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■奄美の年中行事と旧暦について(8/28)[ホームへ戻る]

奄美の年中行事

一月 一日 若水 わかみず 奄美の正月は若水から始まります。元旦の早朝、夜があけぬうちに起き、容器に餅を一切れ入れて水汲み場へ行き、「去年の水と今年の水のきん目(おもさ)はどんなに違うのか」といいながら水を汲みます。餅を入れるのは、餅によいことがくっつくという意味が込められています。この清水で茶をわかし、ご飯を炊きます。
一月 一日 三献 さんごん 三献をすまさないうちは年始の挨拶廻り等には出れません。また、家の中の掃き出しもしません。まず、家族が揃ったところで、家長が上座につき、長男、次男と家族が向き合って座り、吸物椀が一つづつ運ばれてきます。吸物の中味は、こんぶ、餅、芋類、しいたけ、カマボコ、魚、ネギなどが入っており雑煮風です。これを称して餅の吸物といいます。家長から「おしょろ」(どうぞ)と声がかかり、一緒にいただきます。この一の膳のあとに酒が家長から一人ひとりにつがれます。これは家長が家族の普段の労をねぎらうためです。二の膳は刺身です。刺身二切れにショウガを一切れのせたものです。このあとまた酒が配られ三の膳に移ります。この膳は豚の吸物です。豚の肉をたっぷり使った塩味の吸物です。この三つの膳で三献は終わります。三献のあとすぐ、塩盛りがでます。塩を湯飲み茶碗などで丸く盛り上げ、お盆に白紙を敷き、結びコンプを松になぞらえ、裂きスルメを波にたとえて並べます。家長がお酒と一緒にコンブかスルメを一つはさんでそれぞれに配ります。
一月 二日 二日正月 二日節句ともいい農作業の始めの儀式です。大工さんは大工祝い、漁師は船をまつります。農作業の始めといっても、祝い事なので形だけです。蘇鉄を家族の人数分植えるならわしもあります。また、山に木を植えることもあります。この日植えた木は枯れないといわれます。大工さんの祝いは、旧年中に家を新築または改装してもらった人々が、この日に餅や酒肴、金品を携えて大工の家に集まり、家々の武運長久を祈願してもらいます。漁師は船舶、航海の安全を祈って、船に餅など備えて祈願します。元旦の堅苦しい挨拶廻りと違って、友人同士、親しい者が連れ立って、「家廻り(ヤーマワリ)」と称して飲み歩きます。早いうちから家々で島唄や三味線の音などが賑やかに夜遅くまで続きます。元旦から十二日までの間には、干支に当たる人が親類縁者を招いてごちそうを振る舞う慣わしにもなっています。
一月 七日 ナンカンジョセ 七草がゆ 奄美ではこの日七歳になった子供の無事息災と成長を祈って、親戚や近所を七軒選び、お椀を持って回ります。お椀の中には七草がゆを入れ、それぞれの家で交換しますがその際「七歳になったのでナンカンジョセを下さい」といって回ります。七草がゆの中味は色々ですが、本土のようにあまり厳密に七種類の山菜を入れることはありません。特徴は塩漬けの豚などがのせてあることです。奄美特有の野菜で七種類入れます。
一月 十一日 鏡開き 正月に飾った餅を割って雑煮にして食べます。
一月 十四日 餅ならし セークワトロシ 柳またはプー木の枝に色とりどりの餅(白、赤、緑、黒)を刺し、家中の四方とか高倉に飾ります。これをナリムチといいます。夕方には墓参りに出かけ、ナリムチを先祖に捧げます。この日の墓はさながら餅の花が咲いたようで壮観です。赤餅は染料で染めますが、緑餅はフチ(よもぎ)を入れ、黒餅は黒砂糖にナリムチをまぜるサタムチです。
一月 十五日 小正月 十五日の夜は小正月で、大みそか同様豚骨などをたいてごちそうをつくって食べます。
一月 十六日 一六日 十六日は休日です。女にとって正月は、連日接客に追われます。この日は何もしないで休みます。この日は、「針も糸も通してはいけない」といわれ、文字通り何もしないのです。ほんのつかの間の休日ですが、女にとってはほっとする日です。
一月 送り正月 十四日に、ならした餅等を入れてヒキャゲをつくり、ごちそうをつくって食べます。ヒキャゲの意味は粘りがあるために箸ではさんでお椀まで引き上げることが出来るところからつけられました。この日のヒキャゲ(ねった棒)は、餅ならしの時に高倉や家の四隅にかざられたナリムチを下ろし、トン(唐いも)と一緒につぶしてこね合わせてつくります。ナリムチの意味は白金が木になるということでつけられたようです。
二月 ヤドリ節句 旧二月の田植後 砂糖製造の中祝いのことです。砂糖製造小屋をサタヤドリといいますが、この小屋でお祝いをします。男が米を三合、女が二合ずつ持ち寄り、砂糖製造に関係する人々を招待し、ごちそうをつくり、うまい砂糖ができるように祈ります。その後仲間の家を回って祝います。
三月 三日 三月節句 本土のようにひな祭りなどはしませんが、この日はフチムチ、フチダグ(よもぎ団子)をつくり、老若男女連れだって、海の幸、山の幸を詰め込んだ弁当を持ち寄り浜に繰り出します。白浜に降り潮干狩りです。潮の水は春の光で暖かく、ひざまで水につかりながら、海の恵みをたっぷりうけます。
四月 アズラネの日 ネズミの日 この日は長いものを引いてはいけません。長いものはハブに例えられているのです。この他旧四月初めの巳の日はミニアソビといってハブの呪いの日だというところもあります。
四月 マーネ 初午の日 麦を炒り、イリ粉をつくります。またビラを食べます。ビラを食べるのは「ビラを食べないとマッタプ(ハブの一種)につるぱれるから」だそうです。
四月 虫ケラシ 虫あそび 四月の初め「申」の日に畑や田んぼからその年の干支に当たる人が虫をとってきて、川や海を背にして投げ入れ流す行事です。干支の人がいないときは、家長が代役を務めます。稲につく虫を追い払う厄払いなのでしょう。
四月 ハマオレ 浜下れ 十数年前までは、製糖は今と異なり、サタヤドリで順番にその家々で作ったキビで砂糖をつくりました。精糖が終わるとハマオレです。家族全員が弁当をこしらえ、浜に行き遊びます。遊ぶのはこの日働くとネズミに何でも食べられてしまうといわれます。また、「家からケムリを出してはいけない」といい伝えられ、この日はカマドの火も消してしまいます。キノエネの日に行われるならわしです。
四月 ガン 麦の出来た頃、シキ餅といい、麦の粉と酒を混ぜて餅をつくり、それをみんなで食べ、先祖にも供えるとあります。
五月 五日 五月節句 端午の節句の事ですが別に鯉のぼりを立てたり、武者人形を飾ったりしません。奄美では菖蒲の節句ともいい菖蒲又はよもぎを、人の出入りする軒下につるします。これは悪魔払いや万病を払うという意味で菖蒲は刀になぞらえられています。よもぎは万病の薬ともいわれるように、よもぎをつるす意味はよく納得できます。神前や墓前の花にも使われます。この日は家々でカシャ餅(バショウやサネンの葉でくるんだ餅)をつくります。アクマキもつくり、たにフチムチ(よもぎもち)をつくります。遊びとしては舟あそびが盛んです。また、菖蒲を風呂に入れて、菖蒲湯につかります。
六月 十九日 六月灯 名瀬高千穂神社 江戸時代から鹿児島に伝わった行事。灯ろうを下げる。
七月 十三から十五日 お盆 お墓にいる親祖先を家にお供して祖先への感謝と、あの世での労苦をねぎらうために行われます。十三日の夕方、墓に行って、祖先の墓にもうでて掃除をします。お盆は、七月七日の一週間前後ですので、迎え火は七夕を降ろして燃やしますが、これは、その火を目当てに霊が下りてくるという意味です。それから提灯に火を入れて祖先の霊をお供して帰ります。家では、床の間に祭壇をつくり、屏風を回し位牌を移します。屏風の内側にはゴザをしき供え物をしますが、十三日は、水のはつだけをあげます。家では、ムッタナを庭先につくります。ムッタナは、祖先をお迎えするときに祖先が従者として連れてきた供人を待たせるためのものです。晩には八月踊りをして、お迎えの踊りとします。翌日精進料理を供えて祭ります。十四日は屏風の内側に、朝、昼、晩、と人に対するように精進料理を上げます。十五日は必ずそうめんを上げます。これは出されたごちそうをそうめんで束ねて、霊が持ち帰るためです。十五日夕方またお墓にお供します。この時、墓に花をかざり松の芯でとったたいまつでかがり火をたき、みずのこを供え、拝みます。そのあと、すぐに家に帰らず、浜におりて海水で手を清めたり、しばし浜で部落の人達と歓談します。
八月 第1金・土・日 奄美まつり 名瀬市街地 舟こぎ競争、花火大会、パレード、六調大会、八月踊り他。
八月 八月踊り 八月踊りは、まず、打ち出し(歌袋)と呼ばれる指揮者(古老の男女)が曲の選定をし円陣を組んだ男女半々の人々が一斉に曲に合わせて踊りだします。奄美の歌は、ほとんどかけ歌で男が先に歌い、その一小節が歌い終わらないうちに女が次の一小節を歌うというように歌います。歌かけをしていくうちにテンポはだんだん速くなっていき、島でいうアラシャゲとなり、ハト(鳩笛)がなりだして熱狂の輪となります。
八月 三八月 ミハチガツ 考祖祭のこと。アラセツ、シバサシ、ドンガの三つは旧八月に行われる一連の行事。三八月の名はここから付いた。先祖を祭り、五穀豊穣を祈る。八月踊りがさかんに踊られる。アラセツの日の行事で有名なのは、龍郷町秋名のショチョガマ、平瀬マンカイである。
八月 アラセツ 初ひのえの日 こうそ祭り、うやほう祭りともいいます。八月の最初の丙の日に行う行事です。年中を通じて刈り入れの終わったあとの最大の豊年祭りです。当日は、新米でつくった奄美特有のミキをつくり、カシキ(赤飯)をたいて神前(火の神様)に供えます。夕方からは八月踊りですが、この踊りは家さがしといって、部落中の家々を一軒一軒廻り、庭先で踊り、その家の五穀豊穣と魔除けを祈って踊られます。踊り終わるのは東の空が白みはじめる頃になってしまいます。
八月 アンガシキ 稲刈りに際して無事を祈る行事です。稲刈り鎌をホウセンカの紅で染め桑の葉で包み祈ります。この日は赤飯を炊いて親戚に配ります。これはカメザラエと同じように前年の米の残りをこの日までに消化するために行うものです。
八月 シバサシ アラセツのあとのみずのえの日 新節より中七日おいて、申の日に行われます。アラセチと同様ミキとカシキをつくって徹夜で踊り明かします。また、すすきを畑や屋敷のすみにさして悪魔払いをしますが、正式には、畑にいって椎の木の枝をさします。
八月 ドンガ シバサシのあとのキノエネの日 正月一六日と同じようにこの日は何もしないで遊びます。キノエネの日で、翌日になることもありますが、この日を終わってみ(三)八月です。
八月 一五日 前日から壮青年団が総出で四本柱を立て、桟敷をつくり土俵をつくります。当日は思い思いに弁当をしつらえ部落中の人が集まり賑やかに相撲大会が始まります。夕方に夕日が沈む頃、「イソイソ」があります。力士を先頭に三味線、太鼓、イソ踊り、仮装した踊り子が土俵のまわりを歩き、踊ります。最後は、土俵を舞台として、六調、天草が賑やかにくりひろげられます。一息ついて後、八月踊りで夜の更けるまで踊ります。
九月 神月 九月九日の頃 家内安全の願たてや糸がよくできるようにミキをつくり神に供えます。奉納相撲も行われます。
九月 ウガミ お月待ちと、お日待ち 「正月、五月、九月は神月といわれ、この月の一三夜、一五夜、二十三夜、二十四夜、二十五夜、二十八夜のいずれか一回をその家の家主の「えと」に合致した晩に月の出を拝み合わせて家族の安全を祈ります。床の間に祭壇を設け、榊と神酒とシュウギと大小の団子を供え香を焚きます。祭主は日の出の時刻をはかり海岸にいたり潮花をつかって礼拝して終わります。「トギ」をするため近親が集まりますが、祭りが終わるまで寝ることは出来ません。
九月 タネオロシ 九月から十月にかけて行われます。儀式は浜から白砂をとってきて、ならしもみをまいて上からヤスカヤでおおいます。餅米だけは前年におろし、三十センチぐらいの長い苗を植えます。九月のカノエサルの日に行われ餅をついて豊作を祈願する行事です。餅はカネサル餅又はカシャ餅です。ムチムレ踊り(餅もらい踊り)といって、男も女も、子供も大人もそれぞれ仮装して部落中の各家々の庭先で踊り、モチやお金をもらって歩きます。
十一月 一日 ソウリ 十一月一日に行われる一年の最後の行事です。ごちそうをつくるのはこの日が最後です。この頃に咲くツワブキの花を折って墓参りし供えます。またソーリバン(飯)を炊いて食べすま。
十二月 大みそか 奄美では、大みそかは年越しそばは食べず、代わりに豚骨です。鹿児島料理の代表といわれる豚骨料理は、奄美のワンフネから始まったといわれますが、特徴は奄美ではツワブキが入ることです。

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旧暦
 我国においては、明治6年の改暦以来、グレゴリウス暦に沿った暦を用いていますが、奄美における年中行事においては、それ以前に用いていた太陽太陰暦「旧暦」を参考とすることが多々あります。
旧暦ってなに?
 旧暦の*月といった表現を耳にすることがありますが、現在私たちが使用している太陽暦(グレゴリオ暦)が日本で正式に使用されるようになったのは、明治6年1月1日から。これはいわゆる新暦というもので、これに対してそれ以前に、使用されていた太陰太陽暦(天保壬寅暦)を一般に旧暦と呼ぶものと考えられます。太陰暦とは、月の満ち欠けが暦のベースとなっており、原則として、朔(新月)となる日をその月の一日(ついたち)として日付を数えます。ですから、三日月は3日、満月は15日(十五夜)といった具合に、日付と月の満ち欠けに対する呼び名が一致します。ただし、現在「旧暦」と呼んでいる暦は、日付の数え方や置閏法(閏月の置き方)を、天保暦に因っているというだけで、その元となる天体の運動理論や、時刻の取り方などはあくまで、現在の暦を流用したもので、あくまで「天保暦のようなもの」といったところでしょうか。
閏月
 明治の初めまで使用されていた暦は、月の満ち欠けを基準として1月の長さを決めていました。月の満ち欠けの周期は、平均して29.5日。このため当時の月の長さは、小の月が29日、大の月が30日で、小の月と大の月がほぼ交互にやってきます。現在は(2月をのぞくと)小の月が30日、大の月が31日ですから、同じ12ヶ月では、現在と昔の暦では長さが違います。12ヶ月で1年とすると、昔の暦法ではおよそ、354日となり、実際の1年より11日ほど短くなってしまいます。このままでは、何年かが経過すると、暦の月と季節が全く合わなくなって、日常の生活にも不都合なことが生じてしまいます。このため約3年に1度、「閏月」を作り、1年13ヶ月となる年を設けました。これによって、暦と季節の関係を調整したわけです。今は、閏年というと2月が29日まであり、1年が366日となる年のことですが、昔の暦では閏月の入る年を閏年といいました。閏月の入らない普通の年(平年)は1年が353日〜355日、閏年は384〜385日になりました。  閏月は、原則として二十四節気の「中」を含まない月とし、その前の月と同じ月名に「閏」とつけて呼びました。
二十四節気
 旧暦は、閏月を入れることによって暦と実際の季節の関係を調整しましたが、閏年の前と後では、同じ月日でも30日近く季節が異なってしまいます。これでは、暦を元にして農業などを行うわけには行かなくなってしまいます。そのため、暦の中に季節を表すものを入れて、この不都合を防ごうとしました。これが二十四節気です。二十四節気は、立春、雨水、啓蟄、春分・・夏至・・秋分・・冬至・・大寒と、全部で24あります。二十四節気は、太陽が一年で一回りする道筋(黄道)を24等分(太陽黄経の15度毎)し、太陽がこの点を通過する日時によって決まります(定気法)。このため、二十四節気が暦に記されていれば、そこから季節を知ることが出来ます。下の表は、季節毎に二十四節気を分けたもので、それぞれ節、中の別及び太陽黄経(単位は度)を与えたものです。
二十四節気の名称等
立春 正月節 315 立夏 四月節 45 立秋 七月節 135 立冬 十月節 225
雨水 正月中 330 小満 四月中 60 処暑 七月中 150 小雪 十月中 240
啓蟄 二月節 345 芒種 五月節 75 白露 八月節 165 大雪 十一月節 255
春分 二月中 0 夏至 五月中 90 秋分 八月中 180 冬至 十一月中 270
清明 三月節 15 小暑 六月節 105 寒露 九月節 195 小寒 十二月節 285
穀雨 三月中 30 大暑 六月中 120 霜降 九月中 210 大寒 十二月中 300
 上の表のとおり、二十四節気には「節」と「中」の区別があり、節と中が交互に並びます。「節」は季節を表し、「中」月名を決めます。表によれば、雨水は「正月中」となっていますので、雨水を含む月が「正月」となり、原則的には以下同様にして、月名を決めることが出来ます。ただし、恒気による二十四節気では、中と次の中までの間隔は、1月の長さを決める月の朔望周期(満ち欠けの周期)より長いため、「中」を含まない月が出来ることがあります。このように、「中」を含まない月を「閏月」といいます。更に、二十四節気を定気によって定める場合は、中と中の間隔が一定でなくなり、1月よりも長くなる場合と、短くなる場合の両方があります。このような場合は「中」によって月名が決まるといった原則が崩れてしまいます(1月に2つの「中」が入ることもあるため)。このため定気の場合は「冬至は11月、春分は2月、夏至は5月、秋分は8月にするという一条を加えて、これに反しない範囲で適当な月に閏月を配置します。
明治の改暦
 現在の暦が使用されるようになったのは明治6年1月1日。この日はそれまで使用されていた天保暦では、明治5年12月3日に当たります。ですから、明治5年の12月は1日と2日の2日間しかありませんでした。この改暦が正式に決定されたのは、明治5年11月9日のこと。「太政官達(第337号)」という法律によってです。法律の公布から、実際の改暦までの期間が1ヶ月もないという慌ただしさです。年末ですので、既に翌年の暦は印刷されていましたが、この法律によって既に印刷されていた暦は、紙屑になってしまいました。明治の改暦は突然で、十分な検討もされないまま施行されましたので、多くの誤りや問題点をのこしていました。

参照:新版シマヌジュウリ他


関連ホームページ

旧暦の作り方 旧暦がどのような仕組でつくられているかの解説及び旧暦の作り方。しかし旧暦の作り方はその過程において色々なバリエーションが生じる箇所が存在します・・・

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