月上旬の施術で、8月が限界と見ていたのである。6月に来た時、余りの衰弱に施術が間に合わなかったと思ったが、ひばりさんの施術をする時発見した矯正法で身体は激変してしまった。増殖が触れて分かっていた癌細胞の塊が消滅していくのである。1989年8月現在、商売をしている状態にある。
その矯正の効果は、凄まじいものであった。アトピー性皮膚炎が1回の施術で5分後にはつるつるの肌になり、再発しない。
真っ黒の鮫肌が、1回の施術で普通の肌になってしまっていた。
風邪で39度の熱のある状態で施術したが、先に矯正を済ませた右側は平熱になり、残している左側は39度の高熱のままであったが、左の矯正が終わると熱は下がっていた。
女性の性器の弛みは、この矯正で締まったものとなり、性感覚が非常に高くなり、別な女を抱いている様な肌触りと接触感が起き、夫の妻への執着度と優しさが高まる。施術した全ての中年夫婦が新婚の様な感触だと報告している。味は雲泥の差があると妻側が強調している。離婚寸前の夫婦が出直した例でも理解出来るものであろう。
立ち歩きの出来なかったスモン患者さえも、歩ける様になっているのである。
女性の頭痛の原因も滞留リンパ液の障害であり、矯正の瞬間に滝の様に音を立てて流れ戻るリンパ液を聞いた人迄ある。
リンパ液こそ人体の隅々を奇麗に洗い去り、その中にあるリンパ球は細胞の異常を検知し、強力な防御機能を発揮させる驚異的な機能の源であったのである。
それは次の例を見れば明白であった。私の母が石橋で躓き、手の皮がめくれ、筋肉面迄砂が食い込んでいた。それらを奇麗に洗い出して施術していたが、4日後、リンパ管炎が激痛を伴って進行しているのが確認された。会議出席の時間が迫っており、病院へ連れて行く事が出来なかったので、取り敢えず、胸鎖関節のズレを調べ矯正した。その瞬間に痛みが消えたとの事で、1分程目視観察していると、リンパ管の炎症が消滅して行くのが鮮明に観察出来たのである。会議後、病院へ救急車を頼む覚悟で帰って見ると、何も無くなっていた。
いま、寂動正体療法は、心臓が動いている内にここに来着けば助かりますと言える程、あらゆる病気に対して、目覚ましい施術効果を上げているが、ここに書き記した事を考えると、美空ひばりさんの施術をする機会がなければ、現代医学が原因不明として手を上げている、病気の原因を明確にする事は出来なかったであろう。
1987年10月17日から6回だけの施術で、悔いの残るものであったが、本人が絶望していた命の最後を燃え上がらせる事が出来ただけでも、良かったと思わなければいけないのだろう。
美空ひばりさん本当に有難う。ゆっくりお休みください。
和也がねえと笑っていらっしゃいますかね。
この文は、最初パソコン上に半分余り書いた所で、子供がリミッターに触れて電気が消え、メモリから消滅してしまった。また、ソフトが壊れてしまい、修復に1日掛かりとなり、最初から36時間掛かりで書き直したものは、1回目のものとは大きく違った内容になってしまった。
振り返って見ると、1回目のものは自分中心となり、本当の正確さを欠いていたので、美空ひばりさんに書直させられた様な気がする。あの日々に語った事は膨大なもので、思えば思うほど湧き出る状態であり、拙い文章で書き尽くせないが、己の肉体の限界を正確に見据えて、全てを捨て去って謙虚に語られた、美空ひばりさんの気持ちを、少しでも伝える事が出来れば幸いです。
著作権者 上村 巌 1988年7月25日
住所 鹿児島県川辺郡坊津町坊6510番地